「海底の黄金~片岡弓八と沈船・八坂丸」と笠原賢造 [<九子の読書ドラマ映画音楽日記>]
我が家の親類縁者を見渡して一番の実業家と言えば、九子の祖父16代笠原十兵衛の弟の賢造さんだ。
鉱山で儲けたり、急死した長兄に代わり国会議員の選挙に出たり、もともと博打好きな性格の人のようだが(^^;;、そんな彼の生涯のハイライトが「八坂丸の金貨引き揚げ」だった。
「八坂丸」などという船の名前を聞いてもどこかのフェリーの名前だろうと考える方が大半だろうが、我が家の親戚筋にとっては代々語り継ぐ価値のある偉大な名前なのだ。
郵船八坂丸は第一次欧州大戦当時の大正4年、多くの鉄材と英国ポンドで10万ポンド(百万円)を乗せて地中海を航行中ドイツの潜航艇「ウルフ号」に爆撃され沈没してしまった。
エジプト沖の地中海で金貨を積んだまま10年間も眠っていた八坂丸の金貨をいろんな国のいろんな船が引き揚げようとして失敗した。その引き揚げに携わったのが賢造さんだと九子はいつも聞かされていた。
八坂丸の金貨を引き上げた話は、実は単行本になっていた。最近九子がネットで見つけて大枚をはたいて3冊買った。賢造さんの一人娘のCさんがスポンサーになってくれたので安心して買った。( ^-^)
海底の黄金―片岡弓八と沈船・八坂丸の画像「海底の黄金~片岡弓八と沈船八坂丸」この本の主人公片岡弓八氏が実際に金貨を引き揚げた張本人で、日本独自の大串式という潜水器を用い、他国が50メートルしか潜れなかったところを80メートルの深さまで潜ることによりお宝の引き揚げに成功する。
この片岡氏がたまたま賢造さんの養父であった弁護士原鎗三氏の後輩で、原の家でいろいろ世話をやいたのが縁で 賢造さんは片岡弓八のサルベージ会社「片岡商会」の取締役となる。
つまり笠原賢造氏、当時の原賢造氏は片岡弓八氏の上司だった訳だから、当然本に名前が載ってるはずと思った。
またそれを当てにして希少価値だからか高価な本を買いもした。
ところが賢造氏の名前はこれっぽっちも載って無かったのだ!
九子は憤慨してCさんに電話した。
いつも父親譲りの太っ腹のCさんはここでも寛大だった。
「きっと書いた人がよく知らなかったのよ。(いいじゃない、別に。)」
さすがに優雅な暮らしぶりの人は心まで広い。
「えっ?それでいいの?このままじゃ賢造おじさまの名前が誰にも知られないで終っちゃうよ!!」
という訳で九子は本日この話を取り上げることにしたのだ。
さすが日頃ビンボー神にとりつかれてるんで心が狭いんである。(^^;;
せこいついでに細かい事を言うと賢造さんは九子にとっては大叔父に当たるが、Cさんは賢造さんの晩年に出来た一人娘なので九子なんかに年が近い。九子はおじいちゃんに連れられて小さい頃から上京しては「賢造おじさま」のホテルに泊まっていた。
Cさんがお父様、お母様と呼んでいたので、九子もなんとなくおじさまと呼ぶことになった。ただそれだけの話である。(^^;;
「海底の黄金~片岡弓八と沈船八坂丸」
本を書いたのは山田道幸さんという歯医者さんで(これも何かの縁だろうか)、潜水士の資格も持っておられる人だ。
彼が日頃誇らしげに使っていたクストーのアクアラングが出来る30年も前に、形態も機能もほとんど同じ大串式潜水器を使って片岡弓八氏が地中海の黄金を掘り当てたという手記を読み、感動した著者がその手記に忠実に描いた力作である。
前述のように九子はこの本を賢造さんの仇とまでは言わないが(^^;;、一族の英雄に一言たりとも触れていない事に憤懣やるかたない思いで読み始めたのだが、すぐにそれを反省することになる。
この本は歴史の資料として価値があるばかりではなく、序章の海の描写などは山田道幸氏が作家としても一流である事を如実に表していた。
物語の第一章は、片岡弓八が旧友渡辺理一氏と大串金蔵氏が創作した卓越した性能でしかも軽量の大串式潜水器に出会うところから始まる。
片岡は大串式潜水器をオーストラリアの木曜島というところで当時主流だった英国メーカーのヘルメット式の重さ90キロもある潜水器と競わせ、三度にわたる勝負に見事勝利する。
最初しぶっていたオーストラリアの真珠業組合も大串式潜水器の実力を認め、7万円で特許料を譲受する事であらかた話はついていたのだが、最後の最後に英国から横槍が入って話は振り出しに戻る。
当時オーストラリアではまだ有色人種の日本人が差別されていた。
食事に招かれた牧師宅で片岡たちのカップは欠けて汚れたものだった。
片岡は毅然として「私の国では客人にこのような食器は出しません。」と言い放ち、席を立つ。
