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【炭鉱物語】
強制でなく「職探しも」…戦後、朝鮮半島に戻るとき互いに「泣いて別れた」
戦前の方城炭鉱を知る地元、方城町の元文化財専門委員の植田辰生さん(91)は「戦後、朝鮮人労働者が半島に戻るとき、お互いに泣いて別れた。多くは帰還事業で北朝鮮に行ってしまった」と語る。
植田さん所有の資料によると、大正9年当時、炭鉱労働者の賃金は米一俵(60キログラム)が12円の時、平均月給は37円77銭。米一俵は成人男性が1年間に消費する量。単純計算で一人当たり平均米三表分に相当し、かなりの高額給与だったことが推し量れる。
李さんは「半島出身者にも(本土出身者に媚びて同胞をいじめるような)嫌な人はいたし、いい人もいる。本土の人も一緒で、出身地に関係ない」と話す。
世界遺産をめぐる韓国政府の対応について、李さんは「正直言って複雑だ。日本国内の施設について、他国がとやかく言うべき話ではないが、もっと時間をかけてほしい。苦い記憶が癒えないから」と語った。
今月初め、長崎市沖の端島(通称・軍艦島)の炭鉱労働者とは直接関係のない韓国人市民団体が、近くの島で線香をたき、それを地元メディアが報じた。
直接の関係者である李さんの話を聞いた後だと、こうした白々しい行為が、登録阻止をねらった美談仕立のパフォーマンスにしか見えなくなる。 (九州総局長 佐々木類)