各種の催し物や会合など、ことあるごとに移住者や日系人たちが集まる場所。トロント日系文化会館の新館長が一ヶ月半ほど前に選出された。長い間空席だったポジションだが、新館長の顔を見て日系コミュニティーの人たちは、一応に「おや?!」という思いを抱いた。
当時の日系人たちは、できるだけカナダ社会に同化するために、日本語を捨てた人も多い。また目立つことを避けるために一箇所に固まらないようにと、日本人街も作らなかったといわれる。だがやはり同胞が集まる場所が欲しいという思いはつのり、人によっては、住む家を抵当にしてまで資金を集め建設したという歴史がある。
モザイク文化主義を国策とする今のカナダからは想像するのは難しいが、そうした時代の過酷な社会的背景を思うと、あたらおろそかにできる場所ではない。移設はしてもそのスピリットは受け継がれている。
これは自分達が体験したことにたいして、今も怨念を持っているからでは全くない。カナダ政府は1988年に自国の非を認め補償を行った。しかし歴史に翻弄されながらも、日系人の粘り強さと誠実さで生き抜いてきたお年よりには、いろいろな意味で感慨ひとしおなのである。
日系人同士の集まりではどうしても古いしがらみから抜け出せず、狭い視野になってしまう。派閥などにも縛られることなく、もっとカナダ社会へのアクセスを可能にして、新たな道が開けるのではないかという。
会館の位置付けを、「文化面ばかりではなくビジネス方面にも発展させたい」と語るヘロン氏の日本との出会いはかなり遅く、大学を終え銀行に仕事をしていた25歳のころだ。スポーツ好きの氏が、あるとき西洋のどの競技とも違っている剣道に出会い、会館の門をたたいたことから始まった。
それまでほとんど知らなかった日本という“不思議の国”への興味が次々に湧き、手がかりとして英語教師の職を得て、一年のつもりで出かけた日本。その滞在は11年という年月になり、日本語習得にともない、日加間の文化及びビジネス・コンサルタントとして、双方の国で政府や民間の大会社とかかわる仕事をするようになった。
10年以上も交際があり、英仏語に堪能な“薩摩おごじょ”の妻とは1月にハワイで結婚。夏のトロントにやって来るのを氏はもちろんのこと、コミュニティーの人々は心待ちにしている。
第2次世界大戦で障害を負った兵士たちにイギリスのL・グッドマン医師が、「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」といったのはとみに有名である。
もちろん言うのはやさしいが、その残された可能性に人生をかけて生きることの難しさは、おそらく健常者の想像をはるかに越えるものだろう。
地道な努力を重ねながら、一歩一歩自らの道を切り開き、障害者用コンピューターソフトの開発の日本語化に情熱をかける車椅子の研究者、横田恒一さんを紹介しよう。
海での事故
時は25歳の夏。千葉大学の大学院1年生だった横田さんは、専門分野である工業化学科に席をおき、機能性高分子の研究を行っていた。素人にはわかりにくい学問だが、これは植物が作る光合成についての研究で、将来は印刷会社に勤め、ポリマーなどの高分子関係の研究をする化学者としての道を歩く夢を持っていた。
ところが88年の夏、研究室の合宿で海水浴に出かけて高波に巻き込まれ、気がついた時には頚髄損傷者(首の脊髄損傷)になっていた。本当に一瞬の出来事だった。
それからの2年間は、来る日も来る日も窓際にある病院のベットから空と雲ばかりを見る生活を余儀なくされた。当然ながら「どうしてこの自分が?」という思いに打ちのめされ、落ち込むことの多かった日々。
しかしやっとリハビリが可能になり、他の患者たちとともに訓練に励むようになって周りを見渡すと、年齢も性別も障害度もさまざまな人々が沢山いるのに気が付いた。そして自分よりもっと重い障害を背負う人たちが、賢明に社会復帰を目指して生きる姿に出会い「力を与えられました」という。
