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番外:エメラルドビーチ=国頭郡本部町字備瀬(沖縄県)美ら海水族館もある国営沖縄記念公園の海洋博公園で [番外]
結構大きな本部半島にも、岬は備瀬崎ひとつしかないが、その南でちょこんと突き出ている、でんでんむしの角のようなふたつの出っ張りがある。そこにはエメラルドビーチという名が付けられていて、白い砂が目を射るように輝いている。
ヤシの木も並んでいて、施設も整っているのだが、全体になんだかつくりものっぽい感じがするというか、なにか芝居の書き割りの中を歩いているような妙な感じがした。
そのためかどうかわからないが、結局このビーチを北から南へ横断する間、一度もカメラを構えてシャッターを押していなかった。
どういうわけなんだろう。なにか、ふしぎな雰囲気に圧倒されて、我を失っていたのかも知れないし、なにかの魔法にかかっていたのかも知れない。あるいは、もっと現実的に考えれば、一面を覆う白い砂に照りつける太陽光線がぎらぎらと反射して、単にあまりの暑さに大急ぎでビーチを横切り、建物を目指したためかも知れない。
魔法が解けて、我に返ったのは美ら海水族館のところまで来てからだった。そうだ。岬でなくてもここはやっぱり写真には撮っておかないと…。
やっと気づいてシャッターを押したのは、水族館の上から北側を眺めたときである。ビーチの北向こうには、備瀬崎が伸びている。
その西には伊江島。ここは国営沖縄記念公園のうちの「海洋博公園」のなかである。地理院地図では「沖縄記念公園」としか表記がないが、国営沖縄記念公園には、もうひとつ「首里城公園」があるので、沖縄記念公園だけでは場所の特定をしたことにならない。が、心配しなくともここはそれよりも海洋博公園、いやいやそれよりも沖縄美ら海水族館で有名なのである。
そもそもからいえば、ここにこんな広大な国営公園ができているのは1975(昭和50)年から1976年にかけて開催された、沖縄国際海洋博覧会の跡地利用としてなのである。
そういえば、そんなんやってたんだなあというくらいしか記憶もないし縁もなかったのは、その当時はまだ沖縄へも行ったことがなかったからだろう。その博覧会は、時の首相佐藤栄作が通産官僚だった堺屋太一らに指示して、沖縄県の本土復帰記念事業として国が主導して実施した。堺屋を再び起用するなど、明らかに大阪万博の盛り上がりに便乗して二匹目のドジョウを狙ったものだったが、入場者数は想定を大きく下回って終わった。
エメラルドビーチは、その海洋博覧会のためにつくられたもので、日本初の人工ビーチだったのだ。沖縄の海を象徴するエメラルドグリーンと、サンゴの白い砂が美しいが、いかにも人工っぽいのもそのせいだ。
振り返ってみれば、この海洋博への大規模投資が、沖縄復帰後のインフラ整備の基になったという事実はある。しかし…、とそこには若干の疑問も挟み込む必要もあろう。58号線沿線の整備で植えられたヤシなどには、元来沖縄の植生ではないものまで含まれていたという。ヤシの木に白い砂に青い海と空と輝く太陽…そうしたイメージの根幹は、本土からやってきた人間が勝手に植え付けようとしたものではなかったか。その陰には悲惨な戦争と厳しい基地の島という現実から、本土からやってくる観光客の眼をそらすという意図もあっただろうし、その効果もあった。
事実、堺屋は「沖縄の歴史の話はもうやめよう」と、あえてそれを封印したことを認めている(2015/06/08朝日新聞 朝刊)。
本土の人間が沖縄の戦争と戦後の基地に土地を奪われてきた現実を、充分に理解し反芻する間もなく、そうした問題には蓋をしたまま、青い海とヤシの茂る白い砂の浜辺のイメージはつくりあげられていった。本土と沖縄のギャップが、なかなか埋められない背景には、そういう一面があったこともまた事実であろう。
ところで、このエメラルドビーチの説明には、「全国でも唯一といってよい礁湖(ラグーン)内にあるビーチ」というのがあちこちで使い回しされているのだが、はて?
