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信濃町の人びとさんへ

 投稿者:  投稿日:2015年 6月18日(木)13時00分44秒
  ①信濃町の人びとさんの先の投稿は、宿坊氏の行動の一貫性のなさには触れていません。私を貶めることで話題の変換を意図しているようです。

②レベルが低いから相手にしない、ということですが、それは人間の切捨てを良しとするあなたの思想の表明であり、誰かさんを攻撃していた主旨に反するのではないのですか?

③根拠を示していないかどうか、これより正体の⑤⑥をアップします。
私の文に即して、反論を試みてください。
 

法華経の智慧33

 投稿者:まなこ  投稿日:2015年 6月18日(木)12時58分36秒
  斉藤: 日蓮大聖人は、御義口伝で「一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う」(御書 p714)と、秘妙方便の意義を明かされています。

名誉会長: そう。自分自身が仏なのだと自覚すれば、秘妙方便が分かったことになる。
 大聖人は「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらずソ(鹿の字2つの上に鹿の字が乗る)法なり」(御書 p383)と仰せです。
 いずれにしても、秘妙方便の「妙」とは、人間生命それ自体の「不可思議」なのです。すなわち、九界はすべて仏界の当体である。九界即仏界です。しかし悟ってみれば、仏界といっても凡夫の九界を離れては顕れない。九界に即してのみ顕れる。仏界即九界です。
 目的である仏界を「真実」、そこに至っていない九界を「方便」とすれば、方便即真実(九界即仏界)であり、真実即方便(仏界即九界)なのです。これが秘妙方便です。
 例えば、御本尊を信受したあとの九界の苦悩は、苦悩のための苦悩ではない。すべて、より信心を奮い起こして仏界を強めるための悩みであるし、それを乗り越えて仏界(真実)を証明するための“秘妙方便としての悩み”となる。悩みは、もっと成長しなさいと呼びかける“メガホン”なのです。

遠藤: 大聖人は「妙法の五字は九識・方便は八識なり九識は悟なり八識已下は迷なり、妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり森羅三千の諸法此の妙法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり」(御書 p794))と仰せですね。

名誉会長: そう。森羅万象 ---- 人生で言えば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、すべて妙法の表れであるし、妙法を証明する方便なのです。戸田先生は「罰も功徳も方便です」と言われた。
 例えば、一人の未入信の人がいる。何らかの悩みがある。悩んでいる姿は地獄界でしょう。その悩みがきっかけで信仰した。そうなれば、地獄界即仏界であり、その悩みは仏界に至るための法用・能通方便だったといえる。どちらかといえば能通方便だろうか。
 しかし、信心してからも悩みはある。行き詰まりもある。ただ今度は、何が起こっても、全部、信心を証明するための悩みである。秘妙方便である。
 いわんや広宣流布のための悩みであれば、菩薩界所具の地獄界、仏界所具の地獄界でしょう。こんな尊い悩みはない。悩みの山に挑戦すればするほど、乗り越えれば乗り越えるほど、仏界は強まっていく。その意味で、信心が強ければ、マイナスは即プラスであり、罰も即利益なのです。人生のうえに起こる一切が功徳なのです。
 今、どんな姿をしていても、一切が「成仏イコール人間革命」という今世のドラマにとって、必要不可欠の一場面一場面である。“真実”(仏界)を表している“方便”(九界)なのです。これが秘妙方便です。
 大聖人は「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」( 御書 p1143)と仰せです。苦楽は九界であり方便。妙法を唱えるのは仏界であり、仏の真実の智慧の世界です。
 苦も楽も、信心という大きな高い境涯から悠々と見おろしていく。そして妙法の喜びを楽しく味わっていく ---- それが「妙法蓮華経方便品」を身読したことになるのです。

須田: よく分かりました。毎日、「妙法蓮華経方便品第二」と読誦していますが、こんなにも深い意味を感じて読んではいませんでした。

斉藤: 今、語っていただいた「方便」観は、生命の永遠観からも論じられると思います。
 法華経の五百弟子受記品(第八章)は「衆に三毒有りと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す」(法華経 p361)とあります。
 たとえ、三毒強盛の凡夫の姿に生まれても、また邪見に迷った姿に生まれても、妙法に目覚めてみれば、それは、同じように三毒強盛で、邪見に迷った衆生を救うための方便であると。

名誉会長: その通りだ。久遠の妙法蓮華経を自らも修行し、人にも教えるという根本の使命に目覚めれば、それが分かる。そこに、最も深い人生観があります。
 妙法を持った我々は、本来、尊い地涌の菩薩である。ともに虚空会で広宣流布を誓いあってきた同志です。戸田先生は、それを「思い出すんだ」とよく言われた。
 また、私たちは凡夫です。しかし、願って凡夫の悩みの姿を表しているのです。「願兼於業」です。妙法(真実)の力を証明するための宿業(方便)です。だから絶対に、悩みを乗り越えられないわけがない。
 皆、この娑婆世界という舞台に登場し、広宣流布というドラマを演じる主演俳優なのです。

遠藤: 演じているということ(方便であること)を、いつのまにか忘れて、悩める役そのものになりきり(笑い)、苦悩に埋没してしまう場合もあります。それでは、いけませんね。

斉藤: 秘妙方便を理解するために、もう少し続けたいと思います。
 方便と真実の関係を「権実」でいえば、南無妙法蓮華経を信受する前と、信受した後では、権教(方便)の意味が変わってきます。大聖人は、信受する前を「体外の権」、信受した後を「体内の権」として、こう説かれています。
 「所詮謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なり ---- 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり」(御書p714)
 いったん法華経(実経、真実の教え)の智慧の世界に入れば、それまでの仮の教え(権教)も、「体内の権」として、それぞれ、全体の中に正しく位置づけられ、「権」は「権」のまま、法華経を証明する分々の「真実」となるわけですね。

名誉会長: そうです。先ほどのたとえで言えば、入信する前のさまざまな人生体験は「体外の権」であり、法用方便・能通方便に当たる。
 妙法の素晴らしさは、入信したあとの体験がすべて秘妙方便として輝くだけでなく、入信する前の体験までもが、すべて生きてくるのです。これが「体内の権」です。
 戸田先生もよく「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」と言われていた。

須田: 素晴らしい法理ですね。

名誉会長: 秘妙方便は、いまだ妙法を持たない人であっても、本人は知らないが(秘)実は妙法と一体(妙)であることを教えています。ゆえに、生命の奥底では、妙法を求めているのです。
 御義口伝では「大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり」(御書 p714)と仰せです。このほか、秘妙方便については、論じたいことが尽きないが、法華経全体を貰くテーマでもあるし、別の機会にしよう。
 ここで、特に明確にしておきたかったのは、先ほども触れた通り、仏法の「方便」思想は、そのまま最高の「教育」思想だということです。
 

海さん

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月18日(木)12時47分47秒
編集済
  ぱっと見ただけで、あなたの理解力がないことは
”誰にでも”わかります。

根拠を示さないくだらない投稿だから
”誰も相手にしたくない”だけ。

教学部レポート、遠藤文書の内容を誤読し
間違えて読むリテラシー能力の低さ。

気になってしょうがないんでしょ。笑

読むだけでも
時間の   【ム ダ】ですから。
みんながあきれてるのわからないの?
 

