2015-06-10 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』の狂騒とはなんだったのか――2000年

0、問題設定
『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは二〇〇〇年代のなかばにおいて「No.1ライトノベル」(角川スニーカー文庫の一時期のキャッチコピー)のひとつだった。象徴的な意味でも、商業的な意味でも。
現在のライトノベル市場でヒットが期待できる作品形態とくらべてみたとき、爆発的なヒットをした『ハルヒ』は――過去のものだ。
『ハルヒ』は、閉鎖された異空間で巨大カマドウマと戦うことや野球の試合をすることはあれど、バトルをメインにした作品ではない。ファンタジーでもないし、ゲームものでもない。
作中に登場する女性キャラ・涼宮ハルヒや長門有希、「朝比奈さん(大)」こと未来から来た大人っぽい外見をした朝比奈みくるから主人公のキョンは好意を寄せられているふしはみられるが、しかし、全女性キャラから主人公の男が言い寄られまくるようなラブコメでもない。かといって男女の想いのすれ違いを描き、恋愛模様を中心にした作品でもない。
私たちは『ハルヒ』に何を求めて購入し、読み、熱狂していたのか。
それらを考察するには、まず『ハルヒ』が登場した二〇〇三年ころとその後の環境変化をみる必要がある。
と同時に、環境が変化してなお、もしハルヒが普遍的なポピュラリティをもちうる点があるのだとすれば、それはどこか。
三原龍太郎『ハルヒin USA』によれば、北米でも『ハルヒ』のアニメは熱狂的に支持され、日本の三分の一しかない北米アニメ市場でDVDセールスが六万本を記録したという。
日本とは異なる文化や風土をもつ海外でもアニメ『ハルヒ』が支持されたのであれば(三原によれば作品に仕込まれていた「ネタ」のいくらかはその翻訳過程において無視され、作中の重要なエッセンスが削ぎおとされてしまったらしいが)、『ハルヒ』という作品には汎文化的、汎時間的なポピュラリティがあるのだろう。
ほかならぬ谷川流のほかの作品と『ハルヒ』とを比較することによって接近していきたい。
1、変化――5F分析
出版社を中心にして二〇〇三年ころと二〇一〇年代初頭とを比較してみよう。
『ハルヒ』と縁遠い議論に思われるかもしれないが、最終的にはつながってくる話なのでおつきあい願いたい。
■競合状況の変化
・新規参入の脅威は?
通常、新規参入の脅威について考えるさいには技術、規制、コスト面で障壁があるかをみる。
ことライトノベルに関してはそのいずれもさほどのものではない。
たとえばマンガ雑誌の新創刊に比べてライトノベルレーベルの新創刊は(ヒットを生み出せるかどうかは別問題としても)「本をつくる」技術であれば難しくない。
また、日本では新しく雑誌コードを取得するのは簡単ではないが、雑誌をつくるのでなければ新規に雑誌コードを取得する必要もない。
さらに、マンガ誌や小説誌など定期刊行物を創刊すると文庫書き下ろし刊行に比べてランニングコストがかかるが、文庫書き下ろしのみでいくなら当初キャッシュアウトもランニングコストも少なくて済む。
キャッシュインフローのタイミングも、雑誌で連載し単行本で回収するというモデルより、書き下ろし形態のほうが早く見込める。
また、文庫書き下ろしであれば、月に何冊刊行していくかという冊数調整についても自社の人的・経済的リソースに合わせて簡単にできるので、経営面でのリスクコントロールがしやすいと言える。
二〇〇四年ころから起こった「ライトノベルブーム」(『ライトノベル完全読本』をはじめとするムックが次々刊行され、桜庭一樹をはじめライトノベル作家の一般文芸進出などが目立って「ダ・ヴィンチ」などの雑誌メディアにとりあげられはじめた時期)以降、ソフトバンククリエイティブのGA文庫をはじめいくつものレーベルが参入した。
撤退したのは竹書房のZ文庫など少数であり、ほかはほとんど現在も存続している。
ライトノベル市場への参入障壁はゆるい、すなわち新規参入の脅威は大きい。
こうした競争環境の変化が『ハルヒ』にとってどんな意味をもったかはまとめて後述する。
・業界内競争
次に業界内競争だが、先にも述べたように新規参入レーベルは絶えず、電撃文庫やMF文庫Jのように好調なレーベルは二〇〇三年時点と比較して月刊の刊行点数を増やしたため、激しいものとなった。
しかしそもそもそれらはいったい何をめぐって競争しているのか。
顧客(読者)がライトノベルに求めるものは何か。
私見では最大公約数的なニーズは
?楽しい=ポジティブな感情を喚起させること
?刺さる=感動を与えること、胸を熱くさせること
?ネタになる=友人とのコミュニケーションを誘発、促進すること、会話のネタに使えること
の三点だと考えている。
まず購買に至らせるまでの過程としては?と?が、つまりなんか楽しそうだなと思わせることと、友だちと話のネタできそうだなとかネットで話題になっているといった二点をまず満たす作品であること。
逆に言えばそうでない、パッと見の段階で明るくも楽しくも享楽的でもなさそうで話題になる気配も話題にできそうな気配もまったくない作品は、いくら中身が感動的であってもなかなか買ってもらいにくい(売れにくい)市場である。
・代替品の脅威
ライトノベルの代替品はライトノベル以外の小説だけでなく、アニメやマンガ、ゲーム、ウェブサービスなどが含まれ、ユーザーのキャッシュ(おこづかい)と時間の奪い合いをしている。
二〇〇三年時点ではウェブサービスの中心は2ちゃんやmixi、ブログだったと思われる。
