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「拿捕の恐怖忘れられぬ」 日韓国交50年思い複雑

2015年06月21日 09時25分

拿捕された漁船が対馬沖に向けて出港した馬渡島の港から海を見つめる浦丸健一郎さん=唐津市鎮西町の馬渡島
拿捕された漁船が対馬沖に向けて出港した馬渡島の港から海を見つめる浦丸健一郎さん=唐津市鎮西町の馬渡島

■心が海峡渡る日はいつ 唐津・馬渡島の浦丸さん(84)

 日本と韓国が国交を樹立した日韓基本条約の締結から22日で50年。唐津市鎮西町の馬渡島に住む浦丸健一郎さん(84)はまだ国交がない時代、韓国に拿捕(だほ)された経験を持つ。「あの時の恐怖は忘れられない」。歴史認識や領土問題など、清算できない「過去」を引きずった両国の関係は今、かつてないほど冷え込んでいる。この半世紀は一体何だったのか。浦丸さんは複雑な思いを抱えている。5面参照 

 明け方の海に警笛が突然響いた。1962(昭和37)年12月13日。長崎県対馬の西方沖約50キロの漁場で一仕事終えた浦丸さんは乗組員5人と朝食中だった。慌てて船室を出ると、韓国の沿岸警備艇が猛スピードで迫ってくるのが見えた。

 当時、玄界灘では韓国が一方的に自国の領海として設定した「李(イ)承(スン)晩(マン)ライン」内で操業したとして、日本の漁船が拿捕される事件が相次いでいた。

 「しまった」。浦丸さんは操縦室に駆け込み、全速力で逃げた。しかし、すぐに追いついた警備艇は船体に体当たりし、乗り込んできた隊員2人が銃を突きつけた。国交がない時代、事件の解決には長期間を要した。「もう帰れんかもしれん…」。浦丸さんらは悲壮な思いで両手を挙げた。

 皮肉にもその日は、同年5月に拿捕されていた唐津市唐房の漁船の乗組員らが釈放されることになっていた。池田勇人首相の親書を携え訪韓中の大野伴睦・自民党副総裁らへの“手みやげ”という政治的色合いを帯びた措置だった。中断を繰り返し、10年以上に及んだ国交正常化交渉は大詰めの段階を迎えていた。

     *

 日韓基本条約の締結はそれから2年半後。しかし、浦丸さんは歓迎する気持ちにはなれなかった。「捕まった時の気持ちがよみがえってきて、暗い気持ちになるだけだった」

 浦丸さんは約3カ月間、釜山の刑務所で抑留生活を送った。「李ラインは越えていない」と訴える浦丸さんに、取調官は耳を貸そうとしなかった。一緒に拿捕された漁船3隻の乗組員約20人とともに収容された10畳ほどの部屋は、カーテンだけで仕切られたトイレからひどい汚臭がした。「これからどうなるのか」。不安で眠れない夜もあった。

 執行猶予付きの判決を受け、帰国した浦丸さんは再び漁業を始めたが、二度と対馬近海で操業することはなかった。国交正常化に伴い「李ライン」が消滅するまで、拿捕された日本人は計3929人に上る。

     *

 唐津をはじめとする北部九州は歴史的にも朝鮮半島とのつながりは深く、国交正常化後、さまざまな交流が生まれた。浦丸さんの隣島でも、古代百済の武寧王の生誕伝説を通じた草の根交流が活発化。ただ、浦丸さん自身は「罪人扱いされた」わだかまりから、参加を拒んできた。「消すことのできない記憶」を抱き続ける心情は、戦前から植民地支配を受けた韓国の人々と変わるところはない。

 李ライン設定で顕在化した竹島の領有権問題を棚上げにし、植民地支配の「賠償」もあいまいにしたまま、両国の経済や安全保障上の利害を優先させた国交正常化。それが今日の対立の火種でもある。

 「同じ悲劇を繰り返さないためにも、隣国同士、仲良くせんと。それはわかっているんだけど…」。国と国とを隔てた海峡に、いつか互いが心通わせる橋を渡せるか。浦丸さんは静かに海を見つめた。

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