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神戸 小学生惨殺事件 を追う
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こちらもご覧ください。・・・緊急追加ファイル:頻発する少年ナイフ犯罪に寄せて

タブーペルー空母ヤクザ脳死カルト酒鬼薔薇神戸事件動燃カラ不正ミステリ林檎

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――発生から推理、社会不安、衝撃の逮捕、動機分析までのドキュメント――

1998年10月29日木曜日 更新


資料としての松江警察署「異界に住む子供たち」少年事件データベースはじめ朝日新聞事件特集Yahoo事件リンク集神戸新聞社産経新聞事件記事リスト新潮社FOCUS津山パソコン教室(「酒、鬼、薔薇」の文字目撃)、各界識者による逮捕前の推理と逮捕後の解釈スクラップブック、神戸事件の真犯人像 、冤罪陰謀説を展開する神戸事件の真相を究明する会とその批判革マルの強弁に屈した毎日新聞もご覧ください。 実物を作者がフリーハンドコピーして論ずる犯罪文章学「酒鬼薔薇聖斗の挑戦状」も必見です。


目次「幕合いinterlude 背景となる社会構造の分析」は、「酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会」と改題して、独立しましたのでそちらをご覧ください。

〔5/28発生〕 〔6/2推理〕 〔6/6動機の分析〕
〔6/10ミステリ、ロックとゲームカルト〕 〔6/19社会不安〕 〔6/28衝撃の逮捕〕
〔7/3社会の反応〕 〔7/14連続殺傷事件へと発展か〕 〔7/21「バモイドオキ神」様〕
〔7/25家庭裁判所送致と少年法改正の高まり〕 〔参考資料〕
〔9/15関係者事情聴取内容要旨〕 〔9/26「懲役13年」という作文〕
〔10/2 行為障害〕 事件から一年を迎えて 〔10/18医療少年院送致処分決定〕

お断り

このドキュメントは日付通りに書かれた原文を事件の経過にそって並べたものです。従って、現在では誤っていると広く承知されている情報がマスコミから流された当時のまま入っていますが、逮捕される以前に最低限の訂正、加筆を(後記)として挿入した箇所以外は、Artemis側の誤認、誤推定を含め記録として価値が在ると見て訂正しておりません。(但し、日付の入っていないものは随時、更新訂正している場合があります。)

冒頭5月28日付け分だけは、先に「ミステリ、ロック、そしてゲームは…」に掲載したものとほぼ重複します。日付後の小タイトルは転載時につけたものです。

6月までにはできていたドキュメントを今までホームページに公表するのを差し控えてきたのは、インターネットを利用していると見られた犯人が新たな犯行に向かうなど、この時点では刺激を与えかねない危険性が十分にあったためです。

もちろん現在でも逮捕されたのが未成年であること、未だ裁判〔少年審判〕すら開かれていないなど容疑者の人権侵害の怖れがあることにも配慮しながら、それを侵さないと考えられる範囲においてこのぺージをネット上に公開するものです。(1997/7/2)

‘Artemis Sampler’では'97年6月の発生当時から、神戸連続児童殺傷事件を取り上げ追跡してきましたが、今回「文芸春秋」3月号に掲載された‘容疑者少年への検察官調書’につきましては、その流出経路に問題があり今後刑事的責任追及の及ぶ怖れがあること、情報公開の価値に比して被害者家族に対しての配慮に著しく欠ける点が残る等の事情を考慮し、新たな展開のない限り事件の「資料」としてはネット上で取り上げる予定のないことをお断りします。参考リンクメディア・ウオッチング / 同志社大学 渡辺武達 より詳しくはメディア報道による人権被害を扱う浅野健一ゼミ(1998/2/13)

 

 

ちまたのコラム 98/5/30

一周年を迎えてのご挨拶、そして神戸事件

‘Artemis Sampler’をWWW上に開設してちょうど一年が経とうとしています。時事に応じたファイルの更新、新作のアップ、関連リンクの作成などをPCに向かい夢中でやっているうちに、ここまで来たかという感じです。

テキストだらけの地味で堅すぎるかもしれない〔もしくは破天荒の〕内容にもかかわらず、インターネットに接続したばかりの初心者が全くのゼロから始めたHPがアクセスは一応4000人を突破し、リンク数は1000件を越えました。追加ファイル数も増加し、'98年からはこの「ちまたのコラム」を開始、全HP容量も3MBを越えてますます充実してきております。

一年前といいますと、私が「神戸小学生惨殺事件を追う 」をローカルで書き出したのが発生と同時の'97年5月28日、WWW上に公開したのは容疑者少年が逮捕された7月になってからのことでした。一連のオウム事件に次ぎ安全神話の日本社会が崩れ混迷の極にという時期と重なるようにして、日本社会の危機をテーマとする‘Artemis Sampler’はスタートしたのです。

‘Artemis Sampler’一周年にあたり、偶然とはいえ、つい先日、被害者の父による手記が公表されましたので、この事件を扱っているサイトの一つの義務として、ここにVisitorの皆さんにも記憶に止めてもらいたくその全文を掲載し、以後できる限り適当な箇所に資料として保存することと致します。

asahi.com98/5/24 神戸事件から1年、被害者の父が手記を公表 「悲嘆にくれる者出ないよう、この国が変わること願う」 

 神戸市須磨区のニュータウンで小学6年の男児(当時11)が、少年(15)=現在、関東医療少年院に収容=に殺害されて、24日で丸1年となる。男児の父(42)は一周忌に合わせ、消えることのない悲しみや、少年犯罪の被害者の立場について、現在の心境を記した手記を弁護士を通じて公表した。手記の全文は次の通り。(文中の『淳』は男児の名前)

      ◇            ◇

 『淳』が亡くなってからはや1年という時間が過ぎてしまいました。1997年5月24日という日を、私達(たち)は一生忘れることができないと思います。

 あの日、午後1時40分頃(ごろ)、『淳』は、「お爺(じい)ちゃんとこ行ってくる。」の言葉を残して、私達家族の前から永遠に姿を消してしまいました。

 1年が過ぎたこの時点で、私達家族の生活は一見はかなり落ち着いてきたように見えるかと思います。しかし、実際にはあまり変わったとはいえない状態です。

 当初は時間が過ぎれば、少しは良くなってくると思っていました。しかし、『淳』をあのような状況で失ったことに対して、私達家族の悲しみは治まるどころか、増大してきています。

 少年法の基本的な精神には私も賛同しています。非行を犯した少年の保護、更生を考えることは重要なことだと思います。しかしながら、被害者が存在するような非行、特に傷害、傷害致死や殺人などの重大な非行と、他の軽微な非行とを同列に扱うことは許されることではないと思います。非行少年に人権がある以上に、被害者には守られるべき人権があると思います。

 憲法では、裁判は公開が原則です。被害者のいないような非行の場合は、状況も加味して非公開でも良いと思いますが、当然のことながら被害者の存在するような非行の場合は、少なくとも被害者側には公開すべきだと思いますし、被害者側は知る権利があると思います。

 少年も一つの人格を持っています。人格を持っているということは、成人と同じではないにしても、自分の行動に対しても社会的に責任を持たなくてはいけないということです。成人の犯罪の場合よりは軽減されるにしても、非行の重大さに応じた罰や保護処分があって当然だと思います。非行少年を、甘やかすことと保護とは同義語ではないと思います。

 あの忌まわしい事件が起きてから、1年が経(た)ちました。私達にとりましてはあっと言う間に過ぎてしまったように思います。季節が変わり、周囲が華やいだ雰囲気になっても、私達のこの深い悲しみは一生消えることは有り得ません。

 この悲惨な事件を教訓にして、私達のように悲嘆にくれる者が出なくなるように、この国が変わっていくよう心より願いたいと思います。

 平成10年5月24日

***

この手記について、artemisがHostとして何か付け加えるとすれば、神戸小学生惨殺事件を追う中の〔7/25家庭裁判所送致と少年法改正の高まり〕 でも既に述べましたが、簡潔に要約すれば次の4点です。

@加害容疑者の人権は、被害者の侵害された人権との取引によって増減されるべき性質のものではない各人所与にして不可分独立のものであることを認めなければならない。

近代社会に住む我々は、武器を腰につけて持ち歩くこと、報復による暴力と私刑の正当化を放棄し、法の裁きに従うことに同意した以上、

道案内の途中、頭部を突然殴られ死亡した今回の少女山下彩花のように、見知らぬ人を信じることを教えた自分の教育に間違ってはいなかったとそのことを手記に書いた母親のように、我々が頼るところは相手に対する糸のようにか細い「市民相互信頼」しか有り得ぬのである。

A如何に残虐行為とはいえ、責任能力のない未成年容疑者を、特に、報復論理的に成人と同レベルで罰することは、その社会的意味は存在せず、少年法の教育的理念及び司法判断過誤による冤罪の可能性を積極的に認め、極刑廃止へと移行しつつある21世紀法思想に逆行する。

特に、今回のような一つの事件の影響により、その法の依って立つ精神、思想の根本が直ちにぐらつくようではそれは既に法ではない。

少年を保護するという法思想が、もともと現在のような凶悪犯罪が多分起らないだろうことを当てにして作られたのだから、ぞの虫のよい前提がちょっとでも崩れると、忽ち言動撤回、保護条項はなかったことにし、かねてからの報復思想に逆戻りするというのでは、立法側に保護という概念が始めから存在していなかった事実を露呈したも同然である。凶悪犯罪でも何でも、いかなる場合であれ容疑者を保護する覚悟があってこその「少年保護」ではないか。

カルト集団による宗教・信仰の自由の行使でもそうだが、日本の法に明記保証されている人権、自由とは、いざその近代的権利が現実に行使されるという事態になると、いやそれは考えていない、待ってくれと撤回され可能性に止まる紙上のお飾りで、実際には使えない、使われたら困る「建て前」人権なのである。

B司法によってではなく、むしろそのバックにある宗教文化福祉地域社会によって保護昇華されなければならない被害者家族の人権については、日本人の大多数は、それを全く受けられない悲惨な現在のアノミー状態を、戦後の怠慢か、無能によって無宗教で鳴る生活を続けてきた自己の選択の結果として甘受しなければならない。日本人は、次のような近代の基礎を為すのに必要な、報復を禁ずる宗教を未だ持ち得ていないからである。

目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイ5.38〜39)

被害者に与えられるべき、対審傍聴制による事件の最低限の真相を知る権利など、司法において改善できる点があるととすれば、現在も動き出している少年審判制度の運用そのものに対してであり、少年法とその思想に対してではない。

C手記の筆者は明示してはいないが、松本サリン事件の河野義行冤罪におけるように、大衆の多数を背に第4の権力を握ったマス・メディアによる被害者及び関係者への人権侵害こそ、これからの司法機密及び守秘義務とリーク取材による「知る権利」「情報漏洩」にかかわる大きな社会問題として取り上げていくべきである。

神戸事件での一連の情報漏洩には革マル派が関与した疑いが持たれており、人権侵害は、非公開なはずの容疑者少年の精神鑑定書内容にまで踏んだことによって抗議されている講談社「週間 現代」6/6号によって今も続けられている。

asahi.com 98/10/16神戸市の連続児童殺傷事件、事実関係認め和解求める
 神戸市須磨区で昨年起きた連続児童殺傷事件で男児(当時11)を殺害された両親が、関東医療少年院に送致された少年(16)とその両親を相手取って約1億円の損害賠償を求めた訴訟で、少年側の代理人は15日、事実関係をすべて認めたうえで、和解を求めることを明らかにした。和解協議の中で少年の両親が原告に謝罪し、賠償金の支払い方法を話し合いたいという。16日に神戸地裁で開かれる第1回口頭弁論で、こうした内容の答弁書を陳述する。

 男児の父親は今年8月に提訴した際、提訴に踏みきった理由について「責任の所在と償いとを明確にし、事件の背景が少しでも明白にできたらと考えた」とのコメントを寄せた。しかし、被告側が事実関係を争わないことで、実質的な審理をしないまま裁判が終結する見通しとなった。

 訴状によると、少年は昨年5月24日、神戸市須磨区の通称「タンク山」で男児の首を絞めて殺害するなどしたとされる。

 少年側代理人の吉井正明弁護士によると、少年には提訴されたことを伝えておらず、両親と数回協議して答弁書をまとめた。両親は「事件の責任は子供と一緒に一生背負う」と話しているという。事件の背景を明らかにしたいという原告側の意向について、吉井弁護士は「和解協議のなかで少年の両親が疑問に答える用意がある」と話している。


 

5月28日 (水) 発生

神戸市の須磨区にある、友が丘中学校正門前で午前6時40分ころ、子供の頭部が置いてあるのが発見された。その日のうちの午後3時に、「竜の山」(通称 「〔給水〕タンク山」)という近くの雑木林の小高いケーブルテレビアンテナ施設のフェンスの中から、頭部のない身体の部分が見つかり、両者が一致することを確認、近くに住む多井畑小学校6年生 土師(はせ)淳の遺体と断定された。

――このフェンスの南京錠がそっくりな別の錠といつのまにか取り替えられていることから、犯人は既存の錠を壊して堂々と入り口から胴体を運び入れたようである。それから予ねて用意の似た錠を懸けたとすれば、明らかに事前に計画を持って行った冷静な犯行といえるだろう。それにしても、急斜面を登るなど、かなり体力がなければ不可能な力仕事である。(後記)――

付近を通った目撃者の聞き込みから、頭部が置かれたのは、朝5時10分から20分のたった10分間の間だったらしい。

この医師の息子は、窒息死して2日経っており、24日土曜日に800mほどしか離れていない祖父の家に遊びに行くといって一人で出かけたきり、行方不明になっていたのだ。その日の夜に首を絞められて殺害されたものと思われる。

ただでさえおぞましい切断頭部の口には、赤い文字で「酒鬼薔薇聖斗」とかつての封書のように縦書きされた10×25cmの紙が挟まれていた。

特殊な畳まれ方をした中には、もう一枚の紙があり「警察の諸君へ」、「私を止めることができるか」、「捕まえてみろ」、「スクールキル」「僕は人を殺すのが愉快だ」などという挑戦的な文面がおどっていた。

――30日、この全文が公表された。次のようなものである。

さあ、ゲームの始まりです。 (ゲームとしての殺人宣言)
警察の諸君、私を止めてみたまえ。 (警察、社会全体に対しての哄笑)
人の死を見たくてしょうがない。 (「娯楽としての殺人」)
僕は殺しが楽しくてしょうがない。
(短い間に「私」と「僕」という一人称呼称の混乱がある)
積年の大怨に流血の裁きを。 (「積年」は中年を思わせる言葉であり、「大怨」は若者造語臭い)
SHOOL KILL (綴り字に明らかな間違いがある。学校に対する強い執着)
学校 殺死の酒鬼薔薇 (「殺死」という造語がある;酒鬼薔薇はどうやら「サカキバラ」の当て字署名のつもり)

―――(以上後記、かっこ内引用者)

この降ってわいたような猟奇的事件に付近の住民はつい2月前に起こった通り魔事件を思い出しぞっとした。3月16日に、「竜の山」の目と鼻の先にある「竜ガ台団地」で、竜ガ台小の3、4年女児二人が週末に襲われ、うち一人が死亡していたのである。同様な未遂事件も起こっていた。これらすべての事件が、およそ1km四方の狭い範囲で起きていたのだ。

一見するところ意味不明な「酒鬼薔薇聖斗」という漢字の羅列には、「さかきばら せいと」と読める手紙の差し出し人の署名なのではないか、あるいは「サッキ、セイト、バラ(した)」のアナグラムの暴走族風漢字による当て字とする意見が出ている。誰でもが宮崎 勤の出した「今田 勇子」名義の告白文を考えているようだが、私にはマザー・グースの歌にのって全く無意味な連続劇場犯罪殺人が展開する「僧正殺人事件」が、その風土に合わせて残虐屏風絵、横溝正史風劇画コミック的になり、ほぼ70年後の日本オタク的大衆社会に現われた醜悪な姿のように思われる。

――あるいはミステリファンなら誰でも知っている、あの死体消失トリックがあるJ・Dカーの短編、もしくはJ・コリアの「クリスマスには帰る」を思い出すべきかも知れない。変装、入れ変わりトリックの代名詞として双子や役者が使われたように、古典ミステリでは、医師(外科医)は、ある重要な意味を背負わされて登場するからである。この事件はアメリカの新聞にもかなり大きく報道されたというが、ジョン・ベネット殺人事件をはるかに凌ぐ凶悪な犯罪が、オウムサリン事件に続きまたひとつ「安全平和な平成日本」で起こった事になる。被害対象が子供とか猫のような弱者に向けられることについては私は、「黄色いなめくじ」を代表として(それ自身子供である両親〔アダルト・チルドレン〕による)幼児虐待を好んで取り上げたレジー・フォーチュンの生みの親H・Cベイリーを思い出す。

(後記)――

〈地上は、すべての良心にとって、子供っぽいとともに手に汗を握る滑稽であるとともに怖るべき神秘劇」が演じられている「殿堂」である。〉というコンラッドからの引用に始まる「僧正」では、誘拐監禁された「かわいいマフェット嬢ちゃん」がもう少しで惨殺されるところで救われ大団円を迎える事になっているからである。

「死骸を道化芝居の道具立てに使うような冷酷な道化師にも見物人はなくてはならん。そこに、このいまわしい犯罪のひとつの弱点がある。」とヴァンスがいうのはその通りなのである。

後、26日以降につけられたと思しき血痕が、血液型(O)の一致する被害者の姿が生前確認された地下鉄妙法寺駅前から自宅付近まで転々と路上に残されていることが発見され、犯人の大胆不敵な犯行後の撹乱工作かと一時騒然となったが、当日そこでバイク事故にあった青年の帰宅途中に傷口から滴ったものだったらしいと判明した。

また、事件数日前右足を切断された猫の惨殺体が同じ中学正門前に置かれていたことも分かり、通り魔事件よりはこうした小動物虐待、あるいは器物破損のような小さい事件のほうが今回の犯人との関連性が極めて高い前兆を示すものとして注目されている。この近辺では「聖斗」「鬼」などという落書きが数ヶ月前から見られていたともいう。(後記)


6月2日 (月) 推理

神戸の小学生惨殺事件は警察から、遺体頭部の口にくわえさせられていた文面の今まで隠されていた部分――これで全文かはわからないが――が公開され、新たな手がかりが出てきた。以下に、もう一度引用する。原文は横書きのようである。赤字が訂正も含めて新しい部分である。指紋が採取されにくいワープロ用感熱紙が使われていたという。

さあ、ゲームの始まりです。 (ゲームとしての殺人宣言)
愚鈍な警察の諸君、

僕を止めてみたまえ。

(警察、社会全体に対しての嘲笑、

「私」から「僕」へ訂正)

僕は殺しが愉快でたまらない。 (短い間に「私」と「僕」という一人称呼称の混乱がある――これは発表時の誤りか?)
人の死が見たくてしょうがない。 (「娯楽としての殺人」)
汚い野菜共に死の制裁を。 (自分の憎悪対象を「野菜」と表現する隠喩の出所は不明。一説では最近の米ミステリ。)
積年の大怨に流血の裁きを。 (「積年」は中年を思わせる言葉であり、「大怨」は若者造語臭い)
(*)SHOOLL KILL (綴り字に明らかな間違いがある。学校に対する強い執着)
学校 殺死の酒鬼薔薇 (「殺死」という造語がある;酒鬼薔薇はどうやら「サカキバラ」の当て字署名のつもり)

(*)部分には卍、太陽、風車、ウロボロスシンボルの一種とも思えるマークが挿入されていた。次のようなものだ (割愛した)。一応、遺体の胴体部分が見つかった「竜の山(タンク山)」とそこにあるケーブルテレビ・アンテナを暗示するととれなくも無い。

このあたり、詳細は実物を作者がフリーハンドコピーして論ずる犯罪文章学「酒鬼薔薇聖斗の挑戦状」ご覧ください。ゾディアック事件にも触れています。(後記)