二〇一〇年代初頭には顧客層が利用するサービスはニコニコ動画、twitter、pixiv、LINEなどへ移行した。
ゲームは据え置きハードからポータブルゲームやモバイルゲーム(スマホ向けゲーム)などに覇権を移した。
自宅でディスプレイやモニタの前に坐って、というかたちから、よりモバイルに、より(文字量的にも)軽いコミュニケーションに移った。
若者が電車での移動時間、ヒマなときに何をするか、家で手軽に暇つぶしをしたい、何も考えないで寝る前すこし娯楽を消費したいといったシーンで、かんがえる選択肢のなかでスマホとライトノベルとは、あきらかに競合している。
コストパフォーマンスという点でも、当時は一冊五〇〇〜七〇〇円(二〇一五年には平均で二、三〇〇円値上がりしている)して早ければ二、三時間で読み終わってしまうライトノベルは、九〇年代には四〇〇〜八〇〇円で三〇分〜一時間もてばいいマンガや、八〇〇〇〜一万円するスーパーファミコンソフトやエロゲー、一〇〇〇円以上するソフトカバーやハードカバーの一般文芸などと比べて購入されていたように思う。
昨今のポータブルゲームは数十時間遊べて五、六〇〇〇円、スマホ向けゲームに至っては「基本無料」だから、負けている。
ライトノベルが携帯ゲームやスマホと比較して優れている点は電源がいらないこと、中高生が学校に持っていっても没収される可能性が低い&「朝読書」の時間に使えること、あるいは中高生ではなく社会人なら会社にもっていって昼休みに読んでいてもブックカバーをかけて何を読んでいるかわからなくしてしまえば、モバイルゲームを会社でガリガリやるほど問題視されないであろうこと、くらいだろう。
・縦軸まとめ?競争環境は激化している
現在の顧客をとりまく環境のなかで、ライトノベルのコアユーザーに売れることはもちろん、それを超えてサブカル市場全体のなかでベストセラーとなることは、二〇〇三年段階以上に、至難のわざである。
そもそもライトノベルだけをみても、二〇〇三年ころとくらべれば刊行点数が増えている。
そして少子化は進んでいる。
書店で一冊の本が選んでもらえる可能性は、単純に考えれば半減している。
携帯ゲーム機やスマホのゲームやアプリなど気軽な娯楽はますます増えた。
だから、あるライトノベルは、たとえばマンガ化、アニメ化されるなりして潜在的な顧客のなかでよほど話題の「元種」とならなければ、わざわざ時間を割いてもらえない。
つまり作品面だけではなく、流通と宣伝も重要となる。
・流通について
さきほど新規参入の脅威は大きく、障壁はゆるいと書いた。これは半分は間違っている。
参入は簡単だが、ライトノベル市場でチャネル支配力を握ることは困難だからである。
レーベルを新創刊しても本を書店で平台に置いてもらうこと、および棚を確保することが難しい。
発売後一、二週間の初速で売上の勝負が決まる(すぐに別のレーベルの新商品が大量に入荷するためである)、足の早い商品であるライトノベル市場では、書店で目につくところに置いてもらえなければ売れることは難しい。
Amazonをはじめとするネット書店の存在感は徐々に大きくなっているとはいえ「ロングテールでほそぼそと、地道に売れつづける」などということは、ことライトノベルに関しては現実にはあまりみられない。
書店で目につかなければ、商品の存在は知られない。したがって買われるはずもない。
売れるかどうかもわからない新興レーベルや新人作家の新刊を面陳するよりも、確実に売れるとわかっているアニメ化作品の新刊をたくさん入荷してならべたいと思うのが書店の人情というものである。
つまり「いいものをつくれば売れる」わけではない。
売れるものはますます売れ、売れないものをますます売れなくさせるという二極化をうながすようなシステムが走っており、そこにあらたに亀裂を入れることは常識的なやりかたではむずかしい――なんらかの一貫した戦略が必要とされる。
逆に言えば既存のシェア上位レーベルは潤沢なキャッシュと知名度を使ってさまざまなチャネル戦略、プロモーション戦略が選択できる。
『涼宮ハルヒの驚愕』をめぐるさまざまなキャンペーンは、その強みを最大限活かしていた。たとえば『驚愕』は、発売のだいぶまえから予約を受け付け、そして予約購入者のみが上下巻同時に買え、特典の短篇も読めるような販売方法をとった。予約購入者以外は1か月まで下巻を待たなければ読めないのだ。この施策は、売上が最初から相当数見込めるものでなければ意味をなさないが、『ハルヒ』はそれが通用するほどのキラーコンテンツだった。
・宣伝について
流通と宣伝の話が混じってしまったが、次はライトノベル作品のプロモーション展開について整理しよう。
通常の宣伝活動は文庫折り込みのチラシや小冊子、マンガ誌などの自社(およびカドカワであれば同じグループ内の)媒体への広告、ウェブでの告知、書店へ配布する販促物、書店配布または文庫折り込みのしおりなどがほぼデフォルトと言っていい状態で存在する。
アスキーメディアワークスや富士見書房はそれぞれ小説誌を定期刊行しており、それ自体がプロモーション媒体となっていた(効果は雑誌自体の部数がそれなりに出ていた90年代には高かったが、2000年代以降はかなり薄まってしまった)。
ほかにも各レーベルともに、ウェブラジオやニコニコ生放送などに番組を持つのが当たり前になってきている。
また、マンガ化、アニメ化、ドラマCD化などメディアミックス展開をすればそれらもプロモーション効果をもつ。TVアニメのワクをもっていれば、TVCMも可能になる。端的に言って、映像化するのがいちばんのプロモーションになる。日本の小説の売上ランキング上位のほとんどはTVアニメやドラマ、映画化された作品である。これは老若男女を問わない傾向だ。
