NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その7 |
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今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、3章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。 ノイズの多い社会の中で 現代の社会では、非常にノイズの多い社会である。ノイズを意図的に増やして、それで空間と時間を満たしてきた社会である。人工音なしの音の真空の時間も空間もかなり限られる。とはいえ、音が全くない音の真空の時空間は昔からなかったわけであるが、トランジスタラジオの発売以来、音に関する空間は与件から自分で変えていくものへと変わっていった。トランジスタラジオ、ラジオカセット、ウォークマン、iPadをはじめとするシリコンプレーヤーが実空間に個人の好む人工の音楽や音を持ち出していくことを可能にし、それが当たり前になった。 騒々しい工場で働いていたり、大家族の中で生活していたりしたら、そこから離れて、人けのないところに行って、すがすがしい開放的な気分に浸りたくなる。多くの人と一緒にいるのが好きな人でも、時にはうんざりして本の世界にのめりこんだり、長い散歩に出かけたり、雑音から離れて何かを考えたくなる。鳥の鳴き声、川のせせらぎ、波の音が雑音かどうかは別として、人為的な音環境からの脱却ができるところにまで、人工的な音源を持ち込もうとしたのが現代という時代であろう。そして、個人の世界をどこにでも持ち込もうとしたのが現代という時代である。ある面、公共的な音環境からの脱却を目指して、結果的に孤独な社会に向かっていくという非常に悲惨な現実がある。この辺りのことは、ナウエンの「開かれた手で」にその種の言及がある。 個人的な世界の中に閉じこもりつつ、孤独であることに耐えられないのが現代人であるという、実に複雑な現状が生まれている。 現代日本の若者の中で「ひきこもり」(ヒッキーと呼ばれる)という現象が確認されているが、彼らは彼らで引きこもっているだけなのではなくて、自分たちの関心のある領域に関して、コミケと呼ばれるイベントで交流したり、コンビニやまんだらけ、アニメイト等の巡回警備(要するの雑誌・同人誌やグッズの確認)をしているのである。あるいは、ネット上の掲示板やツイッターで炎上を含めて交流していないというわけではない。 ヒッキー(ひきこもり)を扱った現代劇のポスター まんだらけ アニメイト コミケの模様 社会生活の重要性 N.T.ライト先輩は、現代社会での人と人とのかかわりの重要性を指摘した上で、それを改変している西側社会における人間関係の貧しさを次のようにご指摘である。 社会生活なしに自分がどのような存在であるかを知るのは難しい。私たちは、自分の生きる目的や存在の意味を自分自身のうちに、また自分の内的生活のうちに見出すだけではなく、家族の中で、表通りで、仕事場で、コミュニティーで、街で、国で、共に分かち合うように造られているものだ。ある人を「一匹狼」ということがあっても、それは悪い意味ではなく、変わった人である、というだけの話である。人が社会的動物であるがゆえに、社会生活は必要だし、その社会の中で、そして社会として定義されてこそ、自分のレゾン・デートル raison d'etre が確認される部分がある。 ところで、牧師先生の社会人経験の有無が時々話題になることがある。たとえば、KGKの山崎元総主事の「社会経験という名の偶像?」、のらくら者の日記の「「社会経験」は偶像か?」やこれらの公開討論を経て生まれた拙ブログの「産業社会の変遷とキリスト者の労働観 かなり長い突っ込み!」等である。 牧師は社会人として認められないと主張される人々もいる。その根拠として、一般の企業社会や、学校や、役所などで、教会外組織で、対価を得るという経験が少ないことを批判しているのだと思うのだ。 しかし、幼小中高の教員及び大学教員は、基本的に学校以外の組織からの対価を得たことのない人が多い。それが問題だと考える人もいるようであり、一部の自治体などでは、1週間とか1月とかの期間限定などで、企業とか、役所で体験就労してみるとかいうプログラムもあるところもある模様である。個人的には、一時的に行って体験就労して学べる程度のことは多寡が知れていると思うので、あまり意味はないように思うが、ないよりマシ、一応お茶を濁すような形で、ポーズとして制度化されている側面が多いなぁ、という気がする。 しかし、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、という言明があるが、はたしてそう言い切ってよいのだろうか。教会が孤島や人里離れた山の上、砂漠の洞穴内にあるような修道院の場合のように、社会から完全に遊離した存在であれば、教会は社会的存在ではないし、牧師は社会的生活がなりかねない。