その後車椅子の生活が始まってからは、とにかく中断していた大学院を終了し、就職することに決めた。これが事故いらい自分にかかわってくれ、理解を示してくれた周りの人たちや家族に対する恩返しと思ったからだ。だが卒業後の現実はそんなに甘くはなかった。教育と能力は人並み以上でも、重度の障害者を雇ってくれる就職先は皆無だったのである。
そこでさらにコンピューターの知識を身につけ、情報処理の国家資格を取得し再度就職前線に身を置いた。しかしここでも壁は厚く20以上もの会社に応募したものの、やはり結果は同じことだった。
だが諦めきれない横田さんは、それでも希望を捨てずにいたある日、国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所の募集を知り飛びつくように応募して「幸運にも就職することができました」という。
ここは身障者に対するリハビリを、一貫した体系のもとに総合的に実施することを目的にしたセンターで、更正訓練所、病院、研究所などが併置されている。
横田さんはリハビリテーション・エンジニアとして、福祉機器開発部に籍をおき重度肢体不自由者へのコンピューターの応用と研究を仕事とした。
人生のモットーを「どんなに重い障害があろうとも、できうる限り社会参加をして前向きに生きること」としている横田さんにとって、コンピューターの改善は永遠の研究テーマである。その行動範囲に制限はあっても、こうした地道な研究の結果うまれる先端技術に助けられ、未知の世界が開かれる喜びを感じる障害者の数は計り知れない。
ダスキン奨学金
ここで働くこと4年あまり。ある日「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」の存在を知り、海外での経験を積むことに意欲を持つようになった。
これは1981年に国連が定めたに、掃除器具の会社ダスキ“国際障害者年”ンが設立した事業で、障害者の社会への加と平等”を目指すことを主“完全参旨に、「海外の進んだ福祉の現状を学び自己研鑽に励むチャンスを提供する」という奨学金制度だ。
外国に派遣されて各分野で研修を積むことによって、将来日本の地域社会のリーダーとして活躍することを目的にしている。その範囲は多義にわたり、障害者スポーツ分野、音楽や絵画などの芸術分野、障害者の街造り、環境改善の分野に取り組みたい人などいろいろで、もちろんコンピューターシステムを勉強したい人も含まれている。
横田さんの希望は北米の研究機関でコンピューター・アクセスとコミュニーケーション機器に関する知識をより深め、できれば重度障害者たちの就職状況や形態、また使用機器についての調査なども行いたいというものであった。
学歴、経歴、そして前向きな情熱が買われて合格し、トロントに来る機会が与えられた。
ブロアービュー・マクミラン・センター
そして今年の1月、凍てつくトロントの空港に降り立ち、ノースヨークにあるブロアービュー・マクミラン・センター(Bloorview MacMillan Centre)での研修を開始した。
ここは、事故または生まれながらに各種の障害を持つ19歳までの子供のリハビリセンターで、トロント郊外のもう一つの施設を含め、年間5000人ほどの患者を扱っている。
例えば交通事故で頭脳障害をきたし身体的機能を失ったり、視聴覚に問題があったり、学習障害、神経系統に問題がある場合など、それこそありとあらゆる障害に向けてその治療を行い、また各種のリサーチを通して先端医療開発研究も進められている。
運営は連邦政府が中心になって行なわれているが、その他各方面からのグラントや開発した器具器械などをセールスすることも大きな資金元で、すでに100年の歴史を誇る研究所である。
ここで横田さんは、オンタリオ・リハビリテーション・テクノロジー協会のコミュニケーション・チーム・リーダーであるフレイザー・シエィン博士の研究室に籍をおき、ヴィジティング・サイエンティストとして毎日コンピューターに向かっている。
今取り組んでいる研究は、こちらのチームで開発した「WordQ」(単語予測ソフト)と呼ばれるものの日本語化である。これは非常に複雑かつ難解なソフトで、もちろん高度なコンピューター知識がなければ困難な研究開発だ。