2000年代以降だと思われるが(時期については検証していない)、少し売れたライトノベル作品をすぐにコミカライズし、そこでさらに売上が伸びればアニメ化、ゲーム化という流れができている(「ワンコンテンツマルチユース」)。
これは出版社のキャッシュアウト/キャッシュインの額の大小を考えれば当然の順番だろう。
ライトノベルを出すよりマンガをつくるほうがお金がかかり、マンガをつくるよりアニメをつくるほうが予算が必要だし、リスクが大きい(出版社がアニメ制作にまったく出資しない場合はキャッシュアウトはないに等しいが、昨今では出資はほとんど前提になっている)。
ライトノベルで売れている作品をアニメ化するほうが、アニメ完全オリジナル作品をアニメにするよりもDVDやブルーレイにパッケージ化したときのセールスを見積もりやすい。原作が売れているということは、作品に企画としての力があるていどあるという保険になる。
ライトノベル一冊分に比べてアニメはひとつ制作するにも莫大なキャッシュがかかる。
であればアニメ制作のステークホルダーが投資に見合わない損失を被るリスクを最小限に抑えたい、より確実により多くの収益を望みたい、という思惑を働かせるのは当然であり、ライトノベル発のアニメ化作品はリスク忌避志向とマッチして(なんだかんだ言っても)当分は減ることはないだろうと思われる。
脱線が過ぎた。
ライトノベルのプロモーションにおけるコミカライズの現状にまで話を戻そう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』『にょろーん ちゅるやさん』のようにスピンオフ的なギャグ作品が、公式のコミカライズと同時掲載されるケースも、ある時期から増えた。
比較的シリアスな作品でさえ、ギャグの公式二次創作が展開されることもある。
このような公式の二次創作を展開する理由としては、
?読者にキャラを楽しんで好きになってもらう
?『らき☆すた』『けいおん!』以降の日常系4コマを好むユーザーを引き込む
?商品点数を増やして多くの売上を見込む
などが考えられる。
以上みてきたような(ひろい意味での)プロモーション展開がライトノベル周辺には存在する。
当然、露出する媒体数(多少正確にいえば媒体の数×リーチできる客数)が多ければ多いほどレーベルの、あるいは作品の知名度は高まる。
周知のように『ハルヒ』もライトノベル、マンガ、アニメ化、ゲーム化の順番で展開されてきた。
『少年エース』には『ハルヒ』や『ハルヒちゃん』のマンガが掲載されてきた。
アニメ放映前後にはラジオ番組もやっていたし(DVDの初回特典に平野綾、茅原実里、後藤邑子によるラジオ番組のCD――いわゆるDJCD――がついたほか、番外編と題してスピンオフDJCDが発売された)、ドラマCD『サウンド・アラウンド』も展開された。
ゲームもPSP、DS、PS3、Wiiなど主要ハードを制覇するように多数制作されている。
アニメ化された二〇〇六年以降とくに、スニーカー文庫や角川書店のさまざまなプロモーションに涼宮ハルヒというキャラクターが登場したことを思えば、『ハルヒ』は十分すぎるほどに、稀有なほどプロモーションにおいても優遇された作品であった。
『ハルヒ』という商業作品にとっては幸運なことに、スニーカー文庫は『ハルヒ』以降、『ハルヒ』と肩を並べ、あるいはそれ以上にヒットする作品をうまなかった。
であるがゆえに、『ハルヒ』はスニーカーの象徴として二〇〇〇年代を通して使われ続けた。
・まとめ?流通、宣伝の点で『ハルヒ』は圧倒的
ライトノベル市場をとりまく競争環境は『ハルヒ』が登場した二〇〇三年よりもその後のほうが激しくなった。
ポッと作品をリリースしたところで、まずそもそも存在を知られることが難しいし、知ってもらえてから買ってもらえるまでには途方もない距離がある。
大半のユーザーは知名度が高く、話題性のある商品を選びたがる傾向にある。
その点、いちど爆発的に売れてしまい「定番化」(いじられ、話題にされる対象と化した=「元ネタ化」した)した『ハルヒ』という作品は、圧倒的に有利なポジションを占めることができた。
『ハルヒ』の人気がなくなった、終わったと私たちが実感し、原作やマンガが読まれなくなるには
?原作を含めた関連商品点数が減る
?メディアにおけるキャラクターとしてのハルヒの露出が減る
?原作やコミックが終わる
?『ハルヒ』クラスのキラーコンテンツをカドカワがリリースして代替されてしまう
といったことが必要になる――その後、徐々にそうなっていった。
■世代の変化
ライトノベルにおいてはクリエイターのほうが読者よりも年齢が高い。このようにクリエイターと受容者サイドを分けて考えること、またその年齢の高低差は、意識する必要がある。
二〇〇三年ころとその後とでは、書き手の世代交代もあったし、読者の入れ替わりもあったからだ。
書き手の中心的な世代が変わるということは、書き手がバックボーンとしていたものが変わり(インプットしていたものが変わり)、アウトプットされてくるものが変わるということだ。
また、世の移り変わりにあわせて、読者側がライトノベルに求めるものも変わっていった。
これは『ハルヒ』人気がなぜ生じ、どのように終わっていったかを考えるうえで重要なポイントとなる。
・クリエイターサイド
『涼宮ハルヒの憂鬱』の著者・谷川流はどんな世代にあたるだろうか。
一九七〇年うまれ――ということはつまり、いわゆるオタク第二世代にあたるクリエイターである。年の近い物書きには虚淵玄、奈須きのこ、秋山瑞人、賀東招二、上遠野浩平、桜庭一樹、田中ロミオなどがいる。
