ある関西のキリスト集会の信者のブログです。とりあえずテスト的に運用してみます。
 
NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その7
 
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 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、3章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

ノイズの多い社会の中で

 現代の社会では、非常にノイズの多い社会である。ノイズを意図的に増やして、それで空間と時間を満たしてきた社会である。人工音なしの音の真空の時間も空間もかなり限られる。とはいえ、音が全くない音の真空の時空間は昔からなかったわけであるが、トランジスタラジオの発売以来、音に関する空間は与件から自分で変えていくものへと変わっていった。トランジスタラジオ、ラジオカセット、ウォークマン、iPadをはじめとするシリコンプレーヤーが実空間に個人の好む人工の音楽や音を持ち出していくことを可能にし、それが当たり前になった。
 騒々しい工場で働いていたり、大家族の中で生活していたりしたら、そこから離れて、人けのないところに行って、すがすがしい開放的な気分に浸りたくなる。多くの人と一緒にいるのが好きな人でも、時にはうんざりして本の世界にのめりこんだり、長い散歩に出かけたり、雑音から離れて何かを考えたくなる。

 ほとんどの人は長期にわたるまったく孤独を望んでいない。生まれながらの恥ずかしがり屋で内向的な人でも、普段はずっと一人でいることを選ばない。(クリスチャンであるとはp.47)
 鳥の鳴き声、川のせせらぎ、波の音が雑音かどうかは別として、人為的な音環境からの脱却ができるところにまで、人工的な音源を持ち込もうとしたのが現代という時代であろう。そして、個人の世界をどこにでも持ち込もうとしたのが現代という時代である。ある面、公共的な音環境からの脱却を目指して、結果的に孤独な社会に向かっていくという非常に悲惨な現実がある。この辺りのことは、ナウエンの「開かれた手で」にその種の言及がある。
 個人的な世界の中に閉じこもりつつ、孤独であることに耐えられないのが現代人であるという、実に複雑な現状が生まれている。
 現代日本の若者の中で「ひきこもり」(ヒッキーと呼ばれる)という現象が確認されているが、彼らは彼らで引きこもっているだけなのではなくて、自分たちの関心のある領域に関して、コミケと呼ばれるイベントで交流したり、コンビニやまんだらけ、アニメイト等の巡回警備(要するの雑誌・同人誌やグッズの確認)をしているのである。あるいは、ネット上の掲示板やツイッターで炎上を含めて交流していないというわけではない。


ヒッキー(ひきこもり)を扱った現代劇のポスター


まんだらけ

アニメイト

コミケの模様

社会生活の重要性
 N.T.ライト先輩は、現代社会での人と人とのかかわりの重要性を指摘した上で、それを改変している西側社会における人間関係の貧しさを次のようにご指摘である。

 社会生活なしに自分がどのような存在であるかを知るのは難しい。私たちは、自分の生きる目的や存在の意味を自分自身のうちに、また自分の内的生活のうちに見出すだけではなく、家族の中で、表通りで、仕事場で、コミュニティーで、街で、国で、共に分かち合うように造られているものだ。ある人を「一匹狼」ということがあっても、それは悪い意味ではなく、変わった人である、というだけの話である。
 人と人のかかわりにはいろいろな形態がある。現代の西洋世界で不思議なことの一つは、これまで当然のように思われてきたかかわり方を改変(さらに縮小)してしまったことだ。(同書 p.48) 

 人が社会的動物であるがゆえに、社会生活は必要だし、その社会の中で、そして社会として定義されてこそ、自分のレゾン・デートル raison d'etre が確認される部分がある。

 ところで、牧師先生の社会人経験の有無が時々話題になることがある。たとえば、KGKの山崎元総主事の「社会経験という名の偶像?」、のらくら者の日記の「「社会経験」は偶像か?」やこれらの公開討論を経て生まれた拙ブログの「産業社会の変遷とキリスト者の労働観 かなり長い突っ込み!」等である。

 牧師は社会人として認められないと主張される人々もいる。その根拠として、一般の企業社会や、学校や、役所などで、教会外組織で、対価を得るという経験が少ないことを批判しているのだと思うのだ。

 しかし、幼小中高の教員及び大学教員は、基本的に学校以外の組織からの対価を得たことのない人が多い。それが問題だと考える人もいるようであり、一部の自治体などでは、1週間とか1月とかの期間限定などで、企業とか、役所で体験就労してみるとかいうプログラムもあるところもある模様である。個人的には、一時的に行って体験就労して学べる程度のことは多寡が知れていると思うので、あまり意味はないように思うが、ないよりマシ、一応お茶を濁すような形で、ポーズとして制度化されている側面が多いなぁ、という気がする。

 しかし、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、という言明があるが、はたしてそう言い切ってよいのだろうか。教会が孤島や人里離れた山の上、砂漠の洞穴内にあるような修道院の場合のように、社会から完全に遊離した存在であれば、教会は社会的存在ではないし、牧師は社会的生活がなりかねない。しかし、孤島や人里離れた山の上にあるような修道院のような場合でも、そこに複数の修道士や信徒がいるならば、教会は内部的には社会という構造を形成するだろう。かなり偏ってはいるが。その意味で、何らかの形で、どのような人でも、幅広い地域社会の一部を形成してなくても、社会生活を送っているという意味で、社会人であるように思う。では、一般の企業で偏りがないかと言われたら、偏りはあるのである。町工場には町工場の偏りがあり、大工場には大工場の偏りがあり、商社には商社の偏りがあるのだ。それはアダム・スミス先生が分業の利益を発見したころから、延々と続く偏りではある。

 そもそも、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、というような言明は教会が一般社会に生きる信徒と一般社会の一翼を担う司祭・牧師とで教会が構成されている以上、基本的に社会的存在であるという、根本的な社会理解に瑕疵が存在すると言えるのではないかと思う。

 ところで、地域社会における人間的なかかわりは、共同作業(たとえば水利管理等の農作業)や地域における祭事等で形成されてきた。しかし、近代、とりわけ、啓蒙時代を経る中で、人と人の直接的なかかわりはかなり排除可能な形に形成されてきたし、それを可能にするように近代の計画型都市(所謂団地)が形成されてきた。新興住宅地という計画型都市には、その計画の中に寺院もなければ、神社もなく、もちろん教会もないところが多い。その代わりのものとして、都市計画者は、申し訳程度に交流が生まれるといいなぁ、と思いつつ、コーナーパークを設置し、非宗教化されたほぼ使われることのなかった集会所を設置するにとどまった。これは、この分野の都市計画にかかわった者として、反省はしているが、そもそも論として才能がなかったので、自ら手を下さずに済んだのは、ラッキーだったと思っている。

 そして、地域の祭事は、観光イベント化するか地域商店街の売り上げ倍増計画となるか、社会貢献事業化し、人が集まるための施設でもあった地域の宗教施設と人との関係は行政的な枠組みの中で考えられるようになり、行政のコントロールの中でのみ人と人がかかわることが模索されてきた。

 しかし、『新しい中世』という書籍で、インターネットが爆発的に普及する以前に、現在のようなヴァーチャルな連携が予測されているが、現在は、リアルな空間の中でのかかわりではなく、かなりバーチャル空間の中の連携がリアル空間の中で時に表面化しているように思う。たとえば、アルカイダやISISなど中での人々のかかわりは、基本ヴァーチャル空間でかなりの計画がなされ、それが現実空間に表れてきて、人々驚かすことになる。

コミュニティとしての暴走
 コミュニティは、時に暴走することがある。自分たちだけがユニーク(独自性をもつ唯一の存在)であることは間違いないが、それが行き過ぎると、自分たちだけが正しい、自分たちだけが重要で他はダメという価値観にとらわれることが過去これまで起きてきた。
 もちろん時には、まさに邪悪なことにもなり得る。強烈な団体意識は、コミュニティー全体を間違った方向に走らせてしまうことがある。コミュニティーが一つにまとまり、堅く結束してしまうと、古代アテネの人々のように横暴になり、勝ち目のない戦争を傲慢にも始めたりする。もっとも最近の出来事では、ドイツのほとんどの人がアドルフ・ヒトラーに全権をゆだねる決定をした。それは、歴史の流れを変えた。
 コミュニティー自体は内輪でうまく機能しているようでも、その行き着く先が健全である保証はない。(同書 p.49)
 コミュニティで生きるように招かれていると同時にコミュニティの暴走の両面をご指摘しておられるというNTライト先輩のご指摘は大事ではないか、とおもう。ここでは、古代アテネの例と、ドイツでのナチスドイツの例が出されているが、日本では、戦争中の隣組制度や江戸期以来続く村八分の精神性等で、時々我が国の歴史の中で出てきていた。

 その意味で、1935年以降、アジア大陸での戦争に向かっていくとき、一億層火の玉といい、敗戦を迎えるや否や一億総懺悔という等、そのコミュニティ性は非常に強く、そして、一致した行動規範に従うことを求め、その結果悲惨を迎えたのではなかったろうか。




 ところで、キリスト教会では、コミュニティの重視と暴走の側面はカルトの問題として噴出してきた。カルト化教会は、カルトの組織内的には目的適合的(たとえ、それがそのカルトの代表者の生活をより豊かで安楽なものとするというものであるとしても)にはうまく機能していたかもしれないが、その行きつく先は不健全な例はいくつもある。たとえば、何度も紹介しているWacoを一躍有名にしたブランチ・ダビディアンや人民寺院の例もある。
 

ブランチダビディアンの戦争もどきで有名になったWACO, TX


人民寺院事件で残された遺体

 近代社会の中で、独裁の問題を考えるときに、特に発展途上国や経済的困窮状態にあった国家の中で出てきているという側面は、考えてみたほうがいいかもしれない。混乱状態にあるがゆえに、そこからの脱出を考えるという点で、強いリーダーシップが求められた結果であると言えるのではないだろうか。まぁ、混乱から脱出するための非常措置として設置したはずの制度であっても、制度ができてしまうと、それが独り歩きしてしまう例は多い。典型的には、ローマ皇帝の制度である。本来元老院での民主主義が行われていたローマという都市国家的制度からその危機に際して、ローマ国民を統合するために、護民官の代表者とその意思決定を迅速化するための後継制度がローマ皇帝の制度になっている。
 
最悪であるがそれ以外にない政体論

 政体論としては、現在の社会では、民主主義政体以外は考えられないが、君主制、立憲君主制、神政政体(旧約聖書的な君主制ができるまでの神が王であるとする政体)、貴族制、寡頭制と様々な政体が浮かんでは消え、消えては現れしてきたのである。
 今日の西洋世界のほとんどは、民主主義以外の生き方は想像もできず、そうしようとも思わないだろう。「民主主義」という用語は、すくなくとも「全ての成人に投票権がある」ことを意味し(過去には普通に行われていた女性や貧困層、奴隷を排除したシステムに対立する意味だが、それさえ過去には「民主主義」と呼ばれていた)、考えうる最も高い賛同を得ている。若し民主主義を信じないと言ったり、それに疑問を投げかけたりしたら、頭がおかしいと思われるか、少なくとも危険人物とみなされる。
 民主主義でもうまくいかないことがあるのは私たちも知っている。小さなレベルでも人間関係を正しく保てないのだから、大きなレベルでも保つことはできない。(同書 pp.49−50)
 民主主義は、現代の社会の政治制度の前提となっており、それ以外の制度設計は確かに、ほぼ想定し得ないし、想像するのも困難なほどである。民主主義でもうまくいかないことは、ウィンストン・チャーチルの次のことばに表れている。
 多くの政体が試みられてしたし、また、この世界の罪と非さんに満ちたこの世で取られて行くことだろう。誰も、民主政体が完全であるとは言えないし、すぐれたものであると言うことはできない。実際、民主主義は最悪の政体として存在しつづけている。ただし、これまで時に試みてこられた他の政体を除いてではあるが。
Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.


 実に人間関係というのは非常に難しい。そのことは、この前のミニストリーの出張講座でも取り上げられていたし、工藤さんの本にも、『よりよい人間関係を目指して』という本がある。このような本はこれまで多数出版され、人々に影響してきたとしても、なお、人間関係は難しいのである。

 人間関係が一致するのは、利益が一致する時である。これが一致する場合、細かい方法論でもめることはあまりない。問題は、理性の問題というよりは、感情の問題であり、対話の議論をする際の立場とその中で働く力学というものの影響は大きいように思う。最近世俗の仕事でエリアマーケティング論の授業で用いた以下のPersuasionに関する動画は、非常に印象深いので、ご紹介しておく。


説得の科学の動画 英語版のみ

うまくいかない人間関係と泣き笑い

 人間関係がうまくいくということと泣き笑いの関係について、NTライト先輩は次のように言っておられる。
 そのような問題(人間関係がうまくいかない問題)は、最も親しい関係(結婚関係)からもっと大きなスケール(国家観)に至るまで同じである。私たちは皆、共に生活するために造られていることを知っている。しかしそれは想像以上に難しいことも知っている。
 その大小にかかわらずそうした関係において、特により個人的でごく親しい関係にある人との場面では、人間関係に特徴的なしるしがおのずと姿をあらわす。笑いと涙である。(同書 p.51) 
 ここで、N.T.ライト先輩は、人間関係はうまくいかない、ということを明白にお認めである。このご指摘は重要だと思う。それをうまくいっているかのように糊塗することは、テル・エル・アマルナ文書の時代から行われてきた。

  例えば、「私は大王さまの足の下のサンダルの裏側の塵のようなものにすぎませんが、エジプトの大王さまはつつがなしや」と書き記しながら、その直後に「私 の厩舎の馬は意気盛ん、私の兵は装備充実し、戦車はいつでも出動態勢」と付け加えることを古代の欧は忘れなかったが。

 とはいえ、人間は草食動物が弱いから 群れなして生きるように群れを成しているのでもなく、共同体において、神の霊が働き、神の霊の顕現があるがゆえに共に集まるのである。それでも分裂と分断と 亀裂が存在するにしても。

 そして、その共同の生活の中で、笑いと涙が共有される経験をするのであろう。新約聖書に笑いの場面はほとんどない。しかし、イエスの発言を見る限り、一種、豪放磊落な笑いがあったような気がする。

  世間の人々から教会は聖人(より正確に言うと倫理的な人々という程度の意味だと思うが)の集まりだと思われているかもしれないが、キリスト教会の中は、聖 人の集まりであり、もめ事が起きない世界ではないことが多いというのは、キリスト教会の関係者ならおわかりいただけるのではないか、と思う。さようでなければ、 これほど、世の中に多用な教派が(特にプロテスタント派において)生まれるはずがないし、初代教父時代には、聖人といわれた人々が血相を変えて言い争いしていた風があるというのが、キリスト教の世界である。

 まだまだ続く







評価:
アンリ J.M.ヌーエン
サンパウロ
¥ 1,296
(2002-10-07)
コメント:良い。お勧めしている。ただ、翻訳が残念なところがいくつかあるのがちょっと残念。

評価:
田中 明彦
日本経済新聞社
---
(1996-05)
コメント:非常によいと思う。

評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(1987-06)
コメント:お勧めできると思う。

【2015.06.20 Saturday 05:45】 author : Voice of Wilderness
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「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(4)

今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」を読んで面白かったことを紹介してみたい。

輪廻からの解脱とは

 仏教思想の解脱を説明すると、そういう現実の世界から思想というか、観察あるいは観念の上で出ていき、その抜き差しならない、左様と反作用の世界の枠に捕らえられなくなることだ、とかごく簡単に説明していくと、時に、それは自殺することではないか、という人たちが出てくる。そのことに関しても、魚川さんはきちんと書いておられる。
 実際のゴータマ・ブッタは、もちろん自殺など勧めていない。少なくとも凡夫にとて、輪廻は現実存在する以上、自殺は(その悪業によって)状況をより悪化させるだけで、縁生の現象に翻弄される無常・苦・無我のプロセスは解脱しない限り死後もずっと変わらずに続いていくことになると、彼は考えていたからである。
 即ち、「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり、あるいはそこから目を背けつつ、快楽だけを追い求めて一生を浪費したりすることではなくて、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを割愛の滅尽によって乗り越えようとすることが、ゴータマ・ブッダ及びそれ以降の仏教徒たちの、基本的立場であった。(仏教のゼロポイント p.101)
 そう、概念の上でそれを客体視して、あるいは観察者として眺めて、それにとらわれて自分の生き方や考え方の処理する枠組みの動き(マヌーバー)が出来なくならないように考えるということがどうも、解脱であり、客観的な観測者の位置を保ちながら、それでも生き続けるというのが、どうも仏教的な概念らしい。つまり、思想により、無常や苦やから脱却しようというのが、ブッダが行ったことらしい。

キリスト教の苦しみとの比較

 このことをキリスト教的に見てみるとどうなるか、ということを考えた。苦の問題、絶望の問題は、キリスト教にとっても重要な問いであり、そのことをキリスト者として考えることくらいちょっとはある。そして、人間からみれば、好ましくないと思われる状態(たとえば、ガンとか、白血病とか、不治の病とか、事故や災害、あるいは信仰のゆえに殺されることすら)の中におかれるキリスト者が存在することも多々あることは知っている。
 その時、ミーちゃんはーちゃんが知っている範囲のキリスト教が言ってきたこと、聖書が言ってきたこととは、苦界にありながらもその苦界を神と共に生きることであり、また、神が我らとともにあると確信しながら生きることであり、その苦界に向かっていくことのような気がする。その意味で、ごくごく荒っぽくいって、修行とか瞑想により思想的に達観して割愛の滅尽など、考えたことすらないと思う。むしろそのずぶずぶの関係の中で生きることを「神が共に居てくださる」という確信をもって選択することの膨大な記録であると思う。
 新約聖書でもそうであるが、旧約聖書になるとなおさら、そうである。不甲斐ない自分の姿と苦しみを時に神に怒りを以て訴え続けながら、生きている人たちの記録であり、その苦しみを時に乗り越えられない中で、生きている人の姿に、自分自身を重ねてきた部分があったのだろうと思う。

