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ボンダイ

若者論から国際論まで幅広くテーマに。不寛容より多様性に富んだ世の中の方がいいじゃん!

腐女子の精神は右翼的か?

matome.naver.jp

 「腐女子」が同性愛者を差別しているとして大きな議論が起きている。

 発端となったのは、ある腐女子によるツイートだ。彼氏がゲイに寝取られてしまった人の話を面白おかしく書いている。これが腐女子の間で拡散され、笑い話になっている。

 しかし、ゲイ当事者やLGBT支援者などからは、ゲイに対する差別がにじみ出ているとして、そうした記事が拡散されることに対する不快感や、驚きや悲しみや落胆の声が漏れている。他人の個人情報をネットで全世界にばらすことに対するモラルのなさや、現実とフィクションの妄想の区別がないことについての批判もある。程度の低い投稿に、程度の低い人たちが影響されるというネット原住民によくあるパターンだ。

 

 腐女子といえば、美少年キャラクター同士の性行為を描いた「ボーイズラブ(BL)」を好む人たちだ。そんな腐女子が同性愛を差別するというのは不思議な感じはある。

 しかし、いくつかのLGBTの書き込みを見ると、なるほどなあと思う所もある。

 

 これはつまり、男性オタクのロリコンと同じなのではないだろうかと思う。まず男性オタクのロリコンの歴史をひもといてみよう。

 男性オタクにはロリコンが多い。1990年代くらいまでアニメや漫画のヒロインと言えば大多数はお姉さんとして描かれたもの(20代くらい?)が多かった。マニアに人気の作品であってもそうだ。

 そんな中出現したロリコンオタクは、日曜朝の少女向けのヒロインアニメに出てくる幼女キャラとか、「シスタープリンセス」の妹たちや、エロゲーに出てくる幼女に欲情した。これが2000年代前半のことだ。

 2000年代半ばには秋葉原ブームでオタク文化はコモディティ化し、その辺の中学生でもクラスに1グループはオタク集団が生まれるようになった。昭和に生まれていれば無理してでもキムタクのドラマを追いかけていたような人たち(どちらかというと陰キャラ寄り)が、「にわかオタク」になったのである。彼らは「幼女に欲情するアダルトゲーム」にはヤバさを感じたが、90年代以前のアニメのような「自分より年上のヒロイン」には敬遠を感じ、結果的にほどよく妥協点として、女子高校生がヒロインとされるオタク作品が大量に乱舞した感じがある。「エロゲーほど世間ずれしておらず、ジャンプの漫画ほど俗っぽくもない」ほどよいポジションにあったラノベ業界が盛んになった。

 ただ、女子高生とはいえ、未成年の欲情はロリコンである。しかしこういう限りなくグレーな世界でオタク文化は成熟した。ちなみに「JK」と言う隠語が援助交際用語から一般語になったり、AVの世界で黒ギャル物や蒼井そらみたいな女優のものが淘汰され、制服コスプレAV(人気アニメのパロディ含む)が市場の殆んどを占めるようになったのもこの頃だ。「つぼみ」みたいな童顔で純朴そうなAV女優がちやほやされ、それと見た目に大差ない黒髪すっぴんのアイドルグループが沢山出てきたらアイドル戦国時代になってしまった。

 

 なぜロリコンが流行ったか。簡単である。「圧倒的に優位に立てる相手」であるからだ。

 20代の女性であれば、すでに元カレがいくらでもいる場合もあるし、最近の「草食男子」なら自己主張の激しい女性に翻弄されることも多い。

 しかし、ロリの場合、幼ければ幼いほど処女である可能性は高く、自分が男で年上であるということは従わせるうえで都合がいい。つまりロリコンは残酷なのである。

 

 アイドルや声優が茶髪に染めたりするとそれだけでロリコンに非難されるのは、自己主張の激しいギャルを連想するからであり、彼氏ができたりしようものならCDやグッズを叩き割るブームが起きるのは、「裏切られた」と思うからだ。アイドルや声優はAV女優ではないが、内向きでワガママで自分勝手な「自己完結的な性欲」に用いられすぎている現実がある。どこがクールジャパンなのかさっぱりわからん。

 

 そしてそれは腐女子におけるBLもそうだ。

 10年以上前だが、当初腐女子の間では「乙女ゲー」がニワカに流行りかけた時期があった。しかしヒットしなかった。理由は簡単だ。「ヒロインがいるから」である。

 男性ロリコンの場合、ギャルゲーの主人公が男であることは別に違和感がないようだが、腐女子の場合はヒロインにさえも嫉妬してしまうのである。嫉妬深い女性が腐女子になってしまうケースは多い。

 それを防ぐために編み出した手段が「BL」である。BLはいわばヒロインを排除して「女子がトキメく男子」を描いたものである。パートナーも男子にすることで、一粒で二度おいしいという欲張りな娯楽である。この時点で先天的な同性愛とは成り立ちが違うことはお分かりだろう。「異性愛者ながら自分以外に好きな相手が奪われることを許せない女子」というロリコンよりもワガママな人が、BLを求めるのである。

 

 2000年代以前の「電車男の時代」には、女性のスタンダードはオタク嫌いとされていたが、その当時の若い女性たち(いわゆるコギャル世代)は、キューティハニーセーラームーンもないちょうど「少女向けアニメ不作時代」に生まれ育っている。そのかわりにバブルなトレンディドラマが豊かだった人たちだから、ドラえもんを卒業したら即実写に移行した。例外は「高齢腐女子」だ。ヒロインが鬱陶しい実写トレンディドラマだらけの現実にウンザリし、今30代~40代の彼女たちがBL世界を開拓した。