宿坊さんの正義の行動

 投稿者:  投稿日:2015年 6月18日(木)12時35分20秒
編集済
  (1)本日、宿坊氏がこのような書き込みをしていることに気がつきました。

(以下引用1)
海氏へ(最後通告)  投稿者:管理人  投稿日:2015年 6月14日(日)16時20分27秒   通報
海氏は、まず管理人の質問に返答するように。
何度も言わせないでください。これ以上同じ愚を繰り返すのであれば、
管理人への回答も含め、一切の投稿を削除するようにいたします。

「「教学部レポート」が弘安二年の戒壇大御本尊に拘っている」という文証を示すように。
「「遠藤文書」が弘安二年の戒壇大御本尊に拘っている」という文証を示すように。
「「当掲示板」弘安二年の戒壇大御本尊に拘っている」という文証を示すように。
(引用1、以上)


(2)しかし、私はすでに宿坊氏に当てて、長文の回答である「教学部レポートの正体」③と④を宿坊板にアップしました。
2015年 6月11日(木)13時28分43秒 正体③
2015年 6月11日(木)13時26分10秒 正体④

「教学部レポートの正体」は⑨まで、のんびり持続する予定です。


(3)これに対し、宿坊氏は「投稿日:2015年 6月11日(木)13時29分37秒」に「海氏へ」として、

「なんら回答になっていないため削除します。
事由は、後日時間があれば改めて書きます。」

との書き込みをされました。
私が回答してより、わずか2分後の出来事です。



(4)このことから、私は2つのことを理解しました。

 1つには、宿坊という人は、一日中、ネットに張り付いていることが多い、ということです。数秒おきに更新ボタンをクリックして最新の投稿をチェックし、それゆえにカウンターの数字はどんどんふくれあがっていくわけです。

 2つめには、宿坊氏は内容をチェックしないままに、削除を行う人なのだ、ということです。
 私の文章は、現在、「フワフワ飛ぶクジラの掲示板」に同日付で保存していただいていますが、確認していただけばわかるように、2分で読める代物ではありません。



(5)そして読んでもいないのに、
「なんら回答になっていないため削除します。」
と書き、
「事由は、後日時間があれば改めて書きます。」
としていたのに、今回いきなり、

「海氏は、まず管理人の質問に返答するように。
何度も言わせないでください。これ以上同じ愚を繰り返すのであれば、
管理人への回答も含め、一切の投稿を削除するようにいたします。」

とやってきたのです。
宿坊氏は記憶障害が出ているのでしょうか。だとしたら心配です。

そうでなければいいのですが、その場合は、自分のすべきことはさておき、私に対する印象操作を始めている、と考えるより他はありません。



(6)
いずれにしても、宿坊板がこのような態度で運営されている事実が現れていることは、重要です。
まじめな反対意見は片っ端から削除され、そういう愚行の上に、やっと体裁とプライドを維持できているのです。

 一方で、クジラ板の読者さんは、宿坊板との読み比べをして状況を把握いています。両方読んでも、揺るがない判断力があるのはクジラ板の読者でしょう。

宿坊板はクジラ板を読まれては困る、という態度で一貫しています。
それが意味するところは、読者が感じ判断すればよいことです。
 

徴兵制の話題もさることながら

 投稿者:うらら  投稿日:2015年 6月18日(木)10時04分33秒
編集済
  徴兵制の可能性に言及した民主・岡田代表に対して、公明党の濱地議員のコメントは様々な実情を知らない、知らないふり?の楽天さに溢れていますが、PKO改正についてのコメントが引っかかりますので掲示します。

「 A,  日本の自衛隊が自衛権行使以外で「国に準ずる組織」と戦闘すること
          =自ら紛争当事者になることは憲法違反となる。
          だから、PKO5原則の中で①停戦合意②受入国の同意が必要とされる。
          つまり①②が維持さていることが、紛争相手が国や国に準ずる組織でないこと
          =武力行使にならないことの担保となる。

   B,  相手が国や国に準ずる組織でなければ武力行使にならないという基本が理解されていない
      (難しい   ので理解不足は仕方ないと思いますが)。上記の①②が維持されるから
        相手が国や国に準ずる組織でないので武器使用しても憲法違反にならないのだ。」

    https://www.facebook.com/hamachi.masakazu


???…とんでもなく恐ろしいこと言ってると思います。
「国に準ずる組織」でない人を殺傷する可能性は「武力行使でないから違憲でなく許される」と
  言い  たいのか?   どう読んだらいいのかわからない、どう読んだらいいですか? 悩乱しそうです。

  
 

勇気

 投稿者:ジョーカー  投稿日:2015年 6月18日(木)10時00分32秒
  大慈悲こそが仏の所作であり、無慈悲が第六天の魔王の所作である。といっても、凡夫には慈悲を顕現することは難しいので、それに代わるものは「勇気」であると戸田先生は言われた。勇気もまた仏の所作であり、保身や臆病は第六天の魔王の所作であり、眷属であると言えようか。

勇気を出さねば歴史は作れないし、自分のレベルを上げることもできない。勇気を出すときの独特の緊張感をどれだけ味わうかが、その人物の器に関係してくる。戦いとは結局のところ、どれだけ勇気を出すかであり、冷や汗だらだら掻きながらの闘争なのである。師子王の如くなる心も勇気の異名であり、それ自体が仏であり、もっとも気高い姿ではないか。よくよく考えるに、人を感動させるもの、触発を生むものもまた、勇気の姿でありましょう。

勇気が仏であるならば、保身や臆病は魔の心であり、結果的に第六天の魔王に支配されてしまう。指導者層の人間が保身や臆病であったら、多くの人を苦しめ、不幸にしてしまう。54年においても、誰も勇気を出すことなく、保身と臆病により、第六天の魔王に負けた歴史ではないか。側近幹部も、誰が正義かくらいはわかっていたでしょうけど、勇気を出さなかった。その結果、負の歴史として厳然と刻まれた。折伏においても、一歩踏み込む勇気が必須であり、だからこそ功徳も大きい。

ゲーテ
「財を失うことは小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。勇気を失うことはすべてを失うことである」

道を拓くのは勇気であり、道を閉ざすのは、保身と臆病である。然るべき立場の人間が、保身と臆病であったのなら、やがてすべてを失うことになるであろう。故に「勇気を意識せよ」であり、勇気を出した人だけが英雄になれる。勇気があれば、誰もが英雄になれるとも言えます。

勇気には莫大なエネルギーが必要であり、その源泉が題目です。題目をあげ、生命力を湧現させ、それが覇気となり、勇気へと昇華される。勇気を出した分だけ、偉大な人間になれる。人として偉い人というのは、まさに勇気を出した人であるといっても過言ではないでしょう。

今、創価学会の中枢に勇気があるのかないのか。保身や臆病に支配されていないか。勇気がなければ即、第六天の魔王の土壌となることを認識しなければならないし、恐れなければならない。本物の宗教だからこそ魔も強いのである。この危機感があってこそ、はじめて学会を護ることができるのです。
 