この意味するところが、どうもピンとこない。ラグーン内のビーチなど、めずらしくもないのでは…。これは「ビーチ造成当時には」ということなのだろうか。であれば、今ごろこういう説明を麗々しく残しておくことはないのだが。
コピペで記事をつくることが一般に習慣化してしまって、誰でもどこでもやっているので、それでもいいのだと大目に見られているようなネット情報では、こうしたことも稀ではない。よくないことである。時代に合わせて制度自体の見直しが必要だとしても、まずは著作権の理解をもっと広めることを徹底することから始めなければ…。
本部半島の西端で南北に長く、広大な博覧会の跡地には、水族館のほか、イルカショーのオキちゃん劇場、植物園、プラネタリウム、郷土村などの施設もあるらしいが、広大な敷地をもてあましているような感じもなきにしもあらず。ここでも、一見すると日本人と変わらないが、話している言葉が違う人々が大勢やってきていた。
さて、そこで思い出したのが、2015年に例の官房長官が沖縄県知事と初めて会談したときのこと。官房長官は、“辺野古を認めればUSJをもってくる”というような意味の発言をしていた。これもずいぶん沖縄をバカにしたような話で、政府が考えてきて今も変わらず考えている“沖縄振興策”とは、結局あちこち補助金を振り、まきお祭り会場をつくるくらいのことでしかない。
そのUSJ話は、根も葉もないことではなく、すでに根を張り芽が出て葉を広げ始めているようだ。2015年5月には実際に政府関係者が、当然のように関係者の念頭にあったらしいここ海洋博公園を視察に訪れている。
実は辺野古をかかえる名護市にも、その候補地として名もあがっていたネオパークオキナワという観光施設があるのだが、その視察日程にはそこは入っていなかった。
▼国土地理院 「地理院地図」
26度41分55.84秒 127度52分38.97秒
タグ:沖縄県
1228 備瀬崎=国頭郡本部町字備瀬(沖縄県)本部半島北西端の岬付近は隆起サンゴ礁の特徴を示しているので… [岬めぐり]
本部半島の北西端でとんがっている備瀬崎は、辺土名から南の国道からでも遙か遠くに見えていた。だが、岬の先は細く薄い板のようで、遠目にははっきりしていなかった。その先端とおぼしき右手には、先のとんがった三悪帽子のような小山が、ぴょんと飛び出ているのがわかった。
今帰仁城跡入口から再びバスを待って乗るが、10分もしないで備瀬出口のバス停で降りる。ここから北へフクギの家囲いで守られた備瀬の集落をつっきったところに備瀬崎はある。
名護から北回りでくると、備瀬出口の次のバス停が備瀬入口である。地図を見て、岬までは歩けば入口より出口のほうが近いと判断して出口で降りたのだが、とくに一方通行で出口と入口がありというふうでもなかった。
フクギに囲まれた集落は細い路地がめぐらされ、そのところどころに店や民宿の案内板が出ている。備瀬の集落は、三角の角の西側海岸に沿って細長く伸びており、東側は道もあまりなく畑と未利用地ばかりだが、海岸線は東の方が自然のままに残されているようだ。ビセザキビーチなどという名もあり、観光水牛車まであるらしいこの岬の周辺に関する情報は、結構多い。超有名とはいえないがちょっと穴場的なポイント、といったところか。
それらの情報のほとんどが揃ってフクギに言及していて、民宿の名前にも使われているので、それがここのシンボルなのだろう。八重山ではさほどめずらしくないフクギも、本島ではそう多くないのか。
いずれにしても、西海岸に発達した集落に吹きつける、強い西風を受け止める役目をもって植えられたものであろう。
備瀬崎は、小さな島の北端に名付けられた名前で、そこには灯台もある。島と本島の間は水路が隔てているが、大潮の干潮時には歩いて渡ることもできそうな感じだ。