 だが若者は違う。基本的に若い女性はアニメ好きが多い。セーラームーン世代だからだ。

 そういう意味で若い世代は意外な女子がオタク文化を受け入れることも多い。兄がアニオタと言うこともある。しかし、アニメを受け入れて即腐女子になるのではなく、少女漫画に没頭したのである。ほら、多部未華子とか本田翼がヒロインを演じて実写映画になるような、ああいうハチクロ的な感じのものだ。

 つまり現実の異性としての男性を受け入れ、その男性が同性のライバルに奪われるかもしれないという現実を受け入れた。そういうものをひっくるめて物語として理解できるほどの懐の広さのある彼女たちは、「リアルを誇張したフィクション」として、ハチクロ的なものを読み、そのアニメ版を見て、そして実写化されたドラマや映画を理解し、10代になって、ハイティーンになって、成長するにつれてアニメマンガへの依存度を低くし、「実写文化も漫画も理解できる」と言うそれなりに懐の低い婦人へと成長していくのである。

 

 ロリコン腐女子の共通点は「現実と自己向上の否定」である。

 まず、小学校高学年でクラスメイトがにやけながら恋愛ゴッコを始めたり、恋愛ゴシップをまき散らしたがったり、周囲がひやかして無理やりカップルを作るような風潮があるはずだが、そのとき蚊帳の外にいたのが、ロリコン腐女子を厳格に貫く人だ。

 彼らはその後、中学生になって誰もが恋愛(片思いでもいい)をする中で、そういうものを「バカバカしい」と中二病的に表向きは冷笑し、世間の逆張りでアニメ世界に没頭しまくった。ホンネとしては「どうせ自分なんか異性のパートナーは出来ない」と言う諦めがあり、それは「現実世間」あるいは「社会」への憎悪の源泉にもなっている。

 ここから先は都合上腐女子についてのみ言及するが、高校生になり、いよいよ化粧やオシャレをどんなダサかった同級生もしまくっている時に、「自分は追い越されてしまっている」のが腐女子だ。ここで、1ミリでも恋愛願望があった人は諦めてしまう。バイトができるようになり、小遣いが増え、電車で街に通うようになる高校時代は所属クラスター(われわれ世代の言う「キャラ」)が分散し、その分散の上で成熟しはじめるから、そこで完全にドロップアウトすると終わりである。

  かくして急速に腐女子化を極めるようになり、友人づきあいから「非腐女子層」が消失する。そこからは、いい年してハイヒールを履かず、口紅を付けず、髪の毛を茶髪にすることなく、若い女性は誰でも買うはずのViViみたいな雑誌ではなく、アニメージュばかりを買い、自分を棚に上げて「現実的なヒロインを演じて実際の男性や女性に承認されている存在」である剛力彩芽多部未華子前田敦子を「不細工だ」なんだと悪しざまに貶すことで現実逃避をさらに深めるようになるのだ。

 一貫してフィクションに逃げ続け、自己向上を一切しないのである。向上心はないが願望だけはがめつく持ち、「不都合な現実」には憎悪をむき出す。そういう精神に侵された人は多い。

 

 それでも腐っても女子なのか、「スイパラ」や「ディズニーランド」に行きたがり、「自己完結的に消費できる都合のいい娯楽」では若い女性のスタンダード に準ずる。自分自身からオタク性を一切除去すれば、年齢に相応しくない幼稚さと、あるいはむしろ年齢以上に老け込んだ性質の集合体みたいな、そうなってしまう成れの果てしかないようなアラサーはあちこちで目にすることができる。

 「いい大人がジャンプショップで子ども向けグッズを買いあさった後に、まだそこまでおばさんではないのに養老乃瀧でオタク談義をするような腐女子」は多い。田舎の小学生が東京靴流通センターで買ったようなキラキラしたスニーカーを履いて、しまむらの中年風の服を着て、お婆さんがするようなつばのデカい帽子をかぶっていて、若い女性のスタンダードの逆張りファッションを貫いている。

 今は21世紀である。アラサーとはいえ、佐々木希とかが若々しい洒落たライフスタイルを謳歌している時代にもかかわらず、あるべき道に反していやしないか。普通の日本人は、男性だろうが女性だろうが、フィクションはほどほどに楽しみ、それなりに自己向上し、自分の身の丈にあった仲間やパートナーに恵まれて、豊かに楽しく生きるべきものだ。そうやってまともに暮らしている人は、ネット上で何かを憎悪するなんて発想は普通は持たない。努力の中には必ず目標があって、それに至らない自分への葛藤もあるし、挫折もある。そういう経験がたくさんあるほど、自分と異なる存在や弱い立場を受け入れられるようになり、悪しざまな表現に躊躇するようになるのだ。

 

 究極のエゴイズムは、右翼性と通じるものはある。

 つまりは自己愛であり「不都合な現実の否定」であり、「自分に都合のいい理想」の追求である。自分の不都合に直面することや、理想がうまくいかないことがあると、カンシャクを起こしたがる。彼氏ができず、周りの女性は普通に「漫画のヒロイン」はもちろん「現実の同性」も受け入れられるような佐々木希のように生きて恋愛文化を謳歌している人が大半だという現実がいら立ちを常日頃からため込ませてしまい、理想主義がどんどん歪んでいき、でもその理想をかなえるための都合のいいアニメはいくらでもあり、コンテンツを提供する側は常にそういう「エゴ」の研究に余念がない。

 そうなると、とうらぶブームとネトウヨは同じだという記事も、暴論ではなく、真理に思えてしまう。

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