この世代には、九〇年代中盤から二〇〇〇年代前半までにかけて、ライトノベル作家か一八禁のノベルゲーム(いわゆるエロゲー/美少女ゲーム)のシナリオライターとしてデビューした者が多い。
理由はいくつかあろうが(早川書房「SFマガジン」主宰のハヤカワSFコンテストが九二年に休止したためにSFでのデビュー媒体がなくなり、ライトノベルに人材が流れた、という説はSF界隈では定説となっているが)、ようするに既存のジャンル小説が彼らの創造物を吸収しきれなかったのだろうし、第二世代がつくったものは年長世代ではなくて同世代かさらに下の第三世代以降の感性にフィットするものだった――そしてそれを表現できる場所がライトノベルと美少女ゲームにはあったということだろう。
第二世代のクリエイターが摂取してきた、あるいは影響を受けてきたものをまとめると以下のようなものがある。
・伝奇バイオレンス
・八〇年代海外SF
・日本SF第三世代
・国内外の冒険小説
・テーブルトークRPG
・メイルゲーム
・サンライズのロボットアニメ
・初期のスニーカー文庫
・押井守(『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』『パトレイバー』『攻殻機動隊』)
キリがないのでこれくらいにとどめておくが、谷川流はこのなかではSF、新本格、伝奇からの影響が大きいだろう。
これらにくわえ、好きであると公言している竹本健治と竹本泉の存在が無視できない。
饒舌な語り口と作品についてのメタ意識については竹本健治のミステリやSFからの影響は疑いえないし、『ハルヒ』の「孤島症候群」などは竹本が実践していた、ミステリを擬態した小説=「ミステロイド」を谷川が自分なりにパラフレーズしたものとして読むこともできる。
竹本泉の影響は、異能力をもった猫(というか猫への偏愛っぷりが『ハルヒ』に登場するシャミセンに体現されているだろう。もっとも、猫だけなら神林長平『敵は海賊』からの影響という可能性もあるが)、宇宙人や超能力者といった非日常の存在が登場するが派手なアクションよりも日常をベースにしたドタバタを中心としているところなどにみられる(『学校を出よう!』のイラストが少女マンガタッチだったのは、イラストレータを決めた編集者が、谷川のなかに竹本泉っぽさを感じとったからではないだろうか?)。
『ハルヒ』がこうしたバックボーンをもつ作家によって書かれた作品であることは、「ザ・スニーカー」に掲載され、いまではウェブなどで検索すればすぐ見ることのできる、長門有希が選んだという体のブックリスト「長門有希の百冊」が証左してくれる。
・読者サイド?二〇〇三年時点=第三世代
本来であれば谷川流以降に台頭してきたクリエイター世代の入れ替え(ないし新規参入者)を見るべきだろうが、その前に消費者サイドをみたほうがわかりやすいだろうと思われる。
というのも、二〇〇三年時点で『ハルヒ』を支持していた層はおおむね第二世代(の後半)と第三世代にあたり、この層以降の人材がクリエイターサイドに二〇〇〇年代後半以降から顕著にあらわれはじめてきたからである。
私の推測では、『ハルヒ』を二〇〇三年から二〇〇五年まであたりから支持していた層と、アニメが放映されてからファンになった二〇〇六年から二〇一一年現在までのファン層は質的に異なっている。
もちろんパッキリと二分されるわけではなく、その嗜好の度合いはゆるやかなグラデーションを描いているだろうが、便宜的に分けることは可能だと考える。
(念のため断っておくが『ハルヒ』は二〇〇四年九月に投票が行われた『このライトノベルがすごい!2005』で第一位となっており、少なくともライトノベルファンの間ではアニメ化される以前から支持されていたヒット作だった)
まずは二〇〇三年から二〇〇五年時点で『ハルヒ』を支持していた第三世代の特徴についてみてみよう。
彼らが『ハルヒ』を支持したのは、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の流れで理解できる「引用の集積による創作」をしている、『ブギーポップは笑わない』以降のライトノベルを革新、発展、展開させるような存在だと認識したからである。
どういうことか。それを理解するために、第三世代が一〇代から二〇代前半だったあたりに支持していたものに注目してみよう。
以下のように整理できる。
・『新世紀エヴァンゲリオン』
・ガンダムといえば『機動戦士Vガンダム』『機動武闘伝Gガンダム』『新機動戦記ガンダムW』
・九〇年代半ばには…富士見ファンタジア文庫(あかほりさとる、『スレイヤーズ!』)
・九〇年代後半以降…電撃文庫(『タイムリープ』『ブギーポップは笑わない』『キノの旅』)
・新本格ミステリ第二世代以降(京極夏彦、森博嗣、清涼院流水などメフィスト賞作家系)
・フェティッシュなマンガ(CLAMP、『ジョジョの奇妙な冒険』)
・格闘ゲーム(『ストリートファイター2』シリーズ、『KING OF FIGHTERS』シリーズ、『バーチャファイター』『バーチャロン』)
・エロゲー(Leaf、Key作品)
第三世代とはひとことで言えば『エヴァ』直撃世代である。
そして活字の娯楽としてはSFやミステリ、伝奇といったジャンル小説よりもライトノベルやノベルゲームを好んで消費してきた世代である(私も八二年うまれで、この世代にあたる)。自分の記憶をたどれば中学時代はあかほりさとるや『スレイヤーズ!』と『エヴァ』に同時に熱狂し、高校時代に『ブギーポップは笑わない』が登場してライトノベル界隈の風景が一変するかのようなパラダイムシフトを経験し(ギャグ中心の軽いものから、シリアスで詩的な、あるいは抒情的な作風のものをライトノベルの中軸として認識するようになった)、一八禁であるはずの美少女ゲーム『To Heart』にまだ一六、一七だったオタ友だちが狂っていったことを憶えている。