しかし、孤島や人里離れた山の上にあるような修道院のような場合でも、そこに複数の修道士や信徒がいるならば、教会は内部的には社会という構造を形成するだろう。かなり偏ってはいるが。その意味で、何らかの形で、どのような人でも、幅広い地域社会の一部を形成してなくても、社会生活を送っているという意味で、社会人であるように思う。では、一般の企業で偏りがないかと言われたら、偏りはあるのである。町工場には町工場の偏りがあり、大工場には大工場の偏りがあり、商社には商社の偏りがあるのだ。それはアダム・スミス先生が分業の利益を発見したころから、延々と続く偏りではある。 そもそも、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、というような言明は教会が一般社会に生きる信徒と一般社会の一翼を担う司祭・牧師とで教会が構成されている以上、基本的に社会的存在であるという、根本的な社会理解に瑕疵が存在すると言えるのではないかと思う。 ところで、地域社会における人間的なかかわりは、共同作業(たとえば水利管理等の農作業)や地域における祭事等で形成されてきた。しかし、近代、とりわけ、啓蒙時代を経る中で、人と人の直接的なかかわりはかなり排除可能な形に形成されてきたし、それを可能にするように近代の計画型都市(所謂団地)が形成されてきた。新興住宅地という計画型都市には、その計画の中に寺院もなければ、神社もなく、もちろん教会もないところが多い。その代わりのものとして、都市計画者は、申し訳程度に交流が生まれるといいなぁ、と思いつつ、コーナーパークを設置し、非宗教化されたほぼ使われることのなかった集会所を設置するにとどまった。これは、この分野の都市計画にかかわった者として、反省はしているが、そもそも論として才能がなかったので、自ら手を下さずに済んだのは、ラッキーだったと思っている。 そして、地域の祭事は、観光イベント化するか地域商店街の売り上げ倍増計画となるか、社会貢献事業化し、人が集まるための施設でもあった地域の宗教施設と人との関係は行政的な枠組みの中で考えられるようになり、行政のコントロールの中でのみ人と人がかかわることが模索されてきた。 しかし、『新しい中世』という書籍で、インターネットが爆発的に普及する以前に、現在のようなヴァーチャルな連携が予測されているが、現在は、リアルな空間の中でのかかわりではなく、かなりバーチャル空間の中の連携がリアル空間の中で時に表面化しているように思う。たとえば、アルカイダやISISなど中での人々のかかわりは、基本ヴァーチャル空間でかなりの計画がなされ、それが現実空間に表れてきて、人々驚かすことになる。 コミュニティとしての暴走 コミュニティは、時に暴走することがある。自分たちだけがユニーク(独自性をもつ唯一の存在)であることは間違いないが、それが行き過ぎると、自分たちだけが正しい、自分たちだけが重要で他はダメという価値観にとらわれることが過去これまで起きてきた。 もちろん時には、まさに邪悪なことにもなり得る。強烈な団体意識は、コミュニティー全体を間違った方向に走らせてしまうことがある。コミュニティーが一つにまとまり、堅く結束してしまうと、古代アテネの人々のように横暴になり、勝ち目のない戦争を傲慢にも始めたりする。もっとも最近の出来事では、ドイツのほとんどの人がアドルフ・ヒトラーに全権をゆだねる決定をした。それは、歴史の流れを変えた。コミュニティで生きるように招かれていると同時にコミュニティの暴走の両面をご指摘しておられるというNTライト先輩のご指摘は大事ではないか、とおもう。ここでは、古代アテネの例と、ドイツでのナチスドイツの例が出されているが、日本では、戦争中の隣組制度や江戸期以来続く村八分の精神性等で、時々我が国の歴史の中で出てきていた。 その意味で、1935年以降、アジア大陸での戦争に向かっていくとき、一億層火の玉といい、敗戦を迎えるや否や一億総懺悔という等、そのコミュニティ性は非常に強く、そして、一致した行動規範に従うことを求め、その結果悲惨を迎えたのではなかったろうか。 ところで、キリスト教会では、コミュニティの重視と暴走の側面はカルトの問題として噴出してきた。カルト化教会は、カルトの組織内的には目的適合的(たとえ、それがそのカルトの代表者の生活をより豊かで安楽なものとするというものであるとしても)にはうまく機能していたかもしれないが、その行きつく先は不健全な例はいくつもある。たとえば、何度も紹介しているWacoを一躍有名にしたブランチ・ダビディアンや人民寺院の例もある。 ブランチダビディアンの戦争もどきで有名になったWACO, TX 人民寺院事件で残された遺体 近代社会の中で、独裁の問題を考えるときに、特に発展途上国や経済的困窮状態にあった国家の中で出てきているという側面は、考えてみたほうがいいかもしれない。混乱状態にあるがゆえに、そこからの脱出を考えるという点で、強いリーダーシップが求められた結果であると言えるのではないだろうか。