ブッダは輪廻を解かなかった説と日本

 個人的には、基本ブッダは輪廻を積極的に説いたと理解していたので、両社は切り離せないものだと思っていたのだが、そうでない論者が日本に結構いたという記述を見て、あれれ、と思ってしまった。

 右のような諸点を確認した上で木村泰賢は、綿氏哲郎の示したような業と輪廻の世界観をゴータマ・ブッタの仏教を切り離そうとする解釈について、「かくの如きはあまりに突飛な説で、論外として可なりと思う」と評しているが、これは全くその通りだというしかないだろう。その種の「ゴータマ・ブッタは輪廻を解かなかったはずだ」といった主張は、本来であれば、この時点で命脈が立たれているべきものであって、それが現代日本でもまだ生き残っていること自体が、私にとっては不可思議だ。(同書 p.101)
と書かれていたが。まぁ、あっさり、きっぱりと「ブッダは、輪廻の概念の中の人です」と気持ちよく言い切っておられる。さらに、

 だが、既にみたように経典から知られるゴータマ・ブッダの仏教は、倫理的にも文献的にも業と輪廻の世界観と切り離しようがない以上、その癌は仏教の全身に広がってしまっている。
 そのように全身に転移した癌を「治療」しようとするならば、「患者」を切り刻んで殺してしまうしかないわけだが、「はずだ」論者はそれをやる。つまり、文献を自分の世界観にとって都合のよい形に切り刻んで、そこから自分にとって都合の悪い首長の含まれていない部分を取り出し、それを「本当の仏教」として提示するわけだ。(p.102)
 ここで、ガンの例が出ているが、実は、現在西洋でも研究と概念整理が進められている西洋における非従来型のシステム理解にWholisticとかWholismという概念が存在する。これは、従来の西洋型のものの見方があまりに分析的であり、木を見て森を見ずだった世界観から脱却して、森全体を、森の生態系全体で考えようという立場である。

分析する(Analysisということ)
 これには、ギリシア哲学というかギリシア科学が物質の本質とは、元素とは何か、何かを考えて以来の分析的アプローチの影響があるような気がする。分析し て、わけてしまって分かった気になり、全体を通しての影響を見逃してしまう、いわゆる木を見て森を見ず、をやってしまっていることは案外多いのではないか、とも思う。
 このギリシアの「ものとは何か」から出発した科学思想は分析的であり、こまかく分けていけば分かったとできる従来の西洋哲学的な思想の限界に気が付いた人たちが、システム論の世界や医療の世界で、現在実施しようとしているものであるが、中には、かなりオカルトチックなものも交じるので、かなり用心した方がいいかもしれない。まぁ、どっちせよ限界があり分らない、というのはいずれの場合もその通り、なのではあるが。
 この種の切り取り、カッペは、キリスト教ではよく見られる。典型的には、ディスペンセイション主義神学の立場に立つ人々においてその傾向が強い。自分の主義主張に合わせて聖書を切り張りし、そして、「はい、これがキリスト教です」と私のキリスト教をご提示なさる。それがいかに突飛な理解であっても。17世紀以降の近代社会と啓蒙主義の結果、個人主義化したキリスト教の残念な姿であるが。


とにかく細かく見ようとするAnalysis


カテゴリーエラーという問題
 人はどのような問題でも構想し、妄想することができる。それが本当に意味あることなのか、ということはひとまずおいておいても。質問しても、考えてみてもいいけれども、それがナンセンスなことも多いということは知っておいた方がよいであろう。
 解脱を証得するためにゴータマ・ブッダが説いたのは、今・この身・受・心・法の四念処を徹底的に観察し如実知見することであって、そうすることで、五蘊を厭離し離貪してげだつに達するというのが彼の教説の筋道だから、そこで輪廻に余計なこだわりを持つ必要はない、という考え方も間違ってはいない。縁起の理法を体得していない段階で輪廻について思索をすれば、それは例えば「一切漏経」でかたられているような、「私は過去世に存在したのか」「私は未来世に存在するのか」といったカテゴリーエラーの疑問にとらわれる結果を導くからだ。(pp.102-103)
 世の中の仕組みがよくわかっていない段階で、問題をとらえて、解決しようとすると、対処療法とも呼ばれるQuick Fixという解決方法とか、システム理論の世界で第3種の過誤(間違った問題を一生懸命に解く 近年の年金機構の個人情報漏れの議論は完全にこのパターンだし、朝日テレビの夜のニュース番組のキャスターのご主張とか、テレビ関係者のご主張は、完全にこのパターンが多いような気がする)として知られていて、本当にまじめに問題を解かなきゃいけない時に、そのことをせずに別の問題にすり替えて議論が進められてしまうということは多々ある。例えば、キリスト教界隈(クラスター)では、未だに創造論が正しいか、いや進化論が正しいかという不毛な問いを繰り返しているし、あるいは、プロチョイス(中絶容認)かプロライフ(中絶反対)かということの科学性や客観性を目指して、弁護士の金儲けの道具を作り出しているところがある。自分がどう考えるかということを言えばいいだけの話に、どちらが正しく、どちらが間違いか、という正邪論争で時間と資源の浪費をしているのであり、魚川さんの言うカテゴリーエラーの問題を解いておられるのだ。もう、いい加減にしたらいいのに、と個人的には思う。

 人間とは、つくづくメタ思考する(解脱の世界、悟りの世界、ニルヴァーナに達する)ことが難しいのだろうなぁ、と思ってしまう。




評価:
魚川 祐司
¥ 1,728
(2015-04-24)
コメント:仏教のわかりやすい入門書。おすすめできると思う。

【2015.06.20 Saturday 05:38】 author : Voice of Wilderness
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工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その1


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  よい本が多過ぎて、紹介したいのに、なかなかすすめられなかった本の一つが、本日ご紹介する本である。この書の冒頭部分にある記述が衝撃的であった。
信仰者の善意とも思える言動が、まかり間違えば一つの暴力ともなることを教える話である。(『真実の福音を求めて』 p.11)
具体的には本書を読んでもらいたいのだが、末期がん患者さんに対する教会の次のような態度である。
 この人を最も苦しめたのは教会の人々の祈り、またその熱心さであった。癒しを強調するその教会は、病や問題を抱えた人々のため日夜祈ることを以て隣人愛の表れとしていたから、朝に優に、その人のためのとりなしが教会全体の大きなテーマであったという。(中略)しかし、病状は人々の祈りとは裏腹に信仰悪化の一途をたどっていった。
 その人は私に言った。
 「先生、私は教会員の電話も、また教会に行くのも怖いのです。いや、怖くなってきたのです。特に牧師夫人の一言が…。」
 聞けばその内容は次のようなことだという。はじめは病のみならずその人の生活全般へのとりなしの祈りであったから、その人は人々の善意で孤立感から救われ、祈りの結果としての快癒を願っていた。ところが、病気が望ましくない方向に変わると、案の定、病気が回復しないのは祈りが足らないのではないか、信仰が足りないのではないか、という東夷詮索、叱責に変わり始めたという。
 (中略)事態が思うようにいかなくなると、ついにそのやるせなさを本人(病人)の方にもっていくのが常だからである。そしてその苛立ちは、この人にはもっと深い画された罪がまだあるのではないか、何か本人にかけがあるのではないかなどという怒りの反転ともいえる現象に発展する。(同書 pp.12-13)
 何、教会が悪意でしてこういうことになるのではなくて、善意の行き着いた先にこうなるのがかなわないのである。そして、人を遠ざけてしまうのである。自分たちがこれだけ祈ったら聞かれるはず、という思い込みがあるがゆえに、それが聞かれないときにおいて、「自分たちが祈っても聞かれないのは、病人が悪いからだ、問題があるからだ」という問題のすり替えをしてしまうのである。

 聖書は祈れとは書いてあるが、祈ったら聞かれるとも書いてない。まぁ、「もとめなさい。そうすれば与えられます」とは書いてあるが、「求めなさい、そうすれば、あなたが願った通りにそのものが確実に与えられます」とは書いていないような気がするなぁ。

こういう思い込みによる聖書のことばへの手前勝手な挿入ってのは案外多いかもしれない。そして、まず最初に何をもとめるのか、ということを忘れているのである。

 聖書は病気を治すことを求めよ、と書いているのではなくて、「神の国とその義をまず第1に求めよ」と書いているのではないだろうか。「その義」に関しては、「クリスチャンであること」の冒頭3章位をご覧いただくとよいのではないか。

「一般化の危険」について

 一般化というのは、近代が生んだ最悪の病であると、個人的に思っている。要するに一般化とは、詳細な検討もなしに、みんな同じだ、と平均値に収束させてしまうことである。平均値とは、一種の多様性あるものの代表地であり、個別そのものでないことは、もう少し認識されてよい、と思っている。
 私たちは何か自分が特別な体験をすると、つい一般化してしまう弱さを持っている。(中略)
しかし、一人ひとりの生がみな異なるように、神のお取り扱いもみな異なるというのが実際だろう。
 また、信仰の体験談は励ましとなると同時に、つまずきにもなりうると言う現実がある。恵みの体験も使い方(表現)を間違えたら、人との断絶を作りかねない。
 例えば、一生懸命神の恵みを証ししているようでいて、いつの間にかそれが自分の自慢話をしていることが少なくないし、(中略)私たちはその優越感がつまずきの石になっていることに案外気が付かないものである。(pp.14−15)
 しかし、この一般化というのは、実に社会のあちこちに潜んでいる。「すべからく子供というものは、給食を喜ぶものだ」とか、「子供が音楽を奏でれば、それは喜ばしいものだ」とか、「いつまでも若いことが望ましい」とか、もう無茶な一般化が学校や社会でまかり通っている。そして、それが人を苦しめているのではないか。どんなにひどい味の給食やアレルギーや豚肉やエビに対する宗教的禁忌に関係なく食べさせる。ろくでもないことである。そんなもの喜んで食べられるはずがないではないか。それを喜んで食べろなどとは、もはや、罰ゲーム、ハラスメントである。そのようなハラスメントは、日本だけでなく欧米各国で起きた。その行き着いた先が、アウシュビッツではないか、と思っている。

 ドイツのユダヤ人迫害は、ドイツ民族は優秀であるべきであるという一般化と信仰の表明から出たことは忘れてはならない。

 しかし、本人は超真面目に証しているつもりでも、全く証になっていない事例には、過去何度か遭遇したことがあるし単に自慢話や見せびらかし、ひどい場合は、学問ごっこを信徒大会というか、修養会でした巡回説教者に出会ったことがある。しょうがないなぁ、と思っていたが、まぁ、それは、人間が罪あるものである故のことであろう、と思っている。

迷うことや疑問

 迷うことや質問を持つことは案外大事であり、とりあえず、現実的な問題に直面する中で、疑問を持っていく中で神学がこれまで形成されてしてきたことは、案外知られていない。
 前著『信仰による人間疎外』によって「信仰生活が楽になりました」という人たちが一番多く反応を示したのは、「健全な信仰は多分に、健全な不信仰を含む」という一文である。(中略)そういう反応を示した人たちの多くが、迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされていたからである。(同書 p.17)
 この迷いのない、決断主義というのか、陰のなさというのは、どうしたものか、と思う。まぁ、その辺が反知性主義が現象面で現れると、『迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされて』いるということに現われるのかもしれない。このことは、信徒だけではないらしい。まぁ、牧会者たちも信者でもあるのだから、ある面当然といえば当然であるが。
 このことに関するある牧師の反応が面白い。
 しかし、いったん信仰を持ってしまうと、私たち教会人の間には、『疑ってはならない』、『信じなければだめだ』という思いが強く、よい疑問を生み出す心が失われるのではないでしょうか。
 疑問に思うことがよく考えていることの裏返しであるとするなら、単純に疑うことは不信仰、というような発想は信仰の広がりを阻害する要因ではないでしょうか。(同書 p.21)
 じつは、こういう信仰の広がりが、実は神学を形成してきたことをご存じないということから来ているのかもしれない。しかし、それを口にできない教会というのは、どうなんだろうか、とも思う。まぁ、教会が大きくても、小さくても、こういうことは割と起きているようである。

 明石で実施しているナウエン研究会では、まぁ、教会でない、他教派から来ておられる、信仰のバックグラウンドが多様な方が来られるので、結構、びっくりするような根源的な質問が寄せられて、こちらがびっくりするとともに、案外聖書の内容が誤解されて語られていることが言語化されるシーンに出会うので、非常に面白いが、それと同時に深刻さを感じる。

 先に工藤先生の本に反応を寄せられた牧師の方がされたことが面白い。「いまさら質問箱」という取り組みをされたようである。 
 「いまさら質問箱」とは面白い発想である。というのは、私たちの中にはこの牧師が言うように一度教会員になってしまうと、素朴で単純な疑問が浮上しても、今更そんな初歩的なことを人前にさらすのを恥じる思いがあるからである。
 (中略)
 「人を怖れずに、それら(引用者註 疑問)を分かち合う友を作り、大切にしよう」という発想も、何か人を安心させる。わかるということは、何がわかっていなかったかということを明らかにする心の作業でもあることを考えると、新しい疑問の中に信仰の深化があるともいえるからである。
 (同書 pp.23〜24)
 この部分を読みながら、案外日本の教会は宣教地の教会としての使命が重すぎ、何が何でも伝道しなければ、ということに凝り固まってしまっていて、疑問を分かち合い、わかったことを考えるということは、牧師先生や神学者の人の頭の中だけの問題になってしまい、それを咀嚼した結果を食中毒や食あたりを起こしながら、そんなものだと思って食べているという実情があるのかもしれない。個人レベルでの新しい素朴な疑問の中に、案外重要な信仰の深化、それは個人のものであるかもしれないが、案外、牧会社の頭の中を、神学者の頭の中を揺るがしかねない重大なものが含まれてしまっているという可能性を忘れてはいないだろうか。

 ただ個人だけで独立して考えていると、いくつか問題が生じる可能性が高い。というのは、伝統や共同体に支えられない聖書理解は独善になりやすく、結局寺社や文化財への油脂噴霧事案のような突飛な残念な理解に行っても歯止めがかからないからである。

第2章 新たな律法主義の台頭から

 工藤先生は面白いことを言っておらえる。社会のある傾向である。
 私の個人的な経験を言うと、私たちの現実においてはその生活の大半が”ねば志向”に支配され、”ねば志向”で営まれているために、それが信仰生活にも持ち込まれている危険性に人は案外気づいていないのではないか、ということである。ところが、この断想(藤木・工藤著 『福音は届いていますか』ヨルダン社 p.62)は、真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招くというのである。 (同書 p.25)
 この”ねば志向”も、個人的には近代という時代が生まれたものではないか、と考えている。”ねばよ〜”とか”ねば”としょっちゅううるさい根バール君ではないが、近代は、すべての人が真面目に、同じように行動することが求められた時代でもある。そのことは、モダンタイムスで、チャールズ・チャップリンが極めて先鋭的に切り取ったものである。


チャールズ・チャップリンのモダンタイムスの予告編
 
ねばーる君
 
 工藤先生は、「真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招く」とまでご指摘である。現在のキリスト教界の一部は、この真面目さのトラップに引っかかっており、延々と「勘違い」をし続けているのかもしれない。真面目さが社会の基礎概念の割と評価の大きな柱の一つである日本社会では、この真面目さに基づく信仰生活の勘違いの場、というのはあるかもしれない。社会全体がそもそも真面目に生きることをよしとするがあまり、このような勘違いの影響は大きいかもしれない。

宗教と脅し

 ところで、カトリック信者の大半が未成熟な人が多いことに心痛めた司祭がトゥルニエを尋ねたときのことを次のように書いている。
 トゥルニエの答えは「プロテスタントも同様で、過半数は正規なく物悲しげで打ちひしがれている」というものであた。そしてトゥルニエは、その原因は聖書にあるのではなく、宗教家が間違った理由で人々を脅したところにあると指摘する。その脅しとは、いま私が述べた道徳主義のことである。(同書 p.26)
 道徳主義的な脅しの問題は、実は、19世紀から20世紀前半に世界中を跳梁跋扈した禁酒法時代と案外深いかかわりがあるのではないか、と思う。もちろん、パウロは道徳は無視してよいなどとは書いていないし、道徳は尊重されるべし、とは書いているが、神格化すべしとまで書いていないのではないか、と思う。

 明治期において、妾問題、あるいは売買春問題が大幅に改善することに、キリスト教的な道徳や婚姻概念や女性解放運動に関しては、確かに非常に大きな役割を果たした。しかし、とはいっても依然として、疑似売買春もどきのAKB48総選挙が社会でもてはやされ、一方で所謂売春宿は相も変わらず亡くならないという事実、不倫は公然と横行しなくなったものの、それが横行していることは、藝能欄が教えてくれる。あれが特殊な社会のものだから記事になるのではなく、普通の人との共通性が感じられるから売れるのではないだろうか。

 それはさておき、行き過ぎた道徳主義とでもいうべき、ある狭い枠の中でしか人々を生きることを強いるような宗教家の間違いや、それに基づく脅しが、人々を苦しめ、キリスト教に失望させ、ナザレのイエスは魅力的だが、キリスト教は嫌い、という人々を大量に生んできたのではないだろうか。