これらの歴史的意味については大和岩雄「十字架と渦巻き」(図10、特に第5章「十字架とまんじと円」)に詳しい。表紙にもなっているエジプトのキリスト教;コプト教のアンクがそれである。一番近そうなのは、アメリカの1966年から70年代にかけて37人殺害したと称して未だに捕まっていない「ゾディアック」事件であるという。‘zodiac’ (占星術の12獣帯)と名乗る犯人の残した警察への挑戦状と、始めの4行ほどが酷似しているということからして、一部ではブームになっている、カルトやオカルト、秘密結社、黒魔術がらみの比較的最近の残虐殺人事件実話ドキュメンタリ本あたりが出所らしい。(「未解決殺人事件」同朋舎出版刊)あるいは「少年ジャンプ」に連載されていた漫画の「馬羅門の家族」とかに、例の「積年の大怨に流血の裁きを」の中に、「流血」を「灼熱の」に換えれば一致する台詞が見られるとも言う。オウムのカルマはもちろん死後霊界の存在、輪廻転生、臨死体験、死体そのものへの関心が高まり、脳死判定の適用、さらに子供たちの自殺ごっこ――中には本当に自殺するものも出ている――や完全自殺マニュアルが人気を呼ぶ時代なのである。

文章の構成上からいうとおよそ2行ずつ全8行4連の対句的表現になっており、特に本体をなす2、3連は「たまらない。/しょうがない。」、「制裁を。/裁きを。」と意識的に脚韻を踏むかのようである。ゲーム宣言挨拶の1連に始まり、本体の犯行声明2連、最後の署名の1連としっかりしているのを見ても、この種の漢詩風形式にかなり手慣れた者が書いた匂いがする。

また‘SHOOLL’を‘surrealism’の「シュール」と読ませるのはかなりの無理がある。

それにしても、これくらいの内容で日本の(「愚鈍な」と言われた)警察は何故すぐに全文公開しないで隠してしまうのか。犯人に知られたくない「捜査上の秘密」はともかくとして、それ以外でも密着取材する各社ジャーナリストからちびちびとleak(漏洩)するから返って報道がばらつき、地元始め社会不安を煽るだけなのではないか。

被害者の胃には12時頃食べた昼食(カレーライス)の大半が消化されず残っていた事から、これまでの午後遅くまであった目撃証言とは異なり、自宅を出た1時半頃直後の2時から2時半(北須磨公園でおそらく最後の目撃)の間位までの比較的早い時間に殺害されたのではないか、と言われてきている。祖父宅ヘ向かう繁華な一本道の途中に、タンク山へと通ずる脇道が延びているのである。

1km四方の極めて狭い範囲で行われた今回の事件の現場付近の地図を参考に挙げる。

(500KBもあり動作が鈍いので残念ながらアップロードは割愛しました)



どうやらケーブルテレビ施設の45o南京錠(2500番といわれる型)を取り替えた工作が犯人の命取りになるかもしれない。この施設の複数の錠が、公共施設では良くある、一つの鍵で開けられる「同一キー」になっていたのを、犯人は利用しようと計画していた可能性がある。

事件前に、同形の錠を指名して購入しようとしていた30がらみのスクーター(?)に乗った男が三つの金物錠前店で確認されているのだ。(しかし、45oのは店に無く客は帰り、替わりについていたのは30oのものだった)事件発覚後、車止めのある「タンク山」へ登り口でスクーターに乗った男が脱輪していたのが、複数の学生によって目撃されている。――しかし、これは近くの男性が名乗りをあげ、事件とは無関係なようだと分かった。(後記)

行方不明事件として自治会の捜索当初では、ケーブルテレビ施設内には断じて死体の様なものは置いてなかったという町内捜索者の証言もあり、後日胴体だけをここに運び込んだ疑いもある。25日の捜索時に動員された警察犬が何らかの臭いを嗅ぎ付けて施設のフェンスの直前までたどり着いてはいたのである。しかしまさか行方不明の小学生が、これ見よがしに鍵のかかっている2m高いフェンスを飛び越えて侵入するとは思われず、内部は捜索終いになっていたという。

胴体部分は、高床施設のわずか50cm下の地面を長径70cm、深さ35cmに掘った楕円形の穴に目立たないよう土をかぶせず入れてあったが血痕はあまり見られなかった。当時はフェンスと自生の高い植え込みに遮られ、外部から一見しただけではほとんどわからない状況だったと思われる。穴を掘るのに使用したのでは、という園芸用小型シャベルも40m下の雑木林の中から見つかった。

頭部は、始めに鋭利なメスのような刃物で肉を切って置いてから、露出した頚骨を手引き鋸で切断されたもののようである。これをもって直ちに外科医だとは言えないが、一応の「医学的知識」のある者の手際の良い犯行と見て良いだろう。あるいは猫の右足切断はその生体切断の知識を試みるための予行演習だった可能性もある。

上掲地図では切れているがこの近辺は、「神戸病院」、「日赤病院」、「神大医療技術短大」という医療機関を結ぶ三角地帯にほぼ重なっているのである。特に「神大医療技術短大」は切断されていた頭部が置かれていた友が丘中学の直ぐそばである。

この頭部にはタンク山にしか生えていない笹の葉が付着していたというから、祖父の家に向かうところだった被害者を何らかの口実でここまで誘い入れ、窒息死させた遺体をこの山で直ちに、あるいは目立たないところに隠しておいて、夜か数日後血液があまり出ない状態になるのを待って切断したとも考えられる。そうすると、胴体と頭部は一旦、山から降ろされ、どこかに保管、頭部を中学校正門に置いてから、犯人はもう一度、胴体をフェンス内に置きに戻ったということになるのだ!被害者が殺害されたと思われる24日の午後7時頃、タンク山への登り口で、不審な黒いRV車が駐車しているのが目撃されている。

その素早い工作のためにあのダミー錠が必要となってくる。この錠の鍵穴には被害者と同型の血痕あるいは複数の大人の毛髪がついていたという。頭部と胴体は腐敗の程度の違いから別々に保管されていたのではないかと考えられている。

友が丘中学校の北通用門で、頭部が置かれていた当日早朝5時10分頃ゴミ集収日でもないのに、神戸市では通常使わない黒いゴミ袋をもってしゃがんでいた男が目撃されている。門塀の上、その直下、門扉の下の路上の3ヶ所についた血痕は、頭部は一度正門の上に、置こうと試みられたが(5:20)、安定が悪かったのか下に落ちてしまい(5:30)、そこで止む無く鉄の門扉に立てかけるようにして路面に放置した(6:30〜40)ために付着したかのようである。この3ヶ所にはそれぞれ括弧内時刻に目撃者がいるのである。

そうすると犯人は、最低3回は危険を冒して現場に現われ、そのつど頭部の位置を変更したことになり、その間、近くから、置かれた位置が変わった頭部にその場を通りかかった目撃者がどう反応するのかを逐一注視していた疑いが出てくる。頭部の口にあの挑戦的な文書をそのつどくわえさせることもしたのだろうか。――5月23日の早朝、5時10分頃に、正門前の道路の高い石垣をよじ登る男が目撃されている。その草むらに隠れて正門の様子がはっきり窺える格好の位置だ。(後記)

2m近い門塀の高さから犯人は最低170cm以上の身長があると推測され、もし急斜面のあるタンク山のけもの道を、ひょっとすると意識はなくとも未だ生きていたかもしれない42〜3kgはある被害者の身体を背負って(遺体の履いていた靴からは現場付近の土は採取されなかったので)運んだとすれば、――単独犯だとして、ある程度屈強な体格の持ち主とも推測される。――しかしこの被害者の泥の件は、後日捜査本部が公式に否定した。つまり、被害者の靴にはやはり現場の土が付着していたらしい。とすれば、犯人がフェンスまで生きた被害者を何らかの口実で誘った可能性が高い。(後記)

ここで気にかかるのが、このほんの少し前5月4日に奈良市近郊の北東部県境にある月ヶ瀬村で起こった女子中学生行方不明事件との関連である。下校途中の寂しい山間路でおそらく4輪駆動車(あるいは軽トラック?)に当てられ、誘拐暴行されたと見られる被害者 浦久保充代(うらくぼ みつよ)については目撃証言も無く未だ殺されたのどうかすら不明ではあるとはいえ、神戸市須磨区と月ヶ瀬村とは直線距離では80km程しか離れていない。仮にこれらの中間にある大阪が本拠地だとすればどちらも日帰り行楽圏内である。

オウム犯罪や宮崎勤事件でも、車を利用するものにとっては100km範囲は目と鼻の先であるのが常識になっている時代に、FBIのあるアメリカと違って縦割り管轄縄張り意識に縛られた日本の警察は、広域捜査ができず、きりきり舞いさせられたのではないか。どちらも子供が、営利誘拐ではない変質的犯罪の被害者なのである。

こういう事件が起こるとすぐに警察は、捜査の常道として土地勘のある無しとか現場近辺の不審者、前科者、変質者の洗い出し、絞り込みに拘るが、全く関係の無い地域から、北海道の私ですら引用したカーナビ地図付きの車で犯行現場に迷うことなく乗り込んで、再び最短路で逃走することは少し頭が回ればいとも簡単に出来るのである。何度かドライブに来た事があるだけでも土地勘などは詳細な(どこでも売っている国土地理院1/25000やドライブマップ)地図さえあれば十分だし、事前に数回下見、予行演習でもしていればなおさらである。日本警察の現場主義は、大半の知能犯にとって、交通の未発達な、土地に拘束された旧時代のアナクロニズム的存在と化している以上ある程度嘲笑されても仕方ないところがある。単独犯でさえこうである。

これがオウムのような、あるいは例えば各地に散在する暴走族ヤンキーくずれが手を組んだカルト暴力的広域組織、大都市大阪あたりから遊び半分、ナンパ半分に週末になると夜から車を走らせ地方に乗り込むのを習慣にしている小人数ストリートチーマー犯罪だったら警察はどう対処するのか。

愚鈍な警察の諸君、僕を止めてみたまえ。」

これは最近既にある重要な犯行を行ったのにもかかわらず、尻尾すら捕まらなかったのに味をしめた犯罪者が思わず漏らした悦楽の台詞なのではないか。


6月6日 (金) 動機の分析

おとといの4日昼頃、神戸新聞社に「酒鬼薔薇 聖斗」を名乗る者から一通の茶封筒が届けられた。中には、この間の事件に似た、古風な果たし状のような三つ折の厚紙があり、そこに集計用紙2枚に渡って1300字に及ぶ犯行告白とも、新たな犯行を予告する挑戦状とも取れる文面及び別紙で前の犯行文の全文と称するものが入っていた。

赤いボールペンの様なもので書かれた文字は、以前と同じく筆跡をわからなくするため定規を当てたように角張っっており、果たし状の表書きには、わざわざ「酒鬼薔薇 聖斗」に「さかきばら せいと」と読みがなが、例の一般には意味不明なシンボルと共に付けられていた。裏面には、やはり「ボクの名はサカキバラ セイト」とこだわりを見せ、「夜空を見るたび思い出すがいい」とまで印されていた。指紋はやはり採取されなかったらしい。

封筒は赤いビニール製本テープ(一説には工事用テープ)で封をするという、変わったやり方だが、一方赤い文字、薔薇、血、殺人と「赤」に固執するある意味で紋切り型のイメージも感じられる。

100円切手を貼り返送されないようにした封筒の消印は、差出人の撥水スプレー工作によるものか、「6月3日、18時―24時」以外スタンプ跡がはじかれほとんど残っていない状態であったが、その中からかろうじて判別できる文字を手がかりに恐らく、「神戸中央郵便局」管内の127ある郵便ポストに投函されたものではないかと考えられた。――「神戸西郵便局」と後に訂正(後記)。角張った文字といい指紋といい、この消印の件といい犯人の細心の注意ぶりが窺える。

また投函された6月3日の火曜日は、頭部がおかれた5月27日からちょうど一週間経っており、犯人にとって何らかの意図があるのではないか、あるいは特に「火曜日」というのがゲーム行動の日にちと決まっているのかとも思われる。

便乗犯による悪戯の可能性も捨て切れないまま神戸新聞社は半信半疑でこれを警察に届け出たが、別紙に述べられている最初の犯行声明(の自称犯人による訂正)に犯人以外には知り得ない未公開の部分が含まれていた事から、警察は同一犯のものと断定するに至り今日6日の早朝に一般に公開したのである。

もし、これが同一犯のものだとすれば、一番の特徴は警察発表ではこれまで始めは「私」「僕」ともなって混乱していた自称の用例が実はカタカナの「ボク」であったということだ。犯人は「酒鬼薔薇」のマスコミによる読み違いを、いたく気にかけ、犯行予告のだしにしているほどだが、むしろ警察によるこうした公表して何等差し支えないと思われる事実の捻じ曲げには犯人でない私ですら立腹を感ずる。

後は、始めの声明文で「人の死が見たくてしょうがない」が「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だったり数々の憶測を呼んだ「SHOOLL KILL」が実は「SHOOLL KILLER」だったという重要な変更箇所がある位であり、当初言われていたようなこれ以外の公開時に削除された文面は無いらしい。

以下に神戸新聞社に来たその新しい声明文を全文掲載する。ボールド、赤字部分は引用者による強調である。


     

 神戸新聞社へ

 この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた

 人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう

 やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

 だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない

 そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

 しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

 最後に一言

 この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

 ―ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている―

 P・S 頭部の口に銜えさせた手紙の文字が、雨かなにかで滲んで読み取りにくかったようなのでそれと全く同じ内容の手紙も一緒に送る事にしました。


この手紙の中心をなすのは何と言っても犯人自身による犯行の動機分析である。後は「最後に一言」に始まる警察の現状捜査、対応への不満と挑戦、最後にP・Sと取ってつけた、最初の犯行文のコピーは、単にこれが同一犯と認定されずに終わりはしないかとの疑念と自己顕示欲とのじれったい矛盾からのものと考えられる。それまでの冷静な「である」体が最後になって急に警察に対し丁寧口調になり「一週間に三つの野菜を壊します。」、「手紙も一緒に送る事にしました。」と乱れているのも気になる。「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」というのは、人を殺害した後に、さらにその遺体を傷つけることを儒教のほうでそう言うらしい。

肝心の動機であるが、こういう場合先ず最初は文面通り全面的に受け取り分析を進め、いたずらに犯人の偽装工作だと決めてかからないようにすることが解読作業の前提である。矛盾点があれば、その時点で疑いを持ちさらに追求していけば良いのである。

そうするとここに述べられているのは先ず第一に、日本の社会が自分のかけがえの無い存在を無視したことへの極めて強い復讐心である。それが「酒鬼薔薇 聖斗」を「本命」と自称する名前を誤読され、国籍も無く、特に義務教育によって「透明な存在」にされてしまった「積年の大怨」を形成した今の――へたをすると犯行後でも警察やマスコミにすらその存在を「もみ消され」かねない――「ボク」なのだと言っているようである。

「国籍がない」というのは一般に、単なる自己の存在の不安定さを示す象徴的なものだと思われているが、「神戸」という外国人の出入りが多い港湾都市柄を考えると、あながち、それだけとも受け取れない。

本命」は「本名」の間違いとも見られるが、もしこれがワープロで下打ちされたものだとすると、「ほんみょう」と打って「本命」が出てくることは――少なくとも私の使っているPC用のMS-IME95では――ない。「ほんめい」と打たなくてはならない。読み方まで誤読していないとすれば意図的にこの文字を使用した事になる。「報道人」も「ほうどうじん」では「報道陣」と正しく変換される。但し「銜えさせた」とか「滲んで」はそのまま「くわえさせた」「にじんで」の素直な変換によるものと思われる。

しかしこの復讐心は仮想的な友人の助言も借り「だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない」の一行で、「趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人」から「復讐をゲームとして楽しみ」、「趣味を殺人から復讐へと変えて」いけばいいと転換する。

つまり「復讐」→「殺人趣味」→「当初の動機である社会への復讐と本人の趣味、自然の性を兼ねたゲーム」へと発展した動機が犯人の中で一種の昇華作用を経て、かつての古典推理小説にある「殺人芸術」(R・チャンドラー)の様相にまで到達したかのようなプロセスがここで彼自身の口から語られていると思われる。まさしく後は「その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。」のである。

明らかに、先の世界大戦で亡んだフィクションと芸術としての推理小説は、現実と夢との境界が定かではない現代のオタクカルト的青少年の手によって、命を懸けた現実のゲーム犯罪に取って代わられたと言えよう。核爆弾を使用する国家組織間世界大戦が、あるいは公害、構造腐敗、組織犯罪、国家犯罪がフィクションとしての推理小説(個人の犯罪!)の限界を軽々と越えてしまったように、残念ながら、あらん限りに知恵を絞って書かれたどんな優れた現在の推理小説よりも、この犯罪を報道するニュースやワイド・ショーで送られる毎日の一時間、30分のほうがスリリングであり、リアルタイムにおける犯人との対決や謎解きの面白さがあるのである。

犯人がマスコミ報道を前提とした犯行を計画時点から持っていたことは、この再度にわたる「殺人ゲーム」宣言からも明確だろう。この事実に今更のように驚いていた某TV関係者は、現代のジャーナリストとしての資格が疑われるといわなくてはならない。現代の犯罪は否応無しに、血が流れ首が転がる生々しい現実であると同時にこうしたマスコミに現場報道された瞬間、茶の間でくつろいで見る視聴者にとっては否応無くショーアップされた一種の小説のようなフィクション、現実とはかけ離れたゲームのような劇場犯罪と化してしまうのだ。

現実に生じた信じれない事件や進んだ事態について人は未だに「まるで夢のようだ」「SF(サインス・フィクション)のようだ」というではないか。夢やフィクションを創造する能力の無い者は、日頃から現実をフィクションと分離することが出来なくなって夢と現実が未分になっており、フィクションの極限をめざすSF的シュミレーション思考を常々馬鹿にして憚らない。

しかし、その様な態度では、新しい事態が現実と化した時の心的準備がなにも為されず無防備なままになっている。だからいざ彼等にとって信じがたい事件が起ると、フィクションあるいは可能性が現実化したのではなく逆に現実をフィクションと見なすことによってしかその心的ショックを軽減しようとするほかはないである。

「しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。」という記述につられてこれが犯人の本音であり、それ以前の「復讐」動機を単なる殺人の合理化とみて片づける傾向があるが、それほど単純なものではないと思う。

声明文でも言う通り単なる「自然の性」「悦楽」からの殺人ゲームだけなら、ことさら「小学生」を狙ったり、頭部を危険を犯してまで「中学校正門」に置いたり、投函場所も含め犯行場所を神戸市須磨区のあの狭い範囲内に限定するまでの必要はほとんどないはずだからである。

「やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。」ここには神戸市須磨区の義務教育関係に狙いを絞った強烈な動機が存在している。彼にとってはどうしても神戸市須磨区の義務教育関係でなければならない「みじめでなく価値ある復讐」という‘SHOOLL KILLER’の強烈な動機が。

「みじめでない」とは恐らく‘zodiac’のように永久に警察司直の手にかかること無く誰の目にも見えない「透明な」姿で高みのゲーム見物を楽しむ、ということであり、「価値ある」とは「酒鬼薔薇 聖斗」の名が、たとえそれを「本命」とする犯人の仮名虚像であっても、永遠に全(世界)のマスコミの画面上と大衆の「空想」心とに焼き付けられるということである。それこそ彼の望むところの「復讐」なのであろう。「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。」この部分は犯行の核心に触れるからだろうか、前半部「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、」に繋がらず文章が珍しく首尾一貫しないで乱れている。

命をかけた」(「本命」?)学校近辺を舞台とした殺人ゲームと、そしてその奥底によどむどす黒い復讐の心…。タンク山と被害者の自宅、祖父宅、小中学校、通り魔事件のあった現場と、事件の舞台が隣接して並んでいる様は、まるで古典的推理小説の冒頭にお決まりでおかれた箱庭のような「絵入り見取り図」ではないか。学校が子供たちの反抗と反乱の場になるという設定は学園紛争はもちろん、「僕らの7日間戦争」などの宗田 理に代表される小説、または「漂流教室」「学校の怪談」のようなホラーでも既に使い古されているものである。犯人にとって‘SHOOLL KILLER’の一節が名前やあの謎めいたマークとともに渾身の存在価値を持つことは疑う余地はないと思われる。

だとすればこの復讐心の根源となっている、過去の神戸における小・中学校を舞台とした犯人にとって癒し難い「積年の大怨」のトラウマを負わせる、例えばタンク山に呼び出しての常習いじめ、教室での集団シカトのような屈辱の日々があったはずであろう。