まぁ、混乱から脱出するための非常措置として設置したはずの制度であっても、制度ができてしまうと、それが独り歩きしてしまう例は多い。典型的には、ローマ皇帝の制度である。本来元老院での民主主義が行われていたローマという都市国家的制度からその危機に際して、ローマ国民を統合するために、護民官の代表者とその意思決定を迅速化するための後継制度がローマ皇帝の制度になっている。 最悪であるがそれ以外にない政体論 政体論としては、現在の社会では、民主主義政体以外は考えられないが、君主制、立憲君主制、神政政体(旧約聖書的な君主制ができるまでの神が王であるとする政体)、貴族制、寡頭制と様々な政体が浮かんでは消え、消えては現れしてきたのである。 今日の西洋世界のほとんどは、民主主義以外の生き方は想像もできず、そうしようとも思わないだろう。「民主主義」という用語は、すくなくとも「全ての成人に投票権がある」ことを意味し(過去には普通に行われていた女性や貧困層、奴隷を排除したシステムに対立する意味だが、それさえ過去には「民主主義」と呼ばれていた)、考えうる最も高い賛同を得ている。若し民主主義を信じないと言ったり、それに疑問を投げかけたりしたら、頭がおかしいと思われるか、少なくとも危険人物とみなされる。民主主義は、現代の社会の政治制度の前提となっており、それ以外の制度設計は確かに、ほぼ想定し得ないし、想像するのも困難なほどである。民主主義でもうまくいかないことは、ウィンストン・チャーチルの次のことばに表れている。 多くの政体が試みられてしたし、また、この世界の罪と非さんに満ちたこの世で取られて行くことだろう。誰も、民主政体が完全であるとは言えないし、すぐれたものであると言うことはできない。実際、民主主義は最悪の政体として存在しつづけている。ただし、これまで時に試みてこられた他の政体を除いてではあるが。 実に人間関係というのは非常に難しい。そのことは、この前のミニストリーの出張講座でも取り上げられていたし、工藤さんの本にも、『よりよい人間関係を目指して』という本がある。このような本はこれまで多数出版され、人々に影響してきたとしても、なお、人間関係は難しいのである。 人間関係が一致するのは、利益が一致する時である。これが一致する場合、細かい方法論でもめることはあまりない。問題は、理性の問題というよりは、感情の問題であり、対話の議論をする際の立場とその中で働く力学というものの影響は大きいように思う。最近世俗の仕事でエリアマーケティング論の授業で用いた以下のPersuasionに関する動画は、非常に印象深いので、ご紹介しておく。 説得の科学の動画 英語版のみ うまくいかない人間関係と泣き笑い 人間関係がうまくいくということと泣き笑いの関係について、NTライト先輩は次のように言っておられる。 そのような問題(人間関係がうまくいかない問題)は、最も親しい関係(結婚関係)からもっと大きなスケール(国家観)に至るまで同じである。私たちは皆、共に生活するために造られていることを知っている。しかしそれは想像以上に難しいことも知っている。ここで、N.T.ライト先輩は、人間関係はうまくいかない、ということを明白にお認めである。このご指摘は重要だと思う。それをうまくいっているかのように糊塗することは、テル・エル・アマルナ文書の時代から行われてきた。 例えば、「私は大王さまの足の下のサンダルの裏側の塵のようなものにすぎませんが、エジプトの大王さまはつつがなしや」と書き記しながら、その直後に「私 の厩舎の馬は意気盛ん、私の兵は装備充実し、戦車はいつでも出動態勢」と付け加えることを古代の欧は忘れなかったが。 とはいえ、人間は草食動物が弱いから 群れなして生きるように群れを成しているのでもなく、共同体において、神の霊が働き、神の霊の顕現があるがゆえに共に集まるのである。それでも分裂と分断と 亀裂が存在するにしても。 そして、その共同の生活の中で、笑いと涙が共有される経験をするのであろう。新約聖書に笑いの場面はほとんどない。しかし、イエスの発言を見る限り、一種、豪放磊落な笑いがあったような気がする。 世間の人々から教会は聖人(より正確に言うと倫理的な人々という程度の意味だと思うが)の集まりだと思われているかもしれないが、キリスト教会の中は、聖 人の集まりであり、もめ事が起きない世界ではないことが多いというのは、キリスト教会の関係者ならおわかりいただけるのではないか、と思う。さようでなければ、 これほど、世の中に多用な教派が(特にプロテスタント派において)生まれるはずがないし、初代教父時代には、聖人といわれた人々が血相を変えて言い争いしていた風があるというのが、キリスト教の世界である。 まだまだ続く
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【2015.06.20 Saturday 05:45】 author : Voice of Wilderness
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