 ある所で、クリスマスメッセージを語った後、後かたずけをしながら、ある女性信徒の方が、得々と、「今日は神の裁きまで語れたわ」とおっしゃったことがある。個人的には絶望を感じた。神の愛を語り、神の招きを語り、神の愛をコンパクトにまとめてまだ、ナザレのイエスをご存じない方にお話しした直後に、このご発言である。この方にとっては、私の話は、神の愛ばかりを語りすぎ、神の義が欠けていた、ということなのだろう。それはそうかもしれない。愛の反面としてではなく、もし、裁きだけが語られたのだとしたら、と考えると恐ろしい。誰も、怖い、恐ろしいイエスには寄っていかないにもかかわらず、神の裁きを語られてそのことの印象だけが残っているとしたら、とこの時のクリスマス会の時のことを考えると、今なお絶望的な痛みを感じている。

 確かに、ジョナサン・エドワーズ先輩は、神の怒りを語った。しかし、そのコンテキストは、キリストの愛に甘え、いい加減になっていく、神の愛をある程度熟知している人々に対してであったはずであるが、それでも、彼の説教で、気絶するもの、自殺するものが量産されたのである。それを神の愛を六すっぽ知らない人々に言う意味がいかほどのものであろうか、と思うときに、パターンにはまった聖書理解の伝達の恐ろしさを今なお思い出す。

脅しの恐ろしさ

 工藤信夫さんは次のようにも書く。
 ここで、私は改めて思うことが一つある。それは脅しの恐ろしさである。(中略)それだけ問題を感じるなら、その教会に行くのをやめ、別の教会に移ったらよさそうに思ったものだが、ほとんどの人はなかなかそうはしなかった。(中略)そのことの背後に、教会を離れたら神の裁きに合う、罰を受けるという罪責感があるらしいということであった。(同書 p.28)
 こういう、最初に出会った教会を離れると神の裁きに合うという理解は案外多いかもしれない。本当はそうでないにもかかわらず、こういう現象は日本でかなり見られるようである。まぁ、日本の牧師先生クラスタでも、他教派のことはあまりご存じない先生方が結構おられることに驚くし、まぁ、特定の教会の牧師をしておられたら、自分のところからいなくなられると、結構それはそれで経済的にしんどいし、教派内で、いろいろ言われることにつながるらしいので、信徒を死守したい気持ちがあるが、あわない人々を強制的にそこにとどめる意味というのはないなぁ、と思う。

 ちょうど、カルト問題を考えていたころ、京都におられる村上さんという方の教会で開催されたカルト問題の私的研究会にお邪魔した時のことを思い出す。そこで聞いた話であるが、結局カルトは、この枠組みの内部は安全であるが、この枠組みから外れると、そこには悪魔が跳梁跋扈し、悪が渦巻く世界であるといって、カルト教会の枠内にとどめようとするということがあるらしい。そのことはそうであろうと思う。

 この背景には、日本の聖書学校や神学校と呼ばれるところで、神学的な系譜をたどる歴史神学が軽視されていることがあるかもしれない。歴史神学を少しでも考えてみるとき、歴史的な神学の発展史を振り返ることなので、その多様性と幅広がりを味わうことができるはずなのだが、伝道だけを考え、そのための促成栽培的な教育をしている場合においては、このあたりの本来のキリスト教の豊かさ、幅の広さ、奥行き、あるいは懐の広さのようなものが失われてしまうかもしれない。

神の座を占める道徳

 道徳が神の座を占めることに関しては、このブログのいくつかの記事で示してきたが、そのことに関して、工藤さんは次のように言う。
 こうして人にはいつしか、宗教と道徳主義を同列においていることに気づかないという悲劇が起こる。しかし私が注目したいのは、道徳主義の決定的欠陥は、すぐさまそれがさばきの精神に結びつっくということである。自分を責め、そして人を責める。そのうえ、人間はすぐ自分を絶対化しやすく、他の人ととの比較においてその優劣を競う決定的な弱さを抱えた存在である。そして道徳主義の中心は神ではなくて人間主義であるから、ことはさらにややこしくなる。(同書 p.29)
 確かに、道徳主義は実は、神中心的な顔をしながら、工藤さんが言うように、人間主義、人間中心主義という偶像崇拝なのではないか、と思う。キリスト教の皮を被った、偶像崇拝なのである。イエスがパリサイ派の律法学者や、サドカイ派の律法学者を厳しく叱責し、批判したのは、神のことだと言いながら、神から人を遠ざけた、そのことではなかったか。ユダヤの神は豊かに愛し、豊かに許したもうたことを人々の目から隠しつつ、人々に表面的な律法の文言の順守を迫ったことにあったのではないか。そして、結果として、本質的な神との交わりからの排除を果たしたことを批判されたのではなかったか。

 地理情報学でよく知られていることの中に、国民性による形の取り方の違いというのがある。ある地形の形を計算機上で下にひいた航空写真をもとに図形を製作することをアジア系の人々に依頼し、その面積を測定すると、平均値としては実面積より小さな図形の面積になる傾向があることが知られている。つまり、日本人に依頼すると、線の内側で形の内側をとるということが意図的に行われるために、面積がやや小さめに出やすい傾向があるようなのである。ところが、アメリカ人にそれをさせると、平均値は、実面積に近づく傾向があるらしい。このことを受けて、私の指導教員のお一人の方は幼稚園以来、塗り絵をするときにも線をはみ出さないように教える日本の教育の生ではないか、ということをおっしゃっておられたが、個人的には、これは北斎漫画など、浮世絵版画の影響だと思っているし、であるからこそ、日本は世界に誇るアニメ大国になれたのだと思う。線を超えないで色塗りしてくれるので、工数が格段に減るからである。


北斎漫画

よいこクリスチャンと教会

 よいこといっても、この方々ではない。

よゐこ

あるいはこの雑誌でもない。

ミーハー氏が生まれたころのよいこ
(オリンピックアスリートが着ていた制服もどきのデザイン)

 要するによい子とは、大人の道徳律に疑問も先挟まず、それに対して挑発的な態度もとらず、素直に見える人物である。それは抑圧につながるのではないか、と工藤先生はご指摘である。
 さて、教会における道徳主義の強調は、臨床的に言えば”よい子づくり”を起想させる。先ほどのトゥルニエの表現によれば、お行儀のよい子である。ところが、精神科臨床でも、よいこは後々多くの問題を引き起こすことが広く知られている。(同書p.30)
 これについてあまり意識することはなかったが、先にあげた小学館の現在は統廃合されて幼稚園になった雑誌のよいこというタイトルがあらわすように、基本的には、ある種の日本の親にとっての理想形であったわけである。

 日本は、あまりに、育てやすい「よいこ」ばかりに目が行き、本来的な人間の姿ばかりに目が行き、また、日本のキリスト教が明治期以降、幅広く、西洋倫理、ないし西洋道徳であると伝道の方便として用いられてきたために、結果として、キリスト教の新鮮さ、キリスト教としての重要性を失っていたような気がしなくもない。残念なことではあるが。そこらのことに関して、工藤さんは次のようにお書きである。
 果たしてキリスト教の目標は、よい子づくりなのだろうか。あるいはまた、私がこれから考えようとしている放蕩息子の兄のように、いつも父の家にいて一見何ももめ事を起こさない人物を作り出すことにあるのだろうか。(同書 p.31)
 教会でも、問題行動を起こした起こしたということで、すぐに陪餐停止とする教会もないわけではないと聞く。また、教会出席をさぼると、すぐ電話がかかってくるというような教会も聞く。教会は学校や会社のような合目的的組織だろうか、と最近はふと考えることも多い。教会が、伝道を主にした共同体であれば、それは合目的的な組織となりうる。日本では教会が、そのような合目的的組織に成り下がっているのかもしれない。

キリスト教世界の見落とし

 工藤さんは、教会が問題を抱える背景に、本来の人間理解に関して見落としてきたものがあるのではないか、ということに関して次のようにお書きである。
 こうした問題の根底には、私たちがそれを良しとし、また良しとされてきたキリスト教理解に多くの見落としがあったのではないかということである。(中略)人間側の問題、たとえて言えば聖書理解の浅さ、狭さ、偏り、あるいは教会という組織、集まりそのものが持つ構造と限界、またそこに集い、参加する人々の様々な不適際がこうした病理現象を生じさせているのではないかということである。
 そして、これらの悲劇に加担する決定的な要素は、自分の犯している精神的暴力に一向に気づこうとしない自己義認、あるいは日に気づけない感性の鈍さ、自己正当化、人間の絶対化という高慢さにある。(同書 p.31)
 本日紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の紹介記事ではないが、本来、神から共同体を形成することに招かれていながらも、その共同体を自らの精神的暴力性(これは罪の結果であると思うが)で内部から崩壊させていき、そして、自己正当化、人間の絶対化という偶像崇拝に走るのである。

 つい最近、香ばしい話題を提供していただいた、日本国内の寺社や城郭などに油撒きしておられたキリスト教関連団体の代表の方の、根源的問題も、この自らの精神的暴力性、自己正当化、人間の絶対化があるのではないか、と思っている。これに関しては、村上密さんが次のブログ記事「奇妙な儀式」で、その問題をご指摘である。詳細は、ブログ記事をご覧いただきたい。

 また、I do not know who I amのブログでは、似たような事例が【体験談】弟子訓練って牧師にいいように使われるってことでしょ で取り上げられていた。実に悲惨な「弟子訓練」を経験された「たけのこ」さんのお会いになった、教会の自己正当化、人間の絶対化の結果の精神的暴力性の悲惨な結果が、紹介されていた。残念なことだるが、これもまた、現在の日本の教会の姿ではある。わが身の反省として、この問題をとらえていく必要があるなぁ、と思う。

 次回放蕩息子の兄について



評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:絶賛おすすめ中である。

評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,188
(1993-07)
コメント:10年以上たっても、その重要性は失われていないあたりが。

評価:
Alister E. McGrath
IVP Books
¥ 1,412
(2007-01-30)
コメント:日本語訳がほしい気がする。

【2015.06.17 Wednesday 07:20】 author : Voice of Wilderness
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NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その6
 
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 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、3章から紹介したい。義の一部を形成する人間観の関係性を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

結婚候補の人たちを前に
 マリッジカウンセリングというか、結婚式の準備のために、司祭や牧師が事前準備態勢を組むことはよくあることである。まぁ、それなりに準備が行って、そして、相手の希望などを入れながら、司祭や牧師が結婚式のメッセージを考えたりすることは多い。中には、結婚する二人を置き去りにして、この時とばかりに盛り上がって聖書メッセージをしようとする牧師先生のお姿を見ることもあるが、そういうとき、カトリックとか聖公会とかの説教はまぁ、それなりに、という教会の姿の方がいいかなぁ、と思うことはある。

 若いカップルが私の書斎のソファに座って、互いの目をじっと見つめ合っている。結婚式の打ち合わせに来た二人だ。これほど完全な相手はいない。自分達が待ち望んできたまさにその人だという発見で心ときめかせ、夢に満ち溢れている。
 それでもだれもが知っているように、それこそ天国でであるかのような結婚生活が、ときには地獄から祖お遠くないところで終わりを迎える。互いへの思いやりが、華々しい新しい生活を約束するかに思われる時も、統計が示しているように、その先の生活をどう過ごすべきかを知らなければ、すぐに金切り声をあげ、泣き叫び、離婚のための弁護士をやということになるだろう。
 何かがおかしくないだろうか。お互いをそれほど求めていながら、どうして二人の関係は難しくなってしまうのか。(クリスチャンであるとは p.45)
 こういう部分を見ていると、結婚する前は、以下の「世界は二人のために」というかなり昔の歌謡曲で歌われている。それは、スピードワゴンのコントのように、「あま〜〜〜い」といいたくなるようなものである。なお、この「あま〜〜〜い」をはやらせた、井戸田君は、彼の「あま〜〜〜い」関係を継続することに失敗しているという悲喜劇があるあたりが。


世界は二人のために (最近、結婚式で聞かされることはほぼない)


スピードワゴンのコント

 こうやって始まるものの、日本では芸能人の離婚騒動に伴うゴタゴタは話題になるが、アメリカでは、結婚する段階で、離婚に備えて結婚前に契約書が交わされることが多いらしい。それをどう回避するかのために、Divorce Lawyerという専門職があるらしい。また、それが儲かるらしいのだ。そのDevorce Lawyerの結婚と離婚にまつわるコメディーがディボースショーという映画がある。また、離婚の悲惨を描いた映画にローズ家の戦争という映画がある。なお、このタイトルは、バラ戦争という西洋史で超有名な戦争名がそのタイトルの下にひかれている。


ディボース・ショー(Intolerable Cruelty)の予告編 


ローズ家の戦争の予告編

神からの呼びかけとしての共同体形成
 神からの呼びかけとして、共同体形成があることに関して、N.T.ライト先輩は、次のようにお書きである。
人間関係のすべての領域は、もう一つの「ある声の響き」』を作っているといういうことである。その声は、無視しようと思えばそうすることもできる。しかし、その声は十分大きく、(中略)多くの善良な人が張り巡らせている防御を、いとも簡単に突き抜ける。人間関係とは、霧の先にあるものを指し示すもう一つの指標であって、その先により良い道に導く道があり、だれもが行ってみたいと望んでいる場所に導いてくれると。(同書 pp.45−46)

 社会が組織なしには成立しえないように、人間は人間関係の中に招かれているのだろう。世の中に数多くの組織が形成されているが、それは人間が一人では、考える葦でしかなく弱い存在であり、草食動物(たとえばバイソンやインパラといった動物が、集団行動を通して身を守るという行為が合理的である以上のものがあるのではないか、と思われる。

 経済学者は、物の見方が功利主義的、合理主義的に出来上がっているので、こういうことも、経済学の中でも産業組織論分野の数理モデルで示そうとし、その背後にネットワーク外部性があるからだ、と経済原理からのみで説明しようとする(それはそれで、尊い知的活動である)が、この後出てくる結婚などは、ネットワーク外部性などの理論では説明できない人間行動である。結婚や恋愛の現象面での経済学(たとえば、男性がプレゼントする背景の合理性やHome Developersの行動における合理性など・・・)は構成できても、ある特定の男性とある特定の女性観における恋愛そのもののを対象としたゲーム理論的解説は不可能であるし、それはしない方が研究者の現実の生活と評価にとって益が多いようには思う。やったらいかんとは言わないけど。

結婚にまつわる悲喜劇
 結婚にまつわる悲劇が非常に多いということに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。幸せを目指いして、結婚が行われ、何百万円もかけて、行われている。芸能人などの場合は、何億円もかけて結婚披露宴が行われたりするものの、間もなく離婚会見が開かれることに我々は習い性になっているかもしれない。

一世代前の西洋文化圏で暴露された結婚生活の実態にもかかわらず、さらには、独りでいたい願望、夫婦共稼ぎの重圧、膨れ上がる離婚率、新たな誘惑の世界に囲まれるかもしれなくても、相変わらず結婚への人気は驚くほど高いからである。イギリスだけでも何千万、いや何十億というお金が、毎年結婚式のため使われている。にも関わらず、演劇や映画や小説のほとんど半分の割合、恐らく新聞では、四分の1の割合が「家庭内の悲劇」を取り上げている。(同書P.46)


 まぁ、先に紹介したディボース・ショーやローズ家の戦争などをはじめとする映画やスポーツ新聞の芸能欄(正確に言うと芸能人に関するゴシップ覧)、あるいは、女性自●とか、女性セブンとかのJRの吊り広告を見ているだけで、このあたりのことはすぐ自明ではないだろうか。女性雑誌の一定の割合は、洋の東西を問わず、この辺のゴシップが大半を占めており、こういうのは売れるらしい。ない時には、近所の人のゴシップで満足していたのかもしれないが。まぁ、世にラブコメの種は尽きず、という感じである。

 大英帝国では、米国ほど結婚や離婚はカジュアルのことではないようであるが、米国に行くと、ステップペアレントが2桁、というような例はざらにみられる。教会の司牧はマリッジカウンセリングに奔走させられ、また、それを専門にした心理カウンセラーもいる。そして、アメリカ社会は数多くの離婚と数多くの再婚が繰り返されながらぐるぐるとまわっていく。

以前ヤンキー牧師こと水谷潔氏の講演( 緊急公開 神学ALG KOBEクリスチャンライフセミナー ユース:クリスチャンの本音トーク恋愛→結婚→家庭編 水谷潔先生 講演録  )で触れられていた、平成のドンファンこと、石田純一の名言あるいは迷言

人は判断力不足で結婚し、忍耐力不足で離婚し、記憶力不足で再婚する

ではないが、結果的に人間は、霧の先に進みながら、そこに何かあるのではないか、とそこに突進し、そこに行ってみると、何もなかった、あるいは見つけたのは悲惨であったというパンドラの箱よろしく、最後に希望を求めながら、その箱を開けては失望し、また、希望を持ちつつ霧の中に分け入っては失望し、という問題を繰り返しているのかもしれない。

孤独を嫌いながらも、孤独を理想とする社会

キリスト教の世界での人間関係の考え方について、N.T.ライト先輩は次のように書いておられる。人間は、社会の中に生きる存在としてそもそも想像されていると。

私たちは互いのために造られている。それでもその関係をうまく保ち、そして実りある喪にするのは帆tん度の場合、驚くほど難しい。(中略)私たちは皆コミュニティに属す、社会的なものとしてつくられていることはよくわかっている。それでもドアを堅く閉めきり、夜一人で床を踏み鳴らしたくなることが多い。同時に、自分は皆離されている、自分を憐れんでほしい、誰かが助けに、慰めに来てほしいと願っている。(同書p.46−47)