この近辺の「須磨ニュータウン」はそれまでの山間部を、今から36年前の高度成長期に切り開いて造成された、いわば「箱庭」のような新興住宅地であり、「タンク山」はその一部だけをわざと残しておいたものらしい。(宮崎勤事件の犯行現場となった埼玉県入間市一帯もそのような新興住宅街であった。)つまり学校も20年以上は当地から卒業生を出している可能性がある。そしてどうやら、今でこそ付近の住民は給水タンクより上には登らなくなっているが、20年以上前には、それより上のケーブルTV施設付近はよく子供たちの秘密の隠れ家もしくは格好の遊び場となっていたらしいのである。ケーブルTV施設自体は、今から22年前の昭和50年に建てられたらしい。

特に、被害者の通っていた多井畑小学校、頭部の置かれた友が丘中学校の、もしかすると同一通学区と思われる20年以上遡る義務教育卒業生あるいは教師のなかにそうしたいじめ、シカトした側はとっくに皆忘れ去っている、表沙汰にならなかった事件の関係者がいたのではないのか。そして犯人はその当時の一部関係者にだけ理解可能なある名称、隠語、合い言葉、シンボルマークを交えて書いた声明文が、警察を通じ広くマスコミに流れることを意図することによって、秘密のうちに、今は大人となって平穏な暮しを楽しんでいる彼等だけにそのかすかな記憶を喚起させ、今更のように透明に思われていた自己の存在を誇示し、ぞっとさせたかったのではあるまいか。

「夜空を見るたび思い出すがいい」

(これも10年前に流行った暴走映画「マッド・マックス」からの引用であるとも言われている)

「ボクの名はサカキバラ セイト」

この「セイト」には「聖なる戦い」という表向きの意味の他に、かっては自分も無視された義務教育の「生徒」だったことへの暗示も含まれていると思えるのである。

これはあまりいいたくないことではあるが、「ボク」とは言ってみてもあくまで可能性としてだけならば、殺害された土師 淳の父親の世代に犯人は属しているかもしれないのである。そうすれば、わざわざ小学生の彼に狙いをつけ殺害した理由の一端が見えてくるようである。お前たちは、昔私に同じ様なことをしたのだぞ、自分の子供にされたらどう感じるか大写しにされたTV画面で良く見てみろ、とその親に告知しているのではあるまいか。

あるいは事件が、犯人が6年生のあたりのときに起ったのかもしれない。犯人自身が集団でもう少しでああなりそうなひどい目に合わされたのではないのか、と仮定すると目には目をという犯人の復讐の意図が綺麗に理解されるような気がするのである。


6月10日 (火) ミステリ、ロックとゲームカルト

神戸小学生惨殺事件で新たな情報が出てきた。大阪を中心として今から7、8年前に活動していたアマチュア・デスメタル・ロックバンド‘Killer and Rose’が出したCDにあの声明文と酷似した表現が使われていたことが判明したのである。1000枚程しかプレス販売されなかったこの「鬼薔薇」というCDタイトルそのものが、「オニバラではない」という「酒鬼薔薇 聖斗」を彷彿とさせる他、「ゲームの始まり」「腐った野菜」「大怨」という歌詞が入っているというのだ。Death MetalというのはHeavy Metal(いわゆるヘヴィメタ)を凌ぐ反社会性を売り物にしたアメリカが本場のマニア受けするカルトなバンドジャンルの一種である。つまりここでは「死」と「(オカルト黒魔術秘密結社アンダーグラウンドサブカルチャ風?)カルトロック」が反社会的攻撃性とともに結びついているのだ。ハルマゲドンを売り物にした宗教法人オウムよりある意味では孤立し「アブナイ」自己破壊攻撃性をもつ存在である。

私は既に、この事件の始まる前に「ミステリ、ロック、そしてゲームは20世紀の芸術か」と題するホームページを立ち上げていた。ミステリとゲームは声明文で繋がっていたがこれで、労せずして「ロック」とも繋がったわけである。

そして「大阪」。

明らかに犯人は神戸の須磨区にひどくこだわっているが、須磨区を洗い出し厳戒体制を敷く警察を完全に馬鹿にしている処からいうと、そこにはおそらく現在居住していない。だとすると、この矛盾を埋めるにはかつて須磨地区に居住していた者と考えるのが妥当であろう。

一月位前から頻繁に神戸の現場近辺で目撃されている犯人らしい不審な男、車が、仮に下見や予行準備のためのものだったとすれば、かつて子供時代か何かにこの須磨に住んだことがあるので、ある程度古くからあるタンク山などの住民しか知り得ない土地勘はあるが、青年期にそこを離れたため、不明な住宅地帯をさらに細かく把握する必要が生じそうした周到な下準備をしていたとも考えられるのである。

そこで今回の「大阪」との接点が浮かび上がってくるのである。誰にも知られず週末あるいは火曜日に何度も下見にいくには格好な都市ではないか。車の色が黒かろうと、白かろうと新興住宅地では目立つ色も、大阪のような大都市では他車に紛れてほとんど気にとめる人もいない。そしてわざわざ神戸から声明文を投函することによって警察とマスコミの目を神戸に釘づけにしておけば、兵庫県警管轄のちがいも幸いして捜査は足もとにも及ばず自分は「いままでもそしてこれからも透明な存在」でいられるというわけだ。

6月2日に私は

「神戸市須磨区と月ヶ瀬村とは直線距離では80km程しか離れていない。仮にこれらの中間にある大阪が本拠地だとすればどちらも日帰り行楽圏内である。」

と書いている。家出かも知れないが、6月になってからも同じ神戸で女子中学生が行方不明になって未だ解決していない。

さらにまた、二回目の犯行声明文で下書きに使用されたと思われるワープロの機種が「嘘」という字体の分析特定から大阪のメーカーのものであると分かり――また、その声明文の手書き文字には、平かなの「は」の右中央に不要な点が打ってあったり、「読」「謎」「正」など幾つかに漢字にも極めて特異な間違いの癖がある――、一回目から添えられていた不可思議なシンボルマークの円の部分が主として10年ほど前に関西のゲームメーカーから出回った、「弥七」と言われる風車に似た隠れキャラに酷似している事実も浮かんできた。マニアにしか知られていない、TVの水戸黄門に登場する「風車の弥七」役から採られたキャラに親しんだゲームカルト世代は現在30才以上になっているだろうという。

さらに、極めて興味深い情報が寄せられた。インターネットに公開されている大阪方面プロバイダの経営する掲示板に、「酒」、「鬼」、「薔薇」の赤文字が、黒の背景とした画面一杯に並んだページが載っていたのを、コンピュータスクールの講師が今年2月頃目撃したと6月6日に届け出たのだ。彼によれば、去年の暮れから既に「死ね」、「殺す」のような文字が並んで浮かぶようになっていたという。

このプロバイダでは、ユーザーからのこうした悪質な利用に閉口し、既にこの掲示板を閉鎖しているので、現在このページを見ることは出来なくなっている。しかしプロバイダに残っている記録から、発信者を特定することは難しくないとされ、意外に容疑者がその圏内からあぶり出されてくるのかもしれない。

私は既に、この事件の始まる前に「ミステリ、ロック、ゲームは20世紀の芸術か」と題するホームページを立ち上げていた。もしかすると、犯人が酒鬼薔薇の事件を取り上げたこのページを直に見ているかもしれないのだ。

だが一方では、今までのこの犯行や声明の「コピーキャット」(過去の有名犯罪からの模倣による犯罪)「パッチワーク犯罪」といわれている性格から見て、「酒鬼薔薇」の「本命」だけが、2月頃同じ様に偶然インターネットを見ていた犯人による模倣、引用ではないとは言えないだろう。プロバイダをたどればすぐに足がつくようなへまを、わざわざあの、声明文に細心の注意を払った「透明な」犯人がするとは到底考えられないからである。最初から、故意に他人の創ったものを多方面から集めておいて、それらをこれ見よがしに鼻先にばらまき捜査のミスディレクション、撹乱をねらうという高等にして緻密な殺人ゲームをする意識的「コピーキャット計画」だった可能性も捨て切れない。


さあ、ゲームの始まりです。

愚鈍な警察の諸君、僕を止めてみたまえ


 そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

…………………………………………………………………………………………………

ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。


これらがあながち犯人の「はったり」とはいえない状況にまで、聞き込み、洗い出し、裏付け、消去絞り込み捜査の常道が行き詰まり、もたつきを見せる警察は2週間が経過した今、一貫した論調を持ち余裕さえ見せる犯人に追いつめられているといえるのではないか。

ミステリとロックとゲームカルト、コンピュータ。それに神戸須磨区、大阪という場所。30から40がらみの体格の良い男・・・のおぼろげな陰が浮かび上がってくる。

被害者の遺体の司法解剖所見も公表された。それによると、血液が遺体の背中側に集中して溜まった死斑ができており、死後遺体が仰向けのままそれほど動かされた可能性は少ないと見られる。死斑が出来るには死後10〜15時間かかるというので行方不明になった翌25日の未明以降に被害者頭部の切断が行われたと推測される。

また頭部と、胴体の両方に蟻の噛み傷が発見されていることから、やはり切断はケーブルTV施設内で行われたのではないかと考える見方が有力になってきている。だとすると、被害者の靴にこの辺りの土が付着していない事実から考え合わせ――但しこれは現在、公式に否定されている(後記)。犯人は、例えば窒息状態になった被害者を肩に担いでタンク山の急斜面を登り、フェンス内に穴を掘って目立たなく隠して一旦立ち去り、(夜間になってから?25日午前1時頃にタンク山に登る男が目撃されているともいう)もう一度ナイフと手引き鋸を持って遺体を切断しに訪れたことになる。(これも、25日午前7時頃、タンク山を下山する男が目撃されている。)

そして頭部だけを袋か何かで持ち帰り、数日後中学校の正門に置いたのだ。行方不明自治会捜索時に駆り出された警察犬はその時の遺体の臭いを嗅ぎ付けて、鍵のかかったフェンスのすぐ前まで関係者を導いたのかもしれないのだ。フェンスの錠やかんぬきからは、被害者のものと一致する血痕と作業用手袋(いわゆる軍手?)で擦ったような跡が発見されていたという。犯行声明では極めて注意深かった犯人の行動が、ここでは、かなりずさんな証拠を残しているのは、早朝切断時に山すそのほうで、警察犬を動員した行方不明の自治会捜索が行われている物音を聞きつけ、あわてて下山したためと見られている。

また一時、マスコミから、被害者の首筋に、犯人の絞めた時の指紋が発見されたというスクープが流されたが、公式に否定されている。


6月19日 (木) 社会不安

神戸の小学生惨殺事件が、飛び火したような事件が去る14日の土曜日に起こっていたことがわかった。大阪住之江区の団地階段踊り場で小学1年の男児が、午前10時頃不意に背後から男に首を絞められたというのだ。大声を出したおかげで、男は逃走、大事に至らずにすんだが、真昼間の大胆な手口にもかかわらず、目撃証言はそれ以上出てきていないようだ。

週末白昼、団地、小学生と状況が、神戸の事件と酷似しているのは明らかである。この数日前にも、男子中学生が同じ様に首を絞められる未遂事件が起きているという。もちろん無関係な愉快犯的悪戯ということも十分考えられるものの、もしこれが同一犯だとすると神戸と大阪をつなぐ糸がもう一つ出てきたともいえるのではないか。酒鬼薔薇聖斗 第二の犯行が神戸で起こるとは考えにくい。

また遅すぎた観もあるがやっと県警が、インターネットの大阪プロバイダを当たり始め、残っている記録を入手して調べているらしい。新しい情報では、掲示板に載った「酒、鬼、薔薇」の文字の羅列ページのタイトルは、ご丁寧に、冒頭には麻原彰晃の写真を掲示した「超越神力(パート6)――男の真理教」というオウム真理教の出版物をパロディ風に意識したものだったようだ。これもまた一種のパッチワーク引用だろうか。


6月28日 (土) 衝撃の逮捕

午後7時5分、神戸小学生惨殺事件の容疑者が逮捕された。被害者と知り合いの、地元友が丘中学の14歳になる男子3年生だった。猫や鳩などの地元殺傷事件を洗っていく捜査線上に浮かんできた容疑者を、任意で須磨警察署に呼び出し事情聴取を行っている中で、本人が被害者、土師 淳の殺害、死体切断を認める供述を始め、自宅から切断に使用したナイフ(あるいは声明文の赤いテープ)が出てきた時点で逮捕したようだ。遺体発見以来1ヵ月と1日での早いとも、遅いともいえる逮捕であった。マスコミ報道は、それまで犯行声明を全文公開しないなどかなり慎重な姿勢が目立ったNHK TVが最も速く9時ころからこのニュースを伝え始め、9時半からの兵庫県警捜査一課長の記者会見を生中継した。

私を含めて、「30から40位の不審なブルーバードに乗った中年男」という住民目撃情報に振り回されていた格好のマスコミを後目に、記者会見を避けモンタージュも発表せず、独自の聞き込み調査を密かに行っていた県警のある意味では旧式で地道な捜査が、今回は勝利を収めたということだ。

今回始めて明らかにされた犯行声明文の実物を見て感じたことだが、あるいは、警察はこのたどたどしい筆跡から、犯人は未成年のようだと直感的に目星をつけていたのかもしれない。松本サリン事件で河野義行に無実の罪をきせるところだった前例に懲りて、未成年ということもあり、捜査当初からかなり慎重を期した報道管制を敷いていた可能性がある。

普通なら当然捜査対象とされるはずの学校関係者――特に生首が置かれた友が丘中――からは如何に事件の残忍さから受ける教育現場のショックを考慮したにせよ、何も報道が伝わって来なかったというのも奇異であった。日本の学校は従来から外部社会から何が起こっているのかわからない特異な自閉領域を形成してきたが、いよいよ警察も踏むを怖れる現世の魔界に足を踏み入れたというべきであろう。

一体この友が丘中学校で容疑者とされた3年生の男子生徒に関して、

今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

という痛々しい文章を書かせるまでに至った彼について、学校内で何があったのか、日常どういう教育が行われていたのかまで広く一般に情報を開示しなければならないのである。

私は、犯人がもしこの須磨区現場付近に現在も居住していたなら、とうに逮捕されているはずだ、という前提に立っていた。ケーブルTV施設の掛けかえられていたのと同じ錠前を購入した男の線が、人違いだと分かった時点でこれは長期戦だと誰しも思ったのではなかろうか。地元の大人の変質者、前科者の線ならとっくに割れているはずであった。少年だったから割れなかったのだ。警察は、日頃から煙たいマスコミが、中年男の線に勝手にのめり込んでいくのを放置することによって、そちらの捜査を極秘裏に進めたかったのかもしれない。

残忍な手口の犯人は少年で、その犯行は従来の大人がおこした犯罪(計画)をなぞったコピーであるかのような様相を呈する…。これは正に今から60年以上前に発表されたエラリー・クイーンの名作(作中では13歳の少年)そのものである。大人のように用意周到冷徹な計画性と、それとは奇妙に一致しない明らかな現実無視の無目的非合理性、その裏にめらめらと燃え上がる周囲の大人への復讐心―――これらは、その綴り字のまちがいでも見え隠れした幼稚性とともに、大人へと背伸びした一人の少年に収斂していく。



7月3日 (木) 社会の反応

神戸小学生惨殺事件で容疑者として逮捕された14歳の少年は、どうやら、3月16日に近接した竜ガ台団地で起きた通り魔事件についても犯行を認める供述をし始めているようである。そればかりではない。その一月前に遡る、2月10日に同じ地域で二人の小六女子をいきなり背後から棒のようなもので殴りつけうち一人に10日間入院の傷害を与えた事件についても関与を匂わせているというのだ。

殺人及び死体遺棄容疑が須磨警察署内で未だ取り調べ中である現在、「未成年者」から警察が引き出したこれらの供述にどれだけ信憑性を認めてよいのかそれ自体極めて疑問ではある。

少年の自宅から、通り魔事件を詳しく記述したメモのようなものが押収されたという以外、目撃証言はおろか裏付けられる物証がほとんど出てきていないのだ。これら3件の自供そのものが、かなり前から学校を休んで、おそらくマスコミによって増殖された事件報道の一部始終を家のTVで見ていたこの少年の頭につくりあげられた、犯人との同一視による妄想かも知れないのである。

被害者 河野義行はあれほど自供はもちろん確証がないのに、見込み捜査で一夜にして犯人にさせられてしまったではないか。警察の初動捜査のミスとそれを無批判に垂れ流し続けたマスコミ迎合報道が、まったく見当外れのところにいた宗教組織を自由に泳がすことになり、その後の地下鉄サリンという歴史的大事件を抑止することを結果的に不可能にしたのである。

インターネットに少年やその家族のプライヴァシーを流すなど言語道断である。日本と日本人のどこにその反省が見られるというのか。

気の早いところでは、梶山清六官房長官が、公式会見の場で少年法の改正をほのめかしたりしているのは、まるでこの少年が逮捕拘留された時点で日本政府自らが彼が犯人だと決め付けている様なものである。そんな雑な知性だから、少年の顔写真を掲載した‘FOCUS’(田島一昌編集長)や「週間新潮」(但し、後者は写真の目の部分に墨を入れている)を全国販売(7月2日)してどこが悪いかという新潮社の不遜な態度が出てくるのである。

TV記者会見において田島一昌編集長は、今度のような凶悪事件に対し果たして、少年をどこまでも保護する立場に立つ現行「少年法」は対応しきれるのか、あえてその問題提起のために(法律違反を覚悟の上?)今回の掲載を決めたという趣旨の発言をした。

しかしこれは、法の遵守義務を、世論的な盛り上がりと後押しさえあれば、その都度勝手に判断し、国民の側で破棄しても良いとする極めて安易な態度である。もし、法に現実と照らし合わせ問題点があるというのなら、それこそを言論人は記事にし世論に訴え法の改正を漸近的に図っていくべきで、いきなり法をその場で破る行為にでるべきではない。気に入らない法があれば当事者の独断即決で片端からそれを破っていっていいというのでは、世論によるいじめリンチ行為、暴走族一つ止められないことになろう。

「朕が法である」あるいは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのとどこが違うのか。

発行元の新潮社では、これら2誌の掲載行為はあくまでも、「少年法」には抵触するものではないと判断し世論の非難には「表現の自由」を楯に対抗する構えである。

これに対しては7月4日法務省人権擁護局が少年法61条違反の疑いがあるとして、これらの雑誌に異例の回収勧告を出した。しかし法に明白に違反した疑いがあるというのなら、法務省は裁判所ではない以上、官僚の権威で勧告するより、行政の代表者として正式に告訴して世論に訴えるべきであろう。

一部マスコミで流された「少年法の精神に違反」というのは、法治主義の根本である「明文主義」に反する言い方である。法は言外に盛られた精神、その時々の解釈によって、事情に応じて恣意的に情状拡大運用されるべきではなく、可能な限り当の明文化された限定的客観的な「言語の意味」によって判断されなければならないからである。(後記)

どのみち、各書店、キオスクなどの販売者のほうから何も言わなくとも自粛してこれらの雑誌がほとんど店頭から姿を消したのは、法務省すら感情に訴え(!)、法と論理では動かない日本という法治国家の現実を見せつけたある意味では魔除けマジナイ的不気味な動きであったといえる。

これと五十歩百歩である、友が丘中学校(岩田信義 校長)の教師を吊し上げる構えを見せたり、容疑者の親族をマスコミ裁判の矢面に立たせようとする早急な動きに対してもそうした注意と反省の下に、少年のこの供述を慎重に考える必要がある。宮崎勤被告の父親は、とうに成人していた息子の罵声と世論の親に対する非難、圧力とで板挟みになり自殺に追い込まれたことを忘れてはならない。

その親は、成人した子供の責任までをとる法的社会的義務はないという近代社会の原則がこれほど踏みにじられている日本では、未成年者の犯罪とされる今回のような事件においても、戦後曖昧のまま放置され拡大されてきた父親、母親、子、教育関係の固有な責任分担領域の未分混乱が火が噴いたように一気に表面化するのは当面避けられない事だろう。

少年の良く見ていた、「13日の金曜日」などの(レンタル)ホラービデオなどマスメディアに悪影響の原因を求め、直ちに製作販売側に自己規制を働きかけようとする言動に対してもその「早とちり」の謗りは免れないと思われる。