シーファー大使補足

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月18日(木)09時04分49秒
編集済
  うららさん、念のために書いておきます。
(こっそりだなんて、笑)

■シーファーアメリカ大使の例の文書は2008年2月
■池田先生と大使の対談は2008年9月19日

・9月20日付「聖教新聞」
「池田SGI会長 シーファー米大使と会談」

「大使 民主主義、信教の自由、言論の自由 日米は共通の価値観を持つ」

「SGI会長 『教育の勝利』が未来を開く 米中日の友情が平和の土台」

「池田SGI会長は19日午後2時、アメリカのJ・トーマス・シーファー駐日大使を、東京・信濃町の聖教新聞本社に歓迎。大使の母の教えをはじめ、教育論、外交論、友情論などを交えつつ、日本とアメリカ、そして中国を基軸としたアジア・太平洋地域の平和と繁栄を展望し、約1時間40分にわたり和やかに語り合った」
 

こっそり書きます。

 投稿者:うらら  投稿日:2015年 6月18日(木)08時23分41秒
編集済
  2008年、先生とシーファー大使の懇談の模様が上げられているブログがありました。私の感想としては、昨日の文書がアメリカ若しくは日本の外交筋の思惑で書かれているのではないかと感じました。あわよくば先生すら懐柔せんとする大使の軽薄さに対して、牧口先生の獄中闘争を通され学会精神を厳然と紹介される池田先生が対照的に映りました。
揚げられていたブログ自体が何か意図があるようなので紹介しませんが(現在の公明党の路線を補完したいようです。でもって、創価関係者なのに中国に対する認識は先生の路線とは逆。)、
その懇談の場に居合わせた会長が後日話した真意はどうなのか、本人が現在の安保法制について公で言及しない限り、判断つきません。いい意味でも悪い意味でもみんな身動き取れない原因になる。
会長がどうであっても、どちらにせよ、国粋思想が創価内に蔓延っていることは間違いないと思った。
6月大白、先生の御書講義、下山御消息。今月も意味深だと思う。

am9:29 追記: 信濃町さまありがとうございます。文書が先なんですね、失礼しました。なら、会長が無自覚であっただけかもしれない可能性が大きくなりますね 、やれやれ… ~_~;
 

法華経を読むとは

 投稿者:多様性万歳  投稿日:2015年 6月18日(木)07時53分15秒
  せっかく毎日、まなこ様が『法華経の智慧』をアップしてくれていますので(労作業、いつもありがとうございます)、法華経の読み方について、斬新な視点を提供して下さったアルベア様とはまた違った角度で、考えてみたいと思います。
法華経の読み方にも、心読、身読、色読など様々ありますが、まずは「自分の身に引き当てて読む」ことが大切ではないでしょうか。
様々な困難に対して、お題目を唱え、信心で挑戦していく中で、法華経の理解が自然に身に沁みて深まっていくことも確かでしょう。
同時に、法華経を読む時に、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書p387)や「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(御書p563)との御聖訓の如く、己心の内に、自身の日記文書として、己心の始成正覚の釈尊とは、己心の久遠実成の釈尊とは、己心の上行菩薩とは、己心の地涌の菩薩とは、と絶えず自分の身に引き当てながら、読んでいくことも大事だと思います。
私自身、御書、そして特に『法華経の智慧』や『御書の世界』を何度も読み返しながら、それが自分自身(己心)と一体どういう関係があるのだろうと思索してきましたが、未だによく分かりません(笑)。
そのような未熟な自分ですが、みなさんの思索のキッカケにでもなればと思い、座談会で研究発表するような気持ちで、以下、私の「己心の」釈尊と地涌の菩薩の捉え方について書いてみます。(あくまでも私個人の捉え方ですので、みなさんの捉え方を教えてもらえると嬉しいです)

<己心の始成正覚の釈尊>
様々な悩みを抱えながら、いつかは仏になれると自分に言い聞かせ、弱い自分と闘いながら、努力を続け、少しずつ向上をしていく生き方。勤行、唱題はするが、いつ成仏できるか確信がない。結果(仏果)が全てと捉えるため、その結果が得られるまで、苦しい努力(仏因)が続く。
<良い点>忍耐力、向上心を持ち誠実に生きようと努力する。途中の目標達成時に一時的な喜びを感じられる。
<悪い点>仏をどこか遠くの存在と思っているため、その存在に近づくために、多大の努力と長い時間がかかり、その過程では一時的な幸せを感じられても、大部分は忍耐と努力すること自体に苦しみを感じることがほとんどである。

<己心の久遠実成の釈尊>
御書や創価三代の会長の書籍・スピーチを学び、「仏界」の存在と今世において「一生成仏」できることを頭では理解しているが、「御本尊」への信が弱いため、自身の生命に仏界を涌現することが難しい(理の一念三千)。その結果、決意しても、どこか無理があるため、長続きしないし、大きな困難に耐えられない。
例えば、いつもどこかやらされている感じだが、しっかりと組織について自分自身に挑戦し、長年、信心を続けた結果、その自分自身にある程度自信がついた状態で、周りからも尊敬される。しかし御本尊への信が弱いため、仏界の存在をなんとなくしか感じられず、それを湧現することが難しい。無理して頑張り抜いたゆえに、プライドだけが高くなり(我慢偏執)、やっとの思いで辿り着いた境涯(代表的なものとして「天界」の頂上である「有頂天(無色界)」)を絶対化してしまう。
<良い点>努力の末に勝ち取った自信と、やりきったという充実感(喜び)を感じられる。
<悪い点>一生懸命に苦行(受け身の信心)して、一歩ずつ昇っていったのに、最後は、大きな困難や自分の弱さに耐えられず真っ逆さまに転落してしまう。なぜなら苦行によって得た境涯には「無理がある」からである。無理があるゆえに、長くはそこにとどまれない。
「すなわち、人生の苦しみの原因は、ほかでもない自分自身の煩悩にあると見て、その煩悩を克服するため、自己変革に挑んでいく。「無色界」も、それなりに自分の境涯を変えようとしたわけだが、そこには正しき「生命の法」への智慧がない。そこでどうしても無理がでる。背伸びしているだけで、ちゃんとした足場がないから、また、もとの世界に堕ちていく。」(『法華経の智慧』第四巻p203)
つまり「正しき「生命の法」への智慧がない」、「ちゃんとした足場がない」とは、「御本尊」への確信がないということであり、そのため、それまで積み重ねてきた境涯にはどこか「無理がでる」。その結果、ここぞという時に、一気に頑張る以前の自分の境涯に転落してしまう。