 この部分を読みながら、「クリスチャンであるとは」をお出しになっているあめんどうさんで出ていた、ヘンリー・ナウエン著『愛されているものの生活』を思い出した。この愛されているものの生活は、和解ユダヤ人の独身の世俗のジャーナリストにキリスト教とはどんなものかを説明し優として書き始めたものの、実は、世俗の非キリスト者向けにキリスト教とは何であるか、と示す本ではなく、キリスト者向けに、キリスト者とは何であるのか、を説明する本になってしまった感のある本であるが、現代人の孤独と個人の生活の分節化という社会の現状その中で、キリスト教とはどのようなものとして回復されるか、ということを欠いた本である。安全、安心を求めるあまり、牢獄のような閉鎖的なアパートに住むことは、実な自分自身で、刑務所に入っているようなものではないか、ということなどが書かれていて、そこからの解放者としての開かれた社会に生きるものとしてイエスは招いていることを示した名著である。

 現代の社会に生きる都市的な人間のある側面について、N.T.ライト先輩は以下のような表現をしている。
 私たちは皆、他の人と関わりながら生きている存在であることを知っている。しかしどうすればよい関係を保てるかがわからない。(同書p.47) 
 この指摘は現代社会の混乱の一つをついていると思う。かかわりが大事であると分かりつつ、人間関係で生み出される軋轢や混乱、不愉快なこと、それに伴うめんどくさい諸々を避けていきたいという思いが強いのは一つの現状ではないだろうか。問題は、それをどう処理していけるのか、という方法論がいまだに見当たらないことである。それは、キリスト教の世界、とりわけ、プロテスタントの世界を見れば非常によくわかる。ごくわずかな聖書理解の違いゆえに、キリスト教会はどんどん分離していて、他の教会群とかかわりながら生きていけばいいものを、その細かな違いが問題になり安っく、このような動きができていないところもあるように思う。原罪2016年に神戸で開かれる日本伝道会議のプレイベントが開かれているし、来年2016年は伝道会議そのものが開かれる。こういう試みをすると、すぐ、そんな教会合同、エキュメニカルな…とかいう批判の声が出るのだが、そのこと自体が、かかわりながら生きることをどう良い関係を保ちつつ可能なのかということが分かっていないことを示しているように思われる。

 次回へと続く



評価:
ヘンリ・ナウエン
あめんどう
---
(1999-11-18)
コメント:大絶賛、おすすめである。

【2015.06.17 Wednesday 07:06】 author : Voice of Wilderness
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2015年春季福音主義神学会東部研究会へ行ってきた


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 福音主義神学会東部研究集会が2015年06月15日に行われたが、そのご講演者鈴木浩先生のご紹介が司会の三好先生からあった後、東部の理事長大坂先生からのご挨拶があり、2017年に宗教改革500年年を迎えることもあり、最初は義認論の理解を考えたが、その前景として罪の問題を取り扱うことにした。なお、鈴木先生の歴史講義はわかりやすいと正木校長から折り紙付きであるそうである。

原罪論、イントロダクション

 本日は、原罪論を学んできたので、そのお話を致したい。この40年近く、教会でも神学校でも原罪論を取り上げないようになっている。この奇妙な沈黙は何かということを考えたい。確かに、神学に流行があるが、流行に乗るのが嫌いであるため、みんながやらないことをやることにした。博士論文は「原罪論、その歴史的要因と教理的本質」というタイトルで書いた。原罪論はそもそも、アウグスティヌスが、ペラギウス主義者との対論の中で取り上げた内容である。

カトリックとルーテル派の対話について
 2017年宗教改革500年、ヴィッテンベルグでカトリックとルーテル世界連盟が共同で礼拝をあげる予定である。一致に関するルーテル・カトリックの協議会で議論しており、バチカン10名ルーテル世界会議が10名集まり、対話をし、洗礼と交わりの成長について研究を現在やっている。

 アウグスブルグで義認の教理に関する共同宣言を出している。カトリックとの対話の中で、最も重大な争点となったのが義認論であるが、基本は一致の確認が取れている。この出版に5年ほどかかったが一番の障害になったのは、神学用語の統一であった。

 カトリックとルーテルの共同宣言の日本語版が今年の2月に教文館から「争いから交わりへ 」というタイトルでルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳出ている。この本は過去500年の評価をまとめたものといえ、ルター神学の再評価がなされた。500年がカトリック教会の一致に関して犯した罪、ルーテル教会が教会の一致に関して犯した罪の問題を扱い、その反省の上に出版されている。このようなエキュメニズム委員会を年1回開催1週間で開催している。

 第2バチカン公会議が原因となって、このような一致への動きがみられるようになった。第2バチカン公会議以降、カトリックは相当変容した。それまでのカトリックは、宗教改革について、トリエント公会議での決定が継続しているほどであった。

 現在、ルーテル神学校卒業後、大学院行くとなると、基本上智大学に行って学位取得するコトンある。その意味で、カトリック教会とルーテル教会の距離が接近した。細かい点で違いがあるが、かなりの部分で、違和感がないものになってきている。これらも、カトリック教会との話し合いの成果であった。

宗教改革400年の回顧

 さて、いま500年は一致に向かっているが、では、100年前、400周年の時はどうだったか。内村鑑三が、400周年を記念して大会を開いた時には1200人もの人が集まった。また、その時はいくつかのキリスト教派が結成されるなど日本のプロテスタントの盛り上がりがあった。

 しかしながら、カトリック側では、カトリック教会の『声』という雑誌(広報誌)が4回ほど宗教改革を取り上げているが、『ルッテル(ルターのこと)が誤れる教義を申し立てて400年になるが、その宗教改革は、宗教界悪である。』というノリであった

 現代のキリスト教界の最大の悲劇は、教会が多くのグループに分裂していることではないだろうか。我々は、一致に向かっていくべきなのではないか。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 こんなこと言ったら、改革長老教会では、なんか批判が飛んできそうであるけれども。その辺がカルバン派のカッティングエッジであられる改革長老派からはブーイングが聞こえてきそうであるが、そのあたりが、ルター派と改革派の違いのような気がする。)
ルターがしたことは何だったのか?
 95条の提題のビラをルターが1502年10月31日にヴィッテンベルグ教会の扉に貼ったことに始まる。ザクセン選帝侯フリードリッヒ皇帝が立てた学校であり、この教会の扉は、学校での公式掲示板としての機能をも持っていた。その意味で合法的な張り紙であったが、内容が衝撃的であったのだ。同じ張り紙でも、神学的に重要なのは同じヴィッテンベルグ大学の公開掲示板でもある北側の門の扉にカールシュタットが1516年9月16日に張り出した151条の提題であるが、これは社会的な影響を持たなかった。

 聖遺物の収集と展示が当時の流行りであり、このヴィッテンベルグ大学はかなり持っていた。その一般公開がされる日に合わせて、この提題を出しているし、これらの公開日には、ヴィッテンベルグの周辺地域からも人が集まった。なお、10月31日は、All Saint Dayの前日でもあった。

 ルターの提題の内容は、1週間でドイツ全土に広がった。掲示板に張り出したのは、正確にはいつなのか問題には解決がついていない。実際には張ってないとか、いう説もあり、諸説ありすぎて詳細は知られていない。現在の大学入試に出るので、ルター、95か条の提題と宗教改革というセットで中身はそう知られていないものの、名前だけは知られている。

 高校程度の教科書では、現在のところその後の動きが全くフォローされておらず、教会分裂の段階でストーリーが終わっているので、今でも犬猿の仲だという思い込みが起きている。

 カールシュタットの151か上の提題は実際には。神学的にはアウグスティヌスに関する提題。はるかに重要な神学的議論を含んでいるが、95か条の方が有名になってしまった。カールシュタットの151か条の提題は、神学者だけの問題でしかなく、これに対しルターの95か条は市民を巻き込んだものであった。この時代の煉獄のイメージは、ラザロの話の苦しみのイメージで、そこでも代苦しむ。

 贖宥状のためにお金を透過した音がチャリンとなった瞬間に先祖は煉獄から天国へトラバーユされることになっていたらしい。この時代先祖供養は、民衆の最大関心事の一つであった。

アウグスティヌス擁護者としてのルター
 こまかい話を省いてしまえば、ルター先輩にとってみれば、アウグスティヌス先輩の超擁護派であり、当時の定説であったアウグスティヌス誤謬説に挑戦したといえる。また、その後、我々の意思は奴隷的拘束の中にあるとした、奴隷意志論があるが、これは当時無視された。
ルターは急進的アウグスティヌス主義者であり。アウグスティヌスの持つあいまいさを解消した。自由意思としては、自ら悪を選択するほどの自由意思はある。自由意思は結果的に悪しか選択しない。

 自由意思を名目的には肯定しながらも実質的否定をしている部分がある。実質的にも名目的にも自由意思があるとした。アウグスティヌスの持つあいまいさをきっぱり取り去って、自由意思は全くウソ、単なるフィクションであるに近いことまでといった。

 この過激さをメランヒトンらは心配したが、ルターはアウグスティヌスの原罪論をかつてないほど強化した。よいことをするとき、無条件に、神の前で、かつ人の前でも良いことをやっていることになるのか。常に、神の前でよいことをしていると言えるか。ルターの発言は非常に刺激的であり、時に言い過ぎだという印象を与えるものが多い。ルターは、神の前でと人の前で、を分けた。ルター以前のスコラ哲学では神の前でと人の前で、を一緒にして議論していた。とはいえ、ルターは矛盾を抱えた議論をしている。神の前で、という領域限定で議論している側面がある。例えば、ルター先輩は、人々の前でよいことは、神の前では必ず悪だとまで言っている。

 それまでの原罪論は、基本的に現在は親から子へと向かうものであり、一種の生物学的運命論のようなものであった。

 オランジュ公会議は、西方の神学の基礎となっていたが、アウグスティヌスには、教理的な原罪論と予定論を取り上げた。原罪論を名目的に擁護しつつも実質的骨抜きにしてきたのが、ルターまでの西方教会の内実であった

幼児洗礼や聖餐とルター

 乳児洗礼、具体的に言えば、生後すぐの洗礼であり、ルターもこのタイプの洗礼である。人間は遺伝的に原罪を持つがゆえに断罪されねばならないとした中世カトリックは全部乳児洗礼であり、アダムから現在まで受け継いだ現在からの断絶をするのが、洗礼であった。現在の信仰者と違い、基本的には、自分の洗礼の経験を知らないのが当たり前であった。

 また、聖餐論の観点からは、アウグスティヌス以降カトリックは聖餐そのものが礼拝になるという構造を持っており、説教のウェイトは低い。事実上説教なくても構わないとする立場である。聖餐以外は周辺的であるとしているが、 逆にプロテスタントでは、説教のない礼拝は考えられない。とくにラテン語ミサなど、その意味の理解は気にしていない程である。

中世時代における教父研究と過激思想

 中世に教父研究が進む中でアウグスティヌスが読まれ、その中で原罪論と予定論を語っていることが判明した。予定論、現在論、教会論による穏健なアウグスティヌス主義と、急進的アウグスティヌス主義の戦いとなった。ウィクリフ、ヤン・フスは予定論と教会論の一体化を目指したが、これらの急進派は教会から追い出される。ことになった。ヤン・フスは火あぶり異端事件。ウィクリフは異端派と最終的にされ、死後墓が暴かれた。急進派の最後がルターであったが、社会自体がルターに対して、擁護的であり押しつぶせなかった。現在論を再検証し、強化したのがルターであり、予定論はカルヴァン主義者が中心となって、強化とその再整理をした。

西方と東方での原罪理解、人間理解の違い
 ルターは原罪論を考える重要性があるのではないかとした。西方教会は罪びととしての人間の普遍性を考えた。原罪とは、病気のようなもので、そこからの回復策が救済論という構造を持っている。その意味で、人間理解と救済理解はコインの両面であり、ローマ書5章、中でも5章12節に基づき、ラテン語の誤訳に注目して原罪論を展開している。

 ところで、東方教会は、死の普遍性を考えた。誰もが死すべき運命である東夷普遍性に立ち、人間は死んだが、最終的に神になるという理解を生み出した。

 宗教改革者たちは、目に見える教会と目に見えない教会があり、中世後期の過激派は、現実に存在する目に見える教会は、間違っているから行くべきでないとまで言い切った。

 義認論は、アウグスティヌス的前提があって有効であるが、中世を経る中で、原罪論というその前提が失われた。罪認識の深さに義認論のインパクトは比例するのであり、現在論が十分理解できないと、義認論は安易な現状肯定になるといえよう。
 
 現在、原罪論に関するあからさまな反論が行われており、イングランドの東方教会の研究者は明らかな半アウグスティヌス主義であり、アウグスティヌスは、キリスト教を変容させたとまで主張した。正教会での人間論は、神と協働するものという立場であり、正教会は、アウグスティヌスに同意できないのである。

 とはいえ、アウグスティヌスは西方の伝統になり、罪を性と結びつけた。そして、アウグスティヌスは、ローマ5章12節のウルガータの誤訳に基づいた理論構成になっているとされている。現在とは、全ての人が罪を犯したという理解を、アダムにおいて罪を犯したので、現在があるという立場であり、オランジュ公会議でもこの論理が使われている。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 時々外国人で、性交渉そのものが原罪だということを主張する人々がいるが、その根拠は、どうもアウグスティヌスにあるらしいことを、個人的には小山先生の富士山とシナイ山で知ったが、今回も改めて、そのことが焦点化した。聖書須藤というのは、なかなか厄介なものである。これに関しては、次回の質疑応答で紹介出来よう)
ウルガータ版ラテン語訳の原罪論の筋の良さ
 ただし、原罪論で、誤訳の方が正しい可能性が高い。このローマ5章では、アダムにおいて、とキリストにおいての対比がなされている。その意味で、アダムにおいて、という理解であろう。パウロは、時々肝心なところで、いい加減な表現がみられる。
 ギリシア系の正教系の神学者は誤訳の上に立てられているとアウグスティヌスを批判するが、誤訳の方がかえって正しく意味を伝えているのではないか。

現代における原罪に関する不可解な沈黙
 原罪の原罪論に関する不可解な沈黙がある。この結果、キリスト教を信じている人々の福音は、自己受容の福音となり、自分はこれでいいのだ、とするかのような理解が生まれ、大衆説教者、牧会カウンセラーの理解はそのようなものが混じっている可能性がある。

 罪はカトリックの道徳神学の中で語られ、特に性にまつわる神学となっていった。道徳は罪に関して沈黙している。50年前には、罪は具体的にどんなものが罪であるのかに関して、一般的理解があった。しかし、現在は罪に関して、それが、差別の問題や、消費優先主義、性差別という形の社会的正義の罪へと読み替えられている。特に、啓蒙主義時代以降、人間論がキリスト教界でも大きく変容しており、本来人間には尊厳ということはないというのがルター的な理解であり、尊厳があるのは、神だけであるというのがルターの本来の主張である。

 原罪は、義認論の危機を迎えている。つまり、現在という教理的背景を失った義認論となってしまっている。

幼児洗礼再び

 ところで、カトリックなどでは、嬰児洗礼を正当化したが、これも原罪とリンクしているのである。聖書に言う、信じているという前提が抜けおちている。その意味で、嬰児洗礼の正当化する論拠がアウグスティヌスを否定するとで成立しなくなる。嬰児洗礼をどう説明するのかが現代では難しく、かなり回避的な措置として、現在から救われるのではなく、ご夫婦お二人の子供が神にあって生まれるようにするために嬰児洗礼を施します、といっている。これはある主争点を避けているアプローチであるが、現実には嬰児洗礼の説得力がないのである。実際には壮年洗礼が増えている。

 確かに嬰児洗礼により信仰は形骸化する傾向があるが、嬰児洗礼が施される背景には、嬰児死亡率の高さがあり、この嬰児洗礼というものは、神学的正当化抜きで始まっている。現在では嬰児の死亡率が減少したので、嬰児洗礼自体が不要となった。

 ある文書の中に、洗礼は8日目まで待つべきか(割礼との対比)という議論があるが、キュプリアヌスは生まれたら即時に洗礼しろといっている。

 とはいうものの一方で洗礼を遅らせよ、という考えもある。洗礼によって罪がご破算にされるので、ぎりぎりまで遅らすべきという立場もある。洗礼後の罪はどうするか、ということが問題になるからである。結構洗礼が先送りされているケースがある。コンスタンティヌスもその息子も死の床で受けている。コンスタンティヌス化する中で、本来洗礼が持っていた終末論的理解が抜け落ち、洗礼の理解が平板化した。本来の洗礼の意味は終末論的理解との関連でとらえられるべきで、キリストのからだである教会につながれる、というものである。繋がれた結果としての罪の赦しが教会につながっていることで起きるのであり、罪の赦しが繰り返し起こる。

近現代におけるアウグスティヌス理解

 近現代の教会の神学者のアウグスティヌス的な理解が劣化あるいは変化しているように思われる。教父時代は、事実上パウロの手紙のコンテンツを無視していたが、アウグスティヌスでパウロ化した。中世でまた、非パウロ化して、宗教改革でパウロ化し、今また非パウロ化しているかもしれない。このように振り子のように動いていると言えよう。

 罪や原罪のことを考えずに救済は考えられないだろうし、信仰義認そのものが色あせてしまう結果になる。ルターの場合、キリストにゆだねきることで救済を考え、恵みに自らすべてを丸投げするのである。それがルターの言う信仰のみという意味である。