仮にもしその少年が犯人であったにせよ、第一に責任があるのは、そうした発育上問題のある残虐な映像、凶悪犯罪の知識を少年に浴びるように見せて憚らない、あるいは子供部屋を密室にさせ成績が落ちないかぎりは腫れ物に触るかのように扱い、何をしても気が付かない(ふりをしている)家庭環境であり、特に問題のある未成年に対して、よその子だからと及び腰で何の注意も出来ない周囲の消費地域社会のPTA、自治会、町内会、近隣の大人たちの不甲斐なさではないのか。

未成年者の重大な犯行に対しては、本人の他にその保護者あるいはその居住地域住民が、社会的責任を最低半分は負っていると考えられるからである。

マスメディアを一方的に消費する側が自分の子供に対して、また自分自身に対してすら自己規制危機管理出来ない無能、無責任さを、大量に製作販売する側に転嫁しているのである。販売者は大人でも、消費者は自己責任を持てない「大人の仮面をした子供(アダルトチルドレン)、仮面夫婦、仮面家族、仮面教育者」なのか。

そんな訴えは、特に未成年に対して販売したというのでもない限り製作販売する側の憲法で全ての大人に保証された「表現の自由」の権利によって一蹴させられるに決まっている。(今回の‘FOCUS’騒動は未成年の権利を侵害した疑いがあるから問題となるのである。)

建て前(閑静な新興住宅に住む中産階級)と見かけ(何不自由ない「ふつうの家庭」の演技)だけに頼りきり、産むだけ産んだ子供を「子供」として、一人の社会存在としてかけらも認めようとも育てようともしないこういう家庭環境、地域、教育環境こそ、良くも悪くも親にとっての「いい子」「普通の子」という仮面の下は「透明な存在」と自覚する未成年者を今も着々と大量生産し続けている大本に存する不変の社会構造なのではないのか。

今度の容疑者の少年が、もしあの声明文を書いたとするならば、彼こそ大人の仮面を被った、あるいは共通の秘密を持つ周囲共同体によって被させられた演技者=被害者としての子供、すなわちAC=アダルトチルドレンなのだと思われるのである。

今の社会は子供を育てているのではない。教育」することは完全に失われている。――小杉文相は今度の事件に慌てて,文部官僚に「心の教育を」本気で取り組むよう訓示している。今までは「心の教育を」考えたこともないといっているようなものだ。(後記)――自分の人生を生きてこなかった親の、「早期教育」と称する叶えられなかった欲望満足の手段として、親の気に入る奇形のペット、言うことを素直に聞く不具の人形を大量に生産し、刻一刻と自分の首を絞めているのである。

「みんなで渡」ることによって誰一人取ろうともしない「息苦しい」家庭、地域、学校、社会における「教育の破産」の責任は、親の「早期教育」に見合った、残虐極まる犯罪行為をする子供の側の「低年齢化」によって更新され問われ続けていくであろう。

法と言語による警告を理解する能力がないか、集団で渡ればと無視し続ける者、見て見ぬふりの演技をどこまでも続けて行こうとする者に対しては、「子供たちの復讐」という実力行使が必ずやそこに及ぶであろう。

今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない




以下、@少年本人、A被害者、B家庭、C学校教育、D地域社会職場、Eマスコミ、Fメディア、G警察のそれぞれの要素に分解して、これらが複雑に入り乱れ複合して生じたと思われる犯罪の発生までに至る原因及び直接的な動機と、それを阻止予防できず、むしろ着々と準備してきたとさえ言える戦後の日本社会構造について語っていこう。

さてそうした前置きの上で、もしこれらの少年の供述がすべて真実だとすれば、3つの事件は彼一人の手によって極めて短期間のうちにエスカレートしていったことになる。当初から目撃証言もあると言われていたこの辺り一帯で頻発した猫の惨殺事件はその先駆症状として位置づけられるであろう。

少年に謁見後の弁護団長 野口義国が、始めて記者団に語ったところによれば、あれだけの凶悪な行為を犯したと供述した少年の言動には、一月が経過しているにせよ錯乱、興奮、緊張、非難、暴行など特に目立つ態度はなく、淡々とした、感情の起伏に乏しいそっけない受け答えだったという。

学校に復讐してやる、といった警察発表の供述内容とは正反対の発言も得られたという。これは、宮崎勤被告の言動を思わせる人格崩壊の危機に瀕したアノミー的無感動性なのか、それとも、まったくの見当違いの冤罪拘禁のショックの余りの無反応なのか現時点では推測の範囲を超える。


7月14日 (月) 連続殺傷事件へと発展か

神戸殺人事件の焦点はその後、容疑者の少年の供述に従い、タンク山近くの「向畑ノ池」といわれる蓮の生い茂った池から、物証を探し出すことに移った。

深さ3m程の池の濁りや泥がひどく、ポンプで水を全部くみ上げベルトコンベアを使うなど捜索にはかなり苦労したようだが、その結果、6日には赤い柄のついた刃渡り30cm程の新しい金鋸が、8日には金槌一本が、そして翌9日には供述通りのビニールテープで束ねるようにして撒かれた金槌2本が発見された。そのテープの中から切り出しナイフ一本も出てきた。

7月11日には少年を車に載せたままの実況検分も済ませた兵庫県警側は、供述によれば池に捨てたとされる、ケーブルTV施設用に取り替えた南京錠とその鍵が見つからなかったのは残念だとしながらも、これだけでも十分立件可能として、昨日の13日で捜査が打ち切られた。

8日の金槌は事件との関係は不明とされてはいるが、警察は、6日発見の金鋸は、土師 淳殺人容疑、9日の2本の金槌及びナイフは2月10日少女殴打事件、3月16日の連続通り魔事件容疑のそれぞれの物証となるものと判断しているようである。(頭を金槌のような鈍器で殴打された10歳の少女、山下彩花は死亡、その直後に別の場所で襲われナイフで腹部を刺された少女も重傷を負ったが一命はとりとめた)

――7月15日に兵庫県警は、2月10日の少女殴打事件、3月16日の連続通り魔事件の容疑で、異例なことに新たにこの少年を再逮捕し切れかけている拘置期限を延長した。もしこれらの一連の事件に対する警察の容疑が妥当なものとすれば、以前にも書いたことだが、三つの事件は彼一人の手によって極めて短期間のうちにエスカレートしていったことになる。当初から目撃証言もあると言われていたこの辺り一帯で頻発した猫の惨殺事件はその先駆症状として位置づけられるであろう。そればかりではない。第二の犯行声明文の冒頭右上隅に書かれていた‘9’というナンバーがこれも供述通り彼が手に染めた犠牲者の数であるというのなら、死傷者は、これまでで知られている5人の他に、後4人残っているということを意味する。――猫を数に数えるのでもない限り。(後記)

愚鈍な警察の諸君、僕を止めてみたまえ。」

これは最近既にある重要な犯行を行ったのにもかかわらず、尻尾すら捕まらなかったのに味をしめた犯罪者が思わず漏らした悦楽の台詞なのではないか。

土師 淳殺人容疑に対しては、少年の供述は大半がこれまで推測された犯行状況と大筋でいう限りそれほど大きな食い違いを見せるものではない。しかし2、3の点についてはかなり矛盾した箇所がある。

少年は5月24日の午後2時ころ、多井畑小学校付近で祖父の家に向かう土師 淳に会い、小学生のころから遊び仲間であった彼に「亀を見せてあげる」と話し掛けて通称「チョコレート階段」と言われている登り口からタンク山に誘った。その時少年は自転車に乗っていたが2人で徒歩で向かったという。途中誰にも会わなかった。

土師 淳は下校してから頻繁に近くのペットショップに亀を見に行く程の亀好きだったのを巧く利用したのだ。そしてケーブル施設フェンス付近で中には入らず土師 淳を絞殺、死体はフェンス外側にある窪んだ茂みに隠して下山した。

少年は日頃からこのタンク山を格好の遊び場所としており、フェンスの付近には一種の隠れ家のような「基地」をつくったりしていたが死体をここに隠したのではないらしい。また北須磨公園での被害者目撃証言との食い違いは説明されない。

その後になってフェンスの南京錠や金鋸を用意して25日の早朝家を抜け出しタンク山に再び訪れ、フェンスの錠を壊して侵入、隠し場所から中に運び入れた死体を切断した。しかしすぐその後には地元自治会による、警察犬を動員した山狩が始まっているところから、この隠した死体が発見されないで済んだというのも、不自然な感じが否めない。頭部は袋にいれ自宅に持ち帰り、天井裏に隠していた。

しかしこのまま頭部の無い胴体のほうが先にフェンス内で発見されると、殺人切断した意味がなくなると考え頭部を出来るだけ早くどこかに見せなければならないと思うようになった。

頭部に銜えさせた第一声明文は、徹夜で書いた。例の謎めいたシンボルは、ナチスの鈎十字にそこから流れ出る涙を組み合わせたもので、少年を含む近所の遊び仲間集団のマークとして北須磨公園などによく落書きしていたものであったという。――受験体制によって生産された「知的でナチス的であれば、誠実でない」子供(「子供たちの復讐」本多勝一編p489)から落ちこぼれた涙とも考えられる。

これについても原文は公開されず謎が多い。第二の声明文の大人びた緻密なスタイルとの余りの落差から、立花隆は、容疑者の逮捕前、インターネットのホームページで、自己の経験でも「あれだけの文章を書けるのは大学生にもそういない」と断言し、「犯行声明文を書いたのは実行犯とは別の人物」と複数犯説を提出していた程だ。だいいち、ネットに現れた「酒、鬼、薔薇」の文字の件はどうなったのか?

27日の午前1時から2時ころの真夜中に自転車で友が丘中に出かけ頭部を正門前に置いた。まさか頭部が置かれた中学校の生徒のなかに犯人がいるとは誰も思わないだろう、という少年の思惑に沿ってマスコミが謎の中年男の線を追跡していく展開を見て「計画どうりだ」と思ったという。これら全ての少年の行動について、家族はまったく何も知らず、感知すらしなかったという。

これまでにマスコミに断片的に漏れてきた容疑者少年の供述情報によれば、殺人、遺体切断などの動機には、かなり復讐よりは、快楽=儀式=劇場殺人的要素のほうが強いと思われるものが散見する。

「弱いものをいじめるのが好き」とか「(殺す相手は)誰でも良かった」、(少女通り魔と土師 淳のときとでは犯行の様相がかなり異なっている事については)「いろいろな方法を試してみたかった」とかいう断片、また、遺体の首を切断した動機に関しては「魂を抜き取る儀式」、浴槽でそれを洗ったのは「清めの儀式」とか口走ったと伝えられているのがそれである。







7月21日 (月) 「バモイドオキ神」様

神戸の連続殺傷事件で、3月16日の二少女連続通り魔の犯行メモのようなものが少年の自宅から押収されたと報道されていたが、先週末18日に一部を除き公開されたようだ。

大学ノート4ページに渡って書かれたメモの中には、始めは「クモの巣公園」近くで、手を洗う場所を尋ねるのを装い少女に声を掛け、0時20分頃、案内された途中、金槌で頭を殴り死亡させ、20分後の0時40分には、「竜ガ台公園」付近へ自転車を走らせて逃亡中に、目星をつけた新しい少女を先回りして待ち伏せ、すれ違うようにして今度はナイフで腹部を刺したなど、立件するに当たっての証拠に十分なりそうな犯行当時の詳しい状況がかなり記されている。

しかしこの少年の動機を明らかにする上で、さらに重要な資料となるのがその異様とも思える心理状態である。これら全ての日付入りメモが宛てられた対象が、「愛するバモイドオキ神様」という書き出しに顕れた少年の信仰する独自の神であったからである。

そしてこの二少女殺傷を含む一連の殺傷事件は14歳にしてその神から聖名を戴くための聖なる一種の成人儀式「アングリ」のためであり、「人間の壊れやすさを確かめるための聖なる実験」でもあったというのだ。

以下に公開された部分をasahi.com「朝日新聞7月19日朝刊社会面」から引用掲載する。赤文字、ボールドによる強調は引用者によるものである。


 ◆「犯行メモ」の抜粋

H9・3・16

 愛する「バモイドオキ神」様へ

 今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。その記念としてこの日記をつけることを決めたのです。実験は、公園で一人で遊んでいた女の子に「手を洗う場所はありませんか」と話しかけ、「学校にならありますよ」と答えたので案内してもらうことになりました。2人で歩いているとき、ぼくは用意していた金づちかナイフかどちらで実験をするか迷いました。最終的には金づちでやることを決め、ナイフはこの次に試そうと思ったのです。しばらく歩くと、ぼくは「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」と言いました。そして女の子がこちらを向いた瞬間、金づちを振り下ろしました。2、3回殴ったと思いますが、興奮していてよく覚えていません。そのまま、階段の下に止めておいた自転車で走り出しました。途中、またまた小さな男の子を見つけ、あとを付けましたが、団地の中で見失いました。仕方なく進んでいくと、また女の子が歩いていました。女の子の後ろに自転車を止め、公園を抜けて先回りし、通りすがりに今度はナイフで刺しました。自転車に乗り、家に向かいました。救急車やパトカーのサイレンが鳴り響きとてもうるさかったです。ひどく疲れていたようなので、そのまま夜まで寝ました。聖なる実験」がうまくいったことをバモイドオキ神様に感謝します。

   ◆

 H9・3・17

 愛する「バモイドオキ神」様へ

 朝、新聞を読むと昨日の聖なる実験のことが載っていたので驚きました。2人の女の子は死んでいなかったようです。人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。

   ◆

 H9・3・23

 愛する「バモイドオキ神」様へ

 朝、母が「かわいそうに。通り魔に襲われた女の子が亡くなったみたいよ」と言いました。新聞を読むと、死因は頭部の強打による頭蓋(ずがい)骨の陥没だったそうです。金づちで殴った方は死に、おなかを刺した方は回復しているそうです。人間は壊れやすいのか壊れにくいのか分からなくなりました。容疑も傷害から殺人、殺人未遂に変わりましたが、捕まる気配はありません。目撃された不審人物もぼくとかけ離れています。これというのも、すべてバモイドオキ神様のおかげです。これからもどうかぼくをお守り下さい。

   ◆

 H9・5・8

 愛する「バモイドオキ神」様へ

ぼくはいま14歳です。そろそろ聖名をいただくための聖なる儀式「アングリ」を行う決意をしなくてはなりません。ぼくなりに「アングリ」について考えてみました。「アングリ」を遂行する第一段階として学校を休むことを決めました。いきなり休んでは怪しまれるので、自分なりに筋書きを考えました。その筋書きはこうです。



大方の意見どうり「バモイドオキ神」というのは「バイオモドキ神」――メモに添えてその神を描いたと見られる少年の絵の模写イメージ図も公開されたが、この例の鈎十字マークもついた絵を見る限りでは、生命を生み出す太母モドキの能力もある、一種の生死を司るバイオ科学宇宙仏アンドロギュノス神?;――のアナグラムであろうし、またより端的に「ダイオキシン」という地上最悪の毒物名が後半の「・・ドオキ神」に読み込まれているともいえよう、「アングリ」というのもオウム信者にもいる仏教系の帰依した信者「アングリマーラ」、あるいは英語の‘angry’から取ってきたこれまた一つの造語癖コピーなのかもしれない。(それとも「口あんぐり」の「あんぐり」か?)

しかしながら、この神の指示に従いあの小学生の首を切断してまで校門の上に展示して見せた大見得を切った劇場儀式の成功により、彼が「酒鬼薔薇 聖斗」という「聖名」を「本名」として戴いた、新しい透明でない人格に生れ変ったと感じているならば、一応の犯行の辻褄は合うのである。

オウムが何と言っても現実に宗教法人という公認組織を持ち、それを支える教義出版もしている教祖から各自、仏教系の「ホーリーネーム」を戴いてそれまでの俗名を捨てた出家生活を送っていた、そして教祖に命じられるがままに、救済計画と称してあのような一連の無差別殺人を行うに至ったカルトであるというのとは、段違いではあるにせよ、それとほぼ同じ様な宗教的心理状態をオウムを模倣、反発しながらも多感なこの14歳の少年が純個人的にオタク的に(あるいは一人カルトと言われるように)辿っていた、あるいは未熟ながらも創造し実現しようとしていたことは間違いないと思われる。

逆に一般には無意味、無差別ともいえるオウムの地下鉄サリン事件は、信者自身の教祖へ近づく成人儀式=彼らの言う通りの、現代では失われてしまった極めて深い「イニシエーション」の体験あるいはハルマゲドンの科学上の聖なる実験であったかもしれないのである。もちろんそれが、他者の無差別殺人という形でしか現れ得ないのは、この上なく重大な現代文明の、特に戦後日本の欠陥ではあるが。

私自身がこのメモの報道を聞いて先ず思い出したのは、日本でも比較的知られてきたサキの「スレドニ・ヴァシュタール」という短編小説である。自分を無視した周囲の大人たちへの復讐を、「スレドニ・ヴァシュタール」と名づけた自分の神「イタチ」の偉大なる力によって最期はやり遂げるという話だ。この延長上にJ・コリアの「ビールジーなんているもんか」がある。

ただ私自身かなり強調してきた学校や義務教育への「復讐」という動機は、上に引用した「日記」によると、休んだのも、教師から体罰を受け「学校に来るな」と言われたのではなく、アングリの儀式を疑われずに実行するための「筋書き」で少年の方から学校を自発的に休んだことになり、――少なくとも、この少年の意識の上では――かなり薄れてくる。

少年は、この事件を取り上げたTVワイドショーのビデオを数本撮って保存して見ていたといい、犯行声明文の内容も、「事件が大々的に報道されているのを見てマスコミが喜ぶようなストーリーに声明文を仕上げた」、学校と義務教育への復讐を表す文言も「漫画や本の表現を採り入れて書いただけ」と供述しているところからみて信頼性がかなり薄れ、いよいよ劇場犯罪的要素が強まってきた状況にあることは認めざるをえない。



7月25日 (金) 家庭裁判所送致と少年法改正の高まり

この15日再逮捕されていた神戸小学生連続殺傷事件での容疑者の少年が、拘置期限が切れる逮捕後28日目に当たる今日午後3時過ぎ、須磨警察署から神戸家庭裁判所に送致された。

これだけ世論の関心を呼んでいる事件だと言うのに、兵庫県警側の公式記者会見は、私の知る限りでは逮捕時点に一回開かれたきりに終わり、今回も簡単な犯行動機の説明を公表したのみで、ついに行われなかった。

少年の犯行動機には祖母の死を経験したことが「人間の死に関心を持つ」主なきっかけを与え(宮崎 勤の犯行が祖父の死をきっかけとして始まったのと相似が認められる)それが小動物解剖を楽しみ、殺人実験と遺体切断の欲望を持つに至るまでになったもので、特に家庭、マスメディア、学校などに問題や直接的影響はなかったとしている検察による異例の発表が唯一の公式見解として残った。

これで少年法審理過程非公開の壁に阻まれ、事件の情報が一般には絶たれてしまうことを危惧する声が少年法改正論議とともに非常に高まっている。

つまり、家庭裁判所の審理及び少年への処遇が

1.真相の究明に基づく刑罰の科料を目的としたものでなく、あくまで少年の人権保護、将来の更生を主眼にしたものであること。

2.それに伴ない生じる検察側を欠いた裁判官(家事審判官)一人、少年側立会人一人という、対審構造とはなっていない真相究明体制の甘さ。

3.関係者が、一般、マスコミ、被害者にはもちろん、その被害者親族でさえも傍聴を許されない第三者に対しての非公開密室構造。

4.審判が決まるとそれ以上控訴が不可能で、もっとも重い少年院送致保護処分に決定しても、実情は1〜2年で退所し社会に復帰できてしまい、一般に再犯率が低くはないこと。


など、現代の凶悪化した少年犯罪に対処するには、あまりにも脆弱な欠点があるではないかと法曹関係者は世論をバックにしたマスコミに突き上げられている様子である。


1に対して良くあるのは、「警察、弁護士、マスコミは容疑者少年の人権ばかりを配慮保護というが、わけもなく一方的に殺された被害者側の人権はどうなるんだ」という声である。

しかし、これは一歩間違えば、凶悪事件で容疑者にされた者には、成人、少年に関わらず逮捕された時点から基本的人権は、一部制限されあるいはすべて無くなってもいいのだという、日本国憲法に背馳することに繋がる意見である。

被害者の人権が失われたのと引き換えに、その分加害容疑者の人権が差し引かれるべきだというのは、近代法治主義以前の復讐感情に基く報復私刑思想への退行をむき出しにするものである。

