運・不運(2)


運がいいとは、「自 然」とタイミングが合うこと

師は

「たしかに、人間は自然界に存在するさまざまな物質を活用し、農業を発展させ
機械をはじめとするいろいろなものを作り出してきている。
しかし、良く考えてみてほしい。そのもともとの素材は、すべて自然の恵みなのだということを。」

と言われたが、これはとても重要。

実は、世界でいちばん裕福なのは「自 然」だからである。

ここでいう自然とは、目に見えるものから、大きな宇宙の働きすべてのことをいい

その自然からどれだけ恵みを受け取ることができるかによって

貧富が決まっているのだ。

お分りのように、貧富とは経済だけの事ではない。

「運がいい人」とは、自然の流れと自分をぴったり合わせている人のことで

運とは、すなわち、タイミングが良いということになる。

ただし、自然の恵みは、目に見える物質だけではなく

天候などの自然現象や偶然に見える出来事として現れてくる場合もある。


師は以下のような例を話された。


まず、大阪に着くまでには
家を出発して駅に行き、切符を買って、目的の列車に乗り込む。
そして目的の場所で降りるというように、いくつもの条件が必要である。
これが、目的の為の手段・方法。
そして、この一連の流れを、「社会のルール」という。
しかし、この社会のルールを無視し、仙台行きの列車に乗ってしまえば
いつまでたっても大阪に着くことはない。
つまり、このことで、私たちは 「社会のルール」さえ守っていれば
必ず目的を達せられると誤解してしまっているのだ。

実は、この「社会のルール」を守り、同じ手順を踏んでいても
大阪にたどり着けない場合がある。

それは、その日に限って突然の暴風雨や地震が起こり
その影響で新幹線が途中でストップしてしまうこともあるからである。
この場合は、もし、出発が翌日か前日だったなら、問題なく目的地に着けただろう。

さらに、まだまだ予測できない原因がある。
それは、東京駅に着くまでに大渋滞に巻き込まれ
予定の新幹線に乗り遅れてしまったり、予定の新幹線に乗りこんだとしても
車中で寝込んでしまい大阪を通りすぎてしまった場合は
予定通りに目的地に着けないということだ。

これらの事からも解るように
「社会のルール」さえ守っていれば、必ず目的を達せられるということではないのである。

目的を達するための諸条件は
すべてそこにある、「タイミング=運」ということになるのだ。・・・と


とても分かりやすい話だ。


これまでの時代では、「運がいい」「運が悪い」というのは
あたかも個人の能力ではどうにもならないことのように考えられてきた。

しかし、〈昼の時代〉はまったく違う。

これからは、自然の流れとタイミングを合わせることで
個人は運を自由に使いこなすことができるようになり
運は、私たちの行動を縛る条件ではなく
私たちが自由意思を上手に行使するための道具になるのだ。

さきほどの、新幹線で東京から大阪に向かう場合を例でいえば
タイミングが、自然の流れと完全に合っている人が大阪に行こうとすると

適当な時間に自然に目が覚め、楽に支度をして自宅を出る。
道中は、信号に邪魔されることもなく駅に着く。
プラットホームでは「あなたを待っていました。」というくらいぴったり新幹線も入ってきて
無事大阪に着けるということ。

仮に、暴風雨で新幹線が止まる日に出発を予定していたとしても
出発前に何かの都合で、差し障りがない日に変更になるということが起こるだろう。

つまり、自然とタイミングが合うということは
時計という、外の時間に振り回されることがなくなるということだ。

私たちは、内なる時間に基づいて生きているだけで
社会にぴったり適応できるようになるのである。

逆にいえば、日常生活でどれだけ「ツイている」かによって
自然の流れと調和しているかどうかが、わかるということになるのだ。

「自 然」とタイミングを合わせることは、〈昼の時代〉を迎えて、ますます重要になる。

このとき注意しなくてはならないのは、自然はいつも変化しているということ。

自然の変化に自分が対応しきれなかった場合
すべてが順調に流れた時期のあと、急につまずく時期があるということを体験したことがあると思う。

さらに最近、「運のいい人」「まったくツイていない人」の差が
極端に開いてきたように感じておられないだろうか?

