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【炭鉱物語】強制でなく「職探しも」…戦後、朝鮮半島に戻るとき互いに「泣いて別れた」

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【炭鉱物語】
強制でなく「職探しも」…戦後、朝鮮半島に戻るとき互いに「泣いて別れた」

方城炭鉱の見取り図(元方城町文化財専門委員、植田辰生さん提供)。当時は日本人も朝鮮半島出身者も連帯感があったという

 伯父が筑豊炭田で働いていたという福岡県田川市在住の元飲食店経営、李大一さん(64)に、戦前の筑豊炭田の暮らしぶりについて話が聞けた。

 李さん自身は日本生まれの日本育ちだが、実父の李判福さん(故人)が朝鮮半島の大邱(現在の韓国)出身で、戦前、16~18歳のときに本土にやって来て、長野県内のダム建設に従事していた。先乗りした判福さんの実兄は筑豊地方の炭鉱で働いていたという。

必ずしも不遇ではなかった

 日本政府は昭和14年、戦争の長期化による労働力不足を補うため、半島出身者も含めた国民全体を対象に国民徴用令を制定した。

 判福さんも伯父も「強制連行」だったというのでその理由を問うと、「父や伯父は大邱の朝鮮人村長の命令で、自分たちの意に反して本土に連れて来られたからだ」と話す。一方で「自らの意思で仕事を求めて来た半島出身者がずいぶんいた」とも話し、強制連行ばかりを強調する韓国側の言い分が、事実と異なることが裏付けられた。

 李さんによると、徴用が始まったころは言葉の壁や生活習慣の違いから差別もあったが、移住が定着してくると徐々に改善されていき、「必ずしも不遇ではなかった」と話す。

 5世帯が入居する長屋では、半島出身者と本土出身者の家族が仲良く生活していたという。危険と隣り合わせの生活だけに、連帯感は強く、法事のときはみな一緒に飲み食いした。

多くは帰還事業で北朝鮮へ

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