端的に言うならば、被害者は死亡した時点でその人権が消滅することは争われ得ぬ事実である。それに対して我々は法的には何の救援も不可能になる。死んだものを生き返らせることは出来ない。それを救済するのは、政教分離の原則により宗教の機能であって、法律の果すべき公的な機能ではないからである。

もし無宗教であることが日本人一般の選択であるというのなら、死者の魂の救済方法の創造は無宗教であることを選んだ者の社会的責任であり、もし、被害者遺族側が自分の属する宗教によってそれを果そうとしているのであれば、彼ら自身の心に関わる私的な問題であって我々第三者の踏み込んで議論すべき問題ではない。

オウムがあのような無差別殺人を「救済」だとするタントラ・ヴァジラヤーナ教義を持ち出して正当化するような場合には、それに反論対抗する側は、なおさらに死者の魂の救済方法について自らの思索を練り上げて理論武装しておかなければ、普通の死生観ではオウム信者の相手にすらされないであろう。

つまり、我々は、中世世界にでも逆行するというのでもない限り、相手から無差別突発的な暴力によっていつ何時襲われ、殺されても、一切その人権を防御自衛対抗するための武力を持つこと又は正当と認められない暴力で直ちに応戦報復行為をすることは許されていない「手ぶらで丸腰の近代市民社会」に住むことを同意して暮しているのである。

言い換えれば「何の落ち度も、罪もない市民がある日突然」キリストのように犠牲になり「やられ損」「殺され損」になる可能性があることを常々承知覚悟の上でなければ「近代市民社会」の成員となる資格はない。

武器を腰につけて持ち歩くことを放棄した以上、

道案内の途中、頭部を突然殴られ死亡した今回の少女 山下彩花のように、見知らぬ人を信じることを教えた自分の教育に間違ってはいなかったとそのことを手記に書いた母親のように、我々が頼るところは相手に対する糸のようにか細い「市民相互信頼」しか有り得ぬのである。

ハロウィーン射殺事件のときにはアメリカの銃社会の危険性を批判しながら、こうした事件が起こると、突如ヤクザのように道を歩くにも小型刀剣ナイフか銃を持ち歩けとでも言うのか。

その結果は、現在も神戸で繰り広げられている、組と組との合併吸収離散集合、血なまぐさい対立抗争報復に継ぐ報復の果てしなき循環拡大なのではないのか。(日本の政権交代なき、特定政党間内だけでの大政翼賛派閥抗争政治といわれるものは、その親分子分兄弟分ヤクザ抗争の舞台を国会という言論の演技場闘武場に移しただけのものである。)(後記)

これは動物社会に見られる対他集団縄張り抗争、同じ集団内での順位制をめぐっての合併吸収離散集合兄弟分序列抗争であって、理念と思想を持った人間的な政治行動ではない。

日本人は未だ、個人として独立できず、寄らば大樹の陰と、一生どこか何かの組織集団(縄張り、**組、**一家)の一員として、加入寄生渡り歩くことでやっと自己のアイデンティティ=日本的自我である自分(親分、子分にはさまれたヤクザ序列中の己の身)、自己の体面、自己の役を得ているからである。

政治へ伝えられた伝統は、亡国焼け跡のストリートチーマー、モッブ同志の対立抗争に移って行くのである。

この少年が持ち歩いていたという小型ナイフにしたところで、「護身用だ」と言われれば、その自己申告を否定することはできなくなるのである。チーマーたちは既に釘打ちこん棒、メリケン、ナイフなどで武装している。

つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。

少年に対しては特にアメリカの「少年裁判所制度」を参考にしてこの精神が優先された戦後「少年法」が制定(1948)されていると考えなければならないだろう。

それどころか、GHQ主導で起草された新しい日本国憲法は第九条によって、国家自体にその報復に継ぐ報復戦争の殺し合いを避けるため「交戦権」を放棄することまでを理想とし積極的に「無防備」であることを国民全員に課しているとも解釈できるのである。


4.審判が決まるとそれ以上控訴が不可能で、もっとも重い少年院送致保護処分に決定しても、実情は1〜2年で退所し社会に復帰できてしまい、一般に再犯率が低くはないこと。

敗戦当時には巷にあふれた浮浪児などによる、飢餓空腹、貧困から来る凶悪犯罪が多発したため、これに未来への更生を促すために、成人と同列に報復刑を科することをいち早く取り止め、保護監察のうちに社会教育を施す方針に改善したのである。

専門家によると当時年間200人はいたという少年犯は、ここ数年は年間80人ほどに減少しているという資料から見て、敗戦当時に制定された「少年法」は既に古くなり、時代に追いつかなくなってきているという論議には客観的根拠を欠いていることが分かる。

少年法はそれなりの社会的機能を現在でも果しているのである。

では、現在の統計では、少年凶悪犯のほぼ42%が、少年院退所後、何らかの形で再犯するに至っているという点についてはどうか。

これについても少年院における更生教育機能の改善を行政に働きかけて求めることは、現行法のまま十分に可能であって、再犯率の高さは必ずしも少年法自体の欠陥によるものではなくその行政的運営方法に原因があるという専門家の意見を聞くべきだと思われる。却って時代に先んじて法律の模範となるべき道を現在でも走っているのは少年法であるともいえるのである。

もしそこに時代変動の問題があるとすれば、直ぐ後でも述べるが、少年犯の動機が制定当時想定していた貧困、経済的集団的困窮とは異なって、一般には直ちに理解しがたい精神的個人的動因に変化してしまったことが挙げられる。犯罪動機の変動は、法そのものの変更によってではなく、その運営の更新によって対処すべきと思われる。

日本人は「現代文明の基準ではかった場合には、彼らはわれわれが45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものです」とマッカーサー元GHQ最高司令官は解任帰国後の聴聞会で証言した。彼によれば日本人にとっての敗戦時の精神状況とは、占領されることですらなく心に「巨大な空白状態」が生じることであった。ペリーが来たときには鎖国体制の母胎から生まれ落ちたばかりだったこの空腹と心の空白とを抱えた12歳の少年が高度経済成長で、どのように立派に成長したというのか?

その元祖は戦後の焼け跡でチャップリンの‘Kid’を真似た「東京キッド」という浮浪児あるいは戦争孤児の歌を唄った当時13歳の美空ひばりであった。


いわば外来の遊行するカミ=占領軍GIが帰国した後に、焦土に残された闇市の巫女にして遊女パンパンから産み落とされた父親のない御子「私生児」母も名乗らない「捨て子」「浮浪児」こそがその一部がヤクザとなって今日ある日本と日本人を形成してきたのである。このパンパンは今日の援助交際と称する売春行為を餌に、金のあるオジサンにタカル女子高生になっている。

敗戦の焼け跡に発生した幾多の浮浪児、私生児、孤児のように、あの少年も、阪神大震災後の焼け跡に立ち、同じ「社会アノミー」感、一種のカタストロフ感を味わったのではあるまいか。世界が崩壊するハルマゲドンを待望したオウム幹部の早川は地下鉄サリンなど一連の行動を「戦争」と位置づけていた。その廃虚の中から「オウムの子ら」だけが、一種の孤児として生き残るのである。



見かけだけ内部だけ無菌状態に保ったような中身がカラッポな空疎な家庭、地域、学校、社会組織からは、悪徳や腐敗、非行、犯罪に対して事前に歯止めを掛けていた、無形に蓄積された文化遺産である社会的抑止力が、規範が失われるのと比例して急速に消滅していく。

こうした精神の貧困、飢餓を訴える少年、孤児の群れに従来通り「パンをやるからいい子にしていろ」とは言えないのである。日本の戦後文化の総体が、その飢えと貧困とに的確に答えを出さねばならないのであり、法の条文で答えるべき問題ではない。もし日本の戦後文化の総体が、この訴えを聞く耳を持たず、あるいは、答える能力がないというならば、そのような子供からの命懸けの問いかけに対してすら応答のない文化は、文化ではなく、空虚だというべきだろう。

言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る聖なる実験悦楽に支えられているのではないか。

つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。

一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?

今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。

人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。

自分の子供から殴る蹴るの家庭内暴力を受けるがままにして、太母的に引きこもり応答せず対処していたつもりの父親は‘96年11月に、その中3の息子を金属バットで殺す最終応答に出た。酒鬼薔薇を死刑にせよというのは、こうした短絡応答と同じである。

子供からの問いかけに親たちが何も答えたくないのなら、亡国の焼け跡に、凶悪化した浮浪児の群れが行き交うのをじっと眺めているしかないと覚悟を決めるべきだろう。


3.関係者が、一般、マスコミ、被害者にはもちろん、その被害者親族でさえも傍聴を許されない第三者に対しての非公開密室構造。

社会が容疑者の人権を専ら配慮し保護報道したから、被害者本人は無理だとしてもその分被害者家族の人権が削られていくような感情を以って「理不尽だ」と呟くならば、それは個々人の人権が唯一不可分な独立性を所与されている侵害不能のものであることを理解していないことからくる感情論である。

被害者の人権が失われたのと引き換えに、その分加害容疑者の人権が差し引かれるべきだというのは、近代法治主義以前の復讐感情に基く報復私刑思想への退行をむき出しにするものである。

容疑者の人権を守ることと、被害者家族の人権問題とは完全に独立した別個の問題として考えなければならないのであって、被害を受けた側の人権侵害がもしあるとすればそれを、容疑者の処遇問題と関連して取引論議することは意味がないというべきである。

例えば被害者の家族は民事訴訟に訴えることによって、現行法の枠内でもその真相を明らかにし、その少年の保護者に対して監督責任を問い、賠償請求をする道が開かれている。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイ5.38〜39)


また今回の「少年法改正論議」の高まりの背景には、戦後日本社会構造が存していることを見逃すわけにはいかない。

結論的に言うならば、戦後日本人の行動動機で公認、認知されているのは、経済的貧困、困窮から来る物欲、身分地位欲、名誉欲に限られている。だから経済的に何ら欠けたところのない「ごく普通の家庭」の少年が、突如として無差別連続殺傷に走るに足るような事件の「動機」が彼らにはまったく思い当たらないのである。

経済主義という点では、自民(神道系国家社会主義)も共産(マルクス主義インタナショナリズム)も右から左までその価値観は一致して区別がないというのが、戦後日本を支えた基盤であった。

「衣食足りて、礼節を知る」(菅子)と言っていた一億総労働者経済主義政治構造の上に、アメリカからさらに高度な消費大衆社会の潮流が無批判に流入してきた。わずかに残っていた伝統的な儒教社会的「礼節」はこの社会の命ずる「足ることを知らぬ」「飽くことを知らぬ」欲望の無限悪循環の迷路に引き込まれた大多数の消費者によって、完膚なきまでに摩滅してしまった。

さらに、TVを始めとするマスメディアの浸透が、CM、懸賞、プレゼントによって無限の欲望を煽られた視聴者に俗悪な虚栄心を常時植え付けた。

開高健は「衣食足りて、文学は忘れられた?」と嘆いて死んだが、それどころではない。「衣食足りて、礼節を知る」(菅子)という広い意味における中国文化移入習合的伝統そのものが根底から破壊された事実が戦後50年経ってやっと暖衣飽食の腐敗した身心に沁みて来たというのが、現在の日本の現実である。

敬謙な聖公会信徒マッカーサーによってキリスト教の布教浸透を図られた敗戦国日本は、江戸時代からの儒教的習合伝統でそれを拒絶した一方で、このアメリカですら今なお実現できないでいる武装放棄社会の大理念を掲げた世界で最も進んだ新憲法だけは受け入れた。

人はパンのみにて生きるにあらず。(申命8・3、マタイ4・4)

マッカーサーの与えるパンとフーバー長官の学校給食とは受け入れたが、日本人はその憲法運営に当たって必要なバックボーンとなる精神文化は受け入れず自ら創造もしなかった。

こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。

もし日本の戦後文化の総体が、この訴えを聞く耳を持たず、あるいは、(サーカスと新たなお芝居お祭り興行以外に)答える能力がないというならば、そのような子供からの命懸けの問いかけに対してすら応答のない文化は、文化ではなく、太母的空虚だというべきだろう。

今や、子供の教育を事実上引き受けている――というより、親も、学校も、地域も義務と責任を放棄した結果、引き受けざるを得なくなっているのは、大本のアメリカとこれらを伝えるマスメディアとなっているのである。

しかもアメリカには、これらをカウンターとする、ピュ―リタニズムという宗教的バックボーンが存在しその無制限な侵入は、教会の力、両親の監督、成熟した市民社会の成人指定など細かい年齢制限にも助けられ水際で食い止められているため、それほど直接的害悪を及ぼすものではない。

資本主義を生み出したピュ―リタニズムのような 宗教的バックボーンの中空欠如しているところでは、戦前の列強を模倣した日本帝国主義が、全世界を相手にした歯止めのないアモルフな侵略戦争に突入して行ってしまったのと同じ様に、戦後のアメリカ模倣経済効率原理だけの導入は、倫理と法と宗教とで護られるべき人間存在のすべてを根底から食いつぶしてしまったのである。

戦後日本には、抑止するのに必要なそのどちらの力も欠如しているでのある。

ハロウィーン射殺事件のときにはアメリカの銃社会の危険性を積極的に批判しながら、こうした事件が起こると、突如ヤクザのように道を歩くにも小型刀剣ナイフか銃を持ち歩けと退行的なことを言うのか。

その矛盾した態度から生ずる結果責任を現在ただ今日本人はとらねばならないのである。

一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。

彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。

こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。

ここでは場合によっては大衆に支持されれば凶悪犯罪すらもスターを生み出すのである。カブキ芝居とは元々そうしたキワモノから始まった演劇ではないか。

一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?


しかしそれでは内心罪悪的不安が膨らむ一方なので「ふつう」である自分たち以外の何か適当な非難対象が何処かにないかと「みんなで」必死に捜しているのである。これが罪穢れを着せられ共同体から払われる「ハタモノ」である。

「ふつう」である大多数者「みんな」が狂っているとは多数決制度では誰も言えないのであるから、誰か何処かに、「狂っている悪」が存在しなければならない。

「衣食足りて満足しているのがふつう」であるならば、原因はその思想自体にあるはずはない。だから自己以外の原因を血眼で捜すのだが、彼らの目にはどこにも見つからない。「ふつう」の「衣食足りて」いる子供が犯罪を犯す理由が彼らの捜す視野内には全く見当たらない、ということになる。

「昔と違って今は、何処にでもいるごくふつうの子が、ある日突然凶悪犯罪に走るケースが増えてきた」のは、「ふつう」といわれる日本の大多数の集団が最早客観的人間的には「ふつう」どころではなくなって来ていることの明白な証拠である。

今までは犯罪は経済のせいに出来た。だから、経済を発展させると犯罪は減少するはずだ。こういう菅子的「衣食足りて、礼節を知る」思考法では経済がある程度上手くいっているのに、その子供が突如凶悪な犯行に走るのは皆目理解できない(ふりをしている)のである。

自分には何の落ち度もないつもりなのに、衣食足りて育った子供はその全体存在自体に対して反抗している、としか社会には見えない。

そこで自分には理解できない経済以外の原因から来るその社会不安を、当面の目の前にぶら下がった「少年法」と「少年審判制度」の不備にしわ寄せさせて改正させ「時代遅れ」の槍玉に挙げることによって一時的に解消しようとするのではないか。――円満で順調な経済成長のために。



2.それに伴ない生じる検察側を欠いた裁判官(家事審判官)一人、少年側立会人一人という、対審構造とはなっていない真相究明体制の甘さ。

もし真実の原因を探り出し、白日の下に暴き出そうとするならば、「衣食足りて礼節をも食いつぶした」大人自身の現在の社会文化全体制の退廃と悪と腐敗が、一人の子供によってその責任を問われ告発されることになるからである。

彼らは真相が知りたいというと同様に、又はそれ以上に、自分たちの現在の生活が成り立たなくなるまでには一人の少年の根底にある心の真実を知りたくもない。

醜悪な真実を何も知らないカマトト赤子の如く振る舞うこと、争いごともめごとには関わりにならず通りすぎ見て見ぬふりの演技をすること、現実を努めて無視することにより常に発覚時には騙されていた被害者を装える現在の総無責任体制の「知らぬが仏、善男善女」生活がかろうじて成り立っていることでは、戦時中の比ではない。

「みんなで渡れば怖くない」という人生訓でこれまで、あたらず触らず、平穏無事無難、ご無理ごもっともで巧くやってきた現在の大人自身にはそんな偽善と虚栄とをすべて投げ捨ててまで真相を究明していくだけの知的誠実さと精神的高尚さ、反省能力と真実、責任を受け入れる勇気はかけらもない。

一見して儒教的伝統からは原因、動因ないものと見える少年凶悪犯罪は、たとえそれが一件でも、深い象徴的意味を持つと考えられ、極めて巨大な社会体制への不安を、日本全域に及ぼす。

彼らは薄々それが自分たちの安住する現シナリオ劇場体制に突きつけられた刃かも知れないと感じているにもかかわらず、共同体で共有する秘密を楽屋裏に隠し「みんな揃って見てみぬふりを」して劇場演技を続けている。

それをするには経済的要因以外、以上の人間的、精神的価値と要因の高度な知識と思考能力と体験実績とを必要とするのだが、彼らにはそのいずれをも欠如しているからである。

「それを言っちゃあ(劇が)お終い」だからである。


「みんなで渡れば怖くない」という形で闇から闇へ見過ごされ抑圧集積されてきたそれ自体では小さすぎて見えない有象無象の「悪」が、ある一人の少年の心の中に「猛毒ダイオキシン」――バモイドオキ神――のように集中的に凝縮され「積年の大怨」になるまで育っていったのではないとは決して言えないだろう。

こうして体内に微量ずつ蓄積された環境の汚染は、物質的なものだけでなく、抑圧した本人が忘れた頃に親の世代よりその子供の身体と心とに劇的に現われるものだからである。

病気は、これ以上の同一行動の維持が不可能であることを身体が大脳に知らせる現実からの危機警報であるという思想からすれば、その存在は必要不可欠なものなのである。

同様に、社会全体に対しての極めて特異な凶悪犯罪も、その全病的体制の危機を警告する免疫症状や腫瘍のような異常信号であるともいえよう。アレルギーや腫瘍が身体の極一部に起こる特異なものだからといってその警告者としての存在を無視、放置しておけば、身体全体が致命症に襲われないとも言えないのである。

卑近な例を挙げれば、毎日の自然に起きる便意を我慢して無視、抑圧していることが日常化し、自覚のない慣習となったしまった人間は、身体の自然な声を聞かなかった抑圧の当然の結果として、そのうち便意そのものが死に絶え届かなくなり本当に便秘になってしまうだろう。。

そこから全身にまわった毒素が致命的な病気を引き起こす可能性がある。それに本人が気づいた時には既に手遅れなのである。

「みんなで渡れば怖くない」と社会全体が病的危機に突入して「異常」になっていることに全員が見かけ上堅固に無自覚であるような社会、危機管理に愚鈍極まりない社会では、それに対する社会的弱者、鋭敏な少数者、あるいは天才からする警告も、残念ながら理性的に言語、芸術、文化によって行われるはずはなく、行われても常に無視され続けるので、例えば三島由起夫と楯の会自衛隊乱入割腹自決事件のように、宮崎勤事件、あるいはオウムによる地下鉄サリン事件のようにその社会から「異常犯罪」と見られることなしには済まない、本人にも一見無目的で無自覚な、残虐なやり方で表現される他はない。

こうした劇場社会では、それだから、芸能演劇のみを現実と認める一般大衆は幻想を与え続ける演劇CMを、「パン」の他に「サーカス」を必ず必要とし、その登場人物である役者、俳優、芸能人を彼らの唯一の我の分身=実在するVIPとしてあれほどまでに追い回し、日々の話題にするのである。

ここでは場合によっては大衆に支持されれば凶悪犯罪すらもスターを生み出すのである。カブキ芝居とは元々そうしたキワモノから始まった演劇ではないか。

言語による問いかけに、何も答えずに無視し続けるというのなら、一度殴ってみて本当に生きているのかどうか生体反応を見るということになるだろう。チーマーによるオヤジ狩りも、そうした生体反応を見る聖なる実験悦楽に支えられているのではないか。

一体彼らは人間なのだろうか?人間の皮を被った舞台の人形なのではないか?

