ビルマ戦線:日本兵あて132通、遺族に返還へ 英兵保管

毎日新聞 2015年06月20日 15時00分(最終更新 06月20日 17時33分)

ウィリアムさんが戦場から持ち帰った軍事はがき=2014年5月2日、ケント州のグローバーさん宅で小倉孝保撮影
ウィリアムさんが戦場から持ち帰った軍事はがき=2014年5月2日、ケント州のグローバーさん宅で小倉孝保撮影

 第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)戦線に従軍した三重県北牟婁(きたむろ)郡(現尾鷲市)出身の日本兵に宛てた、家族や友人からのはがき132通が英ケント州で見つかった。日本軍と戦った英兵が戦地から持ち帰り、遺族が保存していた。最近になって双方の遺族間で連絡がとれ、はがきは約70年ぶりに日本側遺族に返還されることになった。【永野航太、ケント州(英南東部)で小倉孝保】

 はがきは「ビルマ派遣林第三七六六部隊」所属の東(ひがし)定信さん(1919〜2011年)宛て。慰問などを担当した陸軍じゅっ兵部発行の往復はがきで、消印は「昭和17(1942年)」や「昭和18年(43年)」。「検閲済」の印が押されたものも多い。

 多くは、東さんの家族が無事を願ったり、家族の様子を伝えたりする内容。兄の豊太郎さんからの手紙は「同級の勇一君が○○なったので、どうせ自分も○○あることと覚悟をして」と、検閲に配慮したとみられる表記もある。また、地元小学生が遠足の様子を絵はがきにしたり、「僕らもりっぱな兵隊さんとなる」と書いたりするなど、当時の社会状況を反映したものが多い。

 はがきを保存しているのはケント州に住むスタンリー・グローバーさん(66)とシンシアさん(79)夫妻。スタンリーさんによると父ウィリアムさん(1914〜78年)は英陸軍兵として44年3月、ビルマ戦線(現在のインド東部とミャンマー周辺での戦闘)で日本兵と戦い右脚を負傷、英国に戻った。

 スタンリーさんは子供のころから、父がはがきを所有していることを知っていたが、父から戦争について聞くことはなく、父は入手経緯を語らないまま亡くなった。

 スタンリーさんは、「亡くなった日本兵の所持品から、父が拾ったと思っていた」と話す。2年ほど前から「日本兵遺族にとっては貴重なはず」と考え始め、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院などに遺族探しを依頼し先日、判明した。

 東さんの長女で尾鷲市に住む中崎ちほみさん(66)ら遺族によると、定信さんは20歳で出征し、記録係などとしてビルマ戦線に従軍。終戦後、日本に戻り91歳で東京都葛飾区で亡くなった。スタンリーさんは「東さんが最近まで生存していたのなら、もっと早く返却したかった。遺族の人たちに故人をしのんでもらいたい」と話している。はがきは今月末にも遺族に返却される。

 【ことば】ビルマ戦線

 太平洋戦争開戦後の1942年1月、連合国軍の援助物資輸送路の切断などを図り、日本軍がタイからビルマ(現ミャンマー)に侵攻。英印軍と戦闘し、同年3月にラングーン、5月下旬にビルマのほぼ全土を占領した。だが、インパール作戦の失敗などで戦力が低下し、日本軍の戦線は崩壊した。

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