例えば一つの例を挙げると、普通のコンピューターの場合は「はな」と打ち込むと、同じ言い回しの言葉である「花」「華」「鼻」など数個が用例として出てくる。これが身障者用の単語予測ソフトの場合は、「は」と打ち込んだだけで名詞、動詞、形容詞、副詞などいろいろの言葉や言い回しが登場する。
つまり「話す」「走る」「始める」「橋」「履物」と言った具合に、日常生活の中で使用頻度の多いものから出てくるである。もちろんこれは一つの例であるが、もっと複雑な機能を通して、身障者により使いやすいものが開発されようとしている。これが横田さんの研究だ。
一問一答
≪カナダは障害者には住みやすい国と考えられてますが、実際に生活しての感想は?≫
私もここに来るまではそう考えていましたが、車椅子で生活をして見ると、予想していたよりはそうしたアクセスが少ないのに驚きました。期待とのギャップがあったのです。
例えばトロントの地下鉄でも全体の1/10くらいの駅にしかエレベーターがないのです。日本でも最近できた公園とか街は随分と車椅子のアクセスがあります。
交通機関の使用はまだ一人ではできませんが、でも駅員さんが抱えて助けてくれますね。しかしこちらでは絶対にそうしたことはないです。でもここは僕のような障害者が暮らすことができる住宅環境が整っている点は日本とは違います。
≪ここいらっしゃる間に遠出もなさいましたね?≫
はい。フロリダで開かれた学会に出かけました。また新移住者の方たちが開いているウェブサイトで知った、ワー−キングホリデーでトロントに来ている23歳の高梨哲弥さんという方がボランティアしてくれて、10月にモントリオールに、11月にはワシントンDCとNYにもご一緒してもらいました。
≪ご旅行は如何でしたか?≫
ワシントンDCは素晴らしかったです。すべての公共施設や交通機関が車椅子対応になっていました。あんなにアクセシブルな街は初めてです。
でもモントリオールへ行ったときは、古い街のためどこも段差があり、また交通機関も車椅子が乗れるようなものはなく残念ながら余り観光らしいことはできませんでした。またVIAで行ったのですが、車椅子の設備がある電車かどうかちゃんと確かめて予約を入れたのに、予定の電車にそれがなかったりで、次の電車を待たなければなりませんでした。
≪そうした手違いなどは良く起こりますか?≫
それはしょっちゅうです。例えばTTCの車椅子用のバスなどは、ほとんど時間には来てくれません。また車椅子用のタクシーを頼んでも普通の車が来て乗れず、そのまま道に取り残され「さて、どうしよう...」と思いつつ約束の場所には行けないなんてこともあります。
日本だったら、そんな場合来た運転手さんが手配してくれたりしますが、そうした親切はここでは期待できません。
また毎日来てくれる介護者はエスニックの方が多く、日本の常識が通らないと思うことも多く、理解するのに苦労することもあります。
≪意思の疎通が上手くいかない時はフラストレーションが溜まるでしょうね?≫
はい。でも最近は思うようにいかにことが当たり前だと考えるようにしています(笑)。もちろんそうしたことが続くと疲れますね。そういう時は何もしない、何も考えないことにしてただ寝ることにしています(笑)。
≪いつご帰国ですか?≫
母と弟が12月20日に日本から迎えに来てくれますので、シカゴで少し時間を過ごし、日本には31日に帰ることになっています。
≪今後の更なるご活躍をお祈りしています。≫
インタビュー後記
横田さんにはこのインタビュー以外にも何回かお会いした。その度に私は健常者であることに思い上がるまいと自分を戒める。やさしいものいい、そしてしっかりと目線を据えて将来を考える真摯な人柄は、もちろん生まれ持ったものだろうが、人生の苦難を乗り越えさらに深くなったのではとお見受けする。「ただ自分のしたいことをやってきただけです」と淡々とおっしゃる。それを穏やかに口にできる心境になるまでの心の過程に思いをはせる。