オタク第三世代が好んできたものの特徴を、ここではふたつ挙げたいと思う。ひとつは引用/パロディによる創作であり、もうひとつは革新性である。
引用やパロディによる創作といえば、『新世紀エヴァンゲリオン』が(それまでのGAINAX作品がそうであったように)先行する作品の引用の集積でできたものであったことは言うまでもない。
神坂一『スレイヤーズ!』やあかほりさとる作品、『魔方陣グルグル』などはRPGやファンタジー作品の「お約束」をネタにしていたし、『スーパーロボット大戦』や『K.O.F』(『KING OF FIGHTERS』シリーズ)、『カプコンVS.マーブルヒーローズ』などではさまざまなアニメやゲームのキャラがひとつのゲームに集結するというある種のポストモダニズム(シミュレーショニズム?)を体現したかのような作品だった。
『ハルヒ』で宇宙人の長門有希、未来人の朝比奈みくる、超能力者の古泉一樹が集合した状況は、オタク第三世代の感覚としては『スパロボ』でガンダムとマジンガーZとゲッターロボが同居していることや、『K.O.F』で、SNKのゲームに登場していた『餓狼伝説』のキム・カッファンと『サイコソルジャー』の麻宮アテナと『龍虎の拳』のキングをそれぞれ選んで3対3のチームバトルに臨んでいたことと感覚的にはそう遠くないものであったはずだ(もちろん、意識的に言語化してはいなかっただろうが)。
こうした感覚や創作技法は、八〇年代末から九〇年代にかけて隆盛した「渋谷系」の創作マナーとパラレルなものであった。
コーネリアスも小沢健二もピチカートファイブも、先行する音楽家やサブカルチャーから縦横無尽に引用することで自らの音楽をつくりあげていた。
つまり渋谷系も『エヴァ』も『K.O.F』も、扱っている固有名詞(データベース)はことなれど(一部は元ネタすら重なっていた)、手つきや創作に対するスタンスはきわめて似かよっていた。
アニメ版『ハルヒ』で音楽を手がけた神前暁は、『ハルヒ』の音楽を渋谷系っぽいものにしようと意識していたというが、これはSFやミステリなどからの引用の集積で成立している『ハルヒ』という作品に対する批評性を感じられるエピソードである。
二〇〇〇年代初頭にクリエイターとして出てきた第三世代の作家・佐藤友哉や西尾維新が過剰なまでに先行世代を乱暴に引用していたことや、『ハルヒ』に見られる谷川流の引用癖は、九〇年代の時代背景を理解する必要がある。
九〇年代に思春期をおくった第三世代のクリエイターたちには、創作とはすなわち引用と編集であると言わんばかりの作風の人間がしばしば見られる(音楽ならアーバンギャルドが典型である)。
さて、第三世代が好んできたもののもうひとつの特徴は革新性、実験性である。
前島賢が『セカイ系とは何か』で書いているように、『エヴァ』は前半はウェルメイドな「よくできたロボットアニメ」として視聴者の心を惹きつけたが、後半では一四歳の少年少女の内面(自意識)に沈潜し、通常のTVアニメではなかなか用いられない実験映画のような手法が採り入れられてた「革新的なアニメ」となった。「エヴァっぽいもの」と言われるとき、私たちはその両面に目を向けなければならない、というのが前島の主張だったが、ここでも後者の側面に着目してみよう――『ハルヒ』を理解するために。
不動産の値段は下がらないという土地神話が崩壊したバブル崩壊以降、九〇年代中盤には、しばしば指摘されるように阪神大震災と地下鉄サリン事件があり、「水と安全はタダ」をはじめとしたそれまでの日本的価値観が瓦解し、変容していった。
つまり、既成の価値観へ疑いの目を向けること、八〇年代までに日本で通用してきた価値観が信頼できないことが常態となった。
きわめて短絡的に結論づければ、だからこそ私たちは『エヴァ』に「ふつうのもの」の欺瞞を暴くような試みとしてとらえ、そのメタ的な試みを、予定調和的なセオリーどおりの展開からの逸脱を、ある種の崩壊や破綻を支持したのではないか(もちろん、第一世代のむかしからフレドリック・ブラウンや筒井康隆のメタSFやメタフィクションを好んできたのであって、九〇年代の時代性を強調しすぎることが全面的に正しいとは私も思っていないが)。
『エヴァ』がアニメというジャンルを更新しようという作品であると感じたのと同じような感性をもった人間たちが、ミステリの世界にあらわれた京極夏彦や森博嗣や清涼院流水といったメフィスト賞系の異端者/革新者たちを支持し、エロゲーの世界に現れた『雫』や『痕』や『Phantom』を、『kanon』や『Forest』といったエロを主軸としない特異な作品群を支持し、その世界は麻枝准や虚淵玄、田中ロミオ、星空めてお、そして奈須きのこなどの登場によって発展や革新を遂げていくと信じていたのではなかったか。
ライトノベルの世界に現れた上遠野浩平や古橋秀之を支持していたオタク第三世代は、二〇〇三年に登場した『涼宮ハルヒの憂鬱』に、同年九月に創刊される『ファウスト』の纏っていた空気に近しいものを感じ、自分たちと同じものを養分として育ち、いまジャンルを更新しようとしている者の匂いを感じてはいなかったか。
だからこそ、私たちは文芸部にたたずむ長門に萌え狂いながら同時に『ハルヒ』の複雑な時間SF的なしかけを、実験性を、メタっぽさを許容したのではなかったか。
九〇年代なかばから後半にかけて、ウィンドウズ95の登場で「世界が変わる」と言われていた。
変えるのは誰か?
