1971年(昭46)夏、磐城(福島)は2回戦で優勝候補の日大一(東京)を破ると、そのまま決勝まで勝ち進んだ。準優勝の快挙は、常磐炭鉱が閉山したばかりのいわきの町に希望を与えた。大会前はノーマークのチーム。「1番遊撃」だった先崎(せんざき)史雄さん(61)は「練習してきたことを全て出せた」と振り返る。

71年8月、準決勝の郡山戦でプレーする磐城の先崎さん(右)
71年8月、準決勝の郡山戦でプレーする磐城の先崎さん(右)

 甲子園に夕立が降り始めた7回裏、0-0の試合が動いた。桐蔭学園(神奈川)の攻撃、2死三塁。磐城のエース田村隆寿が、追い込んでから4球目に投げた得意のシュートは、無情にも高めに浮いた。打球は左中間を割り、磐城は大会34イニング目で初失点を喫した。田村と同じ身長165センチ、60キロで遊撃を守っていた先崎は回想する。

 田村は、前年の甲子園では捕手。投手になってからの失投は、本当にあの1球ぐらいですよ。あとは正確無比だった。配球と相手バッターの性格を見て、私が守備位置のサインを出すのですが、ほとんどその通りに行った。本当にすごかったです。

決勝進出を決め笑顔でガッツポーズする磐城の田村隆寿
決勝進出を決め笑顔でガッツポーズする磐城の田村隆寿
71年夏の甲子園で優勝した磐城(福島)のスコア
71年夏の甲子園で優勝した磐城(福島)のスコア

 決勝2日後、8月18日の昼すぎに勿来駅に降り立ったナインは、そのままオープンカーでパレードを行った。紙吹雪が舞う中、小名浜、平と市内を夕方までかけて回り、およそ20万人が沿道で手を振った。その4月に、地元を支えてきた常磐炭鉱が閉山。エース田村、二塁手舟木正巳、三塁手阿部稔の父も炭鉱関係の職を失っていた。大会出場30校中で最も小さい平均身長167センチの「チビッ子軍団」の快進撃は、不況にあえぐいわきの町を明るくした。

 試合の中継時間になると、街に人がいなくなったらしいです。小さい選手ばっかりいるチームが勝つと誰も思ってなかったから。自分たちも、毎試合帰る準備をしてから試合に行っていました。だけど、決勝に負けたのはやっぱり悔しかった。悔しいけれど、練習でやれたことは全て出せたと思う。それ以上かも分からないぐらい。

 磐城高は、いわき地区の進学校ながら当時は県内屈指の強豪だった。だが、その年は春の地区大会初戦で敗退。県大会にも進めなかった。夏の甲子園予選前には「夏に強い磐城も今年で終わりか」と新聞に書かれたほど下馬評は低かった。そんなチームが、なぜ全国準優勝できたのか。下地には、徹底したチームプレーの練習があった。

 当然、個の力じゃ勝てない。チームで何ができるか、1人1人考えていた。ノーヒットで1点取る方法、走塁などかなりやった。須永(憲史)監督の野球は、常磐炭鉱(社会人野球チーム)でやってきたことだから高校生ではすぐに出来ない。本当に出来るまでやった。反復、反復でした。

 須永監督が後に「彼らの野球に取り組む姿勢が半端じゃなかった。全国どこを探してもない」と語るほど、磐城ナインは甲子園ですべてを出し尽くした。

 先崎は立教大に進み、卒業後は福島県郡山市に拠点を置く社会人チーム、ヨークベニマルに入社。87年には日大東北の監督として、同校を初の甲子園へ導いた。その後、ヨークベニマルの監督も務め、廃部後は社業に携わってきた。

 自分は体が大きくないから、当たり前のことを当たり前にやれる選手でいようと。努力したからには無駄にしたくない。まだ試合が終わらないうちは、この野郎と思ってやっていた。夢は自分でつかむものなのかな。

 練習は裏切らない。その信念は変わらない。(敬称略)【高場泉穂】