今日人間の壊れやすさを確かめるための「聖なる実験」をしました。

人間というのは壊れやすいのか壊れにくいのかわからなかったけど、今回の実験で意外とがんじょうだということを知りました。

つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形な「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」の群れである。

「昔と違って今は、何処にでもいるごくふつうの子が、ある日突然凶悪犯罪に走るケースが増えてきた」のは、「ふつう」といわれる日本の大多数の集団が最早客観的人間的には「ふつう」どころではなくなって来ていることの明白な証拠である。

魂を揺り動かす芸術やフェアな自由ゲームプレイ文化が、醜悪な現実を隠し覆う、飾りだけの虚栄的表層に終わり、実質的な深い社会的機能を果たしていない建て前社会では、そこに刃を突き立てる犯罪が逆に、抑圧された結果昇華しきれなかった芸術としての「芸術犯罪」「劇場犯罪」「ゲーム犯罪」的性格を持ちつつ現われざるを得ない。

ここでは自己の存在証明を懸けた犯罪者が芸術家の如く機能するのである。

24日付けasahi.com「朝日新聞夕刊」によれば切断遺体頭部を中学校正門に何度も置き直した行為についても、

男子生徒は「作品を完成させるため」に高さ約2メートルのコンクリート塀の上に頭部を置こうとしたが、背が十分に届かず約2メートル南側の門扉前に移動させたという。男子生徒は調べに対して「塀の上に置けず、完ぺきな作品に仕上げることができなかった。仕方がなく門の前に移した。悔しかった」などと話しているという。

と報道された。赤字部分引用者(後記)

声を聞くべき耳が融けてなくなっているからである。ものを見るべき目がつぶれているからである。

警告も病気も何もないより、異常犯罪がある方が社会はまだ救われていると感謝するべきであろう。

むしろ自滅というカタストロフの一線を越える境界は、みんながしているから、自分もという自分の首を絞める安易な決断行為にはなく、みんながしているが自分だけはそれに従わないというただ一点から、乗り越えられ、新しい可能性を持つ未来が切り開かれるものである。

漆黒の中に灯るただ一つの希望だけがパンドラの箱のように、集団的自滅を待つばかりの絶望状態からでは考えられもしなかった、まったく新しい前提、新しい状況、選択の局面を創り出すのである。

集団的絶望は、そこから出ることの圧倒的不安によりそうした新しい可能性を創る芽を自己去勢的に断念させ、一人そこに加わることでそれがまた、新しい絶望者を呼び起こす悪循環を生じ、自滅するまでそれが続くのである。

このような個人の集まりこそが、たとえそれが少数派であっても「みんなで…」ファシズムの自己呪縛を解き放ち破壊していく力となるからである。それは必ず「ふつうの多数派」ではなく、特異な社会弱者の中から現われる。

その警告を命を呈して行ったことにむしろあの他とは明らかに異なった特異で透明な少年の存在理由があったといえるのではないか。


私が、ひよっとすると関係あるのでは、と推理していた「月ヶ瀬村少女行方不明事件」にはおとといの23日未明、以前からマスコミにも登場し捜査線上に上っていた村の住民、丘崎誠人(25)が、未成年者略取の容疑で奈良警察に逮捕されるという進展があった。事件発生から81日目のことである。

逮捕の決め手は、容疑者所有の、中古4WDピックアップ小型トラックの後部座席のシートから検出された血痕が、DNA判定により、行方不明の少女 浦久保充代(うらくぼ みつよ)(13)のものと断定されたことであった。彼女の事件当時着用のジャージ繊維片も見つかったという。

少女は未だ行方が分からず、安否すら確認できていない中での未明の現地逮捕劇は、押しかけたマスコミ陣に興奮した丘崎容疑者がカメラの前で暴れる異様な映像を伝えてきた。

5月4日の事件当日、行方不明になった午後2時半頃車中からこの少女を2度目撃したと、逮捕以前から話していた丘崎容疑者の供述には丁度この2時半から、4時までに当たるアリバイのない、空白の一時間半が生じているのだ。

容疑者と少女とは、この人口2000人余りの村で家が200m程しか離れていない、年齢が離れているとはいえ同じ月ヶ瀬中学出身同志の、顔見知りの関係であった。

彼は村を挙げての捜索活動にも熱心に参加し、子供の集団下校時には自分のトラックに乗せて送るなど、普段はおとなしい無口な青年で通っていた。

しかし中学校を卒業してからは、職業を転々とし、民生委員をしていた浦久保家の祖父が再三訪れることもあるような不安定な一面がある。

近頃は定職に就かず、今年3月下旬に買ったばかりの乗り回していた中古4WDピックアップトラックをわずか3ヵ月で最近売却していた。

未だ、彼は容疑事実全面否認のまま取り調べが続いている。


参考資料 A

7月24日付け神戸新聞掲載 被害者山下彩花の母、山下京子の手記全文

(赤字強調は引用者)

仕事の帰り、木もれ日のこぼれる、赤い遊歩道にさしかかると、私はしみじみ「ここは、なんていい所なんやろ。本当に私は幸せやなあ…。優しい夫と、素直でかわいい子供たち、楽しい友人たち、そして大好きな仕事。どうか、この幸せがいつまでも続きますように」と思ったものでした。特に小学校の前に来ると、「彩花ちゃん、頑張って勉強してるかな」と校舎を見上げながら歩いていました。あの、魔の3月16日が来るまでは…。

 本当に不運としか言いようのない、あの少年との出会いがあるなどと、だれが想像したでしょう。

 あの日、娘はお友達と公園で待ちあわせていました。私が買物にでかける直前まで、一緒にピアノを弾いていました。今思えば「お母さん、もう1回ひこう! お母さんの好きな曲をひいたげる」などと、いつも以上に、何回も何回も弾いてくれたのは、その直後に訪れる悲しい残虐な事件で、私達とお別れするということを、暗示していたのでしょうか。

 買物に行こうと誘ったのですが、お友達と1時に約束しているからということで、私は1時までに帰るつもりで出掛けました。

 「カギは中から彩花がしめてあげる。行ってらっしゃい」との明るい声が最後の言葉でした。

 どうやらその後、約束時間が変更になったようです。待ち合わせ場所の公園も普段あまり行かない所なのですが、そこで待っている時に、あの少年が「手を洗う場所を知らないか?」と声をかけ、「学校にならありますよ」と答えた娘に、道案内させたのです。

 たまたま、その日は小学校でカーニバルが開催されており、門が開いているのを娘も、少年も、知っていたのではないでしょうか。犯行メモにより、真相が明らかになるにつれ、少年に対して今まで以上に、決して許すことの出来ない怒りがこみあげてきました。それとともに、親切心から道を教えた娘が、とても不憫(ふびん)で涙がとまりませんでした。

 道を尋ねられても、それが遠い所や、車に乗って教えてほしい、などと言われていれば、日ごろから私が言い聞かせていましたので、軽率なことをする子ではなかったので、決して、案内したりしなかったと断言できます。娘のいた公園と小学校とは、ほんの目と鼻の先で歩いてもすぐの所でした。きっと、少年の手が本当に汚れていると思って親切に教えたのでしょう。

 私達家族は、あの少年のことを本当に知りません。もちろん、娘も初対面であることは間違いないと思います。しかし、娘の顔を見、言葉を交わしながら、実験と称して殺害してしまうという、人間としてあるまじき行為を、絶対許せません。

 どうしても、少年に問い掛けてみたいことがあります。「あなたにも兄弟がいたはずで、その子達をどう見ていたのですか。自分の身内は人間で他人<特に子供>は物や野菜としか見ていなかったのですか。あなたの兄弟が、淳くんや、彩花のようにひどいことをされたら、どんな気持ちになる?」と。

 この事件の容疑者が成人であれば、厳刑に処されるのは間違いないと思います。それなのに少年ということで、少年法に保護されるという不条理をどう納得すればいいのでしょうか。

 少年には未来があり、立派に更生して社会復帰が出来るから、などと言われますが、それならば、明るい未来が待っていたうちの娘はどうなるのでしょうか。

 きっと、もっともっと生きて色々なことがしたかったでしょう。色々な所に行きたかったでしょう。私達と一緒に楽しく暮らしたかったでしょう。お友達ともいっぱい遊びたかったでしょう。そんなことを考えると不憫さがこみあげ悔しくてたまりません。

 そして、今ごろになって「殺意はなかった」と、言っているそうですが、どの程度の衝撃で、人が死に至るかという実験の根底には、明らかに殺意があると思えるし、家を出る時すでに2つの凶器を所持していることも、それを物語っているのではないでしょうか。

 少し生前の彩花の話をさせて下さい。

 親の私が言うのも変ですが、本当に心根の優しい、性格の可愛い子供でした。活発でしたが愛くるしい笑顔で、私達の心を和ませてくれる子でした。エピソードは数え切れないほどあります。

 例えば死にかけのスズメを拾って帰り、一生懸命世話をしたり、ある時はソロバン塾の帰り道、お友達と自転車を交換し、誤ってその子が転倒し、娘の自転車のカゴが壊れかけました。先方のお母さんからおわびの電話をいただいた時も、そのお友達に「○○さん、何も気にしなくていいよ。全然大丈夫やから心配しなくていいよ」と、言っているのを聞いた時、私の方が教えられました。

 また、私が息子をしかりつけていると、「お母さんそんなに怒ったら、お兄ちゃんがかわいそうや」と言い、思わず「そうやね」と、気持ちが和むこともありました。

 そして、かなり前の話ですが、近くの派出所から電話があり、「彩花ちゃんが、手袋を拾って届けてくれました。帰ったらほめてやって下さい」とのことでした。娘が帰ってきて「いいことしたね」と、ほめてやると「だって手袋落とした人が困っているし、落とされた手袋もかわいそうやし」という返事がかえってきました。何だか、気持ちがほのぼのとして、あたたかくなったのを、今でも覚えています。

 このような優しさが仇(あだ)になり、今回のような凶悪な事件にまきこまれたのは、とても残念で悲しいけれど、常々「困っている人を見たら助けてあげようね、人には優しくしようね、自分がされていやなことは人にはせんとこね」と、教えてきたのは、このような結果になっても間違っていなかったと、強く確信しています。

 夫とも、彩花らしい最期だったねと、泣きました。

 少年のご両親にどうしてもお聞きしたいのは、「人を思いやるとか、人の嫌がることはしないようにという、基本的な人間教育<心の教育>」を、どんな風にされていたのかという点です。

 最後に、この事件を通して今までのマスコミに対する認識を改めざるを得ない出来事がありました。

 霊安室を一歩出たとたん、まわりを囲まれあちこちから「今のお気持ちは?」とマイクを向けられました。最愛の娘を亡くしこれ以上の悲しみがない時に、「悲しい、つらい、苦しい」、これ以外にどんな言葉があるでしょうか。

 告別式を終え静かに冥福を祈る間もなく、昼夜を問わずマスコミ関係者が押し寄せて来ました。また、ある時は、登校する息子を待ち伏せて取材をしたり、ご近所の方に私どもの勤務先や、その日の行動を聞いたり、深夜にインターホンを押し、こちらが応対しないとドアをたたくという非常識な記者もいました。息子は登校したくても、出来ない時がありました。本当に精神的苦痛を味わいました。

 そして、私達だけでなくご近所の方にも迷惑をかけ、本当に申し訳ない思いでいたことなどをわかっていただけますでしょうか。私達は芸能人ではありません。平凡な市民です。しかも被害者です。

 静かで穏やかな生活を、だれにも侵す権利はないはずです。「悲しみに追い打ちをかけるようなことはしないでほしい」。ただ、それだけだったのです。

全てのマスコミが非常識だとはいいません。誠意のある人もいましたが、ただ、やみくもに取材するのではなく、もう少し常識ある大人として、節度を持って行動してほしいし、これからも「読者や視聴者の心にひびくような心ある報道を!」と、願ってやみません。


参考資料 B

8月21日付け神戸新聞掲載

容疑者少年の両親から被害者家族へのお詫びの手紙

山下彩花ちゃんの家族あての手紙

 山下彩花ちゃんの家族あての手紙全文は次の通り。(表記は原文のまま)

 山下様へ

 おわびの手紙が遅れ、本当に申しわけございません。

 大切なお嬢さまのお命を奪うという口で言えないようなひどいことを、私どもの長男が犯したと聞き本当に信じられない気持ちでしたが、今となっては、ただただ申しわけないという気持ちしかございません。

 私どもも、山下様のお苦しみ、お悲しみにはもちろん比べようもありませんが、ショックもあって、また警察の取り調べや家庭裁判所の調査なども受けていたためおわびがこのように遅れてしまって本当に申しわけございません。どのようにおわびを申し上げてよいのかもわからず、お電話を差し上げることもかえってお心を傷つけることになるのではないかなどと迷っているうちに今日に至ってしまいました。

 彩花ちゃんのご冥福をただただお祈り申し上げるばかりでございますが、とんでもないことをしでかした長男の親として今後、一体どのようにすればよいのか思い悩んでいるところでございます。是非一度お会いし、直接おわびを申し上げさせて頂(いただ)く機会をいただければと願っております。

   平成九年八月十四日

   (少年の両親の名前)

重傷を負った女児の家族あての手紙

 重傷を負った女児の家族あての手紙の全文は次の通り。(表記は原文のまま)

 (女児の姓)様へ

 この度は本当に申し訳なく、おわびの言葉もございません。お嬢さんのお身体(からだ)の傷ばかりでなく、お心の傷も如何(いか)ばかりかと思われます。

 まさか自分の息子があんな酷(ひど)いことをするとはと、ショックの余(あま)りにお詫(わ)びが遅れましたことをお許し下さい。一日も早くお詫びをしたいと思いながらも、精神的ショックに加えて、警察の取り調べや、マスコミの目もあり、かえって迷惑をおかけしてはと思い今日になってしまいました。本当に申し訳ございません。

 お嬢さんやご両親様のお気持ちを考えますと一刻も早くお詫びのためにお伺いすべきでありますが、何と言ってお詫びを申し上げてよいのかわからず、又(また)、お電話を差し上げる勇気もなく今日に至りました。

 怪我(けが)が一日も早くよくなられ、ショックから立ち直られますよう心よりお祈り申し上げます。本当に申し訳ございません。

 親として今後のお詫びの仕方を考えておりますが、是非一度お会いして直接お詫びも申し上げ、お話もさせて頂(いただ)きたいと存じます。

    平成九年八月十四日

   (少年の両親の名前)


9月15日 (月) 容疑者少年と関係者からの事情聴取要旨

今日やっと、今後の事件の解釈、分析において新しい展開に役立つと思われる情報が公表された。インターネットから入手できた一番詳しい情報は、やはり地元の神戸新聞社のものであった。以下にその記事の中から客観的な資料となる関係者の証言要旨の部分だけをコピー掲載する。

どうやら、家裁送致直前に検察からあった「家庭、学校や社会に対する復讐は無関係で、直接的には祖母の死がきっかけ」とする少年の動機に関する異例の発表は、これらの供述に基いて為された可能性が高い。

もしそうなら、この内容はその時公表されても良かったのではないか。

一見したところ、これまでの推測を根本から覆すに足る内容は含まれていないようだが、これまで犯行声明文以外は謎に包まれてきた少年の心象風景や、両親の幼少期からの子供への対応、彼の異常とも思える問題行動に直接触れた学校教師の怖れと疑心暗鬼な推測など、外部には閉ざされてきた極めて貴重な証言を垣間見ることができる。

予断を避けるために先ず資料から読んで戴きたい。 但し、赤文字、ボールド部分は引用者によるものである。


参考資料C

9月15日付け神戸新聞朝刊掲載

少年とその両親、教師への警察による事情聴取内容要旨

供述・聴取内容の要旨

 少年の供述や両親、教師の聴取内容の要旨は次の通り。

 【少年の供述】

 ▽祖母の死

 一九八九年の小学校入学と同時に、一人暮らしだった祖母と同居し始めた。自分を大事にしてくれた祖母だけが大切な存在だった。親は家族なので愛情を感じるが、本当の姿を見せず仮面を着けて接していた。

 九三年四月に祖母が死んだのがショックで、祖母の命を奪った死に抑えきれない好奇心がわいた。死を理解したいとナメクジやカエルを殺して解剖、なんとなく理解したつもりだったが、満足感が続かず、小学六年生のころから猫を殺し始めた。

 猫を殺すのに満足する自分と、嫌悪感を持つもう一人の自分を意識するようになった。前者に好きな字を組み合わせ「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」と名付けた。

 中学入学後は猫では満足できなくなり、人の死を理解したいという欲望を持った。どうしたら人は死に、死後どう変化するのかなどを考え、人を殺すときの感覚についてホラービデオや漫画を見て空想を膨らませていった。

 ▽学校生活

 自分は感情をコントロールできない面があるが、憶病で気が弱いため自分よりも弱い同級生や下級生に暴力を振るっていた。先生は理由をあまり聞かずに一方的に悪いと決め付けるので先入観を持っていると不満に思ったが、先生を相手にするのは面倒で無視することにしたので、先生や学校には特に恨みはない。

 ▽二月の女児殴打事件

 好きなので万引したナイフやハンマーを護身用に持ち歩いていた。二月初め、学校で初めて履いた靴を女子生徒に踏まれた。謝らせようと同月十日に生徒宅で帰りを待っていたが、本人らに見つかって追い掛けられたので逃げた。

 その帰途、たまたま前を歩いていた女児二人しか目に入らなくなり、ハンマーで殴った。殴る理由もないのに悪いことをしたと思った。なぜ殴ったか説明できない。

 ▽三月の連続通り魔事件

 二人を殴った瞬間、理性や良心を失い、一線を越えてしまって、後は何をやっても構わないと思うようになった。人の死を理解するため、自分が死をつくり出さなければならない、つまり人を殺さなければならないと考え、第一段階として「人間の壊れやすさを確かめるため」実験することにした。自分が傷つかないために反撃できない人間を対象に選んだ。被害者には何の感情も持っていない。

 ▽「犯行ノート」

 小学六年のころ夢に現れた「バモイドオキ神」の存在を信じてきた。通り魔事件を起こした三月十六日の夜中に目覚め、心のどこかで実験はいけないことだと思ったので正直に同神に報告することにした。拝むため、具体的な姿かたちが必要となり、ノートに同神の顔を描いた。

 ▽五月の小六男児殺害

 第二段階の人の死を自分でつくり出す行為の実行を聖なる儀式「アングリ」とし、成し遂げれば同神から「聖名」をもらうというストーリーを作った。これらの言葉は自分でつくった。学校に行くと実行対象を探す時間がなくなるので欠席することにした。学校で問題を起こし、先生から怒られて欠席するという筋書きを考えた。

 五月十三日、自分の悪口を言っている同級生を殴ってナイフで脅し、教師から注意された。体罰や登校を拒まれることはなかったが、友人には「先生に殴られ、学校に来るなと言われた」と言って十五日から欠席した。二十四日に適当な人を探していると顔見知りの土師淳君にたまたま会った。「亀を見せてあげる」と言って「タンク山」に誘い出し、首を絞めた。

 【両親の聴取内容】

 息子は神経質で消極的だった。積極性を身に付けさせるため甘やかさず、しかりつけ気味で育てた。小学三年のころ、異常な泣き方をしたので医師に診てもらうと「ノイローゼ気味になりかけている。しつけを控えなさい」と言われ指示に従った。息子は中学入学前後から、気持ちを打ち明けなくなった。

 息子は思い通りにならないとすぐに怒り、善悪が分かっていない面がある。学校ではいじめをしたり、友人にワープロで作らせた脅迫文を女子生徒に送ったりした。脳に障害があるのではと思い、先生の勧めで中学一年の六月から専門医の診察を受けさせた。精神病とは異なり、物事に集中しにくく、周囲に対する認知能力がゆがんでいる疑いがあると診断されたが、治療は一応終了した。

 その後は息子の内面までは立ち入らなかった。一連の事件については思い当たることがなく、犯人とは信じられない。(以上、母親)

 息子とあまり話をする機会がなく、息子を知らな過ぎた。(父親)

 【教師の聴取内容】

 ▽少年の小学校生活

 少年はいたずらグループの一人だったが、存在感は薄かった。卒業直前の九五年二月ごろ、少年が土師淳君をたたいたので注意すると、少年は「このままだと人を殺すかもしれん」と言ったが、本気とは思わなかった。