そこにコミットしている人間たち――すなわち、自分たちである。
愚かにも第二世代から第三世代にかけてネットバブルの波に乗った人間たちのいくらかは、それを信じていた。
そしてインターネットは、アングラでマイナーであったものから、徐々にポピュラリティを獲得していった。
ミステリもまた、先に述べたように新本格が領土拡張を続けていた。
家庭用ゲームでは『ときめきメモリアル』のPCエンジンスーパーCD−ROM2からプレイステーションへの移植をきっかけに爆発的にギャルゲーというジャンルが人気を博し、進化しながら浸透と拡散をしていく途上にあった――「萌え」という概念の醸成過程があった。
上遠野浩平以降のライトノベルも同様である。
言いかえれば、第三世代にとって、自らの愛するジャンルの発展や革新と自分の成長が軌を一にしていると信じられた幸福な期間があった。
それは(多分に自分の感覚に拠って言えば)おそらく九〇年代のなかばから二〇〇〇年代なかばころまでだった。そしてその運動が(振りかえれば)ピークアウトするかしないかのさなかに投じられたのが『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品だったのである。
ジャンルの発展と自分の成長を重ね合わせることができたものは、第二世代にとってはリアルロボットアニメやファミコンゲームだったかもしれないし、第一世代なら特撮やSFだったかもしれない。
第四世代ならニコニコ動画やpixivで展開された各種ムーブメントだろうか。
そしてそのジャンルの発展が終わった、途切れた、理解できなくなった、ついていけなくなったときに、ひとは「年を取った」と感じる。
いずれにしろ第二世代の谷川流という作家が二〇〇三年に刊行した『涼宮ハルヒの憂鬱』が第三世代にとってどのようなものとして受けとめられたのかという雰囲気の素描は(個人的なバイアスがかかっていることは承知しながらも)できたのではないかと思う。
SFやミステリの教養をもつ第二世代の創作物として、『エヴァ』以降の消費のスタイルとモードでもって第三世代は消費したのである。
しかし、第四世代の消費のしかたは、おそらく第三世代とは異なっている。
・読者サイド?二〇〇六年以降=第四世代
二〇〇六年にアニメ化されて以降に『ハルヒ』を支持した層――それも若年層に注目してみよう。
昭和五〇年代以降うまれ(一九七五年以降うまれ)を第三世代とすると、アニメ化以降の『ハルヒ』支持層の中心である平成うまれ(一九八九年以降うまれ)は第四世代といえるだろう。
彼らが『ハルヒ』を支持したのは、日常をベースとしたキャラクターのコミュニケーションが楽しい作品、いじりがいのあるキャラが揃っていた作品だったからであり、パロディやいじりの「元ネタ」として『ハルヒ』を消費したといえる。
そんな第四世代の好むものをまとめるとおおよそ以下のようになるだろう。
・ニコニコ動画
・pixiv
・ポータブルゲーム、モバイルゲーム
・ライトノベル
・ガンダムといえば『ガンダムSEED』、『ガンダム00』以降
第三世代と第四世代との違いはなんだろうか。「パロディ作品を好む」という流れは変わらない。
それは世代を超えて受けつがれる心性だろう。
しかし、第三世代が支持してきたような「引用でつくられた作品が好き」というわけではない。
『エヴァ』や『スパロボ』はキャラクター自体が引用の集積だったが、『銀魂』や『生徒会の一存』は(いちおう)そうではなかったと言える。
『生徒会の一存』の女性キャラは「ツンデレ」=桜野くりむ、「クールサド」=紅葉知弦、「熱血」=椎名深夏、「BL好き」=椎名真冬といった「属性」によってあつめられているのだからまったく「引用で成り立っていない」とは言えない。
とはいえ、その「程度」は弱まっている。
『銀魂』や『生徒会』ではいじりやネタ、パロディとしてギャグで扱う対象物として『ハルヒ』や『ひぐらしのなく頃に』といった元ネタがあるだけであって、『トップをねらえ!』シリーズや『エヴァ』に代表されるGAINAX作品のように「引用でものをつくる」というスタンスが取られているわけではない。
「引用による創作物を好む」ことから「パロディの対象としての消費することを好む」ように変化している。
そしてこれが、ライトノベルの『涼宮ハルヒの憂鬱』をポスト『エヴァ』の流れにあるものとして支持していた第三世代と、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』や『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』『にょろーん ちゅるやさん』といった作品群を支持しているオタク第四世代との違いとしてあらわれていると言えるだろう。
また、第四世代は、第三世代ほどには、作品に実験性や革新性といったものを求めていないように見える。
ある枠組みのなかでよくできたものが普通に支持されているように思える。
「素直」、と言うべきか。
もっとも、実験的な作風の作品も手がけるアニメスタジオ・シャフトが人気であることをみるならばこうした傾向がなくなったわけではないのだろう。
だがたとえばそこには、ライトノベルやミステリ、アニメ、ゲームといったジャンルやネット文化と自分たちとが、いっしょに発展、展開、成長していくものであるという意識はあまり感じられない(進化や革新をめざすからこそ実験精神が、イノベーティブな志向が求められるのだから)。
ジャンルのマナーが「所与のもの」として認識されているように見受けられるのだ。
言いかえれば、『ハルヒ』が『ブギーポップ』以降の流れから生まれてきたものという意識が薄く(または「なく」)、「ライトノベル」というのは彼らがものごころついたときには「そういうもの」であり、「そういうもの」として今後も続いていくように感じているのではないだろうか。