現代における現在の再解釈の可能性

 現代で原罪論の再解釈の可能性があるのだろうか。それはあると考える。創世記3章の中には、罪という語がない。だからといって罪が存在しないわけではなくて、罪について、再解釈して罪をもう少し普通の言語で語る必要があるだろう。とはいえ、アウグスティヌス流の原罪の遺伝的伝播の論理をとるのはやめた方がいいと思う。それよりもむしろ、もっとしっかりした基盤を考えるべきではないだろうか。

自動車の運転のメタファで理解する救済論

 ルターの義認論のインパクトは、人間は車の運転士であるという立場である。自動車の運転のメタファーで義認を考えると分かりやすいかもしれない。ちょうど、カトリックの世界の義認論は、自動車もただ、ガソリンもただ、人間が運転する車のようなものである。この世界では、道路交通法(教会の戒めを守って)天国に行くような世界である。飲酒運転や無謀運転などは、大罪であるのできちんとした対応が必要である。これに対して、小さな罪は、反則切符での略式対応するようなものである。その意味で、反則切符と罰金の考え方は、贖宥状とよく似ている。

 ルターは、このような概念をひっくり返したと言えよう。我々はサタンによって運転されている車にいるのであり、そのサタンの運転中に、キリストが来て、ハンドルを握る。このキリストが来てハンドルを握ることが神の恵みであり、神の救いと同義である。最終的な結末が来るのは先かもしれないが、キリストがハンドルを握っていることそのものが救いであり、はるかかなたの救いが今ここで実現している、という立場である。今、既にここで、をはじめて義認を語ったのがルターである。宗教改革では、信仰義認論は共有しているものの、カルバンはどちらかというと聖化に傾いている傾向がある。

質疑応答と感想は次回に回したい。

 以上、本日の参加記である。ありうべき過誤は、ミーちゃんはーちゃんの聞き間違い、意識が飛んでいたことなどによるものである。ご参考までにどうぞ。




【2015.06.15 Monday 22:38】 author : Voice of Wilderness
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NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その5
 
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 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

 今回もまた、すごいのである。

霊的な渇きの源は?
 前回も、現代社会は、霊性を求めていることが、社会の様々な断面から見られることをご紹介した。なぜ、人々が、そういう霊性を求めるのか、というあたりのことをクリスチャンから見れば、どう説明できるのか、ということに関してライト先輩はこう書いておられる。

 霊的なことに対する新たな関心の高まりについて、クリスチャンの説明は至極まっとうなものである。もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら(言い換えるなら、イエスのうちに最も明確に知ることができるような神がいるとするなら)、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。というのは、イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。(クリスチャンであるとは p.40)
 これは、キリスト教世界(クリステンドム)を経験したことのある国の人々に対しては有効だろうけれども、このあたりが、キリスト教世界を経験したことがない人々にはつらいだろう。確かに、霊的なことに関する関心の高まりはわかる。であるが、それから直接

もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。
とはダイレクトにいかないところが、日本固有の部分である。では、これをどう説明するのか。なぜならば、
イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。
という点で、納得がいかないからである。

日本の霊性と聖書の霊性

 多くの日本の方でも、霊性があることはおそらく素直にお認めになる。しかし、多くの場合、日本では、それが幽霊の話や、先祖霊の話、森にこだまするアニミズム的な自然神信仰には素直に行けても、それがキリスト教の神やイエスと直接つながらないことなのである。そして、いきなり、「いやいや、そもそも、聖書の言う神は、多くの八百八万の神々の一柱で…」と結局知られぬ神に、といってしまうか、自分とは関係のない西洋倫理や西洋道徳の中にジャンル分け、ないし、位打ち、棚上げをされてしまい、その段階でイエスや神へのシャッターが閉じてしまうのである。なぜ、そのイエスという10の100乗以上分の1の神を選択的に選び、それだけを神なのだなぁ、とする、というところに行けないのである。

 キリスト者の側でも、「いやいや、キリスト教は日本に重要な影響を与えていて、実は神道はヘブライ的な由来を持つのではあるまいか」と日猶同祖論を言い始めた利してきてしまったのである。この道は、ショートカットではあるけれども、ショートカットにはコストが伴うことを我々は覚悟すべきである。日ユ同祖論のショートカットに伴うコストは、結果的に八百万の自然神の一つにしてしまい、選択的にこれしかない、ということなのではないだろうか。そして、イエスがこの地上に来た、復活したというその驚くべき奇跡の意味をブッ飛ばしてしまうからである。そして、挙句の果てに、麻原”尊師”が復活のキリストだ、という珍節・奇説の類まで出てきてしまうのだ。


オウムが過去に出版した麻原キリスト説関連本

近代の中における霊性

 では、どうこのイエスを霊性とのかかわりで紹介するか、ということを考えてみると案外難しい。こっち側からの日本の多くの方々への弁証というのは、かえって逆効果のような気がして仕方がない。霊性から説明しても、そことイエスを直結するのではなく、そういう世界が存在するかもね、それは無視できないかも、近代的な思想性の合理性ですべてが説明されつくされえない部分があるのではないか、という指摘にとどめるべきではないかなぁ、と思う。むしろ、以下のライト先輩のご指摘の部分の方が、部分の方が、まだ妥当性というか、是認性を持つような気がする。
クリスチャンの物語の重要な部分は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の物語もそうだが、人類が悪によってあまりにもひどく傷ついているため、そこで必要になるのは単によりよい自己理解やより整った社会を実現することではなく、まさに救出、しかも自分以外のところから来る助けによる、ということにある。霊的生活でを追求する中で多くの人は、自分にとって真に最善なものよりも劣ったもの(ここではそれ以上強い言い方を控えるが)を選択してしまうことを予期すべきである。長い間渇いてきた人は、どんなものでも飲み込んでしまう。たとえ汚染されていても飲んでしまう。(中略)こうして「霊的なもの」それ自体が、問題解決の一部であると同時に問題の一部になってしまうことがある。(同書 p.41)
 オウム真理教にしても、その他のものにしても、よいものを求めて始まり、問題解決の一部を提供しようとして始まったのだが、結果としてとんでもない大問題になってしまたのだ。この辺の残念さ、を基礎に、なぜ、キリスト教が提供しようとしている義が大事なのか、ということを語る方が、理解が進むという意味で、まだ妥当なのではないか、と思う。
 霊性の影響というものはすさまじいものがある。そのことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。
ある強硬な懐疑論者は、彼らの言う宗教的狂信者―自爆テロ犯、終末論的夢想家、さらにその類の人たち―が与えたダメージを見て、すべての宗教は神経症のようなものだとして、あまり深入りしないか無条件に禁止するか、あるいは個人の範疇に収めることに同意した大人だけに制限した方がよいと。 (同書 p.42)
 わが国では、バブル崩壊後の新新宗教ブーム(この時に、足裏診断で有名になった某集団や、未だに霊言と称するものをまき散らしておられ、大学を設立しそこない、選挙では落選し続けつつも、なお選挙に出ておられるエルカンターレ総裁様の集団などなど、まぁ、雨後のの竹の子のように現れ)があり、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件など、それ以降、日本においては宗教に対する否定的な見解が高まったあまり、大人ですらそういうことを口にすることが憚られ、個人の霊性みたいなものが、はけ口を失い、それが、一種テレビ放送などといういったんテレビ放送局という形でオーソライズされ、サニタライズされた形で、安心してみていられる安易な霊性に走ったような気がする。それがいかに真の霊性でないにしても。

 テレビは安易に面白コンテンツを求めているだけ、なのではある。とはいえ、ぶっちゃけ寺のゴールデン枠への移行のように、ある面で、他の消費可能であったものを消費しきってしまった結果、霊性に手を出した、という部分はあるような気がする。まぁ、霊性への関心の高まりの反映という側面もあるだろうけれども。それはそれで、重要だと思うけど。

 日本社会では、宗教は「アブナ オモシロイ」分類の中に入れられてしまい、霊性の声はぶっ飛んでいるものの、東日本大震災が突き付けたあのような悲惨にどう向かい合うべきか、ということを考える中で、臨床宗教師などの動きもみられるようにはなり始めているが、まだまだ、その取り組みは始まったばかりであると思われる。




霊的なことと真理と…


 現在のポストモダンな環境の中では、相対主義が幅を利かせる。そして、相対主義は一つであることを極端に嫌う。真理というか事実というか、真実というか、それは相対的なものだ、ということにしてしまう部分は確かにある。そのあたりのことに対して、ライト先輩は次のように書いておられる。
 懐疑論者が用いる一般的な戦術は、相対主義である。私は今でもありありと覚えているが、学友とクリスチャンの信仰について語り合っていた時、会話の最後で、彼は大げさにこういった。「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」
 「あなたにとってそれは真理だ」とは、それなりに良く聞こえ、寛容なように思われる。しかし、それが成り立つのは、「真理」という意味を捻じ曲げているからである。すなわち、「現実世界における物事の真実の姿」という意味ではなく、「あなたのなかで起こっている確かなこと」という意味なのである。
 実際そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。なぜなら問題の「それ」、つまり霊的な意味や気づきや経験が、大変強力なメッセージ(神の愛が存在すること)を伝えているのに、それを耳にした人がほかの別なものやそう強く感じても、それはあなたの誤解だとする)に変換してしまうのである。それに他の幾つかの意味合いを加えて、「真理」という考え方自体が今の世界ではかなり問題があると思わせる。(同書 pp.43−44)
 ここで「真理」と訳されている語は、trueという言葉であり、事実とか本当だ、いう意味をもつ言葉でもある。現代のように、多元的な視点が重視される社会において、このような真実性、真理性を担保するためには、公共圏と呼ばれる多元的言論空間での公共的討議において間主観的な対話の結果生まれた共通認識が真理とされることになる。基本的に現代の学問体系が論文なり学会なりでの対話を中心として、生み出され、修正されつつ、共通認識となるという手順が取られ、個人が、これが事実だ、とか、これが真理だ、とかいう一方的な個人の主観に基づくだけの物言いは、真理性を相互認証と合意が存立していないという点で、課題があることになる。そんなめんどくさいことを言わなくても、という話はあるかもしれないが、そのめんどくさいをことを経て、真実の純度を上げていくというのが学問というプロセスなのであって、自分がこう思うから真実だ、というのは、『学問ごっこ』と揶揄されることになる。

 実は、ここで挙げられている懐疑論者の論法、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」にはいくつか問題がある。これは、あくまで半分、近代の均質性で同一性が担保されている、ということに対する前提を批判的に取り扱っているようで、実は、真実(trueであるので、事実)ということの均質性や普遍性に議論が大きく依拠しているからである。何より最大の問題は、この懐疑論者が、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」ということであるが、この場合、この懐疑論者の人は、こういうことを言っていることで、対話を結果的に拒否してしまっているのだ。

 確かに、ある人にとっての観察結果は、ある人にとっての観察結果である主観的なものではあり、その事実性ということの確認は、近代科学の社会の中においては、間主観的対話を通して、間主観的に認証されてはじめて、事実性が確実なものとなるのであり、そのための公共圏が必要だということをユルゲンハーバマスは主張した。公共圏におけるコミュニケーション理論である。

 しかし、この懐疑論者のような立場に立たれると、そもそも、公共圏自体がこのような立場の人々と形成するのは極めて困難であり、対話の糸口すら形成されないことになる。となれば、間主観的(客観的)事実認定ができなくなるのだ。

 後、この懐疑論者の論法の問題は、メタ思考的に考えてみれば、この事実の背後に近代的な均質性の概念が潜んでいるということであり、真の意味で、ポストモダンでないという点である。もし、真の意味でのポストモダンを考えるならば、そもそも論として、「ほかの人にとって真実でない」と主張したとしても、そのことにすら信実であるとする必然性はないことになるからである。案外、このあたりのことは公共圏の形成において、何らかの共通性というか公共性が求められるということを意味しているように思えてならない。

 まあ、まだまだないわけではないが、こまかいことを言っていてもしょうがないので、この辺にしておく。

NTライトのユーモア
 ライトは、非常にユーモア感覚に富んだ人である。例えば、それは次のような表現に見られる。上の部分の最後辺りで公共圏に関してグダグダ書いたようなことを、

 そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。

と指摘しているあたりは非常に面白い。 この辺がライトのユーモアであり、英国人らしい、ちょっとブラックなものが聞いたユーモアだなぁ、と思う。

街角の霊性

 ここで、懐疑論者が、「あなたにとって真実かもしれない」という反論から、出発できることをライトは次のように書く。レトリカルにややこしいので、分かりにくいかもしれないが、恐らくはこんな意味だろう。
 懐疑論者の反論自体がこの種の問題の突破口になる。それに気づけば、私たちは振出しに戻ってくることができる。つまりは、人間のあらゆる経験の中で様々な形において報告される広範囲の霊的なものへの渇きは、目に見えないにしても、角を曲がったすぐ先にある何かをさししめす真の指標かもしれない、という可能性である。それは、あの声の響きであるかもしれない。(同書 p.44)
 つまりは、彼自身であって、真実(個人的な真実、あるいは個人的な事実)としては、懐疑論者は認めているのである。そのこと自体は、懐疑論者としても否定しえないのである。なぜならば、霊的な事柄を経験した、という個人的主観的観測自体は、基本的に排除され得ないし、排除した瞬間にポストモダン社会のとしての基盤となるべき概念構成が崩れてしまうからであり、そうなると、一切の公共的討論が無効になるからである。
 少なくとも、個人的に「何らかのことを感じた」ということは重要であり、そのことの上に立つことができるのではないか、ということをライト先輩はご主張である。このご主張は案外大事で、実は我々があまりに既存の概念構成にこだわりすぎていて、日常的にひそむ霊性(お化けと賀屋水子供養とか、日本の場合恐怖を語るそういう世界に入りやすいけど)、本来的な人間の形であり、体、魂、霊、こころ、思索、という分野に関してあまりに無頓着だということを示しているのかもしれない。このあたりのことをきちんと考えた方がいいかもしれない。このあたりに関しては、ちょっと難しいという噂のあるダラス・ウィラードの『こころの刷新を求めて』をご参考いただきたい。個人的には、読みにくいとは思わないが、案外、読みにくい(読む気がないための口実だとは思うが)という方が多いので、少し驚いている。大事な内容を扱っているので、ご一読をお勧めしたい。

 ご注文は、ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の本とぜひご一緒にあめんどうブックスでご注文をば。





評価:
ダラス・ウィラード
あめんどう
¥ 2,592
(2010-03-30)
コメント:内容が充実しているが、訳は非常に読みやすい。おすすめの1冊である。

【2015.06.15 Monday 06:58】 author : Voice of Wilderness
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南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(8)礼拝論と賛美論 その4


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 今回も、南部での改革長老教会の歴史に関する講演会に行ってきたその時の講義録をご紹介したいと思う。今回が最後である。これまでのご清覧を感謝するとともに、今回もよろしければ、ご清覧願いたい。

改革長老の礼拝のコアとは何か

 聖書の中の礼拝の変化を想定することは、聖書外の要素の礼拝への導入を正当化するためにかなり用いられてきた。聖書外のものを含むように礼拝を変えてしまうのなら、礼拝の教理を外れていることになる。そのような環境の中で、長老教会にとどまるかの意味が果たしてあると言えるのであろうか。

様々な展開とその問題

 2000年にさらに、PCAの二人の牧師が規範的原理に反対する本を書いた。セントルイスの牧師である、ジェフリージェレマイアは礼拝のリニューアル運動の中に入っていた。2003年に主の礼拝、契約的更新の恵みという本が出版された。この本で明らかにピューリタン信仰に対して、マルキオン主義的な悪影響を与えるものであった。同署は、非常に異端的なもので、旧約聖書の神と新約聖書の神は違うとした。ピーター・グレッグハートは小児聖餐の支持者であった。様々な空想的な考え方に賛成してきた。2003年に、沈黙から歌え、というタイトルの本を書いた。ライハートは、礼拝の規範的原理を批判したのである。礼拝の規範原理は実際において、解釈論的に木のようなものであって、神学的にはマルキオン的であると主張した。なぜ、礼拝の規範的原理が木のようかものであるかに関して、彼は礼拝の一つ一つの行為を明確な独立したものとしたことにあるとみている。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 この部分で、木というメタファーで何を言いたいのかは、英語を聞いていてもよくわからんかった)
 マルキオン主義的だと批判するのは、旧約聖書を無視している点である。象徴的なことは、教会の中で信仰の義認と洗礼にのみいろいろ言われた。特にパウロの新しい視点に賛成したことで、改革長老派教会から追われた。聖書のみの原則と礼拝の規範的原理に関する本が出た。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 パウロの新しい視点、NPP(パウロの新しい視点 New Perspective On Paul)の肩を持つと、改革長老派では居辛くなるのね。そらぁ、NPPやN.T.ライトは、基本的に改革長老で厳しいはずだわ)
改革派内の回帰運動
 DGハートとミューターは改革派の礼拝の基本に帰れということに関する本を出版した。伝統的な礼拝論を擁護した。礼拝における規範原理を当てはめることで、神が明白に命じていることのみをするべきであり、それ以外は禁じていると主張した。礼拝の規範性の原理に対して、聖書の朗読や、沈黙、ろうそくに火をつける、旗を飾るに関しては禁じられると同書で主張している。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 ここまで悪しざまに言わなくてもいいんではないかと思った。形だけの批判であり、その奥にある省庁を考えていない、物言いではないか、と思った。ただ、それを地教派に取り入れるかどうかは、それぞれのキリスト者集団の中における判断だろうと思うけど。)

