Rachel Dolezal and race: Blurred lines http://www.economist.com/blogs/democracyinamerica/2015/06/rachel-dolezal-and-race

Rachel Dolezal事件、個人的に非常に気になっていたところ上の記事が概ね言いたいポイントを説明してくれていた。

が、自分で考えていたことをここで一応書き留めておきたいと思う。
不謹慎だが、このニュースを聞いたとき、人種の定義やアイデンティティについて考えさせられるケースになると思ってしまった。彼女自身はあくまで自分を「黒人」blackだと自認し続けているけれども、その自認は社会的、倫理的に許容しがたいものと受け止められている。そしてその反応もまったくもって当然であるように思う。その結果、どの人種に属するかが当人の自認によって認められることが望ましいかどうかよりも、現状において人種は、祖先や養育環境によって決定され、個人が変更を望めるものではない、と理解されている様子が浮き彫りになる。このことは、社会的性質sorcial kindであるジェンダーとは明確に異なる点であろう。ジェンダーの場合、出生時のジェンダーを個人が変更することは、それほど珍しい現象ではないからである。「人種は現在どのように理解されているか」と「どのように人種を定義すべきなのか」という問題を区別するなら、ここでは前者について思いついたことを書き留めたいと思う。

ただし、まずは、なぜ彼女が批判されているのか、その社会的背景を理解する必要があるだろう。そして歴史を考慮すると、彼女に向かう怒りの声も(New York timesの記事では「だまされていたなんて」という知人の声が紹介されている http://www.nytimes.com/2015/06/16/opinion/rachel-dolezals-harmful-masquerade.html?_r=0 )理解できないものではない。ごく単純化して言えば、批判される理由は、一時的であれ永続的であれ、人種を変更することはそもそも白人という強者の特権であり、マイノリティにはほとんど許されていないことだから、という点にあるように思えた。

下記の記事によれば、白人が黒人になろうとする行動は歴史的に様々なかたちで確認されるものだという。ジャズ音楽のパフォーマンスで使用された、肌を黒く塗りつぶす「黒塗りメイク」は歴史に疎い私でも知っている。これは、白人がカリカチュアした黒人に基づいて行なわれた行動の一例であると同時に、「正統なジャズミュージシャンは黒人でなければならない」という不安に基づく行動の例でもあるといえるそうだ。メイクで外観を整えただけで人種の「変更」が可能になるのは、パワーを持った白人だからこそ容易に認められている、という点に注意すべきだろう。反対に、「黒人が白人になる」行動は社会的に困難をきわめるのではないだろうか。この非対称性は、黒人と白人を親にもつ子供は、少なくとも歴史的に、白人ではなく黒人とみなされることが多い、という事実にもあらわれているように思う。Rachel Dolezalの行動に差別性が読み取られる理由は、人種を変更するという行為がそもそも白人の特権のあらわれなのだ、という点にあるのではないだろうか。

Just how unusual was Rachel Dolezal? : http://www.theatlantic.com/politics/archive/2015/06/rachel-dolezal-and-the-history-of-passing-for-black/395882/

なお、ここでコメントしているBaz Dreisinger氏はNear Black:White-to-Black Passing in American http://amzn.com/1558496750 という著作を執筆している。黒人になろうとする白人の行動パターンについて米国の歴史を論じた仕事のようである。passingとは人種を変えようとすることを意味する言葉らしく、どちらかというと、マイノリティがマジョリティになろうとする行動を指すのに用いられて来たそうである。

さきほど人種をジェンダーと類比的に理解するのは難しそうだと感じた理由は、次の通りである。女性の権利を守る活動を主導する人物が、実は数年前まで男性で、トランスジェンダーであることが判明しても、まずバッシングは起こらないのではないだろう。ある人の性自認がかつては男性であったり、不確定であったりしたものが、ある時から女性としてのアイデンティティを確立する、というプロセスは現にありうるし、多くの人がその事実を事実として理解するだろう。少なくとも「あなたは女性を騙った男性だ」とはよほどのことがない限り公言されないはずである。おそらく、その理由の一つは、反対に、女性に生まれた人が男性のアイデンティティを確立するケースが同じように認められているからであるように思う。

しかし、先にふれたとおり、人種の場合はこうした対称性が成り立たっていないのではないだろうか。Rachel Dolezal事件の反応を見る限り、白人として生まれ育ったが、ある時から黒人としてのアイデンティティを確立した、というプロセスは「ありえないもの」とみなされている。(Dreisinger氏のコメントにも同様のことが記されていた。)この「ありえなさ」は概念的不可能性というより、「黒人が白人のアイデンティティを同じように獲得できない限り、白人が黒人のアイデンティティをもつことは許容しがたい」、という倫理的な不可能性を意味しているのだと思う。加えて、こうした倫理的要請はまったく正当なものでもあるだろう。 

現状では、少なくとも人種的マイノリティにとって、人種とは、どんな祖先をもつか、という出生や、その後の養育環境によって決定されるものであり、自分の認識によって変更することは実質的に不可能な性質ということだろう。祖先の生まれや養育環境は個人の意思や努力では決して変えられないものであり、この意味に限れば、現在、人種概念はジェンダーよりも階級に近いのかもしれない。

(出生だけでなく養育環境が重視されたケースとして、先ほど参照したNY誌の記事で、trans-racialという言葉が登場する。子どものころ本人の<生まれもった>人種とは異なる人種の家庭で育てられた場合に使われることが紹介されている。)

ただし、これは人種概念が現実にどのように機能しているか、という説明であって、人種という社会的性質をどのようなものとして理解していくべきであるか、ということとは別である。人種間の不均衡が少なからず調整されたのちに、ジェンダーや宗教の「変更」が認められるように、個人の人種についてのアイデンティティが優先される可能性も検討の余地がある理解であるように思われる。