社説:沖縄戦70年 「隔たりの海」を越えて

毎日新聞 2015年06月23日 02時30分

 沖縄はきょう、「慰霊の日」を迎えた。「あらゆる地獄を集めた」「鉄の暴風」と表現された沖縄戦から70年。遠い過去ではない。今なお続く過重な基地負担など、現在の沖縄の苦難の原点にこの戦争がある。

 沖縄をめぐる諸課題に向き合う時、それを忘れてはならない。

 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は、首里を拠点とする沖縄守備軍と激しく交戦した。

 5月には守備軍は首里を放棄し、本島南部に下がって持久戦を続ける。過程で多くの住民が戦闘に巻き込まれ、軍に壕(ごう)を追い出されたり、集団自決に追い込まれたりする悲劇も起きた。

 ◇「捨て石」の持久戦

 学徒隊の10代の少年少女らも銃火にさらされた。

 日米双方の死者約20万人。うち住民は約9万4000人に上った。

 本土決戦準備の時を稼ぐ「捨て石」とされた沖縄の持久戦である。

 それがいかに過酷だったか。

 2年前、沖縄戦を体験した高齢者が対象の聞き取り調査で、4割が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の可能性が高いという結果が出た。身近な人らが危険な目に遭うのを目撃した人ほど高い傾向がある。

 今も収容しきれない遺骨、発見・処理にまだ半世紀以上かかるともいわれる不発弾。戦野の傷痕も深い。

 米軍は沖縄を占領すると、ただちに基地用地を確保。50年代には「銃剣とブルドーザー」による強権手法で広げた。これに対し住民は「島ぐるみ闘争」という抵抗運動を展開した。こうしたあつれきの中で、住民たちの本土復帰熱は高まった。

 「日本の戦後70年」と言う時、そのうち沖縄には米統治27年間という「空白」が含まれている。

 日本国憲法に守られることなく、軍用地収用、米兵の事件事故での泣き寝入りなどが日常的に繰り返されてきた。米統治下、甲子園から持ち帰った土が「外国の土」として植物検疫法に触れ、海に捨てざるをえなかった球児たちの無念も象徴的だ。

 27年間にそうしたことが積み重ねられてきた。

 今、翁長雄志知事はしばしば「アイデンティティー」(存在証明)という言葉を使う。自分たちは何者なのか。それは本土への呼びかけでもあるかもしれない。沖縄にとってあなたたちは何者かと。

 2年前、沖縄県内の全市町村長らが新型輸送機オスプレイ配備撤回を政府に求めて上京、銀座をデモ行進した。「日本から出て行け」などと「ヘイトスピーチ」が浴びせられたという。デモの訴えに多くの買い物客たちは関心なさそうだった。

 こうした光景も沖縄と本土の「隔絶感」を物語っている。

 沖縄が体験したこと、向き合っている現実を本土はあまりにも知らず、無関心でこなかったか。

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