 D.G.Heartは2003年4月に本を出版し、アメリカの長老主義の本当の区別はリベラルと福音派の区別ではなく、フォーマリストと、反フォーマリスト、敬虔主義者と非敬虔主義者、形式主義者、非形式主義者の間の区別であるとした。

 リバイバル運動の人気があったことと、アメリカでのキリスト教の個人主義的表現が礼拝の形を守ることは難しいものとした面があったことを指摘した。19世紀の中盤までは、歴史的プロテスタンティズムの中で、教会の高踏的な見解は重要な主張であった。教会の高踏的な側面を高く意識するカルヴァン主義はアメリカ社会の粗雑さに対する一種の解毒剤でもあり、ある福音主義者集団の中で、カンタベリー(聖公会)やローマ(カトリック教会)、コンスタンチノープル(正教会)の手助けとなっているかのごとくみられる傾向を生んでいた。

改革長老派の中での相転移

 アメリカ長老主義のなかでの礼拝の皮肉的な現象としては、保守的な長老主義者が礼拝に関して新しいもの好きで、リベラルな長老主義者が逆に保守的・伝統主義的な態度になっているの点である。アメリカの長老派のこのようなねじれは18・19世紀のリバイバリズムの影響である。

 感情的な回心体験に主眼を置くリバイバリズム的な運動は、改革派の高踏的な教会主義とは一緒にならない。20世紀に入って、実用主義的な伝道への系統が、他の考え方を抑えるための切り札になり、ジョン・フレームが提唱するような礼拝理解への変容を可能にし、わかりやすくすることになってしまった。
 
 ウェスレー主義の文化によって派生したペンテコステ的な運動が生まれる中でのジレンマに悩んでいる。この時代に依拠して、形式を無視するという動きである。改革派的な敬虔さ、単純さといったコアの部分をどう提供できるか、ということが問われているのであろう。カルバン主義的な礼拝の厳しさは、あるいは神に喜ばれることは、現代のアメリカ人にとっては悪臭を発するものであるかのごとく思われるかもしれない。アメリカの長老主義たちはジレンマの中で身をかわそうとするなかで、カルバン主義的の適切さにかんする一体性尊厳を保持できなくなってしまった。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 しかし、まぁ、ペンテコステ派の派生形の中には問題がないものがないとは言わないが、それは時代と社会的環境の中で生み出されていき、変質していったのであり、ここまで言わないでもいいかなぁ、と思った)
 2003年に開催された北米改革長老の総会で、歴史的伝統に疑問を呈され、礼拝に関する研究の委員会が設置された。その結論としては、礼拝の規範的原理は、聖書の礼拝の教理の本質的部分であり、その基準となる議論が示された。 

 未だにこのような礼拝に関する興味が続いている。伝統的アプローチの弁護する書物と学問的歴史的評価をしたD.G.ハートの本が出ている。

礼拝の規範的原理を巡る整理

 2005年から今まで、告白する長老主義者という雑誌で、この礼拝の規範的原理に関する議論が続いている。保守的メインストリーム改革長老教会では、この礼拝の規範的原理の否定は続いているものの、なんとなくわかるかという程度の扱いでしかない。大きい教派の中にあって、礼拝の規範的原理は、周辺的な扱いをされていることが多い。礼拝の規範的原理は、聖書からのものというよりは、キリスト教文化の中で語られるようになっている。こういう考え方への賛同者も確かにいるが、大きな教派では公的なレベルで逆方向に向かっている。こういうことは大規模な教派群の中でのピューリタニズムの再発見が期待されるし、大きい教派群は様々な礼拝の規範的原理の動きから取り残されるかもしれない。

1)1930−40年に改革派の再発見がカルビニスムのルネサンスへとつながり、礼拝の規範的原理への関心を喚起した。
2)RPW 改革派的な重要性を主張した
3)RPWは、要素と状況が必要であり、要素を棄てるのは、もったいないという議論になり。裏口からさまざまの礼拝をするために多様な表現方法を持ち込むのはどうか、ということが議論され始めた。。
4)保守的な長老主義は、礼拝の規範的原理を信じているが、統一して何を意味するかがなく、混乱がそれで生じている。
5)リタージカルダンスのような奇妙なものが礼拝の規範的原理以外のものが持ち込まれ、正当化されている。
6)ごあのような教理を否定するものはいるし、修正主義者もいるし、フレームのように再定義する人のようなものがいる。無視する人もいる。適当に使っちゃう人もいる。グリーンビル長老主義神学校などもある。
7)歴史資料の研究の観点から考えるのと、新しいものを考える人は、ピューリタンとカルバンの間にくさびを打ち込もうとしているようなものである。ピューリタンはカルバンを否認せず、その神学基礎の上で考えている。
8)礼拝の聖書的規範原理は、組織神学の理解に依存していて、組織神学は聖書神学だけではない。
ウェストミンスター神学校は、贖いの歴史を強調し、組織神学まで弱体化させている。
9)礼拝の規範原理を拒否するものは、義認の否定などの変なことが起きる場合がある。ノーマン・シェパードはその反例であるといっている。シェパードの礼拝の教理をかたちづっくった経緯は興味深い。ジョン・フレームを見ると、神は純粋な霊である以上のことであると言っている。
10)礼拝の規範的原理に関しては、音楽という面で議論になる。音楽以外のことにも関わるが音楽論争が感情的になり過ぎており、議論の焦点があっている。

インターネット時代における礼拝議論

 過去20年にわたって、ピューリタン的礼拝の関心があり、インターネット上で議論されている。同時に、対抗する考え方もあり、高踏的な教会という側面を持つ改革派的な形がある。契約の更新、ニューライフアプローチ、などに見られる現代の礼拝の例は、礼拝のもう一つの形、契約的な礼拝。保守的で福音主義的な教会は、礼拝の規範原理を固く持つ人たちを追い出すことが多いようである。長い目で見れば神の祝福を経験しないことになるのではないか。今日の教会は、コミュニケーションする機会がある。16世紀の印刷術と21世紀のインターネットが対応関係にあるだろう。印刷でのコミュニケーションより、もっと早く反応が始まるし、インターネットの各種さいやそこでの議論の深まりと共に礼拝的な規範原理は、神の手の支配の中で、広がるのではないだろうか。新しい倫理的問題、戦争、迫害、ローマカトリックの改宗政策などがある国やイスラムの台頭などがある。宗教改革時代も同じ問題に現代もなお直面している。だからこそ使徒的、預言者的礼拝に関する視野が重要なのである。教会の黄金時代がやってくる期待に心合わせている人々は、様々なものが飛び交っている現代であるとは言うものの、キリストの花嫁に捧げられる主の命令に従った自覚的礼拝がささげられる時が来ることは、極めて重要になるのではないか。

 伝統的な長老主義的な聖書による規範による制限された礼拝は勝利することは確信しているが、人間の心が変容させられる時にそれは起きるのだと思う。福音そのものが勝利するのは、それが現実のものになるときであり、丁度ノアの時代のように神の支配により、全地を水が覆うようになる時現実になるのだ。

質疑応答の時間から

Q. 改革長老で、ギリシア正教やカトリックの典礼を参考にする背景にオックスフォード運動とパラレルな関係のある背景があるのではないか?
A. おそらく、19世紀のオックスフォード運動は、ロマンティシズムの背景ではないだろうか。ヨーロッパで起きたものがアメリカにも大きく影響した。当初、北側でこの種のギリシア正教やカトリックの様式を参照にする運動が、結果的に南側にやってきたと認識している。ただし、美的な点を強調するものは、聖書的なものとは逆ではないか。(この辺が、美を重視するライトとは方向性が逆なんだよねぇ。その意味で、出がらしのだしを必死になってそれを守らなければ、という感じを受けた)

Q.ロマンティシズムとヒッピー文化の改革長老派が礼拝の規範的原理への挑戦ともいえる動きにつながったのではないか。
A.恐らくその面があるだろう。それと同時に、19世紀が重要なのではないだろうか。教会の崩壊は19世紀後半にはじまり、理知的な信仰であるリベラル派との戦いとエバンジェリカルの中にからはじまった。19世紀にはじまり20世紀に広がった。モダニスト対ファンダメンタルズの戦いのなかで、教派の境界が緩まった。その結果、教理の特徴点を軽視する傾向がある。包括的なリベラルとの戦いの中で、独自性を保つのは、知的なトレーニングが必要。
 JGVossはその中で、信仰における基本線がどこにあるのかを示した。


ミーちゃんはーちゃん的感想

 まぁ、今回の講演者の方は、非常に保守的な無楽器的なアカペラによる詩篇歌とピューリタン的な礼拝にこだわりがあるんだなぁということはわかった。現代人をどお酒用が何だろうが、この幅にはまる人だけ、どうぞ、って感じもしたなぁ。まぁ、相対化し、多様なキリスト教の概念がある中でも、自分たちのスタイルを守られたいのは、よくわかったので、どうぞ、その方針を今後とも堅持しつつ、多様なキリスト教の伝統の一角を極めて明確に保持していっていただけたら、と思う。




【2015.06.15 Monday 05:10】 author : Voice of Wilderness
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南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(7)礼拝論と賛美論 その3


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 この記事は、南部の長老教会の歴史研究のシリーズである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。このシリーズの今回と次回は、讃美歌編である。

礼拝について
 1990年、10年以上の議論の成果として1992年に「神の前における礼拝」というエッセイ集が出た。PCAのFrank J. Smith(この講演の著者)とDavid Rackmanによるものである。
 20世紀の様々な改革長老派的な視点からのすべての礼拝の要素を扱ったものが出版された。礼拝の規範的原理を説明している。礼拝とは何かという入門書で、礼拝は別のものから区別されるべきであるとSmithは指摘した。

礼拝とは
 礼拝とは、ダイアロジカル(対話的)なものである。即ち、神と人との対話の性質を持っている。そして、それは聖書に規定されている。礼拝の要素は、科学的における分子結合のイメージのメタファーである。科学の分子結合がそうであるように、各要素は基礎的で、分解不可能であるものを示している。科学の用語では、これ以下に分割はできないものであるように、礼拝の諸要素に分割できないものがある。そしてそれを統合したものが礼拝である。礼拝の形式は要素抜きには構成できないし、要素から離れて各要素は存在しないし、形式自体として礼拝の様式は存在しない。要素は、ある種パッケージ化された契約である。礼拝の各様式と全体は、形式と目的と内容をもっている。

 礼拝とは、神のことばだけが存在するのではない、を述べることであり、礼拝を形成する何かがあることを具体的に指し示すことである。

John Knoxから考える礼拝論

 Kevin LeadによるJohn Knoxの議論の論文が出ているが、Knoxは規範的原理のために献身的に奉仕し、礼拝の純粋性のために奉仕した人物である。Leadは教会は礼拝の規範的原理の再確認すべきであると主張した。あきらかな根拠がないかぎり、礼拝内では、定められた要素以外は認められるべきでないとしている。これは、Sola Scriputuraの精神の延長で考えるべきではないだろうか。

礼拝を巡る論争

 Kevin Leadは誤った礼拝の不道徳性の理解を失っているのではないか。誤った宗教理解や行為は、学問的なものではなく、人間の魂を破壊するものである。道徳の堕落の一種ではないか。これらの原理からの堕落の理解は、誤った宗教理解の中で、この理解の緊急性を示している。

 反論として、James Jordanは論文集でリタージカル・ネストリアニズムという本を出した。ネストリウス派は、初代教会の異端的な教会であり、異端であると批判した。そして、Smithらの礼拝の規範的原理は、礼拝の規範的原理におけるミニマリストだし、ディスペンセーショナルな理解であるとすらいった。ミニマリストであることとは、あまりにも理性主義的であると主張している。Smith論文(この講演した方の論文)では、霊的な礼拝と言いながら、非物質的であり知性的に理解していると批判されており、哲学的な方向性において、異教的だとまで主張している。


James Jordanさん


 反論としては標準の改革派的長老主義的プロテスタントにおいては、禁欲主義ではない。礼拝における外見的な派手さを反対ているからと言って、禁欲主義的ではないのである。標準的改革長老主義は、聖書的区別と旧約聖書における儀式的礼拝と新約における天に向かう礼拝との区別している。

 Jordan氏は聖書的礼拝の規範的原理を否定している。神学的誤解は、規範的原理を理解していない。組織神学とのかかわりにおいて取り扱わないといけないことから来ている。組織神学は、聖書的原理を理解しようとする。Jordan氏は、組織神学を固守しようとしなかった。伝統的改革派的組織神学の否定は、学問的で、理知的、グノーシス主義的で律法主義的なもとなると理解したことに由来していると思われる。その結果、礼拝についての規範主義性をもJordan氏は否定している。

礼拝の規範的原理をどう擁護するか

 Morton SmithらGreenville 長老主義神学校の創設メンバーは、礼拝の規範的原理を擁護する本を出している。Old Path Blue Banner Magazineなどが、歴史的ピューリタン的出版社からこのような本が出ている。

 John Frameは、礼拝の規範的原理を疑問視する論文を公表している。礼拝の規範的原理の理解の混乱が続いていた時期に様々な。ウェストミンスター信仰告白を裏切らないと言いながら、裏切っていたのではないか。生活一般と特別な礼拝の厳格な区別をあいまいにした。このような厳格な区別をいい加減にすることは、ピューリタンの保持してきた歴史的規範的原理は意味がなくなる。

 このことから大きな問題が生じた。霊とまことによる礼拝の新しい聖書的な見方という書籍論文を出して、

 フレーム氏は、信仰告白の原理を言明しながら、その信仰告白そのものを意味無くしてしまった。広義の礼拝ということで、規範的原理を人生のすべての部分に適用することを生み出し、新しい人間的な制度の存在を示そうとした。規範的原理の基礎を示した本の中で、規範原理を内側から崩壊させた。礼拝の要素や部分に関して、ウェストミンスター信仰告白について、深刻な問題があり聖書的な根拠がないと主張している。公的礼拝にあるような具体的なことを書き尽くしていないといっている。ピューリタンの聖書理解の中で、細かな礼拝規定の諸要素までは聖書内にリストがあるとは言わないが、基本的な行動原理について、権威付けがないとは言えないであろう。

 フレーム氏は礼拝の諸要素という概念の問題は諸要素を区別していないという点である。礼拝の要素や部分というよりは、アスペクトというべきではないか、と主張する。たしかに、要素がなく側面があるとすれば、礼拝の規範的原則に何が残るか。ルター派またはアングリカンの見方から違うといえるのだろうか。

 フレーム氏は、礼拝の中でなすことのリスト化に至る。あいさつ、祝祷、聖書朗読、説教と聖霊の賜物としての預言と異言の祈り、祈り、誓い、信仰告白、聖礼典、教会会規、献金、交わりの表現がある。これは標準的な分類ではない。ドラマを説教にしてしまう。説教と教えを一体化させることで、正当化しようとする。このフレーム氏のリストからは大幅な間違いがあるのではないか。交わりの表現を以下集中的に考えたい。

 礼拝は垂直的であるとともに、水平的でもある。神の栄光が称えられるとともに、隣にいる信徒との関係も重要である。交わりの食事、聖なる口づけ、お知らせも礼拝の一部であると考えるに至り、人間を称賛することも容認された。神に対する最高の賞賛を容認に抵触しない限り、という限定条件付きであるが。拍手やハグや、歌ったり、握手したりすることは間違いではないとされた。このような礼拝論は、何と言っていいのやら、という印象がある。

 改革派の神学者が、礼拝の中で、人間という限りあるものに対して栄光を与えることはかなり驚くべきことである。そもそも、神の時間のためのものの一部を人間に与えるとはどういうことかを考えるべきであろう。


リタージカルダンスの例

 フレーム氏らの思想の結果、ダンスも教会の中で認めることになる。このフレーム氏の見方をどう考えるか、プロテスタンティズムそのものに反対していないといっても、礼拝の規範原理を否定していると言わざるを得ないのではないだろうか。さらに深い神学的問題を生み出していった。

 というのは、3つの違った視点を同時に持つことが重要であることをFrame氏は言っている。状況的、規範的、実存的要素の3つであり、これら3つは平等であるといっている。礼拝の規範的原理はこれら3つのうち一つに過ぎないものとされている。この結果、主観主義に陥り客観的な聖書的根拠を失っているのではないだろうか。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 しかし、講師のSmith先生は、結局は、このJohn Frameという人のお考えが容認できないほどSuperDooper大嫌いだ、ということはよくわかった。
 なお、このリタージカルダンス、いくつかYoutube動画を調べてみたら、結構アフリカ系アメリカ系教会員が多い改革長老派の教会と、韓国系の教会に多いことが分かった。まぁ、この完成は、ミーちゃんはーちゃんにはない。むしろ、静かで必要にして簡素、しかし様式性を持ちながらも、霊性にあふれる礼拝がよいなぁ、と思っている。
 T David GordonはPCAの牧師は、伝統的な見方の擁護者の一人ではあるが、とはいえ礼拝の教理の中で3番目のカテゴリーを作り出した。要素と状況に加え、形式を導入し、多様な形を主張した。用語や内容の固定がなされず、柔軟に理解されてよいといったがある程度容認されるものではあるが、みことばの朗読の内容は固定されたものであるはずであり、旧新約聖書において限定されたものであるはずである。同じように、歌うことも、賛美も、固定されたものであると講師としては主張したい。礼拝とはどのようなものかに関しては、聖書それ自体が形式は自由なのか固定なのかを決めるべきであろう。

テリー・ジョンソン氏の立場

 1987年、PCAの牧師であるテリー・ジョンソン氏は、インディペンデント長老教会で奉仕していた。彼はダウンタウンで伝道し、会衆の様々な支援をした。伝統的な教会賛美の形を主張した。言葉だけの韻律詩篇歌集が出版された。

