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弥生時代前期のものか 水田と墓の跡 発見
6月19日 17時41分

弥生時代前期のものか 水田と墓の跡 発見
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大阪・高槻市の遺跡から弥生時代前期のものとみられる水田と墓の跡が見つかりました。この遺跡では、これまでに住居の跡も発掘されていて、専門家は稲作とともに定住生活が始まったころの暮らしを物語る貴重な資料として注目しています。
大阪・高槻市の「安満遺跡」で、市の教育委員会が去年9月から発掘調査をしたところ、およそ35メートル四方の範囲から水田の跡が見つかりました。
市の教育委員会によりますと、1つの水田は広さが10平方メートルから60平方メートル余りの長方形で、57枚が確認されました。
幅20センチほどのあぜにより整然と区分され、出土した植物から、およそ2500年前の弥生時代前期のものとみられるということです。
また、近くでは木や土器で作られたひつぎも見つかり、墓だったとみられています。
この遺跡では、これまで、ほりで囲まれた住居の跡、環ごう集落も見つかっていて、高槻市教育委員会によりますと、弥生時代前期とみられる水田と墓、それに住居の跡がそろって見つかるのは全国でも珍しいということです。
弥生時代に詳しい大阪大学の福永伸哉教授は「新しい稲作の文化を持つ人たちがどのように定住し、どんな生活を営んでいたかを知ることができる貴重な資料だ」と話しています。
この調査結果は、今月27日と28日に現地説明会が行われます。

水田・墓・住居の意義

国内には弥生時代の遺跡が数多くありますが、稲作の技術を手にした人たちが定住生活を始めた弥生時代前期の遺跡で、水田と墓、それに住居の跡がそろって見つかるのは全国でも珍しいということです。
例えば、奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡」は、弥生時代の大規模な集落があったことで知られ、住居や墓の跡が見つかっていますが、弥生時代前期の水田は確認されていません。
また、奈良県御所市の「中西・秋津遺跡」は、弥生時代前期としては国内で最大規模の水田の跡がありますが、そこで暮らした人の住居や墓は見つかっていません。
弥生時代前期の水田と墓、それに住居の3つがそろって見つかったのは、これまで、福岡市博多区の「板付遺跡」など数か所に限られています。
今回の安満遺跡は3つがそろった遺跡の中で、水田の規模が最も大きいということです。
安満遺跡のある土地は昭和初期から京都大学の農場として使われてきたため、高度成長期の宅地開発などを免れ、遺跡が良好な状態で保存されたと考えられています。
今回の調査は、農場を移転させ、公園などを整備するのに伴って行われました。
大阪大学の福永伸哉教授は「当時の人たちは集落の近くで食料を調達し、暮らしていた。水田や住居などの位置関係が分かれば、生活圏の規模や毎日の習慣などを知ることができるのではないか」と話しています。

発見品から見える暮らし

これまでの発見から、弥生時代の暮らしはどんな様子だったと考えられるのでしょうか。

<水田>
今回見つかった水田は、緩やかな傾斜を利用して順に水をはれるように作られていました。
<足跡>
川の氾濫で埋もれたとみられる水田の上には、心配して見に来た人のものなのか、足跡が残されています。
<石矢じり>
水田から少し離れたところでは、狩りに使われたとみられる石の矢じりが見つかりました。
<各出土品>
住居の跡では、くわなどの農具のほか、食べ物の保管や調理に使われた土器、それに女性が使ったとみられる漆塗りのくしの破片などが残されていました。
<想像図>
発掘成果を基に、高槻市教育委員会が作った当時の暮らしを描いた図には、ほりに囲まれた集落の近くに水田が広がり、協力して農作業にいそしむ人の姿が描かれています。
また、矢じりが見つかった場所では、獲物の動物を追う姿も見られます。

大阪大学の福永伸哉教授は「当時は、稲作に加え、近くで動物を取るなどして、多様な食生活を営んでいたと考えられる。のちの古墳時代や古代のように人々の間に階層ができ、上下関係が厳しい時代ではなく、集落の人たちが協力して新しい技術や道具を使い、稲作を続ける暮らしが営まれていたのではないか」と話しています。

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