当然ながら、それには訳がある。
もうお解りの方もおられると思う。

それは、わたしたちをとりまく自然の変化が終了したにもかかわらず
いまだに、これまでの時代の価値観を引きずる人ほど
人間関係、仕事、経済、健康のすべての面で、次から次へと問題が出てきているからである。

その反対に、〈昼の時代〉にいち早く適応した人ほど
あっというまにビジネスチャンスを掴んだり
人のネットワークに恵まれるなどと、運がどんどん開けていっているのがおわかりだろう。

次回は。「自然とのタイミングのズレ」について書いてみよう。



さあ、今日も暖気に生きていこう~~~~~
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初めての体験(3)

前回と前々回、初めての体験と題して書かせていただいたのだが
今日は、そのまとめを書いてみよう。


今回の出来事は

<1> 5月後半の「出雲大社の横に何かある。そこに行きたい。行かなくっちゃ。」
     という閃き

<2> その後の松江市での講習会の依頼

<3> 松江市に向かう道中での出来事

<4> 実際に出雲大社の横にあったもの

<5> 自分がそこで感じた「懐かしさと、心が穏やかで妙に自然の流れがゆっくりだった。」
    ということ

<6> そこで映った謎の物体

以上ような流れで、とてもスムースに運んでいった。


私は、講習会を終え自宅に戻った。
そして翌日、いつものように午前4時から今回の出来事の検証に入った。

もちろん、後からの「こじつけ」的になるとは思うが
起こった事実は事実として自然に受け止め
まずは、出雲大社教と出雲教について、簡単に調べてみた。

出雲教 Wikipedia
御神殿
雲国造の1つである北島家の主宰する神道教団。
大国主命を主祭神として、天穂日命を教祖、造化三神、天照大神、産土神を併神とする。
初代教主は北島脩好であり、以降、北島家の当主が教主を継いでいる。

出雲大社教 Wikipedia 
Izumo-ooyashirokyo_Soreisha_Izumo_Shimane_pref_Japan04s3.jpg
教派神道(神道十三派)の1つ。明治時代に出雲国造千家家の当主で
東京府知事や司法大臣も務めた千家尊福が創設した。
祭神は大国主命で島根県出雲市大社町に本部がある。

さらにオーブらしきものが映っていた場所はこちら
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ここは、出雲教の庭園の池の中にある出島。
ここには「少名毘古那神」を祀った天神社があり
背後の山の斜面に「亀の尾の滝」が落ちていて、深山幽谷の雰囲気をかもし出している。

「大国主命」と「少名毘古那神」
私は、神道はもちろん宗教も無宗教。これらお二人の事も全く知らない。
当然のようにお二人のことを調べてみた。

「大国主命」 Wikipedia
Ōkuninushi_Bronze_Statue

「少名毘古那神」 Wikipedia  残念ながら、少名毘古那神の画像はない。

ここでこのお二人を調べていくうちに
思ったことがあったので、「こじつけ」的に書いてみよう。


私は、「ワイオ理論」を学び検証し、自分自身で納得したものを、講習会でお話ししている。

そのテーマは「心と体のバランス、そして幸せに生きるために」 ということ

当然、肉・肉体の健康管理についても「代替医療」「予防方法」についての話もする。

以前は、健康関連製品メーカーのマーケティングコンサルタントとして
自らその製品の普及のために、全国を飛び回り、各地で講習会を開催していた時期もある。

47都道府県すべてを回った。

そんな経験も踏まえ
人の前で話すことが大好きで、それが「自らの天職」であると思ってきた人間である。

このお二人も、国造り・医療にかかわるということがわかった。

そんなことから、「こじつけ」的な思いはまだまだ拍車をかける。

特にオーブらしきものが映っていた場所は、「少名毘古那神」に関る場所。
お二人を調べていくうちに、私は、「少名毘古那神」にたどり着いたのかもしれないと思った。

それは、以下のようなことからだ。

まず、私は足が小さい。(24~24,5㎝)
そして、両手小指の爪が小さい。これは昔からのコンプレックスで子供よりも小さい。
さらに、笑い話だが
小さくて可愛いものが大好き。(女性も)
とにかく小さいもの好きである。