<己心の上行菩薩>
御本尊への信が強いため、何があっても「一生成仏」を確信している。そのため行動においては、自発的、能動的であり(無作の三身)、行住坐臥の振る舞い、全てが歓喜である。
自身の生命(別しては日蓮大聖人、総じては一切衆生)に、宇宙生命(仏界:根本浄識:南無妙法蓮華経如来)を涌現した状態(もともと一体不二)。その自身の生命と宇宙生命を貫く根本法を「御本尊」(人法一箇)として顕したのが上行菩薩の再誕であられる日蓮大聖人(本因妙の教主)。宇宙生命とは「南無妙法蓮華経如来」であり、それはまた「事の一念三千」であり、人格的側面と法的側面を併せ持ち(人法一箇)、その特徴は自発性、能動性であり、無限の生命力、無限の慈悲、無限の智慧を秘めている。自身の「信心」によって、そこから自身の生命に無限の可能性と無限の力を、いくらでも引き出していくことが出来る。
また地涌の菩薩の棟梁(リーダー)として、他の地涌の菩薩を善導する。(例えば学会の組織の中で、他の部員さんの面倒をみながら、正しい方向に導く)

<己心の地涌の菩薩>
己心の上行菩薩(心の師:日蓮大聖人、日興上人であり、創価三代の会長)をリーダーとして、共に「誓願」である末法における広宣流布のために戦い続ける。凡夫のまま御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えることで、自身の生命に「即座」に宇宙生命(仏界)が涌現する(凡夫即極、煩悩即菩提)、これを「一生成仏」という。「一生成仏」とは妙法を受持し抜く境地であり、「信心」に他ならない。
もともと宇宙生命と一体の個々の生命(海とその表面の波のような関係)は、様々な気根の衆生を救うために、様々な個性の姿で出現する(多様性)。悩める衆生を救うため、あえて経済苦や病気を抱え、その他様々な問題を抱えて(願兼於業)、衆生の苦しみに同苦しながら、自他共に具わる仏の生命力(仏界)を開き示すことによって救っていく(開示悟入)。つまり凡夫として悩みや欠点をあえて持ち(秘妙方便)、自分にしか救えない人びとを救済していく(菩薩仏:外用は菩薩の行動、内証は仏の境涯)。提婆達多には提婆達多にしか救えない人たちがいるように、現在、批判されている学会幹部も彼らにしか救えない人たちがいる。よって悪を攻め抜くのは当然であるが、その根底には、彼らを救い、彼らの眷属をも救っていくという慈悲の心が必要である。


結論:「仏」(仏果)とは「信心」(仏因)が誰よりも強い人である =「仏因即仏果」

『法華経の智慧』第四巻より以下抜粋
仏果-仏になるといっても、仏因-信心がだれよりも強い人になるという以外にないのです。信心-仏因が即、そのまま仏果なのです。信心そのものが仏界なのです。信心の一念に、仏因も仏果も具足しているのです。(p111)

「仏界」とは何か。それは私どもでいえば、「信心」以外にないのです。戸田先生は、こう言われた。「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来に向かって仏であると覚悟することである」、
「信心」であり「覚悟」です。「自覚」です。(p244)

三十二相八十種好で身を飾るのが仏ではない。我が生命そのものが本来、仏です。宇宙そのものが本来、仏なのです。(p245)

全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うということであり、仏法とは難と戦うということです。(p246)

仏界とは、妙法と一体の境地であり、仏とは、妙法を師とする人です。妙法を受持し抜く境地そのものが仏界です。(p249)

「永遠の生命がわかる」ということは、必ず「慈愛」の行動に表れる。そうでなければウソです。すべての人の生命が仏様の生命と同じとわかった人は、自分の命を削って、そのことを伝えようとする。仏の境涯とか、悟りかと言っても、その行動にしか実像はないのです。(p401)

『御書』より以下抜粋
「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」(『御義口伝』上p725)

「此の本法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字なり。無疑曰信の釈之を思ふ可し云云」(『御義口伝』上p751)

「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(『御義口伝』下p753)


以上
 

わが友に贈る

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2015年 6月18日(木)07時18分27秒
  雨天時の車の運転は
くれぐれも注意!
視界が悪くなり
スリップの危険も。
油断を排し無事故で!
 

(無題)

 投稿者:ほくせつ  投稿日:2015年 6月18日(木)07時16分8秒
  信濃町の人びと様

      94年3月の牧口での 先生と小林節教授のエピソードありがとうございました。
      身近に親を憎んでいる人がいるので、色々感じました。

アルベア様 先生のところだけ読む、ということで すんなり入るというか
      私にとっては、少し読みやすくなりました。ありがとうございます。
 

法華経の智慧32

 投稿者:まなこ  投稿日:2015年 6月18日(木)06時44分44秒
  先日の夜にアップした「法華経の智慧32」は、「法華経の智慧31」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。


法華経の智慧32

遠藤: 天台は根源の仏智そのものを「実智」、そこから生まれる方便力を「権智」と呼んでいます。その権実の二智を、釈尊自らが賛嘆しているのが、方便品の冒頭の部分です。

須田:「方便力」とは、牧口先生の用語で言えば、「技術」の上の「芸術」、そのなかでも、人間教育の最高の芸術ですね。

斉藤: 方便とは何か ---- 。
 天台は『法華文句』で、方便を(1)法用方便 (2)能通方便 (3)秘妙方便の三種類に分け、秘妙方便こそ「方便品」の方便であると言っています。
 「法用方便」とは、衆生の機根に合わせて種々の法を説き、その法の働き(用)で、人々に応じた利益を与える教えです。「能通方便」とは、真実に入る門となる教えを言います。
 通り過ぎる門なので能通(能く通る=通ることができる)といいます。
 これらはいずれも「方便品の方便」ではなく、「爾前権教の方便」の二つの側面です。法用方便は当面の利益を与える面、能通方便は真実へと導く面と言えます。

遠藤: 一例を挙げれば、低い教えに満足しているのを叱った「二乗弾呵」は、それによって真実に向かわせようとする能通方便であるとともに、利己主義の蒙を啓くなどの利益を与えているので、法用方便の面も含んでいます。
 ある時は衆生を喜ばせ、ある時は厳しく弾呵し ---- 「飴と鞭」と言うと、言葉が悪いですが ---- 。

名誉会長: 悪すぎる(爆笑)。一面の真実を突いているかもしれないが(笑い)。
仏の教育法は、まことに巧みです。
 仏は「天人師」と呼ばれ、また「調御丈夫」とも呼ばれます。「天人師」とは人間だけでなく天界の神々の教師でもあるとの意味です。また「調御丈夫」とは「人を調和させるのが巧みな人」とも言える。最高の目的観に立って、人々を誤りなく指導していくからです。仏とは“人間教育の最高の教師”なのです。
 ともあれ、方便品で「正直に方便を捨て」と言われている方便が、法用・能通の二つの方便です。
 これに対し、「秘妙方便」は、まったく違う。捨てるべき方便ではなく、そのまま「真実」である「方便」なのです。

遠藤: 方便といえば、「ウソも方便」(笑い)ではないですが、あくまで“手段”であって、“真実でないもの”と思い込みがちです。だから「秘妙方便」が方便でありながら真実というのは、理解するのが非常に難しいですね。