 その年の三月、入学する中学校の教師へ少年の問題行動を説明。少年が六年の二学期に作った、脳の形をした赤い粘土にカッターの刃を差し込んだ作品を見せ、「少年は虫を殺すのが趣味で、虫が人に変わるのが怖いと言った」と報告した。

 ▽少年の中学校生活

 中一の時、ノコギリ、ナイフなどの万引や児童をけるなどの問題を起こし、注意してきた。少年がナイフに執着しているので、親に専門的な機関での相談を勧めた。

 二年の時、女子生徒に「ばい菌ごっこ」といういじめをしたので注意したが、じっとにらむので、これまでにないタイプの生徒と思った。「火葬場の番人」と題する作文を書き、死体が溶けていく状況をリアルに描き、不気味だった。秋には、ホラービデオの万引で補導された。

 今年二月の女児殴打事件は、その前後の言動から、犯人は少年ではと思った。事件後、被害者の親が「犯人はそちらの中学生だから、生徒の写真を見せてほしい」と言ってきたのを聞いた教師もそう思った。

 四月末、少年は仲間と喫煙したのを見つかっているが、母親は少年に反省を迫らず、家庭教育が十分でないと思った。母親は「息子は学校嫌いです。小さい時、私が厳しく言い過ぎたし、中学の先生にも厳しく指導され過ぎたからです。息子は家であまり話をせず、ホラービデオを見ています」と言ったので、家庭に問題があると思った。

五月十三日の同級生への暴行で少年は「人の命はアリやゴキブリと同じじゃないか。しかし僕の命は大事」と反論、異常な発想に驚いた。報道で知った通り魔事件は少年の仕業だろうと感じた。


内容は多岐に渡っているが、その中心となるのは少年の家庭環境とその生育に伴なう一種異様な心理過程であることは間違いない。この線に沿って、ここに得られた聴取内容だけの材料から関連箇所を引用しながら整理してみよう。

第一に、祖母との関係である。

小学校入学と同時に、一人暮らしだった祖母と同居し始めた。自分を大事にしてくれた祖母だけが大切な存在だった。

これだけでは断定しかねるが、かなりこの少年の家庭自体が、日本に良くありがちな祖父母が実権を持っている祖霊崇拝的伝統を根強く保持していたのではないかと伺わせる供述である。

宮崎勤の家庭では、それが祖父であり、祖父の死に伴ない一連の異常な犯罪行為に傾斜して行くのだが、この事件では祖母という太母がそれに当たる疑いが出てくる。

1997年のいわゆるエリート家庭に起った「祖母殺し高校生自殺事件」がその典型と思われる。(本多勝一「子供たちの復讐」第4章以下参照;特に5章「全社会構造への復讐」斎藤茂男の祖父母の役割喪失発言p443;河合隼雄のユング心理学を緩用した6章<「正夢」と化した儀式>p491〜;「母性原理と父性原理の対立の犠牲者たち」p548は今回の事件の核心を突いている)

少年は存在のない父の地位についた恐ろしい母=鬼婆、鬼母から逃げるようにしてこの甘えの対象である祖母=慈母に支配的依存して育てられたからこそ、思春期に入ろうとする時期に起った祖母の死がその間の微妙な心理的両義性太母バランスを突き崩し、残虐性を呼び起こす引き金になったと自覚されているのではないだろうか。

第二に、母親との関係である。

息子は神経質で消極的だった。積極性を身に付けさせるため甘やかさず、しかりつけ気味で育てた。小学三年のころ、異常な泣き方をしたので医師に診てもらうと「ノイローゼ気味になりかけている。しつけを控えなさい」と言われ指示に従った。息子は中学入学前後から、気持ちを打ち明けなくなった。

その後は息子の内面までは立ち入らなかった。一連の事件については思い当たることがなく、犯人とは信じられない。

四月末、少年は仲間と喫煙したのを見つかっているが、母親は少年に反省を迫らず、家庭教育が十分でないと思った。母親は「息子は学校嫌いです。小さい時、私が厳しく言い過ぎたし、中学の先生にも厳しく指導され過ぎたからです。息子は家であまり話をせず、ホラービデオを見ています」と言ったので、家庭に問題があると思った。

以上威圧的な母親との幼少期から続いた疎遠な関係は本人の「親は家族なので愛情を感じるが、本当の姿を見せず仮面を着けて接していた。」供述に合致すると思われ、信憑性が高い。

7月3日のこのページに私は現代家族の仮面性について以下のように書いている。

***

(ホラービデオのようなマスメディア責任論に対し)仮にもしその少年が犯人であったにせよ、第一に責任があるのは、そうした発育上問題のある残虐な映像、凶悪犯罪の知識を少年に浴びるように見せて憚らない、あるいは子供部屋を密室にさせ成績が落ちないかぎりは腫れ物に触るかのように扱い、何をしても気が付かない(ふりをしている)家庭環境であり、特に問題のある未成年に対して、よその子だからと及び腰で何の注意も出来ない周囲の消費地域社会のPTA、自治会、町内会、近隣の大人たちの不甲斐なさではないのか。

マスメディアを一方的に消費する側が自分の子供に対して、また自分自身に対してすら自己規制危機管理出来ない無能、無責任さを、大量に製作販売する側に転嫁しているのである。販売者は大人でも、消費者は自己責任を持てない「大人の仮面をした子供(アダルトチルドレン)、仮面夫婦、仮面家族、仮面教育者」なのか。

建て前(閑静な新興住宅に住む中産階級)と見かけ(何不自由ない「ふつうの家庭」の演技)だけに頼りきり、産むだけ産んだ子供を「子供」として、一人の社会存在としてかけらも認めようとも育てようともしないこういう家庭環境、地域、教育環境こそ、良くも悪くも親にとっての「いい子」「普通の子」という仮面の下は「透明な存在」と自覚する未成年者を今も着々と大量生産し続けている大本に存する不変の社会構造なのではないのか。

今度の容疑者の少年が、もしあの声明文を書いたとするならば、彼こそ大人の仮面を被った、あるいは共通の秘密を持つ周囲共同体によって被させられた演技者=被害者としての子供、すなわちAC=アダルトチルドレンなのだと思われるのである。

***

これは後の、残虐な「もう一人の自分」酒鬼薔薇の存在が肥大して教師に「このままだと人を殺すかもしれん」と話すに至った事態へと繋がる心理的下地を造ったと考えられる。

第三に、父親との関係である。

息子とあまり話をする機会がなく、息子を知らな過ぎた。

全く、祖母と母親との陰に埋もれ、事情聴取上でさえも圧倒されている日本の勤労する父親の感じが、このたった一行からも推測される内容である。しかし何しろこれだけなので、現在のところ息子にも似た父の存在感の欠如という一般的結論以外言うべきことは出てこない。

それにしてもこうした重大な事件に関係する父親の聴取内容にしては異常な欠如であると言わざるをえない。

彼は自分の息子にかけられた容疑についてこれだけしか言うことがないのだろうか。万引きした息子の父でももうちょっと饒舌に話し出すのではないだろうか。

欠如していることこそが重大なのである。

つまり以上によって、祖母への依存、恐ろしい母、存在の欠如した父というこの少年を巡る幼時からの3者関係が浮かび上がるわけである。

少年は存在のない父の地位についた恐ろしい母=鬼婆、鬼母から逃げるようにしてこの甘えの対象である祖母=慈母に支配的依存して育てられたからこそ、思春期に入ろうとする時期に起った祖母の死がその間の微妙な心理的両義性太母バランスを突き崩し、残虐性を呼び起こす引き金になったと自覚されているのではないだろうか。

ここに祖母の死によって崩れ掛けた3者関係は、母の前で仮面を被る人格を形作る一方、その裏では、母親に対抗して、少年本人の残虐性を密かに心の闇から呼び起こすことで危うい思春期のバランスを保とうとする心理力学を形成するに至る。

こうした時に息子の前に現れてその母子癒着を分断し、母親と自然に対抗して文化への道を切り開き、思春期危機を救うべき父親は無視されている。

むしろ、父親の存在の欠如が、父の地位についた母親の越権行為を招き、それがさらに真の母性の欠如、その穴を埋める祖母の孫への溺愛癒着を次々ともたらすという悪循環を構成させた元凶ともいえる。

そして、父の欠如は、必ずしも今回の敗戦によるものなのではなく、アマテラス卑弥呼、小坊主と鬼婆、道成寺、雨月物語以来の日本ウロボロス蛇太母巫女御子の倭=輪=和文化の基礎なのである。

従って、酒鬼薔薇のような事件がいずれ起こることは日本社会の甘受すべき必然であり、少なくとも日本文化、社会の中にはこれを抑止する原理は内在しないということになる。

これが日本の指導者層あるいはいわゆる代表的文化人などが、今回の事件に対し意味のある発言を何もできないでいる理由である。

つまり戦後日本人は能力がないか、怠惰のためかいずれにせよ近代市民社会を創造することに結果的には失敗流産したのである。「恐るべき子供たち」はそうした流産の結果できた育てる親のない戦後の不具で奇形の「鈎十字から涙を流した」「私生児」母も名乗らない「捨て子」「孤児」「浮浪児」「オヤジ狩りを楽しむストリートチーマー」「ヤンキー」の群れである。

宮崎勤は、雑誌「創(つくる)」のインタビューに獄中から答えた2回目の書簡の中で、「ニセの父が死んだ時はスッとした」と答えながらある種の血統妄想を抱いていることを窺わせ、「私に本当の両親を教えろ」と「ニセの両親」に食ってかかっている。手紙全体の中でもこの部分は、異様な迫真性に満ちているのである。

これは、様々に考えられるが、一つには、川端康成の文学が「孤児の文学」と称されるのと同じ次元から発する日本的「孤児妄想」に原因があると言っても良いのではないだろうか。

ヤクザ自体が、いわゆる幸福な一家団欒のある家庭からグレタ者同志の共済組合のような結社「**一家」であるが、「グレる」「グレン隊」というのは私見では「母からハグレル」スサノヲがその心理的原型を成すと思われるからである。「はぐれ雲」「はぐれ刑事」の例を見よ。

例の謎めいたシンボルは、ナチスの鈎十字にそこから流れ出る涙を組み合わせたもので、少年を含む近所の遊び仲間集団のマークとして北須磨公園などによく落書きしていたものであったという。――受験体制によって生産された「知的でナチス的であれば、誠実でない」子供(「子供たちの復讐」本多勝一編p489)から落ちこぼれた涙とも考えられる。

あるいは、宮崎勤のように本当の母も父もいない家庭で育てられたことへ流した涙なのかも知れない。少年は逮捕後も、両親との面会を一貫して拒否していると伝えられている。

ある者はカルトに入会し、ある者はひたすらオタクに閉じこもり自閉化孤立し、またある者は家庭、学校、地域を社会全体に対する憎悪と暴力で満たした。

第四に、子供仲間との関係である。 

息子は神経質で消極的だった。積極性を身に付けさせるため甘やかさず、しかりつけ気味で育てた。

少年はいたずらグループの一人だったが、存在感は薄かった。

息子は思い通りにならないとすぐに怒り、善悪が分かっていない面がある。学校ではいじめをしたり、友人にワープロで作らせた脅迫文を女子生徒に送ったりした。

「少年は虫を殺すのが趣味で、虫が人に変わるのが怖いと言った」と報告した。

自分は感情をコントロールできない面があるが、憶病で気が弱いため自分よりも弱い同級生や下級生に暴力を振るっていた。

自分が傷つかないために反撃できない人間を対象に選んだ。被害者には何の感情も持っていない。

同級生への暴行で少年は「人の命はアリやゴキブリと同じじゃないか。しかし僕の命は大事」と反論、異常な発想に驚いた。

その恐ろしい母親には向けられない少年の残虐性は、自分より弱い立場の小動物、女生徒、年下の子供等に向けられることで、ますます裏に隠したもう一人の自分が育ってゆき、抑え付けようがなくなってくる。

第五に学校、教師との関係である。

先生は理由をあまり聞かずに一方的に悪いと決め付けるので先入観を持っていると不満に思ったが、先生を相手にするのは面倒で無視することにしたので、先生や学校には特に恨みはない。

少年はいたずらグループの一人だったが、存在感は薄かった。卒業直前の九五年二月ごろ、少年が土師淳君をたたいたので注意すると、少年は「このままだと人を殺すかもしれん」と言ったが、本気とは思わなかった。

二年の時、女子生徒に「ばい菌ごっこ」といういじめをしたので注意したが、じっとにらむので、これまでにないタイプの生徒と思った。

今年二月の女児殴打事件は、その前後の言動から、犯人は少年ではと思った。事件後、被害者の親が「犯人はそちらの中学生だから、生徒の写真を見せてほしい」と言ってきたのを聞いた教師もそう思った。

五月十三日の同級生への暴行で少年は「人の命はアリやゴキブリと同じじゃないか。しかし僕の命は大事」と反論、異常な発想に驚いた。報道で知った通り魔事件は少年の仕業だろうと感じた。

教師は、父親以上にその存在自体が煙たいものとして、始めから相手にされず無視されている。この事から、学校や教師に何も問題や責任がないという結論を出してくるのは、早計である。

いじめを注意した教師をじっとにらみ返しているその目つきに相当の憎悪が隠されていたからこそ「これまでにないタイプの生徒」という言葉になったのだろう。

「無視」「シカト」とは母性文化日本において、暴力以上に最高の敵意を表す表現方法である場合があるからである。(「無視」は非力な女が取りうる最大の暴力でありその反対は、子供に対する母の無言の圧力ともいうべき「期待」である)

無限の憎悪、憎悪の極限が他人、学校と教師、社会の無視、「積年の大怨」という表現と残虐な実験となって現れていると見るべきではないか。

第六に少年本人の深層心理である。

九三年四月に祖母が死んだのがショックで、祖母の命を奪った死に抑えきれない好奇心がわいた。死を理解したいとナメクジやカエルを殺して解剖、なんとなく理解したつもりだったが、満足感が続かず、小学六年生のころから猫を殺し始めた。

猫を殺すのに満足する自分と、嫌悪感を持つもう一人の自分を意識するようになった。前者に好きな字を組み合わせ「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」と名付けた。

卒業直前の九五年二月ごろ、少年が土師淳君をたたいたので注意すると、少年は「このままだと人を殺すかもしれん」と言ったが、本気とは思わなかった。

中学入学後は猫では満足できなくなり、人の死を理解したいという欲望を持った。どうしたら人は死に、死後どう変化するのかなどを考え、人を殺すときの感覚についてホラービデオや漫画を見て空想を膨らませていった。

二人を殴った瞬間、理性や良心を失い、一線を越えてしまって、後は何をやっても構わないと思うようになった。人の死を理解するため、自分が死をつくり出さなければならない、つまり人を殺さなければならないと考え、第一段階として「人間の壊れやすさを確かめるため」実験することにした。

小学六年のころ夢に現れた「バモイドオキ神」の存在を信じてきた。通り魔事件を起こした三月十六日の夜中に目覚め、心のどこかで実験はいけないことだと思ったので正直に同神に報告することにした。拝むため、具体的な姿かたちが必要となり、ノートに同神の顔を描いた。

第二段階の人の死を自分でつくり出す行為の実行を聖なる儀式「アングリ」とし、成し遂げれば同神から「聖名」をもらうというストーリーを作った。これらの言葉は自分でつくった。学校に行くと実行対象を探す時間がなくなるので欠席することにした。学校で問題を起こし、先生から怒られて欠席するという筋書きを考えた。

(この項未完につき、加筆修正します)


9月26日 (金) 「懲役13年」という作文

容疑者少年の新たな内面を知る重要な「作文」が今日公開された。

3月16日の女児通り魔事件後の4月初めごろにリポート用紙に手書きで書いたものを、友人にパソコンで清書させていた「懲役13年」と題する文章がそれである。 約900字で、5つの段落からなるこの文は、一見大人びた言葉で「俺」と「魔物」との二つの人格が争う心の葛藤を吐露した「詩」のようにも見える。

コントロールできなくなる直前の、少年の犯行当時の二つに分裂した心理状態を知る極めて重大な資料といえるが、反面具体的な記述に欠けているため、どこまでが彼の友達にも見せるための「作品」としての創作乃至模倣なのかも含めて客観的なコメントをするのは難しい。asahi.com報道によれば、 

「この作文を友人に見せた約1カ月後、「犯行メモ」で明かした「筋書き」に沿って同級生を殴りつける「事件」を起こし、不登校を装うきっかけとした後、男児殺害に及んだとみられる。

また、男子生徒は女児通り魔事件についてこの友人に「竜が台の事件は、おれがやったんや。酒飲んでいたから、意識がはっきりせんけど、80%はおれがやったんや」などと話した 」

という。(ボールド引用者)

この報道が事実だとすると、少年の精神が少なくとも女児通り魔事件犯行時においては、かなり正常に自己同一性が保たれており、決して「二重人格」として責任能力を問えない錯乱状態の内に犯行が行われたのではないことを明らかに示す、重大な証拠となろう。(そもそも14才で二重人格という概念が成立するはずもなく、自我形成期における両義性といったほうがまだましだろう)

また、このパソコンで清書することを頼まれ、女児通り魔事件について告白された「彼の友人」というのが、犯行声明で相談相手としてあげられた「世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人」と同一人物なのかという点も、インターネットに現れた「酒鬼薔薇」の文字の件とも関係し、気に掛るところだ。

母親の事情聴取にあった

息子は思い通りにならないとすぐに怒り、善悪が分かっていない面がある。学校ではいじめをしたり、友人にワープロで作らせた脅迫文を女子生徒に送ったりした。

とされるこの「友人」についてもそうである。

内容については当時未だ14才の少年が書いたにしては、始めの「犯行声明文」より更に表現が抽象的になっているのが目立つ。同年齢の子供たちと比較しても、完成度は低いが、かなり文才が立つことだけは確かであろう。最後に附されたモノローグはダンテかゲーテの悪魔主義的地獄下り紛いである。

こういう自己の内面を客観的に見つめられる思春期を迎えた才能が、今回のような短絡犯罪に向かわず、文芸、芸術のような創造的方面へと、両親なり、学校の教師なりの力によって導かれていたならば、それなりの存在と社会的評価を得られ、あるいは――悪魔主義で売り出した谷崎潤一郎のように?――日本文学を背負ってたつ才能へと開花したかもしれないことを思うと、非常に残念である。

社会には、この少年より更に過酷な心理的自立における両義性的な自己同一性危機を、独力で、もしくは周囲の力を借りてりっぱに乗り越えている幾多の名も知れぬ青少年が存在していると十分に推察されるからである。

この地獄下りから生還し乗り越えた者は、芸術家になる原石的資格を得るであろう。

 

以下にその全文をasahi.comから引用掲載する。改行が一部不完全もしくは読みにくい箇所があるのを、少年本人には不満かもしれないがartemis側で修正してある。


参考資料D

9月26日付け朝日新聞朝刊掲載 「懲役13年」と題する少年の作文全文

(ボールド部分は引用者)

1.いつの世も・・・、同じ事の繰り返しである。

止めようのないものはとめられぬし、

殺せようのないものは殺せない。

時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・

「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う心の独房の中・・・

死霊の如(ごと)く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、

”何”が見えているのであろうか。

俺(おれ)には、おおよそ予測することすらままならない。

「理解」に苦しまざるをえないのである。



2.魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、

あたかも熟練された人形師が、

音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。

それには、かつて自分だったモノの鬼神のごとき

「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。  

とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。

こうして俺は追いつめられてゆく。

「自分の中」に・・・

しかし、敗北するわけではない。

行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。



3. 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように

外見も怪物的だと思いがちであるが、

事実は全くそれに反している。

通常、現実の魔物は、本当に普通な”彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、

実際、そのように振る舞う。

彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう・・・

ちょうど、蝋(ろう)で作ったバラのつぼみや、

プラスチックで出来た桃の方が、実物は不完全な形であったのに、

俺たちの目にはより完璧(かんぺき)に見え、

バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと

俺たちが思いこんでしまうように。



4. 今まで生きてきた中で、

”敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。

良き敵、悪い敵、愉快な敵、

不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。

しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬ

ちっぽけな存在であることに気づいた。

そして1つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。

「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」



5. 魔物(自分)と闘う者は、

その過程で自分自身も魔物になることがないよう、

気をつけねばならない。

深淵(しんえん)をのぞき込むとき、

その深淵もこちらを見つめているのである。


          「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、

              俺は真っ直ぐな道を見失い、

              暗い森に迷い込んでいた。」


この心の内に住み着いた「魔物」との闘いは、「酒鬼薔薇聖斗」と名付けた小6当時の「供述」、中3になってから乗っ取られるようにして人格を入れ替えたかのような「犯行声明」の次の箇所と比較して読むことが重要だと思われる。