日加タイムス 2000年11月23日
国連特別総会「女性2000年会議」
平等へのゴールも目指す女性たち
大阪のWWINの活動
先月初旬にNYで開かれた国連特別総会「女性2000年会議」に出席した大阪の女性たちの応援に、トロントのハーモニー・インターナショナル・クラブから数人が出かけた。
今回の国連特別総会は、5年前に北京で開かれた世界女性会議で、各国政府が決議した事項がどの程度実現できたかを検証し、引き続き今後の政策指針にするのが目的であった。
日本からも多数参加したが、開会式のあった国連のハマーショルド・プラザでも「私は私を生きたい」と日本語で書いたバーナーを掛けて歩く女性も見られ、じわじわと広がっている日本のウーマンパワーの一端を見る思いがした。
滞在日数の関係で、トロント組は実際の分科会などのセッションには出席出来なかったが、この大阪のWWIN(ワーキング・ウィメンズ・インターナショナル・ネットワーク)のメンバーに加え、英国やNYで働く日本女性の代表などとも合流し、日英米加に住むそれぞれが、その国で抱える問題について話し合える機会を得たのは実に興味深かった。
もちろん国連特別総会に集まった多くの発展途上国の女性たちのように貧困、教育の平等、理不尽な結婚制度の問題などは、日本女性は直面していない。これは素晴らしいことだ。
しかし先進国の経済サミットの一員という立場からジェンダーの平等という問題を考えると、何と後進国かと言わざるを得ない。
このWWINは、世界から集まった千団体を超えるNGOのオブザーバーの一つに選ばれ、日本企業における男女間の昇級や昇給の格差の実態を各国の代表に訴えたのである。手段はニュースレターを配布したり、NY大学でワークショップを開いて、訴訟問題の意義やその経過、また日本企業に与えたインパクトなどについて討論を行った。
ここには住友系企業(住友電工、住友化学、住友メタルなど)を相手取り、賃金や昇進での男女差別、また既婚女性に対する差別に対して裁判中の原告9人が出席した。
住友電工に勤める白藤栄子さんがパネリストの一人として話しをしたが、訴えは約30年前に同期、同学歴で入社した男性と比べ、現在年収で約300万円もの格差があり、昇格のチャンスすら与えられない一般職に留まっているというもの。当然ながら会場からは驚きの声が上がった。
長年同じ職場に勤務して働く意欲を見せても、女性ということですべての道が閉ざされる憤りが、静かな語り口から伝わって来た。
時間や資金をやりくりしてNYに出向き、闘争中の訴訟について語れた女性達はごく限られていただろうが、今後も出来る限りこうしたチャンスを生かして訴え続けて欲しい。
同一価値労働同一賃金
また外国にいて、日本企業に現地採用されて働く日本女性の立場も、決して守られてはいないようだ。彼女たちの存在は、日本からの駐在員たちに取って重宝で重要であるにもかかわらず、ただ便利に使われるだけで「嫌ならいつでもお止め下さい」という態度が見え見えの会社が多いという。
残業や週末出勤も厭わない仕事振りでも大した評価を受けず、また健康でも害せば使い捨て、といった話はNYでもロンドンでもトロントでも良く耳にする。
だが北米では今や、男女間の賃金は「同一労働同一賃金」から「同一価値労働同一賃金(ペイ・イクイティ法)」に移行しているのである。
カナダでも去年の秋に連邦政府の女性職員23万人に対し、過去15年にさかのぼってこの法律の適用による差額が支払われた。
これは「男女の仕事の種類は違っても、労働価値から見て同等なら、男性の比較対象の仕事と同じ賃金が女性に支払われるべき」というもの。
日本がそこまでに達するにはまだ長い道のりだが、日本女性達はもう後ろを振り向かないことは確かなようだ。
OCS NEWS Jul.7,2000
カナダの英雄テリー・フォックス
20年前1人の若者が世界を動かした
国民的英雄
時代や分野で異なることを承知で「国を代表するヒーローを1人だけ挙げよ」と言われたら、アメリカ人なら一体誰の名前を掲げるだろうか?