名誉会長: 確かに難しい。戸田先生も、秘妙方便について、どう皆に分からせようかと苦心されていた。
 方便には「接近する」「近づく」という意味があるわけだが、それにも二つの方向性があると思う。一つは、現実から悟りへ近づかせる方向。これが法用・能通方便です。
 もう一つは、悟りの境地から現実へと近づく。その悟りを現実世界に説明し表現していく方向。これが秘妙方便です。
 同じ方便でも、方向がまったく逆になっている。

須田: そうしますと、前の章で論じていただいた「二処三会」の構造とも重なりますね。「霊鷲山から虚空へ」が法用・能通方便に、「虚空から霊鷲山へ」が秘妙方便にと。

名誉会長: そうとも言えるでしょう。
 仏の智慧は甚深無量です。言語を絶し、説くことのできない究極の法である。方便品には「止みなん止みなん須く説くべからず 我が法は妙にして思い難し」(法華経 p163)とある。
 そうした、言葉にもならず、考えることもできない真実を、言葉で説いたり、何らかのかたちで表現するとすれば、これはもう方便としかいいようがない。説くことのできない真実を、慈悲ゆえに、あえて説いた。それが秘妙方便であり、仏の智慧と一体の方便なのです。

遠藤: 天台は、法用・能通を「体外の方便」、秘妙を「同体の方便」と立て分けています。つまり法用・能通は仏の真実の智慧の外に立てられた方便、秘妙は真実と一体の方便ということです。今、言われたことと同じですね。

名誉会長: 秘妙方便こそ方便品の心であり、そこに「方便品」と名づけられたゆえんがある。また、秘妙方便の「秘」とは、ただ仏だけが知っているということ。すなわち一切衆生が仏だという真実を、仏だけが知っている。
 そして、その真実は秘められているにもかかわらず、縁にふれて顕現する。そうした不可思議な生命の実相を「妙」という。
 十界論で言えば、仏界は九界の衆生には「秘」されている。しかし、縁にふれて九界の上に顕れてくる。この不可思議が「妙」です。
 戸田先生は「秘妙方便」について次のように教えられています。
 「私も皆さんも凡夫です。しかし、われわれ自身、理のうえでは仏なのです。成仏とは、自分が仏であることを知ることで、これは秘密にされ、妙がかくされているのです。これを秘妙というのです。仏が、凡夫の姿で、苦労させるためにつくられたのです。これが、秘妙方便の原理です。皆さん方は、地涌の菩薩なのです。この原理が心の奥底でわかれば、方便品が読めるのです」
 「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」
 凡夫がそのまま仏である。これは不思議です。思議し難い。「妙」です。法華経を信じない人には、とても分からない。「秘」です。
 

Oh, happy day

 投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年 6月18日(木)05時04分53秒
  法華経の智慧」の読み方 Oh, happy day

関心のある方、興味のある方は「やってみてください」

左脳的な読み方は「あらすじ読み」に留まる。いくら、何回も読んでも「あらすじ」しか理解で

きない。右脳的読み方をしないと「気づき」「智慧」はもたらされない。

「法華経の智慧」の対談者3名の質問、語りは最初から最後まで「左脳的世界」である。池田先

生の眼差しは「右脳的」である。その後の(20年後の)3名の生き方、処し方を見ればわか

る。これが現実なのだ。わかるか、

★「右脳的」読み方に慣れる

池田先生の発言、語りの部分だけを読んでいくと「右脳的」であることが一目瞭然である。つま

り先生の語りの 部分だけを意図的に読んでいくことにより「右脳的感覚」が働き作用として、

自身で自覚できるようになる。

★時間があれば「トインビー対談」等の対談を同様に池田先生の部分だけを意図的に読んでいく

ことをする。

★「いずれの対談者も左脳的世界にある」ことが「わかるようになる」

★聖教新聞・大白蓮華の記事を見ると、意図的な編集、先生の指導と称する内容の真偽が自身で

感じられるようになる。

★読み方⇒何か月も時間をかけずに、できれば3週間内で「法華経の智慧」を読み終える。先生

の部分だけだと

速い人では1週間以内に読めるはずであるが・・・

一気に読むとことにより、自分自身の右脳に働きかけることが有効であるからである。時間がた

つと効果が半減する。

「右脳的読み方の教材」として「おすすめ」

1-「法華経の智慧」
2-「法華経・方便品・寿量品講義」
3-「トインビー対談」

★1・3、の先生部分だけを読んでいくと、自分自身の外界の見方、自分の内界の見方が、知ら

ないうちに変わってきていることに気づく。例:座談会等の会合に出席したり、掲示板を見て

「あれ、なんだこれ」という感覚が出ていることに気づく。親子・家族等の人間関係も「あ

れ?」という感じを体験するはずである。

1・3、の後に「法華経・方便品・寿量品講義」を読むと「右脳的」理解の意味がわかる。

★愚考者は「何回読めばいいのか」「いつ読めばいいのか」という愚問により、結局、読まない

事を選択する。

★右脳的な読み方(先生の部分のみ読む事)により、「発迹顕本」「師弟不二」の「左脳解」と

「右脳的理解」の異なりを自分自身で体感・体験することができる。

★今、述べた「右脳的読み方」は、臨床心理領域での心身の不適応者に自動思考からの離脱・脱

却方法として指導してきた認知運動療法を創価学会人向けに「アレンジした」方法である。

★「右脳的」読み方は自得するものである。それが即Oh,  happy dayとなる。

できるかなー、できなくてもいいのだ。自身の選択だから、

ちなみに今述べてきた方法は、ブレイクスルー体験の方法でもある。
 

ジョーカーさん、有難うございます!

 投稿者:+ドライバー  投稿日:2015年 6月18日(木)05時02分57秒
  >牧口先生は獄中闘争について、「大聖人の難に比べれば九牛の 一毛」と言われました。圧倒的に戦っている人は謙虚です。


>気づかぬうちに慢心を 起こします。


題目上がってないと、また、御書、先生の指導を学び続けないと気づかぬうちに魔にやられる。
本当、恐ろしい。

>「自分はまだまだ」

この言葉をしかと心に常に置き闘争していきます。
 

「発迹顕本」

 投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年 6月18日(木)04時59分57秒
  「発迹顕本」とは覚醒であり悟ることである。「迷うを凡夫悟を仏という」しかし「悟る」こと

に関心がいかない。「悟りたい」との求道心が希薄である。いや無いに等しい。どうしてか、

思い込み、刷り込まれた思考のなせる働き作用が硬直化し思考がエゴと癒着し意識を制限してい

るからである。自身の意識を制限しているのは、自身の中に在る「怒り」の感情である。その感

情が、今の自身の思考パターンとして外界に「言葉」「文字」となって現れているのだ。愚考の

特徴は、あらゆる現象を「問題視」するだけで騒ぎ立てることである。(左脳的)