***

猫を殺すのに満足する自分と、嫌悪感を持つもう一人の自分を意識するようになった。前者に好きな字を組み合わせ「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」と名付けた。

***

やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

 だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない

 そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

***

つまり、「小学六年のころ夢に現れた「バモイドオキ神」」のお告げにより実行したイニシエーションの殺人儀式アングリにより、それまでの13年の「人の世の旅路の半ば」までは

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う心の独房の中」に

「懲役13年」を食らって閉じ込められていた「死霊の如(ごと)く立ちつくし、虚空を見つめる魔物」が、いよいよ「酒鬼薔薇 聖斗」というホーリーネームを戴いて外の世界を舞台として暴れだし、社会とマスコミに挑戦状を叩き付けるに至ったのである。

まさしく彼は「魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、 気をつけねばならない。」の自戒をこれ以上守り切れなかったのであろう。


10月2日(木) 行為障害

神戸連続殺傷事件で容疑者の少年に対し8月4日から60日間に渡り続けられた精神鑑定が神戸家裁(井垣康弘裁判官)に提出され、正式には未公開の情報が一部漏れてきた。それによると、少年は米国精神医学会の「精神疾患の診断統計マニュアルDSM-W」というアメリカ式鑑定基準でいう「重傷の行為傷害」及び「性傷害」(いわゆる性的サディズム)があると判断されているらしい。

2年前の保護者依頼による神戸のカウンセラー鑑定では「注意欠陥多動性傷害」とされていたが、いずれも、心神喪失や心神耗弱の状態や精神病と認められるものではなく、責任能力は保たれていると考えられる。

どちらにせよこれらの診断は精神の本質的構造に迫るものではなく、反社会性異常行動を便宜上パターン化して分類した鑑定家側の管理概念にすぎず、真実の核心には程遠いものである。

  1. いじめ、威嚇
  2. 武器の使用
  3. 人に残酷な身体的行為を与える
  4. 動物に残酷な身体的行為を与える
  5. 放火
  6. 万引き
  7. 夜間遅くの外出
  8. 学校を怠ける

などの15項目中、1年以内に3項目以上当て嵌まっていることがこうした鑑定の下される基準とされているようである。

実際、これで見る限りでは軽度の行為傷害とは、いわゆるどこにでもいる「不良」「ワル」とさほど異なるものとは思われない。大人で言えば「犯罪予備軍」や「ヤクザ」は大なり小なり何らかの「行為傷害」を抱えているのではないか。そして最後にいわゆる反社会的犯罪行為こそが生きがいとなる「サイコパス」等の凶悪犯罪常習者の一群が、重度の行為傷害に該当するとも考えられる。

しかし勿論、これらは単なる神戸家裁に送る鑑定書類に記入するための現象マーキング行為で、我々が一番知りたいと思っているその異常行動の原因について何ら情報を与えるものではない。そもそも社会構造が根本的に異なるアメリカの鑑定基準を日本にあてはめることの妥当性すら確立できているとは到底思えないのである。

脳波検査により器質的欠陥などは発見されなかったようである。

もちろん容疑者が未成年であるため、責任能力は認められても刑事罰を課すことはできない。

しかし如何に病気でないとはいえ傷害が重度の場合は放置しておくと、精神分裂病に移行することもありうるため観護措置、観察保護医療が不可欠とされ、少年は、この2日から審問開始された神戸家裁で処分が決定するまでの17日に医療少年院送致になる可能性が大きくなった。


10月18日(土) 医療少年院送致処分決定

神戸地裁が17日に開かれた最終第5回審判終了に伴ない審判後、異例な発表をした。通常は非公開で進行するはずの少年の処分決定の要旨を公開したのである。これは、A4判用紙8枚、計約4700字に及ぶ。

家裁の萩原昌三郎所長は「社会の注目を集めた事件であり、正確な報道のための資料提供の観点から、少年事件の秘密性及び審判の非公開の原則に抵触しない限度で決定要旨を公表した」とコメントを発表した

しかし18日付けasahi.comによれば

裁判所には、積み上げれば2メートルを超す捜査資料や200ページ近い精神鑑定書、家裁調査官の調査結果などが提出されたが、これらも公開はされなかった。審判の非公開を定めた少年法の下での限界といえるだろう。

とも言う。

この異例な公開処置に対し、少年の弁護団から10月23日、少年法の精神に反し、特に精神鑑定結果及び心理状況を述べた部分につき少年のプライバシーを不当に侵害するものとする抗議が行われた。この点は微妙なところだが上の事情をも考慮して‘Artemis Sampler’は要旨全文を公開することを支持する。

こうした抗議が行われること自体は、裁判所の独走を牽制する弁護側の社会的機能として大いに評価したい。(後記)

一応法的に決着が付けられたのは少年の逮捕から111日目のことだという。

少年と両親、付添人が出廷する中、付添人や家裁調査官の意見陳述と両親の陳述、少年への質問が行われた後、裁判官が「医療少年院送致」の保護処分決定を告げ、決定理由や抗告権などについて説明した。

井垣康弘裁判官による処分の骨子はある程度リークされ予想されていた通り、

  1. 少年を医療少年院に送致する。
  1. '97年2月〜5月に生じた6件の事件について、非行事実をすべて認定。
  1. 殺意の存在を争っていた3月事件は凶器としてハンマーなどを用意しており、確定的な殺意は認められないにせよ、死の結果があってもやむを得ないと認識していたと認められる。
  1. 警察の捜査において、鑑定で同一と確定していなかった犯行声明文を、さも筆跡物的証拠として成立しているかのように声明文のコピーを見せ5月事件の自供を引き出した行為は違法と認め同事件の供述調書全部を排除する。
  1. 少年の精神状況については、共同鑑定に沿い、年齢相応の普通の知能を有し、意識も清明であるとした。心理テストの結果にも精神病を示唆する所見がない。非行時においても、付添人の主張するような性格的偏りがあるにしても、成人の刑事事件にいう心神耗弱の状況にあったとまでは言えない。
  1. 非行をするに至った直前の心理的背景については、少年は、自分は他人と違い、異常であると落ち込み、生まれてこなければ良かった、自分の人生は無価値だと思ったが、この世は、弱肉強食の世界であり、自分が強者なら弱者を殺し、支配することができる、などという自己の殺人衝動を正当化する独善的理屈を作りあげていった、とした。
  1. 少年は、精神分裂病、抑うつ等の重篤な精神障害に陥る可能性あるいは自殺することもありうるので、これらを予防し治療するためにも、精神科医がおおむね週に一度は検診する必要がある。しかし良心が育っていき、性的し好も通常の方向へ発達改善される可能性をも認めこの処遇を決めた。

などというものであった。

その他18日神戸新聞報道によれば、

法務省大阪矯正管区は十七日、連続児童殺傷事件で医療少年院送致の処分決定を受けた少年(15)を東京都府中市にある関東医療少年院に収容する、と発表した。少年事件の処分で収容施設名を公表するのは前例がないという。

精神医学的治療が可能な医療少年院は関東と京都医療少年院(京都府宇治市)がある。管区外への移送理由について同管区は、非行地から離れることによって少年の心理的安定を維持できるなど、と説明した。

などである。

10月18日付け神戸新聞から、処分要旨を引用する。例によって赤文字、ボールド部分は引用者によるものである。


少年処分の決定要旨

 神戸の連続児童殺傷事件で、神戸家裁が十七日、発表した処分決定要旨の全文は以下の通り。

 第1 主文

 少年を医療少年院に送致する。

 第2 認定した非行事実

 少年は、

 1 平成九年二月十日午後四時三十五分ころ、神戸市須磨区内の路上で、小学校六年生の女児(当時十二歳)の姿を認めるや、突然、鞄の中に持っているショックハンマーで殴ろうと思い立ち、同女に対し、取り出したショックハンマーで、その左後頭部を一回殴打する暴行を加え、よって、同女に対し加療約一週間を要する頭部外傷の傷害を負わせた。

 2 上記日時場所において、上記同様、小学校六年生(当時十二歳)に対し、上記ハンマーでその右後頭部を一回殴打する暴行を加えた。

 3 同年三月十六日午後零時二十五分ころ、同区内の路上で、通行中の小学四年生の女児(当時十歳)に対し、未必の殺意をもって、鉄のハンマーでその頭部を殴打し、よって、同月二十三日午後七時五十七分、頭がい粉砕骨折を伴う高度の脳挫傷により死亡させ、もって同女を殺害した。

 4 同日午後零時三十五分ころ、同区内の歩道上で、通行中の小学三年生の女児(当時九歳)に対し、未必の殺意をもって、刃体の長さが約十三センチメートルのくり小刀でその腹部を突き刺したが、同女に加療約十四日間を要する腹部刺創及び外傷性下大静脈損傷等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。

 5 同年五月二十四日昼すぎころ、自宅を出て自転車で走っているとき、同区内の小学校付近の路上で、小学校六年生の男児(当時十一歳)と偶然出会い、とっさに、同児ならば、タンク山頂上付近まで連れて行き、そこで殺せると思い、同児を「向こうの山に亀がいるから、一緒に見に行こう」と言って誘い、同日午後二時すぎころ、タンク山頂上のケーブルテレビアンテナ基地局施設の入り口前に連れて行き、同所で、殺意をもって、後ろから右腕を同児の首に巻き、締め付けながら同児を倒し、次いで、あおむけにし、馬乗りになって手袋をした両手で首を絞めた後、自分の履いている運動靴のひもを抜き、そのひもで同児の首を絞め、よって、即時同所において、同児を窒息により死亡させ、もって、同児を殺害した。

 6 同月二十五日午後一時ころから午後三時ころまでの間に、上記施設の中で、床下から上記男児の死体を引き出し、金のこを用いて上記男児の頚部部分を頭部と胴体部分とに切断し、同月二十七日午前一時ころから三時ころまでの間に、その頭部を中学校正門前に投棄し、もって、死体を損壊し、遺棄した。

 第3 殺意を争った非行事実3および4の各事実について

 非行事実3および4について付添人はいずれも、少年の殺意を否認する。

 しかし、これらの非行は、少年が凶器として、あらかじめ用意した重さ約一・五キログラムの鉄のハンマーまたは刃体の長さが約十三センチもあるくり小刀を使用して、ハンマーでは頭部を殴打し、くり小刀では腹部を刺しており、いずれも攻撃を加えている個所が人体の枢要な部位であるから、攻撃した回数がそれぞれ一回限りであることを考えると確定的殺意までは認められないにしても、仮に死の結果が生じてもやむを得ないとの認識であったと認めざるを得ない。

 第4 少年の警察官に対する供述調書等の証拠能力

 証拠を検討すると、以下の取り調べ状況を認めることができる。少年は、警察官の取り調べに対して、二月の事件(非行事実1および2)と三月の事件(非行事実3および4)については自白したが、五月の事件(非行事実5および6)については、自白しなかったが、当時、警察で集めた証拠の中で、筆跡鑑定は最も証拠価値が高い位置にあった。

 科学捜査研究所が上記声明文の筆跡と少年の筆跡とが同一人の筆跡か否か判断することは困難であると判定したため、逮捕状も請求できず、任意の調べにおける自白が最後の頼りであった状況において、物的証拠はあるのかとの少年の問いに対し、物的証拠はここにある旨言って、机の上の捜査資料をぱらぱらとめくって、赤い字で書かれた上記声明文のカラーコピー等を見せるなどして、あたかも筆跡鑑定により、上記声明文の筆跡が少年の筆跡と一致しているかのように説明し、その結果、少年は物的証拠があるのならやむを得ないと考え、泣きながら自白したというのである。

 取調官がこのように少年を説明したことは、もとより違法であり、同一取調官に対する少年の非行事実5および6についての供述調書全部を、刑事訴訟規則二○七条により本件少年保護事件の証拠から排除する。

 他方、検察官は、少年に対し、「言いたくなければ言わなくてもよいのはもちろん、警察で言ったからといって、事実と違うことは言わなくてもよい」と明確に告げてから少年の供述を求めているから、いわゆる毒樹の果実の理論の適用はない。従って、少年の検察官に対する供述調書およびそれらの供述調書の中で触れられている証拠物については、証拠排除の理由がない。

 第5 非行時における精神状況

 付添人は、少年には基本的人格の偏りがあり、その偏りは著しく、サディズム・思いやりの無さ・衝動的爆発的に行動する傾向を併せ考えると、本件非行時、成人の刑事事件で問題となる心神耗弱の状況にあったと主張する。

 鑑定人二名の共同作成の鑑定書(以下、両鑑定人の証言を含めて「共同鑑定」という)は、少年の非行時の精神状況についての鑑定主文において、少年は、「非行時、現在ともに顕在性の精神病状態にはなく、意識清明であり、年齢相応の知的判断能力が存在しているものと判定する。未分化な性衝動と攻撃性との結合により持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった。

 非行時並びに現在、離人症状、解離傾性が存在する。しかし、本件一連の非行は解離の機制に起因したものではなく、解離された人格によって実行されたものでもない。

 直観像素質者であって、この顕著な特性は本件非行の成立に寄与した一因子を構成している。また、低い自己価値感情と乏しい共感能力の合理化・知性化としての『他我の否定』すなわち虚無的独我論も本件非行の遂行を容易にする一因子を構成している。

 また、本件非行は、長期にわたって多種多様にしてかつ漸増的に重篤化する非行歴の連続線上にあって、その極限的到達点を構成するものである」としている。

 共同鑑定は、少年を医学的に検査並びに診察した上、心理テストの結果も踏まえ、少年に十二回にわたり問診するなどして判断した。

 その内容も十分首肯できるものであり、これと少年調査票、鑑別結果通知書等他の証拠と照らして検討すると、少年は、年齢相応の普通の知能を有し、意識も清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もないのであって、心理テストの結果にも精神病を示唆する所見がないと認められる。従って、少年が本件各非行時、付添人の主張するような性格的偏りがあるにしても、成人の刑事事件にいう心神耗弱の状況にあったとまでは言えない。

 第6 少年の成育歴と本件非行に至る心理的背景

 少年は、長男として出生し、少年の両親や家族から期待されてその後生まれた弟たちと比較して厳しくしつけられて成長した。そのため、少年は、次第に、両親、とりわけ母親に対して自己の感情を素直に出さなくなっていった。

 少年が小学校五年のとき、少年らと同居していた祖母が亡くなった。祖母は、厳しいしつけを受けていた少年をときにはかばってくれ、少年は祖母の部屋に逃げ込んだりしていた。この祖母の死とのつながりは不明であるが、このころからなめくじやカエルの解剖が始まった。そして、この傾向は進み、小学校六年のころは猫を捕まえて解剖するようになった。

 しかし、中学一年に進学すると、部活動や両親の定めた門限などで時間的余裕がなくなり、猫を捕らえて解剖することもできなくなりそのころには、少年の猫殺しの欲動が人に対する攻撃衝動に発展していたが、現実に人を攻撃すれば罰せられるため、その後、二年近くは、殺人の空想にふけることによって性衝動は空想の中で解消され、抑えられていた。

 しかし、次第に、現実に人を殺したいとの欲動が膨らんできて、少年は、学校に通ってはいたものの、学習意欲がうせ、教師に心を開かず、友達と遊ぶこともなく、タンク山で一人で遊び、自宅でも、一人で昼間からカーテンを閉めて薄暗くして過ごし、雨の日を好み、殺人妄想にさいなまれていた。このような状況にあって、少年の母親には少年の気持ちを理解することはできなくなっていた。

 少年は、自分は他人と違い、異常であると落ち込み、生まれてこなければ良かった、自分の人生は無価値だと思ったが、この世は、弱肉強食の世界であり、自分が強者なら弱者を殺し、支配することができる、などという自己の殺人衝動を正当化する独善的理屈を作りあげていった。

 このような心理的状況を背景に二月の非行(非行事実1および2)が偶発的に行われ、次いで、三月の非行(非行事実3および4)が人間の壊れやすさを試すために実行され、ついに、五月の非行(非行事実5および6)に及んだ。

 第7 処遇の理由

 少年は、表面上、現在でも自己の非行を正当化していて、反省の言葉を述べない。しかし、少年鑑別所の中で恐ろしい夢を見たり、被害者の魂が少年の中に入り込んで来たと述べるなど、心の深層においては良心の芽生えが始まっているようにも思われる。

 ただし、今後、表面上反省の言動を示し始めても、それだけで少年が改しゅんしたと即断せず、熟練した精神科医による臨床判定(定期的面接と経過追跡)と並んで、熟練した心理判定員による定期的心理判定を活用すべきである。これらによって、少年に、表面上だけでなく、好ましい方向への根本的変化が表れつつあるかどうかを追跡し、判定の慎重を期すべきである。

 少年は、自己の生を無意味であると思っており、また良心が目覚めてくれば、自己の犯した非行の重大さ、残虐性に直面し、いつでも自殺のおそれがある。

 また、少年は、精神分裂病、重症の抑うつ等の重篤な精神障害に陥る可能性もある。これらを予防しあるいは、早期に治療するためにも、熟練した精神科医がおおむね週に一度は検診する必要がある。

 少年は年齢的に、人格等がなお発展途上にあるから、今後、普通の人間のような罪業感や良心が育っていく可能性がある。また、性的し好も通常の方向へ発達改善される可能性がある。

 そのためには、少年を、当分の間、落ち着いた、静かな、一人になれる環境に置き、最初は一対一の人間関係の中で愛情をふんだんに与える必要があり、その後徐々に複数の他者との人間関係を持たせるようにして、人との交流の中で、認知のゆがみや価値観の偏りを是正し、同世代の者との共通感覚を持たせるのがよい。

 また、社会的な常識や良識を持たせたり、他人の気持ちを察したり、相手の立場を配慮して、自己表現できる力を付けさせる等、現実的な対人関係調整能力を身に付けさせるためには、具体的な行動訓練により、一つ一つ教えていく必要がある。

 なお、少年の両親、特に母親との関係改善も重要である。少年の処遇について共同鑑定は鑑定主文において、少年法上の具体的処遇についてまで言及はしないが、次のように述べている。

 「この少年は、本件一連の非行が予後の厳しさを示唆する種類のものであり、また、現在まことに活然としているとはいえ、年齢的に人格がなお発達途上にあることを考慮すれば、罪業感や良心が今後自覚される可能性が全くないとはいえず、その自覚をとおしての更生に希望を託するほかはない。この直面化には熟練した精神科医の接近法を要する。しかし、良心あるいは罪業感は両刃の刃であって、直面化の過程で、分裂病、重症の抑うつ状態、解離性同一障害等の重篤な精神障害が生起する可能性もある。少年は今後これらの好発年齢に入る。さらに、少年に対して法を無視した制裁の危険も否定できない。以上のすべてを考慮すれば、隔離状況で今後の精神的変化に対応できる境遇が望ましい」

 そこで、被害感情について触れる。被害感情は、察するに余りある。当然のことながら厳しい。

 殺害された小学校六年生の男児の両親とは、少年の両親は、まだ直接出会っていないが、殺害された小学校四年生の女児の両親とは、最近、弁護士立ち会いのもとで、直接謝罪しており、その際、小学校四年生の女児の両親は、「少年を見捨てることなく、少年に本件の責任を十分自覚させてください。再び同様の犯罪を繰り返さないように、少年を十分指導監督してください」と述べたが当裁判所は、少年および少年の両親はこの亡くなった女児の両親の言葉にこたえる責任があると考える。

 いつの日か、少年が更生し、被害者・被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている。

 なお、本決定と同時に処遇機関に対して、個別処遇の一層の充実を図ること、収容期間は少年の十分な更生がなされるまでとすること、長期の収容による弊害が生じないようできる限りの配慮をすること、少年の治療、教育には精神科医、臨床心理家等の専門家によるスタッフで当たること等処遇に関する勧告を行った。

 また、該当の保護観察所に対して、保護者および家族に対して少年の更生に必要な援助を直ちに開始すること、その援助には必要に応じて精神科医等の専門家を当てること、少年院と緊密な連携を図ること等の措置を執るよう環境調整命令を出した。

Copyright © Artemis 1997

―――以下新しい情報が入り次第、順次継続して追跡分析します。――




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