さて、もしコレと同じ質問をカナダ人に向けたら、恐らく十中八九はガンで片足を失ったランナー「マラソン・オブ・ホープ」と呼ばれたテリー・フォックスというに違いない。
彼はちょうど20年前の春に、カナダの東端にあるニューファンドランド州の首都セント・ジョンズから、ガン研究基金設立を目的とした寄付集めの為に、義足をものともせず国土横断のマラソンに出発した若者だ。
4月半ばのその日はまだ春浅い肌寒い日だったが、市長を始めとする関係者が集まって彼の出発を祝した。市から贈られた赤いローブを肩に、はにかみながら短いスピーチをした若者はその時まだ21歳の大学生で、ローブとランニングパンツの組み合わせが、皆の目に奇妙に映らないかと気になってナーバスだったという。
セント・ジョンズはカナダの一番東に位置するため、いろんな人が、異なった主旨や目的を持ってここにやって来ては、この広大な国を横断する出発点にする。それは徒歩であったり、自転車であったり、車椅子であったりするが、誰もがその第一歩や第一輪を踏み出す前に、必ず港で大西洋の塩水に脚を浸す。テリーもその例外ではなく、義足を海水につけてこれからの計画が、無事に終了するように祈った。
しかし若いとはいえ何といっても右足は、膝上15センチからの義足であり、何千キロもの長距離マラソンに堪えられるかと、回りの人たちは一様に心配したものだ。だがテリーの駆け足は予想以上に力強く、その時一緒に街の郊外まで走行する予定だった50代のある女性は、彼の早いスピードに追い付けず途中で同行の車に飛び乗ったという。
ガン研究基金の寄付集めの目標額は、最初1ミリオンcadの予定であった。しかしその後、効き脚に力を入れてピョンピョンと飛ぶような姿で、ただひたすらハイウェーを走る続けるテリーの姿がマスコミの話題になるにしたがって、街道で、村で、街でその主旨に感動した人々が10ドル20ドル紙幣を差し出すようなことも多くなり、目標額はすぐに10ミリオンcadに上昇した。
継続される意志
テリーがこのマラソンを計画したのは、18歳で治療不可能な骨のガンが右足に発見され、切断後入退院を繰り返すうちに、もっと研究資金があれば助かる命も多いのではと思い立ったからである。
しかし残念ながらこのマラソン・オブ・ホープは、国土横断という雄大な計画を終了することなく、オンタリオ州北方のサンダー・ベイという街までの、4800キロを踏破した1年2ヶ月後に、肺に移転したガンによって22歳の若い命を終えたのである。
この時点ですでにテリーの行動は世界の人々が知ることとなり、その意志に賛同した58ヶ国の人々からの寄付も集められて、とうとう基金総合計は目標額をはるかに上回る23.4ミリオンcadにもなったのだ。
こんな途方もない計画をたった一人で実行に移した勇気は「どんなことでもその気になれば可能だ」という思いを皆の胸に刻んでくれた。
また当時その行動力が、国の歴史に残る偉業と人々がたたえたことに異議を唱える人はなく、生存中にオーダー・オブ・カナダ(カナダ勲章)を授与されたが、彼は歴代の受賞者の中で一番若かった。
サンダー・ベイで没したテリーの希望は、その後誰か1人がBC州まで完走するのではなく、彼の意志を引き継ぎ末永く運動が継続することだった。
現在基金事務所は彼の両親や兄弟たちが維持しており、毎年9月の第3週目の日曜日をテリー・フォックス・ランと定め、国の内外で寄付金集めのマラソンが繰り広げられる。
春になると必ず思い出される、勇気あるカナダの一若者のヒューマンス・ストーリーである。
OCS NEWS May 5,2000
トロントの日系社会で活躍する日本人歯科医
白藤青湖さん
商工業の中心でカナダ最大の人口を誇るトロントは、その住民の半数近くが外国生まれである。人種のるつぼNYの二八%をはるかに上回り、名実ともに世界で一番の国際都市といわれている。
市内の日本人移住者は六千人ほどで、他のエスニックグループに比べ決して大きなコミュニティーではないが、皆カナダの地にしっかりと根を下ろし生活している。その一人である白藤青湖先生は当地に来て十八年になる歯科医。
カナダは、ここで歯科大学を卒業すれば、そのまますんなりと歯医者になれるが、外国からの移住者の場合は、例え母国で十分に経験のある人でも、国が規定する国家試験をパスしなければならない。
それは日本とは比べものにならないほど難関で複雑なシステムになっており、最初白藤先生も大分驚いたようだ。しかしその一つ一つをクリアーして、四年がかりで免許を取得した体験談はとても興味深く、カナダの日系史に残るに十分な偉業にさえ思われる。
言葉のハンディを背負いながら、筆記、実地、臨床、口頭試験などに挑んだチャレンジ精神は、遠い親戚に日本女医史の初期の頃に、吉岡弥生などと共にその名を連ねた中原とまや、社会派詩人、児玉花外などがいることとまんざら無関係ではないのかもしれない。