もしかしたら人種差別の影響も皆無ではなかったかもしれないと思わせる交渉の成り行きだ。
もちろん現在のオーストラリアは、オーストラリアに限らずどこの国でも、日本人は表面上これほどまでに差別される事はなくなったと思われる。
でもたまに、最近ではシーシェファードによる調査捕鯨船の体当たり事件などが起きるたびに、少なくとも一人くらいは英語の達人が乗っているはずなのだから、相手の船には聞こえなくても、テレビを通じて世界の人々の耳に届くような大声で、これは大変無礼な行いであり、日本としては断じて許しがたい!と声を荒げて主張する人間が出てこないのはなぜだろう。
明治の気骨とよく言うが、昭和だって平成の御世だって、気骨は育めば育つものではないのだろうか。
大串式潜水器の権利譲渡に失敗して頓挫しかかった八坂丸金貨引き上げ計画だったが、片岡は一口千円の小口出資 を集める事によってなんとか5万5千円の資金を集め、八坂丸と同形の諏訪丸で地中海を目指すことになる。
八坂丸と同形の船を使ったのは、諏訪丸の中で潜水夫を目隠しして訓練させる事により、地底に眠る八坂丸の中も容易く移動出来るようにするためだった。
いよいよ八坂丸の金貨引き揚げに取りかかってみると一番の難題はやはり八坂丸が沈む位置の特定だった。
再三にわたる調査でも八坂丸の位置はようとして知れず、潜水夫たちの疲れも頂点に達し、潜水病になる者が続出した。
もはやこれまでかと追い詰められた時、彼は日頃信仰していた金毘羅宮と亡くしたばかりの愛妻孝子にすがるのだった。
これで駄目だったら日本へ帰るという最後の調査場所は弓八が夢のお告げで見た場所で、今までの調査場所とは全くの逆方向だった。
そして果たしてそこに八坂丸が沈んでいたのである。時に大正14年8月8日の事であった。
部下のギリシャ人の裏切りや海賊の恐怖と戦いながら、片岡弓八は9万5千枚の金貨のうち実に9万4千992枚の回収に成功する。
(賢造さんの自伝では2枚だけ海に落ちた事になっていたが、これはやっぱりこの本の記述通り8枚が海に落ちて回収できなかったというのが正しいのだろう。)
ところで賢造さんはいったい何をしていたかと言えば、「もっぱら日本に残った潜水夫の留守家族の面倒を見、現地から来る暗号電報を友人(望月)の勤務先の三井物産に持って行き、そこのコードで翻訳してもらい、これをガリ版で刷って出資者に配布したりしていた。」と言う事だ。
これだとちょっと本には載り難いのかな?(^^;;
賢造さんの手記によれば引き揚げた10万ポンドの金貨は折り良くポンドが上がって日本円では130万円になり、東京海上の権利金を差し引いて片岡側が93万円受け取り、出資者や企業側へ分けられ、片岡本人に10万円、原賢造と養父に合わせて4万円、残りを役員、潜水夫が分けたという話だ。
また山田氏によれば「・・・・潜水夫その他の成功報酬は5千円ないし1万円で、出資者配当50万円、潜水夫へ 7万円、作業費用7万円その他を差し引き、30余万円が片岡弓八氏の所得となるとは、龍宮を発見した程の話である。」と大正14年8月13日付けの朝日新聞に書かれているそうだ。
こちらも片岡氏の苦労に対する報奨金として10万円は甚だ安すぎるので、著者が言うところの30余万円と言う方が正確なのだろう。
ちなみに金貨の総額120万円とは、この本が世に出た昭和60年の換算で23億円だそうだ。
まあ賢造さんがした仕事が実際、上に書いただけならばちょっとうますぎる話であるが(^^;;、彼は弁護士の職能を生かして片岡を助けてもいる。
100万円を引き揚げた片岡弓八が意気揚々と日本へ凱旋して来るより早く、片岡商会にはすでに税務署から臨時所得税として10万円の請求が来ていた。
これは大変というので、東大同級であり片岡とも同郷の三木武吉氏に頼み込み、管轄の四谷税務署に掛け合って税金を取り消してもらうのに成功したのだという。
まあこれなら大きい顔して4万円もらえるよね。( ^-^)
賢造さんはもらった金貨をあらかた誰かにやってしまった。
我が家でも何枚か分けて貰っていたそうなのだが、15代の未亡人、つまり賢造さんのお母さんが財布に入れていたのを間違えてお賽銭で投げてしまったということだ。(^^;;
それでもたった一枚残っていた金貨は、もう10年以上前だろうか、父が肝心のCさんのところに一枚も金貨が残っていない事を知って本来の持ち主のCさんに返し、今では金貨はCさんの胸元を飾るペンダントになっているのだそうだ。
