以前、「『居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化』飯野 亮一 著」という記事で紹介したが、居酒屋文化とともに料理屋文化が芽生えたのも江戸時代のことだった。特に文化化政期(1804~30年)は江戸の料理屋文化の爛熟期といえる。そんな江戸の食文化で興味深いのが大酒大食大会の開催である。色々記録が残っていて、これが面白い。
酒合戦という酒の飲み比べは古くは慶安二年(1649)、江戸大塚の酒豪・茨木春朔樽次と武州橘樹郡大師河原村の池上太郎左衛門行種との間で行われたものがあり、これが江戸時代を通じて語り継がれた。
千住酒合戦
1815年(文化十二年)10月21日、日光街道千住宿の中屋六右衛門が自らの還暦を祝って開催した酒合戦は江戸の代表的な文人・大田南畝によって観戦記録が著されている。江戸食文化史に名高い千住酒合戦である。参加者それぞれの酒量に応じ、江ノ島盆(五合)、鎌倉盆(七合)、万寿無量盆(一升五合)、緑毛亀盃(二升五合)、丹頂鶴盆(三升)の盃が用意され飲むというもので、酒肴としてカラスミ・花塩・さざれ梅、蟹と鶉(うずら)の焼き鳥、羹として鯉にハタ子をそえたものが添えられた。
主な記録として
- 新吉原の伊勢屋言慶(62歳):三升五合余
- 千住の松勘:全ての酒を飲み干した
- 下野小山の左兵衛:七升五合
- 料理人の太助:終日茶碗酒をあおった上で丹頂鶴盆(三升)飲み干す
- 五郎左衛門妻の天満屋みよ女:万寿無量盆(一升五合)で酔った顔も見せず
- 菊屋おすみ:緑毛亀盃(二升五合)
他、酌とり女たちも江ノ島盆(五合)、鎌倉盆(七合)で終日酒を飲み、供の者や近所の衆にも振る舞われたという。上記の記事で居酒屋では酒が熱燗で出されていたことは書いたが、それ以外では普通に常温でも呑まれていたから、ここでも常温だろう。盃に波々と注いでぐびぐびと飲んでいたのだと思う。
両国大酒大喰会
1817年(文化十四年)3月23日、両国柳橋の萬屋八郎兵衛方で大食・大酒の会が催された。酒組・菓子組・飯組・鰻組・蕎麦組に分かれて量を競うもので、これまた消費された量が尋常ではない。主な記録は以下のとおり。
酒組
- 小田原町堺屋忠蔵(68歳):三升入り盃三杯
- 芝口の鯉屋利兵衛(30歳):三升入り盃六杯半
- 小石川天掘屋七右衛門(73歳):五升入り丼鉢を一杯半飲み、帰りに湯島聖堂の土手で明け方まで酔いつぶれる
菓子組
- 神田丸屋勘右衛門(56歳):饅頭50、羊羹7棹、薄皮餅30、茶19杯
- 八丁堀伊予屋清兵衛(65歳):饅頭30、鶯餅80、松風煎餅30、沢庵漬5本
飯組(万年味噌の茶漬け)
- 和泉屋吉蔵(73歳):54杯と唐辛子58
- 小日向上総屋茂左衛門(49歳):47杯
- 三河島の三右衛門(41歳):68杯と醤油二合
蕎麦組(二八蕎麦並盛り)
- 新吉原桐屋惣左衛門(42歳):57杯
- 浅草鍵屋長介(49歳):49杯
- 池之端山口屋吉兵衛(38歳):68杯
鰻は量ではなく代金で量られているので割愛。
以上、「結衆・結社の日本史 (結社の世界史)(原田信男論文「文人社会と料理文化」)」P155~160からまとめ。
これらの大食・大酒大会の模様は各地で開催されその記録が出版されてベストセラーになっていた。江戸の食文化の爛熟ぶりと食のエンターテイメント化が非常に進んでいたことがよくわかるので、個人的にすごく面白い。しかし、みんな若いとはいえないのに、ほんと元気だな・・・。基本的には商人・文人ら富裕層が中心で、当時の富裕層の食への欲求はすごいものがある。「酒合戦 – Wikipedia」は他にもいくつか主な酒合戦が紹介されている。
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