開業して十四年たつが、現在患者の八十%は日本人、または日系人とのこと。英語が余り得意でない日本人移住者にとって、外国に来て一番の心配事は医者通い。母国語で症状を訴えることができるのは、砂漠でオアシスに出会ったようなもので、今や白藤先生は「日本語ができる歯医者さん」として日系社会になくてはならない存在だ。
カナダは国民皆保険制度になっているものの歯の治療は例外で、個人が持つ別の保険によってカバーされるのが基本である。そのために歯科医たちは治療以外の煩雑な保健制度や、事務手続きなども理解しなければならずなかなか楽ではない。
「お金もうけだけを考えていたら日本にいたほうがずっと楽ですね。でも女性の能力を男性と同様、何ができるかで評価する社会のあり様がとても好きなのです」という。
家庭は現地で知り合った医療関係技師の夫と、テイーンエイジャーの娘さんとの三人暮らし。
白藤青湖(しらふじせいこ)
白藤歯科医院院長
一九四八年山口県生まれ。新潟大学歯学部卒業。九州大学で研修後山口で開業。八二年にカナダに移住し、四年後に日本人移住者の中で唯一、国家試験をパスしてオンタリオ州の歯科医師免許を取得した。
トロントの日系社会の中で広く活躍している。自転車、ローラーブレイドなど身体を動かすことが趣味。
ゆきのまち通信 2000年5月号
ゲイ・プライド・パレード
夏最大のイベント
6月25日
西欧諸国の一体幾つの町でゲイ・プライド・パレードが催されるのかは定かでないが、トロントでも毎年6月の最終日曜日の午後は、街を上げての賑やかなお祭りが繰り広げられ、趣向を凝らした7、80ものフロート(山車)が連なる。
これは夏を色取る最大のイベントで、あの華やかさと賑々しさの右に出るものはめったになく、また同性愛者の票が気になる政治家たちも、こぞってパレードに参加してお祭り気分を盛り上げる。
今ではよく知られていることだがこの行事の起源は、69年の6月にNYのゲイバーだった「ストーン・ウォール・イン」で起こった警察による暴動事件がきっかけで、それが70年代に入り公民権運動に発展し、その後各地で祭典として根付いたものである。
カナダではヴァンクーヴァー、トロント、モントリオールでのパレードが有名で、ちなみに去年のトロント市での人出は75万人といわれている。今年も多数の観光客を見込んでいるが、皮肉なかちあわせは、同じ日曜日にセブンスデー・アドバンティスト教会の集会が、やはり市内で開催される予定で、世界2百ヶ国から5万人の関係者が集まるという。
周知の通りこの宗教団体は、「同性愛は聖書に反しており受け入れられない」とはっきり言い切っているが、双方の組織ともが当日は反対デモなどは計画しておらず、お互いに無視を決め込むそうだ。
毎年のことながら、このパレードでの同性愛者たちのパワーと陽気さを見る限りでは、ゲイはマイノリティーの問題という意識を払拭させるが、これはあくまでも大都会の現象で、地方や特にティーンエイジャーの若者たちは、今でもカミングアウトすることをはばかる人は多数いる。
また同性愛者たちに対しての卑語は幾つもあるが、移民の子供たちが学校で最初に覚える英単語が"fag"というのをみても分かるように、ゲイたちに取っての最大鬼門の一つが学校というのが伺える。
しかしこうした根強いバッシングの反面、徐々にではあっても、彼らの法的権利が拡大している事実は、アメリカの場合最近のバーモント州での「ゲイ市民の『連合』を認める」法案や、先日のワシントンDCで行なわれた同性愛者の権利を求めるミレニアム行進を見ても分かる。
カナダでも去年の5月に最高裁で同性愛者カップルの権利を、異性愛者の同棲カップルと同じにするよう義務付けられたことを受けて、国はその立法化に向けて動き出している。法案は下院を通過し、現在上院での審議待ちであるが、これが通れば今までのように州ごと或は事業所ごとではなく、国全体で同性愛カップルの医療保険、税の配偶者控除、遺産相続などの社会的保障を擁護することになる。
国勢調査
筆者がは初めて同性愛者に関する取材をしたのは、94年に同法案がオンタリオ州で却下された時だったのを思うと、わずか数年の間に国全体がその権利を認める動きになった事に、大きな時代の流れを感じる。
しかし正式な結婚となると、まだ国として容認してはおらず、また養子縁組に関しても個々のケースで許可されているだけだが、これも年月と共に変化して行くだろう。
またこの5月には、来年の春の国勢調査の際に内縁関係として同棲しているカップルに対し、その相手が異性か同性かを問う質問が初めて加わることが決定した。
これは同性愛者に対する権利が今までの、「寛容」から「平等」に移行していることを如実に表わすものである。調査の結果が出ることによって、国内の同性愛カップルの数が初めて把握されることになり、同性愛者が異性愛者と同様にカナダ人の家族形態の一つとして位置付けされる方向に向いていることを意味する。
ゲイ・レズビアンが無視される国勢調査は片手落ちと思っていたアクティビストたちは、この決定をさらなる前進とみている。
OCS NEWS Jun.2,2000
エィドリァン・クラークソン新カナダ総督
総督とは?
