東海道五十三次,静岡県の藤枝宿から島田宿 その1 [東海道五十三次]
先月、藤枝宿を歩き、少し時間的にも体力的にもゆとりがありましたので、藤枝宿で食事をした後島田宿に向けて歩きましたが、JR六合駅付近で雨が強くなり、帰宅の途に。
そして、先日はJR六合駅から島田宿を経て金谷宿迄を歩いてきました。
で、今回 ”その1” として、藤枝宿からJR六合駅 迄をレポートします。
藤枝宿で食事をした後、藤枝市の瀬戸川の橋を渡ると西に向かって直ぐの右手に 「志太一里塚」 があった。
この一里塚は ”江戸からちょうど50番目” で、日本橋から約200kmに相当します。
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で、瀬戸川から約2キロ 30分強で、「鏡池堂六地蔵尊」を通り過ぎ、「東海道追分」と言う道標を見つけた。説明によると 「中世の古東海道と旧東海道の分かれ道」 との事です。
写真のダークグリーンの矢印方向が古東海道の江戸方向で、黄色矢印方向が旧東海道の京都方向です。
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で、説明書きを読んでみたが今の地名と昔の地名がなかなか一致せず、しかも今の地図しかなかった為帰宅後私なりに色々検索して、今の地図上に書き込んでみました。 正しいかな???
古東海道の時代は六地蔵尊付近や瀬戸新屋付近は湿地帯だった様で、その後の開拓等で旧東海道が通れる様になった様です。
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東海道追分から約300m行った所で 「千貫堤」 の表示を見つけ、旧東海道から左に100m弱入ってみると 「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」 があり寄ってみた。
千貫堤は大井川のたび重なる氾濫による被害から田中藩領の村々を守る為、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に築かれたと言う堤防です。
堤の規模は全長500m,幅32m,高さ3.6mだったと推定されており、千貫(一貫は1文銭千枚)もの労賃を投じて築かれた事から 「千貫堤」 と名付けられたと言われています。
で、堤の一部は今も残っており、この伝承館は堤の上に立っていて、写真の黒い階段部分が堤の高さだそうです。
又、この伝承館には 「瀬戸染飯」 についても細かく説明されていました。
瀬戸染飯は、もち米を蒸してクチナシの実で黄色く着色した物で、当時は東海道の名物だった様です。 クチナシの実は当時漢方薬として知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿等に効能があった様です。
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下写真は伝承館に展示されていた昭和41年当時の千貫堤だそうです。
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伝承館から旧東海道に戻った所に小さな地蔵尊の様な所があった。 延命地蔵尊と言うらしい。
上記千貫堤が完成する迄は度々氾濫し、多くの人が洪水に呑み込まれ犠牲となり、青島村方面に流れ着いたそうです。 この地蔵尊はその方々を葬むった無縁仏をも祀っているとの事。 勿論手を合わせてしまいました。
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伝承館で無縁仏の話を聞き、霧雨もちらちらと、疲れもどっと出て落ち込み気味で歩いていた所、次の一里塚,上青島の一里塚が見つかった。
上青島の一里塚の横で休息をしながら 「千貫堤が出来る迄の話し等 非常に中身の濃い”志太一里塚からの一里”」 でした。
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で、霧雨が強くなる中、1km強歩き JR六合駅から帰宅。 六月に入った先日、再開しましたので次回は島田宿をレポートします。
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そして、先日はJR六合駅から島田宿を経て金谷宿迄を歩いてきました。
で、今回 ”その1” として、藤枝宿からJR六合駅 迄をレポートします。
藤枝宿で食事をした後、藤枝市の瀬戸川の橋を渡ると西に向かって直ぐの右手に 「志太一里塚」 があった。
この一里塚は ”江戸からちょうど50番目” で、日本橋から約200kmに相当します。
で、瀬戸川から約2キロ 30分強で、「鏡池堂六地蔵尊」を通り過ぎ、「東海道追分」と言う道標を見つけた。説明によると 「中世の古東海道と旧東海道の分かれ道」 との事です。
写真のダークグリーンの矢印方向が古東海道の江戸方向で、黄色矢印方向が旧東海道の京都方向です。
で、説明書きを読んでみたが今の地名と昔の地名がなかなか一致せず、しかも今の地図しかなかった為帰宅後私なりに色々検索して、今の地図上に書き込んでみました。 正しいかな???
古東海道の時代は六地蔵尊付近や瀬戸新屋付近は湿地帯だった様で、その後の開拓等で旧東海道が通れる様になった様です。
東海道追分から約300m行った所で 「千貫堤」 の表示を見つけ、旧東海道から左に100m弱入ってみると 「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」 があり寄ってみた。
千貫堤は大井川のたび重なる氾濫による被害から田中藩領の村々を守る為、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に築かれたと言う堤防です。
堤の規模は全長500m,幅32m,高さ3.6mだったと推定されており、千貫(一貫は1文銭千枚)もの労賃を投じて築かれた事から 「千貫堤」 と名付けられたと言われています。
で、堤の一部は今も残っており、この伝承館は堤の上に立っていて、写真の黒い階段部分が堤の高さだそうです。
又、この伝承館には 「瀬戸染飯」 についても細かく説明されていました。
瀬戸染飯は、もち米を蒸してクチナシの実で黄色く着色した物で、当時は東海道の名物だった様です。 クチナシの実は当時漢方薬として知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿等に効能があった様です。
下写真は伝承館に展示されていた昭和41年当時の千貫堤だそうです。
伝承館から旧東海道に戻った所に小さな地蔵尊の様な所があった。 延命地蔵尊と言うらしい。
上記千貫堤が完成する迄は度々氾濫し、多くの人が洪水に呑み込まれ犠牲となり、青島村方面に流れ着いたそうです。 この地蔵尊はその方々を葬むった無縁仏をも祀っているとの事。 勿論手を合わせてしまいました。
伝承館で無縁仏の話を聞き、霧雨もちらちらと、疲れもどっと出て落ち込み気味で歩いていた所、次の一里塚,上青島の一里塚が見つかった。
上青島の一里塚の横で休息をしながら 「千貫堤が出来る迄の話し等 非常に中身の濃い”志太一里塚からの一里”」 でした。
で、霧雨が強くなる中、1km強歩き JR六合駅から帰宅。 六月に入った先日、再開しましたので次回は島田宿をレポートします。
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