信心して○○年、十界論・九識論等、言葉は知っても「理」であり「事」には非ず、言葉で、活

字で読んでも自己都合の解釈思考の中に居続ける、いつしか視野狭窄の症状化した中で悩み苦し

み、宿命転換と思い込む、この繰り返しの○○年、すべては自己都合の選択結果なのだ。視野狭

窄は情報狭窄でもある。

心身の不適応、高齢の両親、わからずやの我が息子・娘、全てが愚考の結果なのだ。うつ病・摂

食障害・パニック障害・ストレス性障害・ひきこもり等、世間と変わらぬ現象である。こうした

現象は、東洋医学・仏教医学からみると、意識の使い方を知らないゆえの心身の不適応反応状態

なのだ。

意識の使い方を知らぬゆえのすべての現象なのだ。

「身口意の三業で読む」とは「思考」ではない。「意識感覚で読む事」なのだ。しかし、この

「意識感覚」がわからない。地球上ではアフリカ大陸の一部の部族、南北アメリカの一部の種族

には「意識感覚」が「中心核」となって生活が営まれているのがあるが、現代人のほとんどは思

考感覚が優位となり形状記憶されている。

意識の持つ「自由感覚」体感・体験を意識して学ぶ、自得する時期にきている。このことを「目

覚め」「覚醒」の時期という。

思い込み大好き人間は思考上「発迹顕本」という。師弟不二を唾を飛ばし叫ぶ、そして、何も変

わらない、変えられない、知識の片よりにより盲目状態にあることに気づけない。彼らの世界は

外界の現象に注意が常に向くように社会文化的に条件づけられているからだ。「意識」そのも

の、働き作用に注意が向かないから様々な現象が起きている、起きてくるのだ。腐敗と堕落の構

図は地球上のあらゆる集団にみられる現象である。

視野狭窄状況の中で「多様性」といいながら「閉塞状況にある現実」なすすべがないことに気づ

けない、気づかない。

誰が、どうして、こうして、こうなった。だから何?だからどうするの?わからないのだ。

「自分自身が変われば変わる」と言われてきているが、いつ、どのように変わるのか?内的な自

己追及、自己言及なき者は常に外界に関心が向き、一喜一憂し時間を過ごしているだけである。

意識の覚醒・目覚めは「俯瞰的眼差し」を得ることとなる。学会的に言うならば「身口意」の三

業による事象の読み込みである。例:「法華経の智慧」を身読すること(身口意の三業・左脳的

な読み方ではない)

牧口先生・戸田先生・池田先生を仰ぎ、弟子と言うならば、「法華経の智慧」の身読を、それが

自身の「発迹顕本」となるのかもしれない、創価学会の「発迹顕本」となる。言葉で知っていて

も体感・体験が無い。体感・体験しょうとも思わない。思いだけの世界に留まっている。「発迹

顕本」がもたらされたら「どうなるか」わからないまま続くのだ。それも選択している事実であ

る。創立以来のキーワード「発迹顕本」いまだに同じことを繰り返している。何百万人の諸先輩

たちが言っていた、何かあるたびに言っていた「発迹顕本」、ひとりよがりの思い込み信心がそ

うさせていることに気づけないままに旅立っている。

地球の「発迹顕本」地球の「覚醒」が、あるのか、わからないのだ。

今「先生が不在だ」だから、弟子の道を歩む、何をすると、どうすることが弟子の道なのか?

「弟子の道」には1000万人の道がある。多様性の世界だから、いろいろあっていい・・・・

それも個人の信心、まあいいか、「平等であり、差別がある」このことが三千羅列であり、個人

の選択なのだ。自身の選択に「覚醒」ということを選択すれば「わかる事」を選択することに気

づけないから、このまま今日も明日も続く・・・・

ここまでは、従来型の思考世界のお話、
 

アメイジンググレイス

 投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年 6月18日(木)04時54分47秒
  ☆Oh, happy day
アメイジンググレイス

https://www.youtube.com/watch?v=uofG9z66LXg
https://www.youtube.com/watch?v=rs7MlrxOOWg
[Andre Rieu Amazing Grace]
https://www.youtube.com/watch?v=-GD-5mRyaJw
https://www.youtube.com/watch?v=HsCp5LG_zNE&list=RDrs7MlrxOOWg&index=10

ヘイリー・ウェステンラ(Hayley Westenra)は、ニュージーランドクライストチャーチ出身の歌手である。アイルランド系ニュージーランド人。

誕生秘話

Amazing Grace"『アメイジング・グレイス』には実は作者の悲惨な過去に対する後悔の意味が込

められています。

この曲の歌詞を書いたのはジョン・ニュートン。(イギリス:1725-1807)

彼は青年時代、相当な荒くれ者で、黒人奴隷売買の仕事に身を売り、奴隷船の船員になりました

それは黒人奴隷制に従事していたことに対する作者の悔恨です

アフリカで黒人たちを拉致し、動物以下の扱いで船に詰め込み、買手に売り飛ばしていました。

奴隷船では黒人奴隷への暴力はもちろん、レイプ・殺人も日常的にあるような荒れ狂った毎日

だったそうです。ニュートンは酒、金と暴力に溺れ、神に背いた毎日を過ごしていました。

しかし、彼に転機が訪れます

1748年3月に22歳の彼が乗っていた船が大嵐に遭遇して、難破寸前まで追いつめられま

す。数週間も沈没と餓死の恐怖を味わったそうです。死に直面したニュートンははじめて自分が

歩んできた人生を悔い、神に許しを求め、改心します。奇跡のように助かったニュートンはそれ

を転機に病を訴え、奴隷商人をやめ、必死に聖書を読みはじめ、聖職者(賛美歌の作詞家)とし

ての道を歩みました。

ニュートンが50代半ば頃にはじめてこのアメイジング・グレイスの歌詞を発表しました。後ほ

ど、曲が加えられ、今の曲になったという話です。

この歌詞は彼が22歳の時、海で死に直面して神に救われた時の心情を表していると言われてい

ます。

この不滅の名曲の歌詞に秘められているのは1748年にあの海で遭難していた22歳のニュー

トンの悔恨と回心の思いです。⇒「まず臨終を習うて他事を習うべし」

彼の一生は、この詩を残すためにこの世に現われたといえます。世界中で何億という人々がこの

詩で救われたのです。

歌詞の意味・日本語訳(意訳)★キリスト教徒における「発迹顕本」的な体感・体験です。

「発迹顕本的体験」は人間の魂が成熟する時にみられる個人の内的世界の覚醒をいいます。

大聖人の仏法をもとに、どうの様に世界を見ていくか、がこれからのリーダーに求められる資質

です。


Amazing Grace! How sweet the sound
驚くべき恵み。なんと甘美な響きよ。
That saved a wretch like me!
私のような悲惨な者を救って下さった。
I once was lost but now am found.
かつては迷ったが、今は見つけられ
Was blind, but now I see.
かつては盲目であったが、今は見える。

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.
アメージング・グレース(素晴らしき恩恵)
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.
神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか
Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

The Lord has promised good to me,
His Word my hope secures;
He will my shield and portion be
As long as life endures.
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り
Yes,when this heart and flesh shall fail,
And mortal life shall cease,
I shall possess within the vail,
A life of joy and peace.
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ

The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう

★「法華経の智慧」から見ると、「神の恵み」とは「太陽」であり、自分自身である。意識を反転させること

が「智慧」なのである。対象化された現象を反転させると自身が「智慧」であることに気づく。

「Amazing Grace!」とは、「無限の存在」であり、「意識」そのもの「智慧」である。

私が看取った多くの患者さん方で、のぞましい姿を示された方が「息を引き取る時」または「その瞬間」にな

ぜか、この曲が、どこからともなく聞こえ、荘厳な場になったことが何回もある。「法華経の智慧」のドラマ

である。家族や看護師の中でも聞いた、聞こえた方もいた。不思議な現象である。

 

これは

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2015年 6月18日(木)00時18分40秒
  信濃町のネット対策チームの対策です。

連続の書き込みですいません。

原田会長とアメリカ大使の会話が話題になっていますが、安全保障関連法案⑧で書きましたことにも通じます。

日蓮大聖人は「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書992ページ)と仰せです。

言わずと知れた、公明党を支援する創価学会は「体」です。
支援される公明党は「かげ」です。

原田会長率いる現在の執行部の池田先生への「姿勢」が曲がっているので、公明党の「政策」も「ななめ」です。

結党以来からずっと名も無き庶民の父母が世間へ訴えてきた「平和の党」を創価学会の執行部と公明党が壊して回っているのが現在です。

私は本当に残念です。
庶民を騙し続けることはできません。
こんなことをすれば次回、またその次と得票を減らすでそょう。
また学会活動として選挙支援をする人も減ることでしょう。
 

安全保障関連法案⑤

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2015年 6月18日(木)00時01分1秒
  信濃町のネット対策チームの対策です。

私が以前に公明新聞や聖教新聞以外の一般紙も読むべきと書き込みをさせていただいたことを覚えていらっしゃる方はいますでしょうか?

一般紙でもテレビニュースでも「安全保障関連法案」について報道しています。

公明党も「丁寧に国民の皆様へ伝えていく」とコメントしていますが、機関誌の公明新聞では「伝える気持ちは無し」と分かる対応です。

本日6月17日の公明新聞でも法案の内容に全く触れていません。
突っ込んで言えば、これは「創作記事」じゃないのと疑われかねない内容です。

1面の北斗七星より
最近、ご近所の知り合いがようやく公明党の支援者に。意を決して公明党の成り立ちや、政策を話したら、「やっと話してくれたね」とにっこり。「公明党のことは何十年も見てきた。きちんと住民、国民のことを考えている。ようやく納得した」と打ち明けてくれた。

私はこの記事を見て「驚きました」

何故なら、公明党の職員の(繁さん)が書いているこの記事ですが、繁さんは今までの選挙で御近所に公明党の成り立ちや政策を語っていなかったのですか?

「やっと話してくれたね」
これはビックリ発言ですよ。

それとも職員が今まで本気で選挙活動していない実態を暴露するために書いたのでしょうか?

それともこんな「創作記事」らしきことを書くと言うことは、他に意図していることがあるとしか思えません。

もしも御近所さんが本当に理解してくれたのであれば、その御近所さんは憲法学者や世間様では少数と言われる頑固な保守な方ですね。

こんな程度の落ちる記事を1面に持ってくる公明党はやはり世間様が「残念」に思う政党です。

先程、残念な話し⑧で書きましたが「平和の党の看板」は結党から純真に公明党を支援した名も無き庶民が、岩盤に爪を立てる思いで訴えてきた、公明党の最大の「実績」です。
それを今回の安全保障関連法案の対応で壊しているのですよ。

破壊は一瞬、建設は死闘です。

公明党の職員の皆様どう感じますか?
 

同盟題目終わりました。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)23時32分26秒
  ありがとうございました。  

残念な話し⑧

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2015年 6月17日(水)23時29分32秒
  信濃町のネット対策チームの対策です。

偶然喫茶店で隣に座った御老人達の会話です。
現在の世間様の率直な会話ではありませんか?

老人①最近の「安保なんとか」大丈夫かね?

老人②自民党だけでは怖いと思っていたけど、公明党も「与党」になっちゃったね。

老人③あたしは、創価学会は嫌いだったけど、公明党の「平和の党の看板」だけは一目置いていたんだけどね~

老人②公明党は「平和の党の看板」はいつ外しちゃったんだろうね。
やっぱり与党になるとそんな看板は邪魔なのかね。

老人③戦争はいかんよ。今の若い人は戦争の酷さを知らなさすぎる。

こんな会話をされていました。
公明党は結党から一貫して「平和の党の看板」を掲げていました。
その看板を下げた今回の「安全保障関連法案」。

世間様は私達以上にそれを認識していると感じる会話でした。



 

虹と創価家族様、+ドライバー様

 投稿者:ジョーカー  投稿日:2015年 6月17日(水)22時54分15秒
  ・虹と創価家族様
発迹顕本もまた、決意することが大事になりますね。今、どれだけの人が、自身の発迹顕本を意識しているか。そして、何をもって発迹顕本とするかを決めていかなくては、現実に具現化することはできない。想いは形にしてこそ意味をなし、そこにこだわっていきたいと思うのです。
もちろん仏法は「不求自得」であり、求めずして得られる部分も多分にありますが、それだけではどうしても受動的な発想になりがちです。

広布と人生を語る4巻より
「受動の信心には功徳は少ない。信心はあくまでも能動でなければならない。」

本来功徳というのは勝ち取っていくものであり、座して待つものではないし、それでは面白味がありません。日蓮仏法の本質は攻めであり、守りではないでしょう。何もしなければ何も生み出せない。だからこそ、力あらば一文一口なのではないでしょうか。発迹顕本も自分自身で決めて、勝ち取っていくことが大事ではないかと思います。
虹と創価家族様の紹介してくださった先生の指導の中にも、「希望は、君たちが、自分の力でひっぱり出すことだ」とありますが、私は、「自分の力」という言葉に着目したいのです。受動ではなく、能動性であり、それが人生を開いていくということだと思います。自分の中に最高の力が眠っており、それをいかに引き出すかが勝負といったところでしょう。

・+ドライバー様
娑婆世界は名聞名利の風強く、誰もが傲慢になりやすい国土です。力がつけばつくほど、傲慢になる可能性も高くなっていきます。学会においても、活動家であればあるほど、活動を頑張っているという自負心が反転し、慢心につながるケースもあるので要注意です。
牧口先生は獄中闘争について、「大聖人の難に比べれば九牛の一毛」と言われました。圧倒的に戦っている人は謙虚です。なぜなら、戦えば戦うほど、打ち込めば打ち込むほど、自分自身はまだまだであることに気づくからです。上には上がいて、「自分は戦っている、頑張っている」と思っている段階では、まだまだであると捉えたほうが良いと思います。圧倒的にやってみてはじめてわかるのが「自分はまだまだ」ということであり、ここに気づけて一歩目といったところでしょう。

組織を発展させたり、社会で結果を出したりすると、まわりは「すごい」と誉めてくれます。魔は天界に住み、勝ったとき、結果を出した時が、増上慢になるタイミングであります。中途半端な自負心こそが増上慢の因であり、気づかぬうちに慢心を起こします。私は、御書全編の研鑽をしたときはじめて、自分はまだまだであることに気づきました。それまではいかに中途半端なレベルで満足していたことか。