灯台の先には、裾を絶え間なく打ち寄せる波で削られた、琉球石灰岩の岩山がある。岩山というより単なる岩でしょうと思う人は、その右をよくよく目を凝らしてみてください。
そう、左右に2人の釣り人が写っている(大潮でなくとも渡れるのか?)。それが人間の大きさですから岩山といってもいいだろうと…。
岬の左手に、あの三角帽子が写っている。これは対岸にある伊江島の172メートルの独立峰・城山(ぐすくやま)である。平べったい伊江島でちょこんと目立っているこの山も、その名からしてグスク時代からの城があった場所なのであろう。
備瀬崎からは、東西に横長い伊江島を東横から見ていることになる。
本部町(もとぶちょう)のほうにも、似たような三角小山がたくさん集まっている場所があるらしい。そこまでは行けなかったが、地図で見ると“なんとか原(ばる)”という地名が、ずっと連続して続くなだらかな台地を、備瀬崎から南東方向へ行った丘陵地帯(山里から大堂付近)には、石灰岩のなせるカルスト地形が展開していると、本部町博物館ページにあった。
その丘陵山地の南が、本部町と名護市との境界線の山嶺で、付近には八重岳・安和岳・嘉津宇岳と450メートルくらいのピークが3つ集まっている。
北東から南西方向に、ちょっと斜めに伸びている沖縄本島は、地形的には山々が連続する北部地域と、なだらかな台地状の丘が続く南部地域に分けられるが、これがだいたいグスク時代の北山の領域であったことは前項の「番外:今帰仁城跡」のところでも述べた。
そして、その違いは地形の見た目だけでなく、島の成因にもかかわっているようだ。
つまり、本島最高峰の那覇岳(503メートル)をはじめとして、西銘岳(420.1メートル)などの山が連なっている沖縄本島の脊梁を形成している山地帯は大陸から分離した(または大陸付近の海底が隆起した)陸島であり、中南部の200メートル以下の低い丘陵地帯は隆起サンゴ礁によってできたものである。
100キロにわたって縦に細長く、幅は広くても20キロもない沖縄本島は、そのふたつの異なる成因による陸地が混在してできている。
隆起サンゴ礁は、すでに八重山などでもお馴染みだが、大陸から分離した陸島というのは、南西諸島にも日本海によって大陸と分断された日本列島と同じ成因で興味深い。日本列島も南西諸島も(そして千島列島も)、ともに弧状列島だが、その弧の描くカーブが微妙に違っているのが前から何となくぼんやりと気になっていた。
しかし…。それもさることながら、本部半島はどっちなんだろう。
備瀬崎のなだらかな岬へと続く傾斜地は、ヤンバルの山地とは趣を異にする。本部半島一帯は石灰岩でできているとなれば、ここはヤンバルの続きの陸島ではなくて、隆起サンゴ礁によってできた中南部と同じ成因によることになるのではないか…と想像はできるのだが。
▼国土地理院 「地理院地図」
26度42分43.46秒 127度52分36.53秒
タグ:沖縄県
番外:今帰仁城跡=国頭郡今帰仁村(沖縄県)優美な曲線と曲面が印象的な石垣を眺めグスク時代の歴史を偲ぶ [番外]
琉球王朝の成立以前には、沖縄を北・中・南の三地域に分けて、それぞれに王をいただく三山時代があった。3つの勢力図がほぼ確定した1314年から、1429年の三山統一までがその時期で、鎌倉幕府の末期から室町幕府の初期に当たる時代である。この時代を、グスク時代というように、権力者が各地に城塞を構えて按司を置いて、地域の支配体制を固めようとした。
今帰仁村(なきじんそん)のサイトにある今帰仁城歴史年表では、「山北王」となっているが、これは中国の史料に基づく正式な国名が山北・中山・山南とあったことによる。しかし、現在では後の史料の北山・中山・南山という表記が一般的に多くなって、両方が混在していてでんでんむしのような初心者を惑わしてくれる。要するに、「山北王」と「北山王」は同じである。
