1592年5月23日、壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)が起こったとき、国王の宣祖は当初数日にわたって情報が得られない状態だった。日本軍が釜山浦に上陸してから四日が過ぎてようやく、慶尚左水使の最初の報告書が朝廷に到着した。その時になって初めて、朝廷は慌てて防衛体制を組織したが、日本軍はすでに忠清道近くまで押し寄せていた。宣祖が初めて報告を受けてからわずか六日で漢陽は陥落し、宣祖は宮殿を捨てて逃避行に入った。
2015年5月20日、MERS(マーズ。中東呼吸器症候群)との戦争が始まったとき、朴槿恵(パク・クンヘ)大統領も似たような立場だった。朴大統領が福祉部(保健福祉部。省に相当)長官から最初の対面報告を受けたのは、第1号の患者が確認されてから六日後のことだった。未熟な初期対応で「ゴールデンタイム」は空費され、戦線は食い止めようもなく広がった。
柳成竜(ユ・ソンリョン)=1542-1607=の『懲ヒ録』(ヒは比の下に必)は、壬辰倭乱の恥辱を痛切に振り返った反省文だ。MERS問題の渦中で同書をひもとくのは、どこかで目にしたかのような既視感があったからだ。MERS戦争と壬辰倭乱は性格からして異なるが、失敗の本質的構造は驚くほどに似ている。危機を前にしてコントロールタワーはめちゃくちゃ、国論は分裂、システムは故障を起こして稼働しなかった。「倭敵」を「ウイルス」に書き換えるだけで、16世紀の『懲ヒ録』を2015年の韓国に置き換えても差し支えない。
MERSの韓半島(朝鮮半島)襲来は、予見されていたことだった。中東でのMERS発生を受けて、疾病管理本部は2年前に専門家を集め、MERS対策を樹立した。しかしマニュアルは粗雑で、それすらもきちんと作動しなかった。中東のウイルスがここまで来るのかという「まさかの心理」のせいだった。