記事詳細
【炭鉱物語】
韓国“被害”強調に「出身地『差別』なかった」元女性炭鉱社員語る
勤務時間や採掘量を示す伝票にはひと目で半島出身者と分かる氏名が書かれており、その中には、日本人の1・5倍は働いていた人もいた。
社宅の間取りは、4畳半と6畳をひとまわり大きくした二間だった。半島出身者も日本人も同じ待遇で入居していた。
社宅に住む半島出身者の中には家族連れもいたといい、田中さんは「彼らが強制連行されたと聞いたことなどなかった。何よりも家族連れで強制連行された人なんていたのだろうか」と語り、韓国政府の一方的な言い分に首をひねる。
子供同士も出身地など関係なく、ふつうに遊んでいた。
犠牲者は半島出身者だけではなかった
街には現在のスーパーマーケットに当たる購買課が2カ所あり、日常用品がところ狭しと並んでいた。
陳列棚には、薄い黄色に赤褐色の帯がついた売れ残りのリプトンの紅茶缶があったことを鮮明に覚えているという。また、近くの街には料亭や劇場、映画館もあったという。
当時、炭鉱での石炭採掘は、富国強兵を目指す日本のエネルギー政策の生命線だ。事故が起これば採掘量の減少につながるため、会社側は「爆発事故には最も神経を尖らせ、安全対策を徹底していた」と話す。
「韓国政府は、日本が世界遺産に登録申請したら文句を言う。事故や病気による犠牲者は半島出身者だけではない。方城炭鉱には差別のない活気に満ちあふれた生活もあった。韓国政府はそうした面にも目を向けてほしい」