カナダに住んでいない人には、「総督」というのが一体何をする人なのか、ピンと来ないかもしれない。
簡単に説明すると、長い間英国の植民地であったカナダは、現在でも議会制民主主義の国であると同時に、立憲君主制を維持しており、国家元首は英国女王である。
しかしエリザベス女王は普通英国に居住しているため、その不在中の名代として活躍するのがこの「総督」で、カナダ首相が指名し女王が任命する形を取って選出される。
政治的なパワーはないが実際には政府とのかかわりは深く、いろいろな意味で政治情勢に影響を与えるとも言われ、大変な名誉職なのである。
主な仕事は国を代表して、外国での各行事、例えば著名な政治家のお葬式や王室の結婚式などに出席したり、国内においては、各国首脳の接待や各種の催し物などに顔を出し、また勲章の授与をしたりする。
前任者のロメオ・ルブラン氏は、就任中の4年8ヶ月の間に6万9千人を公邸に招き、2千近い各種の催し物に出席し、9回の外国旅行をし、150ヶ国の大使の表敬訪問を受け、2千余人にメダルを授与し、加えて数え切れないコンサートやガーデンパーティーの主賓役を務めた。
常にパブリックアイにさらされ、緊張を強いられる仕事であることに間違いはない。
外国生まれ、少数民族女性
このポストに今回カナダ建国いらい初めて、移民一世でしかも少数民族である、エィドリァン・クラークソン(60)という中国系カナダ女性が就任した。
1939年に香港で生まれた彼女は、日本軍の侵略にともない42年、3歳の時に政治亡命者として移住した両親と共にオタワに移り住んだ。
トロント大、仏ソルボンヌ大卒業後、CBC(カナダ放送協会)テレビのジャーナリストやパーソナリティとして活躍し、著書も多数あり、また80年代半ばにはパリ駐在オンタリオ州総代理人を数年間勤め、現在はケベック州のハル市にある国立文明博物館運営評議会会長職にもある。
当然ながら英仏語は完璧で知名度も高く、まったく文句のつけようがない経歴だ。
カナダ人の中には、総督というちょっと時代錯誤的な地位の必然性や、また国民からではなく、その時々の首相によって指名される制度そのものを疑問視する向きもある。
しかし今までの傾向として政治家出身や、また、つつがなく任期を終えることのみを年頭に置く人たちがいた中で、文化人であり、オピニオニストとして活躍している180度転換の人選が、新風を吹き込こむのではと期待する人は多い。
彼女を任命したクレチェン首相は「これはカナダ社会の多様性と包容力の表れで、国の成熟度を示している」とコメントしており、確かにその柔軟性のある考えに敬意を表したい。
パーソナルライフ
だがちょっと面白いのは彼女のパーソナルライフである。
過去にクラークソン氏なる人との離婚歴があり27歳と30歳の娘がいる。別れた理由が彼女の男性関係だったとかの噂もあり、娘2人との関係は疎遠で10月中旬の就任式にも出席せず、メディアからのインタビューにも一切応じない。
当然今の時代、理由が何であれ離婚など日常茶飯で、別れた子供との関係がうまくいっていないなどはめずらしことではなく、それがこの地位獲得に何ら影響を与えなかったのは喜ぶべきである。
しかし、彼女は次期ポストに決まる色合いが濃くなったこの夏に、それまで何年間も同棲していた、カナダでは哲学者として著名なジョン・R・ソウル氏と慌てて結婚したのである。
