植民地支配という不幸な過去がありながらも、日本と韓国が国交樹立のための条約に調印して、今月22日で50年を迎える。

 日韓はいまや双子にたとえられる。焦土と化した国を不断の努力で発展させた。産業の得意分野も重なる。少子高齢化、環境対策など、抱える共通課題をあげればきりがない。

 だが、両政府は相も変わらず対立し、嘆かわしい政治と外交を続けている。協力しあえばプラスになる問題が多いのに、歴史問題という古いハードルを前に立ちすくんだままだ。

 そんなぎごちない政治の関係をよそに、在日3世の辛理華(シンリカ)さんは今、映画のディスクを手に飛び回っている。

 ディスクに収まるのは父の故・辛基秀(シンギス)さんが手がけた記録映画「江戸時代の朝鮮通信使」。大学や国際交流団体、さらには韓国の国会議員からも頼まれ、各地で上映会を開いている。

 徳川家康は、豊臣秀吉に侵略されて荒廃した朝鮮との国交回復をめざし、朝鮮通信使を招いた。一大文化使節団は江戸時代に12回来日した。

 行列を一目見ようと待ち構える群衆。通信使をまねたコスプレ……。通信使は「元祖韓流」といえるほど歓迎された。

 そんな史実をたどる映画上映の要請が急増したのは、日韓50年となる今年の春からだ。理華さんは「困難な時代だからこそ、この映画の意味が深まっているのでしょうか」と話す。

■「まず相手を知る」

 日本と朝鮮半島の安定期は、外交がちゃんと機能していた時代でもある。

 朝鮮通信使にも2度かかわった儒学者、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は61歳の時に朝鮮との外交にあたって注意すべきことを「交隣提醒(こうりんていせい)」という本にまとめている。

 その第1条で芳洲はまず何より「朝鮮の慣習や歴史、文化、これまでの日本との関係を知っておくことが重要」だと唱え、相手に対する知識のなさが招いた過去の誤解の数々をあげた。

 韓国で芳洲と並び称されるのは15世紀に活躍した外交官、李芸(イイェ)だ。40回以上も日本に足を運び、友好関係を築くと同時に、倭寇(わこう)に連れ去られた667人の朝鮮人を祖国にもどした。

 母親も日本に連れ去られており、李芸は生涯、日本で母を捜し続けた。李芸の19代目の子孫にあたる李昌烈(イチャンヨル)さんは「さまざまな思いがあっただろうが、これ以上、不幸を拡大させまいと日本との関係改善に全力を傾けたのだろう」と推し量る。

■価値共有せぬ関係か

 2人の外交官に共通するのは、身近な隣国同士がつき合ううえで、何が必要なのかを深く洞察した点ではないか。

 先人たちの知恵に比べ、今の日韓外交は何とも柔軟性を欠いている。

 日本政府は今年、外交青書などで、これまで韓国に対して使っていた「基本的価値を共有する」との表現を削った。外務省関係者は「省内では反対意見が多かったが、官邸の意向が強かった。主に法の支配がひっかかったようだ」と説明する。

 長崎・対馬で盗まれた仏像の未返還問題や産経新聞特派員が名誉毀損(きそん)で起訴された事件など、確かに韓国の司法や検察の判断には、首をかしげざるを得ないことが多い。

 一方、日本で法治が徹底されているかといえば、これまた心もとない。安全保障関連法案の扱いをめぐっては、日本国内からも「法治国家か」との指摘が出る始末だ。

 日韓は民主主義の未熟さを非難しあうのではなく、成熟度を競うべきではないか。

■負の連鎖断ち切れ

 半世紀前の国交正常化は実は両国が心から和解して実現したわけではない。厳しい冷戦下、米国の強い介入と圧力の中で、やっと互いの手を握り合った。

 日韓関係は実は、米国を交えた「3国関係」などといわれるゆえんである。

 その構図は残念ながら、半世紀たった今も大きく変わっていない。竹島や慰安婦問題が政治課題化するたび、両国は競って米国に自国の正当性を訴え、支持を取りつけようとしてきた。

 21日に初来日する韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相は、外交の責任者でありながら自ら第三国で日本を批判する「告げ口外交」を続けてきた。外相就任から2年以上も隣国を訪れないという判断は、異常だったというしかない。

 両国政府が何の手も打たないうちに、暗雲はじわりと双方の国民の頭の上に広がってきた。仮に首脳会談が実現して政治課題が解消しようとも、人々が抱く印象はすぐには変わらない。

 だからこそ、政治は早く始動せねばならない。50年の節目を契機に、今こそ責任ある主権国家として互いに正面から向き合うべき時ではないか。

 狭隘(きょうあい)なナショナリズムや勝ち負けを競うかのような不毛な対抗意識にとらわれている限り、政治と外交を縛る負の連鎖は、今後も断ちきれない。