筆者が二〇〇九年に中学生に取材したとき、すでに調査対象者たちは九八年からはじまった『ブギーポップ』のことも、二〇〇〇年代前半に隆盛したセカイ系の代表とされる秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』(二〇〇三年夏完結)のことも知らず、彼らのライトノベルの歴史認識はヤマグチノボル『ゼロの使い魔』や西尾維新『化物語』、そしてほかならぬ『ハルヒ』あたりから始まっていた。
ということはつまり、革新性や実験性を求めてきた第三世代は、作中作「朝比奈ミクルの冒険Episode00」からいきなり始まるアニメの『ハルヒ』を観たときに『エヴァ』以降の作品に求めてきた「革新性」をみいだし、しかし第四世代の場合は「キャラのかけあいがとても楽しいもの」というふうに反応していたというちがいがあったのではないか。
これには市場環境の変化も要因となっているだろう。
『雫』以降数年間のエロゲーにしろ上遠野浩平デビュー以降五、六年くらいまでのライトノベルにしろ、言えたことは、作家がプロダクトアウトの発想で自分が影響を受けたものを吐き出して、書きたいものを書いていれば、誰かの目にとまり、認めてくれたということだ。
業界全体にリリースの点数はまだ多くなく、埋もれにくかった。
いまでは市場が成熟し競争が激化しているため、送り手側もユーザー側も「ハズレを引きたくない」というきもちがつよくなり、リスク忌避志向になりがちである。
はじめはリスクを取っていたとしても、ハズレを引く確率が増えれば、結果としてまわりの声に耳を傾けるようになる。
だから第三世代以降の作家たちはプロダクトアウトというよりはユーザーの嗜好を汲み取って書くマーケットインの発想で書いているし(この世代のライトノベルのヒットメーカーの多くは、そのようにみえた)、それを嫌い、プロダクトアウトを貫く第二世代はたとえば虚淵玄や麻枝准ならばアニメ、桜庭一樹なら一般文芸といった別のジャンルに移って仕事をすることを選んだ(でなければ寡作になるか、沈黙である)。
第四世代と第三世代の差異に話を戻そう。
この両者のあいだには、自意識のこじらせかたのちがいもある。
第四世代の場合は、もはや親が第一世代や第二世代であり、マンガやフィギュアや食玩が家にゴロゴロ転がっているようなケースが多い。
八九年の宮崎勤事件のあおりを喰って差別され、自意識をこじらせた旧来のオタクとはことなり、アニメやゲーム好きであることに対しての屈託が薄くなっている。
コミュニケーション能力も総体的には低くなく(大塚英志も宮崎事件のあとにオタクに友だちが少ないとかネクラというのはウソでむしろコミュニカティブであるなどと論陣を張っていたはずだが、そんなことをあえて言うまでもなくそうなのだ)、また、サブカル方面の教養に対する抑圧がゆるくなっている。
第三世代は『エヴァ』にちりばめられた設定の謎を推理したり元ネタを解説する「謎本」をきっかけに、遡行して永井豪の『デビルマン』やコードウェイナー・スミスのSF(「人類補完機構」)といった元ネタを漁っていったし、それを知っているほうがえらいという風潮も一部では、まだあった。
第四世代以降は。しれっと知らないことに対しては「知らない」と言える「軽さ」があるように個人的には感じている。
「マイナーなものを知っているのがえらい」というマンガ研究会やSF研によくあった教養主義的抑圧が弱まっている。
ブッキッシュであることがえらいという価値観が、第四世代以降はもはや一般的なものではないように見える(あるいはそれについて「詳しい」ことが価値を生む対象がSFやミステリやアニメから別のものに移行しているのかもしれないが)。
ざっくりまとめてしまえば、第三世代は谷川流のなかの竹本健治っぽさ――自意識とメタ意識と実験性があいまざった饒舌体がツボだったのであり、そこまで自意識をこじらせていない第四世代は、谷川流のなかの竹本泉っぽさ――「日常感」を、コミカルさとポップさを支持したのだと整理できる。
TV版の旧『エヴァ』の碇シンジに感情移入しまくりだった第三世代と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』のポジティブな碇シンジを支持する第四世代の差は、『ハルヒ』においては『憂鬱』のころの斜に構えたキョンを支持していた第三世代と、『消失』以降のアツさをともなったキョンを支持している第四世代というふうに分かれているだろう。
第二、第三世代は『ハルヒ』のバックボーンに膨大なSFやミステリ的な素養を感じ、そこから作品読解の手がかりを読みとろうとしていたが(『エヴァ』の謎本消費と同じ消費行動である)、第四世代ではそのあたりへのひっかかりは薄いと思われる。
同じ『ハルヒ』という作品を見ていても、見ているレイヤーが異なるからだ。
『ハルヒちゃん』や『ちゅるやさん』の支持層は『らき☆すた』や『生徒会の一存』を楽しむように楽しみ、『ハルヒ』という作品を時間SFとしてではなく(「考察」するものとしての消費)、キャラいじりレベルで(キャラクターとのコミュニケーションを)おもに消費していた。
『ハルヒ』の支持層は、二〇〇〇年代の前半と後半以降では、ここまで述べてきたような「分裂」がある。
2、ハルヒのポピュラリティの源泉はどこに?
ここまでで、『ハルヒ』の負っている時代性についてクリエイターと消費者の世代論や環境分析を用いて本論で明らかにしてきた。
『ハルヒ』は時代性に負うところが多い作品だった。
『涼宮ハルヒの消失』や『涼宮ハルヒの憤慨』などで描かれた、時間移動を駆使したストーリー展開は、現在ヒットしているライトノベル作品とくらべるなら、決してわかりやすいとは言えない。
谷川流がいまライトノベル作家としてのデビューしたなら、こういう作品を書いたかは、あやしいところがある。
では特定の時代環境から切り離してしまったら、『ハルヒ』は魅力のない作品なのだろうか?