もちろん「結婚はポストのため」という噂を否定しているが、何かすっきりしないという人は多い。
つまり、外国生まれの移民、少数民族の女性、男性関係、離婚、疎遠の娘たち、などが何らマイナス要因にならなかったのなら、もう一つ、結婚などという形式にとらわれない男女関係を維持するカップルの、女性総督が出現して欲しかったと外野席はかしましいのである。
OCS NEWS Oct.22,1999
カナダの青空の下で「いい湯だな!」
露天風呂温泉発掘に夢を 佐藤清一さん
日本人に限らず、世の中には「温泉が大好き」という人間は山といるのだが、その「好き」が高じて自分で温泉を掘ってしまう人はそう多くはないだろう。しかもカナダはBC州の、景観豊かなロッキー山脈の麓に露天風呂を、である。
「男のロマンの実現ですか?」の質問にただ笑う朴訥な佐藤さんだが、大自然を相手に夢を追う人生が男のロマンでなくて何だろう?
いつ襲ってくるかもしれない熊に神経を使いながら、時には岩から岩を這うように渡たり、ボート、馬、ヘリコプター、水上飛行機などを屈指して幾つもの秘湯を捜し歩いて10年。
この歳月は、自然保護にことのほか厳しいBC州政府と渡り合い、自然に抱かれた日本式露天風呂温泉にかける情熱を理解してもらうための年月であった。彼らの間でつけられた佐藤さんのニックネームは「MR.HOTSPRING(ミスター温泉)」。
そんな努力の末、やっと諸条件の揃った温泉にめぐり合ったのが、この春に完成したミガークリーク温泉である。ここは川沿いにある大きな自然の石に囲まれた場所で、カナダでは二番目の湯量を誇り日本の水上温泉あたりに相当するという。
所在地はバンクーバーから北に車で3時間半。世界的に有名なスキー場ウィスラーを通りペンバートンの街を抜けた山の中で、まさに「秘湯」にふさわしい大自然の真っ只中だ。
だがここは佐藤さんが開発する前にすでに年間4万人以上の人が通っていたという、知る人ぞ知るの人気スポットでもあった。
しかしこれだけの人がただ流れる湯につかるのでは、大腸菌がわき、湯の花(硫黄の沈殿物)が咲き衛生的には最悪の条件で、温泉作りに詳しい佐藤さんの腕の見せ所であったわけだ。
「普通のカナダ人は裸で入るのに全然抵抗ないのに、温泉といえば水着を着て入るプール形式しか知らない頭の硬い政府のお役人に、日本風の露天風呂を理解させるのが一番難しかった」という。
今は側に更衣小屋が一つあるだけだが、将来はログハウスのキャビンを作りお客が泊まれるようにしたいと夢は広がる。もちろん「環境」には十分配慮しての設計である。
「今までに掛かった費用?さあ、1.5ミリオンカナダドル(約一億5千万円)位でしょうかね。これだけあったら一家で世界中の温泉めぐりが出来たと家族にいわれますよ」と笑う。
去年トロントで24年間たずさわった毛皮の事業を手放した。今後温泉開発一筋にかける佐藤さんの情熱を支えてくれるものは、家族の理解と、こんこんと涌き出るお湯であることに間違いない。
佐藤(マイク)清一
温泉探検家
1948年、福島県南会津郡生まれ。東京拓殖大学政治学科卒業。73年カナダに移住。
ジョージ・ブラウン・カレッジ(トロント)で毛皮について学び、25歳で「ワールド・カナダ」社を創立し、24年間毛皮業に携わる。去年商売を手放し10年来の夢である温泉堀りに夢を賭けている。ブリテイッシュ・コロンビア州在住。妻と子供3人。
ゆきのまち通信 1998年9月号