 1996年にジョンソン氏は、「礼拝の中で導く」という本を出版し、今日の実践を推進しようとした。ジョンソン氏は、穏健的な規範的原理の立場の中心的人物で、礼拝の要素を限られたものに限定することを試みたとはいうものの、形式概念を広くとり、公的な礼拝において、霊感されてないものを賛美として使うことを試みるなどした。

 規範的原理に関する賛否両論の議論が数多くなされている。多くの書店から、保守的な視点の書籍が出ている。
(ミーちゃんはーちゃん的感想 
結局、現代受けとか、目先変わったことやったことに関する反動なんだろうなぁ、と思った)
 改革長老派のリベラルに近い側では、礼拝の規範的原理は疑問視されてきた。ウェストミンスター神学校のフレーム氏のように、礼拝の表現を状況依存的に扱ったために、様々なものが礼拝に侵入してい来る結果となったPCAでの大多数の一致により同じような用語は用いられているがその実相は多様なものである。

 一部の人々の中には、画像などの象徴を用いることと聖書の象徴の違いが不明確になってきており、儀式的な教会で、霊的高揚を感じ、彼が告白してきた礼拝との統合で混乱する人々が出てきた。州軍のチャプレンとして奉仕したある牧師の場合、多くの諸教派のつながりができた結果、一般的なプロテスタント様式との一致を図ることの正当化が求められたりすることで、改革長老派以外の伝統が流入してくることになってきた。ピューリタンの規範的原理に従うキリスト者が少ない現状がある。

礼拝の多様性の問題とピューリタニズム

 ピューリタンの礼拝的原理の数の問題で決まらないことは重要ではあるが、もうちょっと長老主義者は公同教会から学んでもいいのではないか、と思い始めた人々が出始めた。ゴア博士のような人々は、長老主義ピューリタンの礼拝にくさびを打ち込んだ。ウェストミンスター神学者会議の修正は振り子のようだった。

 Calvinとその後継者、イングランド、スコットランドの違いは、自然な論理的な発展であり、この発展は一種のパラダイムシフトではないかと考えた。つまり賛美や礼拝に関する前提が変わったのではないかと考えるようになった。

 ピューリタンの礼拝の理解は誤りを生んでいる可能性があり、ピューリタンの合理主義は、こころの活動に限定するようになり、バランスを欠いていて、ピューリタン自身の禁欲的な傾向に新プラトン主義とストア派的なものが働いているのではないか、と指摘した。

 ゴアは、契約的生活こそ、礼拝だといっている。ジョンHホワイトが礼拝の規定的原理を守ると言いつつも、礼拝の規範は、生活の規範的原理の一種であると考え、ピューリタンの礼拝の規範的原理の本質を失わせていったのではないか。

 彼らの目からは、礼拝の規範と生活の規範は同じものであるとされた。フランシス・シェーファーは創造の中で、形と自由はともに基礎づけられている、バランスよく言明されてないといけないと主張した。


 ゴアは、最終的に契約的礼拝原理という本としてまとめているが、その中での重要な要素としては礼拝の契約的原理は、どのような方法でも礼拝する自由を含む、としている点である。聖書に一貫する限りにおいては礼拝の中で受け入れられる、とした。

 このような考え方とピューリタンの考え方との大きな違いがある。ピューリタンにとっては命令されたものか、非合法なものかのどちらかでしかなかった。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 この二律背反的な論法がどうもアメリカ型の改革長老派に割と特徴的な気がして、というよりは、アメリカ人がこの二元論的論法が大好きなので、それが改革長老派に入っているのかなぁ、という気がする)
 もし、聖書に直接命令されているのであれば、直接命令されているものであり、論理的必然性から示されるものとなるであろうし、また間接的に示されるものであれば、一般的なものとして示されていると思われる。

教会の公同性をどう考えるか(ゴア氏の所論をもとに)

 ゴア氏は、プロテスタント一般は、ローマンカトリックや東方教会から学ぶことができるのではないか、といったのである。プロテスタントの教会は非典礼的なことに落ちてしまっているのではないか。改革長老派は今日的な理性主義的なものに偏って、教えることばかりの改革派的なものは、東方正教会の神秘性が何らか貢献できるのではないだろうかという指摘もしている。

 礼拝が、公同の礼拝であるならば、他の伝統からも学ぶことができる可能性があるのではないか、という指摘をすると同時に、他の教派における聖書的伝統は真理があいまいかもしれないけれども、という主張はしている。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
しかし、改革長老派ってのは、本当に自派の教義というか教理にものすごい矜持というか、自信があるのだなぁ、と思うなぁ。こういう話聞かされると) 
 この他派(とりわけ正教会?)から学ぶことに関しては、明確にNoといわないといけない。サクラメントの理解と礼拝の神秘性の理解を混同している。改革長老派として、ゴアは、改革派の伝統に気づいていないのではないか。ゴア教授の場合、彼は保守的な改革長老派の信徒数を恥じていることの繁栄の可能性があり、(アメリカにおける)カトリックや東方教会系に対する数の少数性に引け目を感じているのではないか。礼拝は文化的に敏感なものであり、礼拝の変容は、神の救済の一部を示すものである。聖書と文化との関係は、聖書が文化を受け入れるものではなく、聖書を社会のものとすることであろう。改革長老の礼拝論の神髄は、社会において文化的な受容がなされたときになされうるのではないか。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 ここまで言われると、かえって清々しいし、恐れ入りました、って感じは受けたけど、まぁ、しかし、なんとなくある種のにおいも感じないわけではないかなぁ。別にいいけど。)
感想
 個人的には、様式論的美的センスは教会の中で、もう一度再考されたらいいなぁと思うのである。再興ではなく、あくまで再考である。
 もちろん、もともとが理知的なので、思想信条的には改革長老派の理解とそう遠くないと自分では思っている(こういうことを書くと違うとE先生からはおしかりを受けそうであるが)のであるが、理性だけですべてのことを説明できるとは、さらさら思いもしていないので、このあたりどう考えるのか、ということは考えないとまずいかもしれない。

 まぁ、「おうどん」で人々を魅了するような、「おうどん攻撃」する教会もどうか、と思うが、しかし、ガチの理屈づめで味わいのない教会というのもなんか人工調味料のみで味付けしたうどんスープのようでねぇ、とも思う。まぁ、それぞれ、一人一人、霊性の傾向が違うから、それぞれが適切に考える方がいいかなぁとは思った。キリスト教は多様な伝統であり、改革長老派もその伝統の大切な、特にアメリカでは極めて重要な一つであるとは思う。


歌川広重画 淀川 手前の船が淀川川下りで見られた物売りの舟






【2015.06.13 Saturday 20:16】 author : Voice of Wilderness
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ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2

 
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 先日雑誌Ministry主催 ざっくりわかる出張「Ministry」神学講座 in 大阪に参加した。第一回の公開分はこちら  ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その1 からどうぞ。前回ご紹介したのは、讃美歌のそのもののお話であったが、今度はその讃美歌が深い関係を持つ礼拝についての中道先生のお話から。

礼拝のことばで力を取り戻す

 中道先生は、ドイツの教会におられたことがあり、宣教学を主に研究しておられるとのことであった。現在は、アメリカから来た宣教学を通して、アメリカから来たキリスト教がどう日本で変化したのか、どう現地化していったのかを、特に、葬儀に着目して、葬儀式文がどう変容していったか、ということを宣教学的関心から研究されているうちに、今度は、礼拝式文、礼拝のことばが気になり始め、結婚式の式文や聖餐式式文の検討をはじめられたとのことであった。

 ドイツ滞在中のエキュメニカルな集まりの中で礼拝が豊かで解放感があることにある面驚き、日本で経験しなかった礼拝の解放感を感じたし、礼拝とは、もっと豊かで、生き生きとしてもいいのではないか、ということを考えるようになったそうである。その様な経験もおありになるため、礼拝におけることばにこだわって研究をなさっている、とのことであった。

 中道先生が現実の教会を見ていると、礼拝のことばに力がない、という現状に直面している感じがすることをお感じになっておられ、その意味で、礼拝の危機でもある、あるいは、礼拝に期待感がない状態であるのではないか、と問題提起がなされた。以下講演の概略を示す。

おうどんで誘う教会
 ある教会の牧師が欠席となるので、そこに中道先生がご訪問され礼拝を司式された時のことである。たまたま、新来会者さんがやってきたとき、年配の熱心な信徒さんが、『来週は、おうどんの日だからぜひ来週も来てくださいね」とおっしゃった。その言葉にちょっとショックを受けた。


関西名物「おうどん」

 礼拝に誘うのに、「来週もうちの教会の礼拝はいいんで、ぜひ来てください」ではなくて「おうどんがあるから来てくださいね」というのが、一方で教会の現実である。
 しかし、これが本来の教会の姿だろうか。しかし、教会の現実を見たら、礼拝に誘いたいと思うだろうか。特に若い人たちの中で、自分たちの教会の礼拝に誘いたいと思えない現状があるのではないだろうか。

 そもそも、礼拝に期待感がないのではないか。牧師と教会員との交流が礼拝中に感じられないことがある。そして、礼拝そのものが沈滞感があり、閉塞感があり、開放感がないことはないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 八木谷さんの名著の記述の中に、「弛緩した礼拝」というのがあったが、確かに、そういう礼拝に遭遇することはある)
ある学生がレポートで、自分たちが、何かのイベントをした時に、「真面目に開会礼拝をしました」と書いてきたが、現在の礼拝の位置づけは、そんな感じだろう。

礼拝に困る教会? 
 現実に教会は困っている。どう礼拝を考え、対応していいかわからない教会がかなりあり、相談が結構あるようだ。具体例としては、大人と子供との合同礼拝に意味があるのだろうか、という問いもあれば、その後、取ってつけたような大人の礼拝になってしまうという悩みがあり、礼拝が活性化しないという悩みもある。

 そこで、新しい礼拝を紹介してほしいという要望がある。しかしながら、新しい礼拝はからなずしも活性化しないかもしれない。とりわけ、アイディア先行になりやすく、全体として統一が取れないし、アイディア倒れになる場合も少なくない。

 また、牧師先行の場合が多く、牧師の才能に大きく依存してしまうことで、回収との間に裂け目が生じることがある。また、教会全体で礼拝を豊かにしていこうという感じがない。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
多分、この成功方程式というか、安易な成功パターンを求める考え方は、自治体から国会議員、各種団体、商店街、学校、企業、自治会、さらに言えば、家庭にまで入っているのが、現代社会である。福祉が有名な国があれば、国会議員の先生方や地方の主張様やら議員様やらが視察に行かれて現地の大使館が慌てふためく、そして、帰国後しばらくすると、なんとなく制度が法制化されていく、銀座が有名であれば、猫も杓子も(これはネコに失礼)現座を名乗る。アーケードが流行れば、アーケードをつけてみる、トライやるウィークとかいう就業体験が流行れば、どの自治体の教育委員会も右へ倣えで、就業体験に走る。外注によるシステム開発以外に社員による
 成功事例だけの猿真似で、そもそも論からして成功するはずがないと思うのだが、それは間違っているのかもしれない。
日本の教会の経験の浅さ
 こういう礼拝があるんだ、という経験が日本の教会の中にないのではないだろうか。それぞれの個別教会ごとに礼拝の確立されたスタイルがあり、こういうスタイルの聖餐式があるのだ、とか、こういう礼拝の式文があるのだ、いうような経験がされてない可能性が大ではないだろうか。開放感がある礼拝をそもそもどう作っていいかわからない状態があるのではないだろうか。日本キリスト教団の式文一本で、支配されている部分がないのではないのか。

 その結果、礼拝のことばに力がない、という状態になっているのではないだろうか。伝道やトラクト配布を一生懸命頑張って、というような根性論で何とかなるではなくて、現代人にどう響いているのか、どのような神学理解から礼拝のことばが由来しているのか、をとらえ直す必要があるのではないだろうか。礼拝中に主の祈りを唱えながらでも、想っていることといってることがバラバラになってしまっていることがないだろうか。主の祈りで、御国を来らせたまえ、といいながら、内心、御国が来るなんてことをほとんど想定していなくて、その意味すら分からずに唱えていないだろうか。この結果、「御国が来る」ということの意味がその個人にとって「さっぱりわかりません」であっても、それをただただ唱えるということになっていないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 うちのキリスト者集団の礼拝の中、あるいは聖餐式の中で、主の祈りを唱えるところはほとんどない。なぜなら、御国を来らせたまえ、といったら、それで、希望であるとはおもってもいない終末がやってくるということになりかねないからではないか、ということをある友人が指摘していたが、それもどうかと思う。その意味で、主の祈りを唱える意味ということは、もう少し考えられた方がいいかもしれない。唱えるからおかしい、唱えないからおかしい、ということではなく。
詩篇42篇から
 詩篇42篇から礼拝の構造ということを考えてみたい。まさに礼拝の構図を描いた詩篇だからである。

【口語訳聖書】詩篇
 42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を
見ることができるだろうか。
 42:3 人々がひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は
わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
 42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に
群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。
 42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
 42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
 42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は
ことごとくわたしの上を越えていった。
 42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる
祈がわたしと共にある。
 42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって
悲しみ歩くのですか」と。
 42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに
わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
 42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。


 1節から3節までは、礼拝参加前の過去の状態 渇きを覚え、苦しいこの地上での生の状態をしめしている。

 4節から7節までは、思い起こすことに関した部分であり、礼拝の中で極めて重要なことであり、そこでは、聖書のみことばを聞くことが行われる現在のときであり、単に、「昔々おじいさんとおばあさんが…」のように、昔のことを言うことではない。

 8節から11節は、思い起こしたことが、神を待ち望むことへつながっていくという将来、これからのことを主張している。その意味で、福音を聞いたものの応答である。

 過去に起きたことがもう一度将来起きることで、人々が希望や喜びを持つ構造が詩篇42篇によく現われているのではないだろうか。

 礼拝への招きには、嘆き、不安、問題を考えている人間を招くという側面があるだろう。神の前に自分の過去や現状の自分の負担感やストレスを訴える。そして、神からのみことばを聞き、そして、福音(神からのよろこび)を聞くのである。神と共に在る喜びを聞くのであり、それを思い起こし、想起するのである。旧約であれ、新約であれ、その時代の中にあった出来事に、聖書のテキストから、聖書の時代に戻って思い起こしをすることで、希望を回復していくことで、新しい生 祝福の回復があるのではないか。そして、神の前にとりなしをなされていくという経験をするのではないか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 これ、非常に重要ではないだろうか。繰り返し、繰り返し、過ぎ越しの祭りを、そして、仮庵の祭りをする中で、旧約聖書の先祖たちとのつながりの中に招かれ、この地上の厳しい生の現実の中でも、神が我らの聖に関与しておられることを覚えたのが、旧約に規定された祭儀であり、そのことは神への礼拝につながったのではないだろうか。

過ぎ越しの祭り

礼拝説教が何を思い起こさせるはずなのか

 説教を起点として何を回復したのか、ということを考えた方がよいかもしれない。福音を聞く前のことばと、福音を聞いた後のことばが礼拝の中で一致しているだろうか。礼拝の中で、神との関係が回復したことを覚えたのに、罪がゆるされたことを覚えたのに、依然として「私たちは罪深いものです」ということをやってないだろうか。それは、ご飯食べた直後に、なんかおなかすいたといったことと似てないだろうか。
 このことは、礼拝で語られた言葉が十分意識されないまま、パターンとして礼拝が実施され、理解され続けていることを物語っているのではないか。礼拝の信徒の終了前の祈りが未来の希望になるような祈りのことばではなく、誰それさんの病気を癒してくださいとか、この方が神を信じるようになりますようにといったような配慮とかの祈りになっているのではないか。神に愛されているものであることを再確認したということは全く忘れて。

 礼拝で何を何を思い起こすのかという対象は、神の約束を思い起こすのであり、イエス・キリストによる神との関係の回復、神の意思の成就を思い起こすのではないだろうか。

梅干による礼拝理解

 礼拝を考えるとき、梅干しのことを考えてみたい。例えば、梅干を考えて、といわれると、以前食べた梅干しの味が思い出されて、まだ食べてもいない、あるいは見てもいない梅干しの味を思い浮かべるのではないだろうか。条件反射のように。実は礼拝の思い起こしは、過去起きた出来事を辿る中で、まだ味わってもいない、見てもいない神の臨在と神の支配のことを思い起こしているのではないだろうか。


和歌山名産 紀州梅干し

 我々に語るためにこの地上に来たイエスが再び来たら、どういうことになるかということを考えるべきなのではないか。その意味で、礼拝のことばは終末論的希望に満ちているだろうか?それは、終末が近いと主張することではなくて、何を根拠に礼拝のことばが想起して構成されているかを考えないといけないのではないだろうか。

 申命記4:10で、神が「民を私のもとに集めなさい」と言っている。それは、救いの約束を民に示すためではなかったのではないか。

 そして希望とは、東から西かあまた来て宴会の席につく、ということではないか。これを礼拝で経験しているかということがあらわせているか、ということは問われないといけないかもしれない。


最近受けたのはコチラ。実に関学の関係者らしい説教タイトル

式文を考える
 葬儀式文、結婚式式文は聖書のことばを織り込んで構成されている、この聖書の箇所が根拠になってこういうことが言える、ということがある。これが未来の希望になる。そういう礼拝のことばを、作り出す訓練、練習、式文を集め、反省し、そして礼拝をより豊かなものにしていく必要があるのではないだろうか。

