系図(野間氏)

<概説>
野間氏は「本藩人物志」野間喜庵忠政によると、畿内の住人であった野間一族が故あって薩摩川内高江(現鹿児島県薩摩川内市高江)に移住してきたものという。時期は明記されていないが、文章の時系列から考えて応仁頃のことと思われる。川内高江には現在も猫嶽と言われる小山があるが、これを当時は「野間嶽」と改めていたというから、その地では移住してからすぐにかなりの勢力を持つようになったのだろう。
ところが、移住して数代経ったときに出水(現鹿児島県出水市)から来た悪徒(薩州家島津氏の一派という説が「諸家大概」野間氏の項にあり)が野間氏一族を殺すという事件があった。一人の娘だけが生き残ったが、この娘はこの賊によって人売りに転売されてしまった。その後の経緯が書かれてないが、その後転売を重ねたのであろう、彼女が13歳になったときには伊作(現鹿児島県吹上町)にいたという。ここで島津運久に仕えるようになり、やがて運久の目に留まって「菴室(あせき)」と名乗り、一子・犬太郎を儲けた。しかし、犬太郎の存在は「島津氏正統系図」など公式の資料には一切書かれることがなかった。運久は既に正室・新納是久女の連れ子である島津忠良を嫡子とするという契約を結んでいたため、運久の実子である犬太郎の存在は家中の乱れになる元と考えられて、史料からは抹殺された物と考えられる。

犬太郎は成長後、島津家同朋衆の1人となり「為阿弥」と名乗っていた。その後母親の姓を継ぎ「野間喜庵」と改名した。「本藩人物志」では「武功抜群の人ナリ」とあり、戦で活躍したのであろうと思われる。
喜庵の孫は千宗易に入門し、曾孫は書道で島津義久に仕えるなど、文芸で身を立てた人物が多い。


<系図>

(系図参照文献)
・「本藩人物志」野間喜庵忠政、野間政商、野間政員(『鹿児島県史料集』13「本藩人物志」)


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