そうは思えない。
というのも、『ハルヒinUSA』によれば、アニメ版『ハルヒ』は北米でも支持されたというからだ。
アメリカの『ハルヒ』ファンたちはたんなるラブコメとして消費しただけでなく、ウェブを駆使して『ハルヒ』にちりばめられた「元ネタ」を理解しようとさえしたという。つまり『ハルヒ』は汎時代性と汎地域性をもった作品であるということが推測される。
もちろん、北米で支持されたのは京都アニメーションが作成したアニメの『ハルヒ』であって、ライトノベルとしての『ハルヒ』ではない(アニメが北米で展開された時点ではライトノベルは公式には翻訳されていなかった)。
そもそも日本においても、二〇〇六年のアニメ化以降は、みてきたとおりプロモーションや流通を無視してそのヒットの要因が考えられない作品である。
しかし、ここではあらためて『涼宮ハルヒの憂鬱』のプロダクトとしての側面に、その魅力に着目したい。
『ハルヒ』には時代性をあるていど抜きにしても、ひとを惹きつけるものがあったはずなのだ。
でなければ北米でヒットし、ウータン・クランのRZAが『ハルヒ』好きを公言し、中東のデモでハルヒが描かれたプラカードを持った少年が現れることもなかっただろう。
そして世界じゅうの少年少女やアニメファンを惹きつけた理由は、おそらくSFやミステリの教養やオタク論、日本の文化的文脈で語ることができるものではない。
そこから離れなければ、『ハルヒ』という作品の国際的な、汎地理的な人気の源泉に迫ることはできない。
ここでは『ハルヒ』のヒット要因に接近していくために(やや苦しい手法であるとは自覚しているが)谷川流のほかの作品と『ハルヒ』を比較検討していくことにしたい。
他の谷川流作品は小ヒットにとどまり、『ハルヒ』は大ヒットした。
つまり谷川流の作品間のちがいに着目することで、単に売れない作品と売れた作品の違いを明らかにできるだけでなく、逆説的に谷川流という作家の個性や欠点を(浮き彫りにしつつも同時に)ある程度さっ引いた上で、『ハルヒ』のポピュラリティの源泉を明らかにできるはずだからだ。
■結語
と言っても、子細に比べるとほかの作品をたんにディスっているように見えかねないので比較した結論だけ書こう。
『ハルヒ』は
○キャラクター
・主人公やヒロインたちが魅力的で動きがあり、楽しいきもちにさせ、感動させてくれる
・物語から要請された必然性のあるキャラクター配置。それぞれの役割や目的が明確
・「ツカミのインパクト」「隠されていた多面性の開示」「コンフリクトに対してアクションを起こし、変化/成長する」を満たしたキャラクター造形――とくに時間移動や別時空の存在という特殊なかたちでの「キャラクターの意外な一面」の演出はほかの谷川流作品にはみられない
○ストーリー/イベント
・「お約束」をふんだんに使ったうえでズラすという点が(とくに短篇において)安心感、安定感と楽しさを与える
・キョンがなんだかんだ言ってモテるが、あからさますぎない。(控えめながら)ラブコメである――キャラクター同士の関係性の変化や進展がある。また、男性の願望充足を満たしつつ、女性が「引かない」ていどのラブコメとしてのバランス。
・根本的に前向きで、笑えたりいい気持ちになるようなハッピーエンド(各エピソードにおいて)
○設定/世界観
・「学園モノ」としての日常の楽しさと、「世界」の命運をかけた選択というスケール感の提供の両立を果たしている――パッと見は明るくて軽いという入り口の敷居の低さと、宇宙や時空をめぐる骨太なSF的という奥行きの深さの絶妙なバランス
○文章/文体
・キョンの一人称は皮肉っぽいがメタではないので、感情移入を阻害せずむしろ作品に入りやすくさせている
・作家が不得手とする映像的な描写を必要とするアクションなどを書かずに済ませられるシーンに限定して話を進めている。しかしSF設定の駆使により、ほとんど会話の応酬だけで「時空間のありよう」を決めるといったようなスケール感の大きい、スリリングな話に仕立てている
○その他
・いとうのいぢのイラストに恵まれた――へたをすると地味に見えなただろう作品がキャッチーな絵を描くイラストレータの力を借りて明るく楽しい作品に見えた
という点がすぐれていたと言える。
『ハルヒ』の「戦略」は
?徹底的に、ほかの作品の追随を許さないほどに「お約束」を使い倒して楽しさとネタ分を提供すること
?キャラのきもちの揺れ動きと世界の揺れ動き(の可能性)というスモールワールド(日常)とビッグワールド(SF的要素)をシンクロさせることでスケール感を表現し、また、胸熱展開をすること
このふたつを独自に、一貫して組みあわせたことである(谷川がこれらを意図したかどうかはさておき、そのようなものだったと整理できる)。
宇宙人、未来人、超能力者、めがっさ(方言キャラ)、ツン、無口、ボク女、七夕、文化祭、夏休み、文集づくり、ゲーム、クローズドサークル、タイムパラドックスなどなどの活用により、読者に安心と安定感のある「楽しさ」と、読後のコミュニケーションを誘発する「ネタ分」というベネフィットを与えた。
海外のアニメファンにとっては数々の行事はきわめて「オリエンタル」な、日本特有の楽しそうな風習にみえたことだろうし、ネタ分のなかには第二世代ならピンとくるSFやミステリ的なお約束のばらまきも含まれていたし、第四世代でもピンとくる、長門やみくるのいじりも含まれていた。
なにより楽しそうな作品であったことが読者ニーズである?楽しい(楽しそう)を満たし、前述のネタ分のバラマキがKBFその?ネタになる(話題になる/コミュニケーション誘発性)を満たしていた(二〇〇六年のアニメ化以降はこの?の側面が肥大化していった)。そして『消失』や『憤慨』や『驚愕』でのキョンたちのアツイ行動が?刺さる(「感動」)を満たし、評判の輪を広げていった。
谷川流という、ほうっておくとすぐメタに走り、ややこしい言いまわしや展開を好み、ダークサイドを描きたがる志向性をももつなかなかやっかいな作家が、きわめて健全にエンターテインメントした作品が『ハルヒ』であった――商業作家としての弱みを最小限にまで出さないようにつくられた作品であった。
くりかえすが、『ハルヒ』は現在のライトノベルのトレンドからはズレた位置にある作風である。
しかし当時の(そしてその少しあとの時代までの)ライトノベルの読者層のニーズをきっちり満たしてもいた。
ではこれから先の世代にとってはどうだろうか?
今後、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品には、アニメ放映時の二〇〇六年や二〇〇九年の「エンドレスエイト」放映前後のような狂騒は、もう訪れないだろう。
けれど『涼宮ハルヒの憂鬱』にはしっかりとしたエンターテインメントとしてのベースがある。
その掘り尽くすことのできぬ鉱脈があるかぎり、あるいはまた『ハルヒ』から『ハルヒちゃん』への展開のように、原作がもつ別の側面を引き出すように輝きが与えられるかぎりにおいて、うまくその時代時代に合わせたアレンジをくわえて「定番化」に成功すれば、今後も多くの、世界じゅうの人間を魅了できるかもしれない。