なぜこんなことを書くのかというと、「少名毘古那神」は「一寸法師」の伝説もあるからだ。

なんとなく、自分は少名毘古那神に似ているなあ・・・  勝手な妄想。

何という、見事(笑)な、「こじつけ!!」

もしかすると、オーブらしきものも「少名毘古那神」にかかわる何か?
それなら意味がある。ここに呼ばれた意味も理解できると
私は、勝手に、この「少名毘古那神」が協力神だと思い込んだ。

まあ、私が幸せなので、お読みいただいてる方の「呆れた顔」は、この際、無視させて頂こう。

そのように解釈すれば
今回の出来事がすべて自分の中で解決する。

師が話されていた

「これからは守護神のコントロールは無くなる。自分自身が、自分の道を、魂の記録通りに歩き始め
 守護神にコントロールされるのではなく、守護神は協力する、つまり協力神へと役割を変える。
 さらに、人から教えてもらうのではなく、いずれ自分の協力神は自分で分かるようになる。」

といわれたことも、ある意味で検証できたことになる。


本当に能天気な男であると、つくづく思う。

しかし、もしこれが「見えない世界」の何かが働いたのならとても興味深いことだ。

今自分がやっている天職。
何といっても、強い味方が現れたということになる。

そして、今やっていることは間違っていないという確信が得られたということ。

これが私にとって一番の収穫だった。

そして、課題も見えてきた。それは「大国主命」的なパートナーを見つける

ということだ。

自分の天職が確認でき、協力神も見つかったので、そのうち現れるだろう。

本当に能天気な男である。

やはり、この世もあの世も不思議な世界である。

しかし、最先端の科学も、あと少しで見えない世界にたどり着く。
きっと私たちの古い常識は覆される。

そんな中で起こった出来事だったのだと結論付けることで終わらせていただく。

本当に最後までお付き合いいただきありがとうでした。



さあ、今日も暖気に生きていこう~~~~~
















初めての体験(2)

昨日は中途半端で終わってしまった。

今日は、少し長くなるかもしれないが、書けるとこまで書いてみよう。


「出雲大社の横に何かある。そこに行きたい。行かなくっちゃ。」

という突然の閃きから始まって、松江市での講習会の依頼、というスムースな流れ。

そして講習会は6月7日に決定した。

私は、「ワイオ理論」を学び検証する日々を送っているが
霊感が強いわけでもないし、見えない世界の住人さんと交信できるような能力もない。

年齢がばれてしまうが
成人して37年間、病院に行ったことはないし、薬も飲んだことがないという
健康だけが取り柄の「おっさん」である。
そして、自由人。数奇な人生を送ってはいるが、いたって普通の人間。

昨日も書いたが、この理論を学び始めてから
「少しずつ「閃き」直観力は開発されてきたなあ。」って感じる程度だった。

さて、いよいよ当日の6月7日。
私は余裕を見て、午前4時30分に自宅を出発。

九州自動車道・山陽自動車道・中国自動車道を経由して、広島県三次市に入る。
そこからは一般道を走り、途中から松江道(山陰自動車道)に入って松江まで行く。
約7時間の車の旅が始まった。何事もなく、久しぶりの車での長距離を楽しみながら走った。

