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【社会】

「後方支援では危険回避」は本当? 「戦場近くに安全は無い」

鉄血勤皇隊農林隊員として沖縄戦を戦った新垣秀雄さん

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 安全保障関連法案をめぐる国会審議で、政府側は「他国軍の後方支援は、攻撃を受けない安全な場所で行う」といった説明を繰り返している。しかし、補給や輸送などが攻撃目標になるのは軍事の常識。七十年前の沖縄戦でも、弾薬や食糧の輸送などに従事した住民らが戦闘に巻き込まれた。二十三日は、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる「慰霊の日」。戦闘体験者から「戦場近くで安全な場所はあり得ない」との声が上がる。 (西田義洋)

 「戦場では前線も後方も違いはない。『直ちに退避』と言うが、逃げるのは難しいんだ」。沖縄県中城(なかぐすく)村の出身で、学徒隊として沖縄戦を戦った新垣(あらがき)秀雄さん(88)=神奈川県鎌倉市=は、政府側の答弁に憤る。

 補給や輸送などの支援活動について、安倍晋三首相らは「戦闘の前線のような場所で行うものではなく、危険を回避して、活動の安全を確保した上で実施する」「襲撃に遭った場合、応戦し続けて後方支援を続けるのではなく、直ちに退避する」と繰り返している。しかし、新垣さんは「そんなばかげたことを言えるのは、戦場の現実を知らないからだ」と、自身の体験を振り返る。

 県立農林学校二年で十七歳だった一九四五年三月二十六日。「鉄血勤皇隊」の農林隊員として動員され、学校に近い中飛行場(現・米軍嘉手納(かでな)飛行場)守備隊の指揮下に入った。守備隊本部と学校との伝令役を命じられたほか、物資輸送、後方で炊事をして前線に運ぶ作業なども行った。

 「大変だったのは水くみ。水の湧く泉は限られた場所にしかないので、敵はそこに目を付ける。米軍は人が多く集まったときを狙って砲弾を撃ち込んできた。死者や負傷者が多く出た」と危険性を訴える。

 沖縄本島に米軍が上陸したのは四月一日。新垣さんの部隊は武器・弾薬や食糧が尽きたため、三日の夜に解散命令が出た。それから二カ月半、北部の山間を逃げ回った。六月十七日には敵に囲まれ、機関銃の弾が鉄帽のへりに当たり、意識を失った。翌日、捕虜になって生き延びた。

 「あと数センチ弾が低く飛んできたら命はなかった。『国を守るんだ。命なんて惜しくない』と強がっていたけど、戦場では自分の身を守るだけで精いっぱいだった」

 中谷元(げん)防衛相は自衛隊が支援活動中に敵に襲われた場合の対応について「武器使用できるのは自分たちの生命を守るためやむを得ない場合のみで、人に危害を加えるのは正当防衛や緊急避難に限られる。自衛隊の活動が戦闘行為になることはない」と答弁している。

 新垣さんは「自分たちの生命を守るためならば、相手を殺せば自分たちの生命が守られるわけだから。戦争ですよ、これは。国が関われば名前を何とつけようが戦争。戦争ができる国に変えようとしているとつくづく思う。孫やひ孫の時代はどうなるのか」と不安そうに語った。

 

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