今は城跡の石垣だけが残る城塞遺構の今帰仁城跡は、その北山の中心地であった。この付近に人が住み始めたのは13世紀末頃とされるが、この城をいつ誰が築城したかなど、詳しいことはわかっていない。
三山に共通していたのは、明朝の中国や東南アジアとの交易を経済の柱にして成り立っていた王国であったことだ。貿易といっても、この当時のことだ。対等な貿易はあり得ず、明朝に朝貢し冊封してもらうという従属的な関係が基本にあったはずである。けれども、実際に冊封を受けたという記録は中山王と南山王で、北山王の記録はない。
朝貢の記録も中山・南山に比べると少ないので、このあたり北山の独自の立ち位置も想像できるのだが…。
北山・中山・南山と三分割とはいえ、支配地域面積からいうと、北山がいちばん大きく広く、うるま市石川付近までがその領域だったというから、ほぼ沖縄本島の北半分強を占めていたことになる。
奄美の島々までその勢力下に置いていた北山王は、もとは羽地按司で羽地内海に流れ込む羽地大川、羽地ダムなどの名が残る本部半島の北付け根に、そのルーツを辿ることができる、地方豪族のひとりだったのだろう。従兄弟の子で山北王であった今帰仁按司を討ち、自ら山北王となったといわれている。支配面積は広かったが、地形的には山地ばかりで、国力はさほど豊かとは言えなかったと思われる。
因みに、中山は那覇付近までで、その南が南山となっていた。こういうことは、ないがしろにできないものであって、この区割りが後に郡になり、現在もなお国頭・中頭・島尻という地域区分として活きている。
しかし、版図が大きいからといって戦争に勝てるとは限らない。
三王統の鼎立が100年続いた後、いろいろあって(ちょっと複雑なので簡単に省略)結局は中山が他を抑えた形で、尚思紹王を始祖とする第一尚氏が琉球最初の統一王朝を打ち立てることに成功する。これも地政的には山地がなく人口も周密で海に開けた中山のほうが、政治的にも軍事的にも優位であったからなのだろう。
その結果、今帰仁城を本拠とする北山地域も、琉球統一後は王府から派遣された監守という役人による地方管理の拠点になるが、その規模は首里城に匹敵したという。
1609年になって、薩摩藩が琉球を攻略したときには、まずこの今帰仁城が本島攻略の第一目標となるのは、地政的にいって当然の順序であった。奄美の島づたいに南下侵攻してきた薩摩の軍船は、城の北に広がる今泊付近の海岸に大挙して押し寄せたのであろう。
城は炎上し、監守もその役目をなくした後は、もっぱら祭祀の場として御獄のような性格をもってきたようだが…。
山の斜面とその傾斜を利用してつくられた城郭は、今に残る石垣で想像するしかないが、その優美とも言える石垣の曲線と曲面は、歴史の記憶をなんとか留めようとしている。
1972(昭和47)年に国の史跡に指定された今帰仁城跡は、2000年には首里城跡や勝連城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産(文化遺産)リストに登録された。
名護から今帰仁城跡へ行くには、南側国道449号線と北側505号線が本部半島を循環道路が一周しており、このルートを琉球バス交通と沖縄バスが走っている。そのほか、那覇空港から運天港行きのやんばる急行も運行している。
時間的にも距離的にも、北側ルートで往復するのがいちばん早いので、羽地内海から今帰仁村に入り、備瀬崎へ向かう途中のバス停、今帰仁城跡入口で降りて、標高110メートルの城跡まで、山坂道を往復してきた。
▼国土地理院 「地理院地図」
26度41分27.96秒 127度55分46.83秒
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