一方の片岡弓八氏の所へは金の無心をする人が引きもきらず、その後次々と金貨引き揚げの仕事が舞い込み、それらのすべては大金をつぎ込んだものの悉く失敗し、弓八氏は八坂丸の夢を見ながら静かに息を引き取ったのだという。
弓八に可愛がられた甥の細谷廉(きよし)氏はそう言ってため息をついた。(海底の黄金 終章より)
賢造さんはその後原家を出て笠原家に戻る。その時の4万円は自伝によると原家に置いて来たようだ。
男の子二人と生まれたばかりの女の子も残して原家を出た賢造さんに、原の家では「お父さんは亡くなった。」と子供達に言い聞かせて育ててくれたらしい。
その後も山あり谷ありの人生の後、笠原賢造さんは関東大震災で焼け残った神田鎌倉河岸のホテルを引継ぎ、最晩年にそのホテルを貸しビルに建て直した。
亡くなる数年前に成人して立派になった子供達に再会し、賢造さんは大そう喜んだ。
その子供達の一人が、工藤静香や雪村いずみの絵の先生として有名になった二科会の原良次氏だ。
一人娘のCさんは見目麗しい外見に似ず賢造さんをも上回る太っ腹で、最近賢造さんが建てたビルを壊してその倍も高い耐震性の建物に立て直した。
まあこうして我が家の歴史を紐解いてみると、表舞台の主役にはなれずに、陰でちょこちょこ動き回っていた感が否めない。(^^;;
九子の父17代十兵衛も、実は高校時代に柔道で全国制覇をしたというのを何よりの誇りにしていた。
まあ確かに長野中学、現在の長野高校で後にも先にもその時だけの快挙だったのは間違いない。
ところが父が何をやっていたのかと言えば、選手ではなくマネージャーだった。(^^;;
そんなもんなんである。
片岡弓八氏は、余りにも若い頃に(と言っても50歳近かったはずだが)成功をつかみ過ぎた。
そして人々は彼の事を「成功を約束された人間」と思い込んでしまった。
そのプレッシャーに、彼はあがなえなかったのではないか。
それでもきっと片岡弓八は幸せに死んでいったと思う。
彼のような形で歴史に名を刻むことは到底容易ではないのだから。
そして細~く、長~く家業を続ける事を家訓で言われ続けている我が家に生まれた人間たちは、見えないとこでちょろちょろ動き回ってるのが似あってるのかもしれません。( ^-^)
[しょぼい話ですが……]
九子さま、こんばんは。
この壮大な、トレジャーハンターのお話とは大違いですが、私のおじいちゃんも宝探しをしたようです。
おじいちゃんの夢にお告げがあったようで、村のどこかに(どこだったか忘れました)金の鳳凰が埋められている……と言うのです。
で、村人たちが協力して、あちこち掘ったらしいですが、結局多くの穴ぼこができただけで終わったとか……。
しょぼい話ですいません。
でも当時はまだ、夢のお告げがあったというか、信じられていたというか……。
みんなが鍬やスコップ持って掘ってたのかあ、と想像すると、すごく面白くて(当事者は真剣だったのでしょうが)のんびりしてたんや~と思いました。
九子さんのお話とは、ケタはずれでごめんなさいね。
でも夢のあるユメっていいですよね。
by お夕 (2010-02-28 23:44)
[お夕さん!( ^-^)]
コメントして下さり、本当に有り難うございました。m(_ _)m
>おじいちゃんの夢にお告げがあったようで、村のどこかに(どこだったか忘れました)金の鳳凰が埋められている……と言うのです。
でもそれって凄い事ですよね。私うん十年生きてますけどいまだかつてお宝がどこかに埋まっているなんていう夢見たことありませんもん。金の、しかも鳳凰なんてすごく具体的ですよね。
それから、お夕さんのおじいちゃんが住んでいらしたのが、たぶん小さな村だったからみんなが探す気になったのでしょうね。人口何万の町の中では、よほど詳細に言ってもらわないとわかりませんよね。(^^;;
だけどもしかしたら、もう一度よく探しなおせばどこかにあるかもしれないよね。お夕さん、お孫さん代表でどうですか?( ^-^)
山を掘って金脈やら温泉やらお宝やら探し出そうとする人たちだから「山師」って言うんでしょうか。大叔父はまさにそういう素質を持った人で、最後はうまく行って終りましたからよかったけれど、もう一花咲かせようなんてしていたら駄目だったかもしれませんね。
まあ、結婚して第二の家庭を持ったのがそうさせない原因になったんだと思います。
お夕さんのおじいちゃん、すごく人間的に可愛らしい人だったんじゃないかと思います。いい思い出ですね。( ^-^)
by 九子 (2010-03-01 21:30)