そして、ここから2度目の不思議な体験の始まり。
ちょうど松江方面と出雲方面に分かれる、2キロくらい手前のところでそれは起こった。

いまでも訳が分からないが、突然、頭の中?頭のちょっと上? からノイズ発生。
雑音のような、はたまた話声のような、決して不快ではない心地よい感覚。

「なにこれ?なにこれ?」と思いながら走っていたが、よく覚えていない。
いつのまにか、松江方面ではなく出雲方面にハンドルを切っていた。
そして、約1キロくらい走っただろうか?
ふっと我に返り、路側帯というか、安全地帯というか、そんなところに車を止めた。
「あれはなんだったんだろう?」その時はもう、さっきのノイズや話し声は止まっていた。
少し興奮気味だったことは確かだったが、徐々に冷静さを取り戻していき、思ったことは

「出雲方面に来ちゃったんだから、予定変更して出雲大社の横に行ってみよう。」

ってことだった。

それから、ナビを出雲大社にセットしなおしてから再出発。
その道中で、この一連の出来事を再考してみるのだが、やはり「訳わからない。」といったほうが
正解だ。そしてまたまた不思議な出来事。直観が働いた。
「中まで入らなくていいよ。」って・・・ 「はあ?今誰がしゃべった?」って感じ。
もう何が何だか訳わからない。
自然に任せて、とにかく行ってみようっていうのがその時思ったことだった。
ナビも途中で案内中止にし、なすがままに任せてみた。

それからの出来事は、出雲方面へハンドルを切ったときと同じような流れ。
目的は出雲大社の横。行ったことも見たこともない場所。
しかし、さっきの「中まで入らなくていいよ。」通りに
初めての道を何度も走ったことのある道のように走り
あたかも当然のように、出雲大社の手前で右折し、左側の駐車場を横目に突き当たりまで走り
そこを右折し、目的地「出雲大社の横」の駐車場に到着した。
途中で停車し迷うことも一切なかったのだ。もう不思議、不思議。
ここに来るのが決まっていたかのようにスムースに事は運んだのだ。

そして、目的地「出雲大社の横」がここだったのだ。

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ここが、出雲大社の横だった。
後になって調べて分かったことがある。
ここは「出雲教」神道の団体。
そして、私たちが良く知る「出雲大社」は「出雲大社教」でこれも神道の団体。
共に、大国主大神が主祭神。
「出雲教」「出雲大社教」と二つあるのも初めて知った。

しかし、私にはこれまで全く縁も所縁もない。
「なぜこんなところに来たのだろうか?」本当にこの一連の流れはスムースだが
全く訳わからない。

そう思いながら写真をIフォンで撮っていった。

こちらが上の写真の左側にある「出雲大社」
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しかし、その時感じたことがあった。
それは「懐かしさと、心が穏やかで妙に自然の流れがゆっくりだった。」ということ。
初めて来たところ、訳わからず来たところ。
出雲大社の横というだけで、何もわからずに来たら、こんなところがあったということだけだった。

そのときフッと

師が

「これからは守護神のコントロールは無くなる。自分自身が、自分の道を、魂の記録通りに歩き始め
 守護神にコントロールされるのではなく、守護神は協力する、つまり協力神へと役割を変える。
 さらに、人から教えてもらうのではなく、いずれ自分の協力神は自分で分かるようになる。」

といわれたことを思い出したのだ。

もしかしてここの神様が自分の協力神?そんな馬鹿な。
ここには、一度も来たことがないところなのに。
協力神がわかれば、そこから自分の役割が見えてくる。
その自らの役割に対し、協力してくれるからだ。
自分の思考が右往左往した。単純に、ここに来たことの意味が知りたいと強く思った。

これはきっと、お読みになられている方すべてではないが
私と同じように思われる方もおられると思う。

しかし、私にはその意味を探る術はない。

そう思いながら、ここを後にし、松江の講習会会場に向かったのだった。

当然その道中も頭から離れない。
「どうして?何で?ここに祭られている神様が協力神?」
「そんなバカな。」
お分かり頂けるだろうか?所詮私はこんなもの。
不思議な思いと何となくの期待感をもって、昼食をとるために「ガスト」に入った。