 ドイツにしても、アメリカにしても式文は分厚い。いろんな葬儀を経験する。誕生前の葬儀、自死者の葬儀、長寿者の葬儀、事故で無くなった人の葬儀。どんな状況でも現在日本キリスト教団の式文例としては、一つの式文例しかない。

 その中に当事者のことばや当事者の通ってきた道をどれだけ取り入れることが出来るか、ということが問われているのではないだろうか。

 確かに傾聴はなされる。傾聴においては判断せずに、当事者の方のお話を聞くのである。その意味で、このような葬儀屋結婚式の時に語られた言葉への傾聴の結果と聖書のことばと対応させていくことが必要なのではないだろうか。

 その中で、絶対的な神の働きをどう示すのだろうか。再婚同士の結婚という例もないわけではないだろう、そうすると子供がいたりする場合もあるだろう。しかし、現実には、そのような場合でも一つの式文しかない。このような場合、子どもたちが共に新しい生活するための式文のようなものがいるのではないか。

 結婚したものの、貧しさゆえ、あるいは諸事情の故、式自体をあげられず、赤ちゃんがいる新婦がいる場合もあるではないか。しかし、そのような場合、赤ちゃんを抱きながら入ってくる新婦がいる場合も、既にそれが共同体を神が結ばれた家族として形成している場合に、あえて赤ちゃんを排除せずに、それらが共に祝福を受けるかたちの結婚式をしてもよかったのではないだろうか。教会の中で、どれだけ礼拝の中に取り入れて、聖書のことばとどう結び合わせるのか。それが教会とか牧師の役割ではないか。

 牧師中心ではなくて、一人で考えるのではなくて、信徒も一緒になってチームで礼拝の祈りをみんなで考えるような礼拝形成があってもいいのではないか。

梅干しで考える礼拝は何をする場か

 梅干し食べたことない人は、梅干し見ても何も思い出さないだろう。2000年前のイエスをなぜ、今想起できるのだろうか。イエスが現代のこの教会の礼拝におられることを実感できるようにするにはどうすればいいのか、ということを考えた方がよいのかもしれない。

 エピクレーシスは、パンとワイン(ブドウジュース)を起点にイエスの復活を想起する礼拝においてそれを支配する聖霊の働きのことではないだろうか。聖書を読んで昔復活があったことを覚える類の話ではなくて、今もリアルな記憶になっているということを覚えるのではないだろうか。復活は、現代に生きる私たちの記憶でもあるということを覚えることが大事ではないだろうか。

 礼拝前、集まって祈っているけれども、そこで、聖霊が礼拝の中で働くように祈るのが大事ではないか。

 説教はちょうど、お誕生日会でイエス様の紹介しているようなものではないだろうか。説教者の隣にいるイエスを紹介するということは意識されてよいかもしれない。あるいは、イエスを紹介するような説教が重要なのではないだろうか。

 聖書の解釈だけではなくて、そこにいるイエスキリストを紹介している感じの説教が必要かもしれない。さらに言うと、これから起こる終末論的な希望を礼拝の中で伝える必要があるのではないか。

 一人の個人を考えれば、その中に希望というものはない。あるいは、希望というものの中身は存在しない。複数人たちがそれを共有するときに希望がある。そして、それは社会を変革する力になるのではないか。礼拝の中で、希望が共有する喜びを取り戻すことが大事かもしれない。そして、その希望は社会を変革させる力を持つのではないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 まるで、NTライトだと思った。この辺が、NTライトが、義の問題を取り上げるということもあり、リベラル派、あるいは社会派と誤解されかねない根源になるのだと思った。ライトはそういうことは言ってないように思うのであるが、言葉尻を捕らえるとそうなりかねないけれども。どうも、NTライトの奥行きの深さ、というか懐の深さ、ってのは、表面だけ見ていると分からないような気がしている。
QandAから

Q 聖餐式が大事というお話がMinistryの最新号に乗っていたが?
A. 聖餐式の中で、思い起こされることが重要であろう。そのために聖餐での式文をどう使うかは工夫されてもいいかもしれない。日本キリスト教団の式文には、自由に変えていいと書いてあるものの、実は神学校でも変え方は習ってないであろう。その中で、信徒の状況が式文にどう反映されているか。信徒の現実と結びついた式文が出来ないか、ということを真ととともに司牧が考えるべきではないか。

Q ドイツで開放感があったということであるが、そこらをもう少し詳しくお願いします。
A 開放感があったのは、交わりの豊かさがそう感じさせたと思う。
 日本人はまじめで、100年前の礼拝を守っていて、一種、化石化さえしている。教えた方のアメリカやドイツの教会は変わっているにもかかわらず、日本では伝統墨守されている。もっと豊かさを味わって、礼拝の構造そのものを変えていっていいのではないだろうか。ドイツでも現代曲など、パイプオルガンで演奏できれない場合もあり、その場合演奏者は下に降りてきてヤマハのシンセサイザーで伴奏したりしている。そういう自由さは大事ではないか。

Q.水野先生、つぶやいている内容を教えていただけませんか?(口開けて小声で言っておられたことを)
A. 讃美歌でも、教えられたことを守ろうとする。讃美歌も式文も、どう実際に教会員の理解を得ながら、変えていけるのか、ということを考える必要があるだろう。基本、変更してもいいけど、Pietyとかかわる問題が出てくるかもしれない。つまり、それは、習慣の力が働く部分がある。従来のやり方を無理やり変えると拒否反応があるので注意が必要かもしれない。ある面、幅がある話かもしれない。最初と最後は残すという工夫をしながら、どっか内部の構造をいじることはあっていいかもしれない。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 そんなこと言ったら、こないだの南部の改革長老教会のスミス先生、血相を替えて、口角泡を飛ばしながら、詩篇歌、詩篇歌、とか言いだされそうだなぁ、というイメージが浮かんだ。まぁ、それぞれお考えは多様なのでその辺は、教会員と聖書と現実とをどうバランスさせるかの解を自分で見出すしかないのかも、ではある)

Q.終末論的希望ということでしたが、終末をどう教えておられるのですか
A.本当に終末が来るかということは少しおいておいて、現実の問題は必ず良くなるという確信があるのか、神の支配があるのであれば、神の力が働くことはあると思う。今この問題に携わって変えていく力はないけれども、将来神が変えられるという希望はあるはずだろう。その意味で、復活の希望と終末論的希望は同じではないだろうか。
 今の教会の問題は、人を助けなきゃいけないのか、ということが弱いのではないか。回復の喜びを知っているものとして、完成が必要ではないか、ということに視点を当てていくこと、終末論的喜びに向かっていくことを考えた方がよいのではないか。まぁ、この話については、もうちょっと時間ください。


感想
 いやぁ、実に面白かった。礼拝とは何か、何を礼拝しているのか、何のために礼拝をするのか、ということは根源的な問題なのだが、礼拝は礼拝です、礼拝は守るものです、ということだけが強調され、それが何のためであり、それが個人の信仰生活とどうかかわっていくのか、ということを十分説明できない問題を少なからぬキリスト教界は抱えているように思う。カエル、替えないという問題に矮小化された議論をするのではなく、それは誰のためか、何の目的か、何が重要なのか、我々が何を信じるがゆえに何を語るのか、ということを考えなければ、そして、信徒と司牧の間でそのことが共有されなければ、礼拝は、愛餐式で食べる「おうどん」の話に矮小化されかねず、「開会礼拝をして、なかなか良かった」ということを言う若者を量産してしまうのかもしれない、ということを想った。これは、教派・キリスト者集団の別によらない様な気もしたなぁ。

 特に、礼拝論においても19世紀末の服を着て現代の梅田界隈を歩くが如き礼拝の姿は、少し振り返ってみつつ、自分自身の問題として考えないといけないのかもしれない。19世紀末の服を着て原宿やら、新宿やら、難波を歩くても、これらは、コスプレの聖地なので違和感はないかもしれないが。ま、そんな日本だからこそ、19世紀の礼拝スタイルを墨守する意味は、マニアックで面白いかもしれないが。しかし、女性は和装で、男性は羽織袴で、クラッシックなヤマハの1900年ごろ製造の足踏みオルガンでのコスプレ礼拝とか、妄想してしまいそうで…


21世紀にほど近いシアトルで、これに近い集団に出会ったことが








評価:
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日本キリスト教書販売
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(2015-05-16)
コメント:お勧めしている。

【2015.06.13 Saturday 07:13】 author : Voice of Wilderness
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NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その4
 
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 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

霊性の混乱

 第2章は水源を守る「独裁者」のたとえ話というか物語の話から始まる。この物語は面白いので、ぜひ本書を読んでご自身でお考えいただきたい。

 書店に行って「霊性(スピリチュアリティ)」と分類されている棚を見れば、同じような結果(引用者註 現代人が知的に洗練されたとしても宗教的なものへの関心は変わらないという結果)に至るだろう。書店側もどう分類したらよいかわかっていないのは、まさにこの時代の状況を物語っている。(『クリスチャンであること』p.37)

アメリカの古本屋のSpiritualityコーナー


 上記の写真は、アメリカの古書店の霊性関連のコーナーの写真である。あるいはアマゾンなりどこかのネット書店で霊性を検索してご覧になるとよい。まぁ、キリスト教から、仏教、新興宗教から、神道、またムーもどきのオカルトまで何でもございである。結局、雰囲気が宗教的なものは、何でも霊性の中にぶちこんでいる感じはアメリカでも日本でも変わらない。

 ある意味で、現代の日本の社会でも、このスピリチュアリティという語が粗製濫造のように使われ、そして記号として消費されている。


一時期話題になりましたなぁ。

この方も霊能者としてご活躍という側面も

この深見東洲というお方の車内広告がはってあるのが阪神電車クオリティ

深見東洲の阪神電車内のポスター
最初に阪神電車でこの広告見て、何者?ってビビった。

 しかし、江原啓之さんにしても、三輪明宏さんにしても、深見東洲さんにしても、みんな音楽、それも結構声量を要請する系の音楽関係者というのが面白い。まぁ、感性と霊性はどっかでつながっているので、この辺りをどう考えるのか、ってのは結構真面目に考えておかないといけないのかもしれない。これは完全に余談である。

英国でのケルトの流行

 日本でもそうであるが、1990年代から2010年頃を中心にケルトが話題になった。ケルトといっても、なんちゃってケルト的なものであるが。その火付け役は、なんといってもエンヤというアイルランド生まれの歌手であり、そのアルバムである。


エンヤの音楽 もろケルト風


かなりデトックスされたケルト風 Celtic Women

 まぁ、その後、セルティクスの活躍(中村俊輔というサッカー選手が在籍したらしい)などもあり、大概の日本人はスコットランド高地地方とアイルランドの深い関係を知ることもなく、なんちゃってケルトを楽しんでいるし、その極みは、ケルト的な(というよりドルイド的な精神世界の反映である)ハローウィンである。


セルティクス時代の中村俊輔


2014年表参道ハロウィンパレード

また、コンピュータゲームの古のゲームウィザードリィなどである。1980年代初頭にこのゲームがしたいがためにマックを買いに走った友人が一人いる。まさにヲタクであった。大体マッキントシュという語自体、とてもケルト的である。

 まぁ、余談に行き過ぎたが、N.T.ライト先輩の本から
 とくに、私の住んでいるイギリスについて言えば、つい一時代前はケルトに関することが突然注目をを浴びるようになった。「ケルティック」という言葉がつけばそれだけで人々の興味を引いた。音楽にしても、祈祷書にしても、建築物であろうと宝石であろうとTシャツであろうと手当たり次第に西洋文化圏の人々の注目を引き、売れた。それは絶えず心に浮かぶもう一つの世界の可能性を物語っているように思う。(同書 p.38)
 実は、ケルトの血脈というのはアメリカに結構流れているのだ。まぁ、貧しいアイルランド系の農民たちが、ジャガイモ飢饉の結果、19世紀に新天地としてアメリカに大挙して移民を行い警察官や消防署員、そして軍人として、アメリカ社会に流れ込んでいったのだ。いまだにニューヨーク市警察本部には、なぜかアイルランドの国旗が掲げられる習慣がある。それだけ多いのだろう。まぁ、いずれの三職とも、体力勝負の仕事ではある。


アメリカ国旗、アイルランド国旗、NYPD旗(緑はIrish Green)


映画「デビル」の予告編

IRAのテロリスト(ブラピ)と同居する羽目になる警官(ハリソン・フォード)に示される実に複雑なアイルランドとアメリカのつながりが思い起こされる面白い設定の映画


ボストンの有名バスケチーム Boston Celtics


なぜ、ケルトにひかれるのか

 ケルトに英国人がひかれるのは、現代社会の底の浅さ、浅薄さではないか、というのがライトの主張である。この辺、もともと、ライト先輩がスコットランドのセントアンドリュースで教えていることもあるかも、と思っている。いずれにせよ、結局西洋文明が、理性重視社会に偏重してしまった結果、結果的に底の浅い、懐の深さを失った残念な結果になっているかもしれないことに関して以下のようにお書きである。

 神(どのような神であっても)がもっとリアルに存在する世界、人間と自然環境が最もうまく共存する世界、はるかに深い根源に根ざしている世界、そしてそこで奏であれるさらに豊かな音楽。そこには、現代のテクノロジー、昼ドラ番組、サッカーの監督等、けたたましくそこの浅い世界より、はるかに豊かな世界がある。古代ケルトの世界(中略)は、今日のキリスト教からは百万マイルも離れているように思われる。それこそが教会等西洋の公認宗教に飽き飽きし、怒りさえ抱いている人にとって間違いなく魅力的なのだ。
 しかし、ケルト・キリスト教の真の中心は、極度の肉体的苦行と熱心な伝道活動をともなった修道生活であり、今日の人が願うものではない。(中略)今日の陽気で熱狂的なケルト愛好者は、そうした肉体的苦行を取り入れる様子はない。(同書 pp.38-39)


ケルズの書(ヨハネ福音書)Wikipediaより



ケルト十字架



アイルランドの聖人 St Patirick



アイルランドの祭り St Patric Day

真ん中の人物は、レプリコーンという虹のたもとに宝を埋めたとされるアイルランドの妖精のコスプレ


Guinness Beerカップが典型的なアイルランドのステレオタイプ


 今のアイルランド、あるいはケルトは、基本こういったノリの軽さとポップさを含んだものでしかなく、古のアイルランド人、スコットランド人が地を這うように生活し、海藻を岩地にまき、土壌を作り、痩せこけた土地で何とか生き抜こうとしたその情熱と必死さも知らず、お気軽なケルト祭りをしているように思えてならない。

日本とケルト

 日本でも何かと話題となるゴルフは英国風の紳士のスポーツに今はなってしまっているが、そもそもは、スコットランドの遊びであり、非常に古い伝統を持つものなのだ。


ゴルフの歴史の映像
 20秒あたりからライト先輩のいるSt Andrews 大学の映像がある

 また、アイルランドにしてもスコットランドにしても、土地の生産性が限られるために(だから牧草地になっている)その土地で生活可能な人口が限られるの で、割と早くから海外展開に出ており、海外進出している人々が多い。例えば、トーマス・グラバーは上海のジャーディン・マセソン商会(現在はマンダリンオ リエンタルホテルグループなどで知られる)の日本の相代理人を長崎にて務め、長州と薩摩に当時の最新鋭兵器から一歩落ちた南北戦争で売れ残った銃を大量に売りつけた人物であるが、ジャーディンやマセソン同様、スコットランド人である。結構、幕末のころの一発屋的な外国人商人(冒険商人)にスコットランド人は案外多い。

Thomas Blake Glover(グラバー 右)
左の日本人は岩崎弥太郎

 また、スコットランド人の伝道者はかなり多い。第2次世界大戦末期、中国東北部にあった日本軍の捕虜収容所で脳腫瘍のため1945年2月に収容所で病没した元パリオリンピック金メダリスト、エリック・リデルズはスコットランド人の宣教師である。
 念のため、この人物は炎のランナーで登場する人物である。

Eric liddell 1.jpg
Eric Eric Henry Liddell


映画 炎のランナー 予告編 米国版

 ことほど左様に、古ケルトの社会は理想郷ではない。非常に陰惨で飢えと苦しみとイングランドによる暴虐に満ちた地であった。しかし、それでもなお、いや、それ故に、大陸やイングランドで失われた神のコミュニティとその伝承が偏狭であるがゆえに比較的きれいに残った地でもあり、神のことばの情熱の声が響いていた地なのかもしれない、とは思う。

 最近、息子と英米文学の話をするのだが、特に米国文学の理解にあたっては、スコットランド、アイルランドの文化とその特徴の話を抜きに、語ることはできない、ということを感じる。しかし、案外このあたりのことを講義では触れてもらっていないようなのが、実に残念ではあるが、米国や英国にいる訳でないのでしょうがないとは思うけれども。

 また、なぜかケルト系住民(主にスコットランドやアイルランド系住民)が多いシカゴでは、シカゴ川を緑色に染めることをせんとパトリックの日にしてここ数年遊んでいる模様である。もはや病気である。なお、この緑色の染料は、環境負荷がない染料らしいが、サカナが住んでいるとして、びっくりするかもではある。



シカゴは3月のSt Patrick Dayに川を緑に染めて遊ぶ模様w

 あぁ、あまり関係のない話題で今回は盛り上がってしまった。次回はまともに紹介します。



評価:
原 聖
講談社
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(2007-07-18)
コメント:非常に幅広い世界であったことを示す名著だと思うけど継続的に出版されてない模様。

【2015.06.13 Saturday 06:02】 author : Voice of Wilderness
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