そして「ガスト」ですぐにオーダーし、先ほどの写真をチェック。
拡大してあちこち見ていった。
馬鹿だと思われるだろうが、「意味が知りたい、何か映っていないか?」という発想。
それしか術がなかったのである。

そして映っていた!!!
写真の専門家さんはいろいろ言われるだろうが、言いたい人はご自由に言っていただいても結構。

俗にいう「オーブ」のようなものが映っていたのだ。

それがこちら。

オーブ
おーび2

中身までハッキリと・・・「しかもハートのように見えるものが3つ」

いったいなんだこれは?
5月の後半に始まった「出雲大社の横」から始まった今日までの一連の流れ。
それがなければ、ここまで深く考えはしない。
賛否両論はあるだろう。どうぞご自由に判断していただければと思う。

これは「協力神?」そんなバカな。ただの妄想?やはり自分には理解できない。
食事を済ませ講習会会場に向かいながらも当然頭は今日までの事でいっぱい。
しかし、今までと違ったと事が一つあった。
それは、「検証できるまで、誰にも話さないでおこう。むやみに人を惑わせてはいけない。」
ということであった。

検証してから皆には話すことに決め

「俺、成長したなあ~~~」なんて自画自賛(笑)して講習会を始めた。

今日はここまで。

こんな訳わからない記事におつきあいありがとうでした。

次回は、自分なりのこの件の検証結果のまとめを書かせていただく。




さあ、今日も暖気に生きていこう~~~~~

初めての体験 (1)


今日は、6月7日の不思議な体験を書いておこうと思う。
「見えない世界の何かが働いたのだろうか?」という内容なので
興味のない方はスルーしていただきたい。


初めての体験 <1>


それは、5月の後半
いつものように朝4時から始める、「ワイオ理論」の学び・検証の時に起こった。

この理論を学び始めてから
次第に、瞬間の閃き(直観力)が開発されているのを感じていたのだが

その日は突然

「出雲大社の横に何かある。そこに行きたい。行かなくっちゃ。」

って感じ。

はあ? 訳が分からない。 なんで出雲大社の横?

普段は、「ワイオ理論」の検証に対しての答えが閃く事が多いのだが

何で、今日は急に?

「何で?何で?」 私にとってはこのようなことは初めての体験。

そんなことを思いながら、いつものノートに記録した。


当然その後は、頭からこのことが離れない。


そしてその翌日、電話のやり取りだけでお付き合いしている
松江市のお客さんから電話。

「ワイオ理論に興味がある人が、数人いらっしゃるので講習会を開いてほしい。」

という内容。

またまた驚き。 なんというタイミング!!

講習会は、3年前に一度開催していたが、その後は、私の本を送っていたくらい。


「出雲大社の横に何かある。そこに行きたい。行かなくっちゃ。」 から始まって

この一連の流れに、いつのまにか「来た、来た。」って感じの自分。

当然、 「解りました。行かせていただきます。」となった。


ご存じの通り、出雲市と松江市は隣同士と言ってもいい距離。

私は、松江市で講習会を開き、その日は1泊して

翌日、出雲市経由で帰る計画を立てた。


「この理論に興味を持っていただける方が少しずつ増えてきたなあ。」

単純に、このことに喜びを感じ

「早く出雲大社の横に行きたい。」という思いの私だった。


申し訳ないが、今日の講習会の準備をしなければならないので
今日はここまで。
明日をお楽しみに。
お読みいただいた方、ありがとうです。




さあ、今日も暖気に生きていこう~~~~~




「運・不運」「幸・不幸」を語る前に


師は幼いころから

「世の中って不公平だな」という疑問を持ち続けておられたという。


それは


「世の中には、寝ずに働いても、貧乏な人もいれば

親の残した財産で遊んでいる裕福な人もいる。

正直で真面目な人なのに、不幸続きの人もいるし

部下に嫌われながらも、どんどん出世する人もいるのはなぜなのだろう。

いい人ほど幸せになる、真面目に働く人ほど裕福になるなら納得できる。

しかし、世の中を見れば見るほど

理不尽なことばかり目につくのはなぜなのだ。」


ということだった。


師はこれらの疑問から

「運・不運、幸・不幸は、それぞれ別のルールにしたがって決まっている。」

ということに気づかれた。

この理論は、ここから始まったといっても

過言ではない。


「宇宙のルール」と「社会のルール」


私たちの運は、生死も含めて「宇宙のルール」にしたがっている。

その宇宙のルールとは

「ものごとの背後にあり、そのなりゆきをつかさどる普遍的なルール」

のことだ。


さらに、それに反し、財産を蓄えたり地位を築いたりするのは

「社会のルール」にしたがっている。

そして、この社会のルールとは

「ごまかし、盗み、破壊し、苦しめる」

というルールである。


本来は、「すべての生きものは、幸せな一生をまっとうする。」 という大前提があり

「宇宙のルール」と「社会のルール」は常に一致している。


しかし、これまでの時代の最大の特徴は

「宇宙のルール」と「社会のルール」が矛盾するという点にあると

師は話された。


いままでの私たちは、「宇宙のルール」ではなく

この矛盾した「社会のルール」に則って生きてきたといわれるのだ。


いい人かどうか、勤勉かどうかというのは、単なる「人間の価値観」

私たちは上手に世渡りするために

自分の本心を隠し、自分自身や、他人をあざむいてきた。

それが、たとえ倫理に反していても、そうして財産や権力を得てきたのである。

しかし、これからは、このことに気づくのが早ければ早い人ほど

見当はずれの努力や悩みに苦しまずにすむのだ。


社会のルールの中の、「ごまかし、盗み、破壊し、苦しめる」

「私は、そんなルールには則って生きていない。」

と思われておられる方もおられるだろう。

しかし、よくよく考えてみてほしい。

本当は会いたくないが、何らかの理由(損得が多い)で

我慢して会いに行く。

これも、「ごまかし」 のひとつ。

自分自身の本心をごまかしているということで

自分自身を苦しめる結果となる。

このように、知らず知らずの間に「社会のルール」で生きてきたといえる。

しかし

「社会のルール」「ごまかし、盗み、破壊し、苦しめる。」

というルールで生きて行く時代は終わりを告げた。


すでに時代は変わり、理不尽な世の中を造っていたこのルールは

音を立てて崩れてしまっているのだ。


師は

「このような時代の移り変わりは

人間にはどうすることもできない宇宙の周期に則ったプロセスである。」

ということを解明された。


この「宇宙のルール」と「社会のルール」を知っておくことは

運・不運について理解する大前提となる。

私は、恥ずかしながら

こんなルールがあるとは知らなかった。

これが、この理論を学び始めたきっかけの一つになったのも事実だ。

この理論の大きなテーマは「幸せ」

しかし、幸せというものは、一人ひとり、かたちが違うもの。

わたしにとっての幸せが、隣の人にとっての幸せであるとはかぎらない。

自分自身の幸せを見つけることが、何よりも大切なのである。

さらにつけ加えるならば、この理論でいう「幸せ」とは

単にものの考え方のことではない。

心が安らぎに満ち

体も健康で長生きし

だれとでもよい人間関係をもち

豊かでほしいものがほしいときに手に入る。

これが、この理論のいう、幸せの姿だ。

それも、したくもない努力を重ねてやっと手に入れるものではなく

楽で、楽しく、愉快に生きて、現実の生活がそのようになっていく。

本来の幸せとは、そういうものだと、師はいわれた。

このブログは、その師の理論の入門編。

お読みになられている方々の

それぞれの幸せを見つけるためのヒントになればいいなあと思っている。



さあ、今日も暖気に生きていこう~~~~~