学会活動も同じで、どれだけやっても足りるものではありません。やればやるほど、いかにやれていないかに気づかなければなりません。実質的にどれだけ広宣流布を進めているかを問わねばなりませんし、自己満足に陥っている場合もあります。活動一つとっても、ものすごい奥が深い話なのです。
 

23時から同盟題目

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)22時50分52秒
  本日もよろしくお願いします。  

法華経の智慧32

 投稿者:まなこ  投稿日:2015年 6月17日(水)21時52分3秒
  ■ 法華経は秘妙方便 ( p148)

名誉会長: 方便品全体の流れを見ると、開三顕一が主題となっているが、その前提として「方便」の思想があることが分かる。実は、迹門の開三顕一だけでなく、本門寿量品の開近顕遠の説法においても「方便」はキーワードになります。つまり、始成正覚が方便で、久遠実成が真実であると明かされていく。

斉藤: 法華経全体から見れば、開三顕一以上に「方便」のほうが重大なテーマだとすら言えるかもしれません。

遠藤: 方便品の「方便」は、サンスクリット本では「ウパーヤ・カウシャリヤ」と記されています。「ウパーヤ」という語は、英語でいうと「アプローチ」に当たり、「接近」「接近の手だて」という意味です。「カウシャリヤ」とは「優れた」「巧みな」という意味です。したがって、方便品の「方便」とは「巧みなる接近(の手だて)」という意味になり、漢訳では「善巧方便」と訳されます。

名誉会長: 要するに「方便」とは、衆生を成仏へと導く「教育」の方法であり技術です。人間の偉大な可能性を、最大に開花させる ---- ここに法華経の心があり、そのために「方便」を説く。方便とは、広い意味での「人間教育」の手だてといえないだろうか。
 実は、初代会長・牧口先生が教授法を図式的に記したメモに「1開 2示 3悟 4入」とあるのです。牧口先生は、仏が衆生を導く方法を、教育方法として取り入れられていた。

遠藤: それは知りませんでした。しかし、とても納得できます。
 牧口先生の教育の主眼は、どこまでも生徒自身の可能性を開くことでした。「知識の切り売りや注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法を会得させること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ」(『創価教育学体系』第五編第二章)と。

名誉会長: 牧口先生は、教育の混乱の原因は、その目的があいまいなことであるとし、「教育の目的は児童を幸福にすることである」とされた。当時、“国家の役に立つ”人間をつくるのが教育の目的であると多くの人々が考えていた時に、余りにも画期的な「児童本位」「人間本位」の教育観であった。
 この信念から、創価教育の眼目も、一人一人が「幸福になる力を開発する」こととされたのです。
 そして、医学にも技術があり、農業にも工業にも技術があるように、教育にも技術が必要である。機械的な「注入主義」でも、無策の「人格主義(感化主義)」でもいけないと主張された。技術 ---- すなわち「方便」です。
 そして教師を「無技術」「技術」「芸術」と三段階に分けられたのです。
 どう子どもたちを幸福にするか。どう子どもたちの「幸福になる力」すなわち「価値創造の力」を引き出し、開示悟入させるか。この一点に、牧口先生は全精魂を傾けられた。
 それは学者の机上の教育論ではなく、現実の教育実践の中で、子どもたちを愛し、子どもたちを救いたいという慈愛から生み出された教育の体系であった。

斉藤: 子どもたちへの慈愛から生まれた知恵だった ---- そこに創価教育学の生命があると思います。
 それで思い出されるのが、釈尊が仏法を説き始めるときの悩みです。自分が悟った法を説くべきか否か、釈尊は迷いに迷います。
 なぜ釈尊は逡巡したのか。そのときの様子を、方便品には、こう説かれています。
 「私は仏眼をもって衆生を見た。彼等は貧しく、幸福への智慧もなく、生死の苦しみは絶え間なく続いている。欲望に執着するありさまは、牛が自分の尻尾を追うがごときである。貪りで自分自身をおおい、『大いなる仏』と『苦悩を断ずる法』を求めようとしない。このような衆生のために、私は大悲の心を起こした」(法華経 p185、趣意)と。

遠藤: そして、衆生の余りの救い難さに愕然としたのですね。
 「どのように救えばよいのか。悟った法をそのまま説くと、彼等は信ずることができなくて、反対に法を破壊し、悪道におちてしまうだろう。それなら、いっそのこと説かないでおいたほうがよいのか。過去の仏と同じような方法で説くべきか」(法華経 p186、趣意)

斉藤: その時、十方の仏が、釈尊をこう励まします。「すべての仏と同じように、方便力を用いなさい。私たちも皆、そうしてきたのだから」(法華経 p187、趣意)
 それを聞いて釈尊は「仏のおっしゃる通りにします」と喜び、決意する。
 「我濁悪世に出でたり 諸仏の所説の如く 我も亦随順して行ぜん」(法華経 p187)
 この場面は、先生の小説『新・人間革命』の「仏陀」の章で、学ばせていただきました。

名誉会長: 釈尊は「大悲の心」ゆえに悩んだのです。慈悲の「悲」とは「同苦」を意味する。「救いたい」という思いがあるから、「どう救えばよいのか」と悩むのです。
 そういう慈悲があるからこそ智慧がわく。それが「方便力」です。「人間教育」の芸術です。
 仏とは、ある意味で、悩み続ける人のことかもしれない。人々の「幸福になる力」を開くために。自身の使命を果たすために。

斉藤: 私たちが日々読誦している寿量品の最後の部分に「以何令衆生」(法華経 p510)とあります。「以何」とは「何を以ってか=どのようにして」という意味です。
 ここにも、人々の幸福のために、どうしたらよいか常に考え続けているという仏の慈悲が表されています。

名誉会長: 方便品に「種種因縁。種種譬喩」(法華経 p153)とあるが、仏は相手に応じ、さまざまな因縁や譬喩を使って、正しい軌道に導こうとする。この仏の力を「方便力」と言います。
 これは、その人のために、今、何を教えたらよいのかを知る力です。
 言い換えれば、人々の生命状態を洞察する力であり、適切な教えを選びとる智慧の力です。また、いかなる衆生をも成仏へと育んでいこうという慈悲の力です。その根源には甚深無量の仏智があるのです。

 

のび太様

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)21時42分33秒
編集済
  補足します。
その見解は、当初は、朝日新聞社からの問い合わせに対して
宗教法人創価学会として回答したものです。

ですから、創価学会のしかるべき責任者の決裁があったはずです。その後に、飯島元総理補佐官が政教一致ではないか。
と発言。他の自民党関係者からも圧力があり

広報室のコメントであったと修正。
公明党の山口代表のスタンスがズルズル後退。
こうして閣議決定に至りました。

その間にも、沖縄の新聞社に池田先生の平和を主張する
一面広告が発表。

池田先生と創価学会執行部の間にズレが生じています。
 

アーカイブブログより

 投稿者:プロジェクトX  投稿日:2015年 6月17日(水)21時33分43秒
  【秋谷T川宗」のyさんへ  投稿者:ヨッシー 】


少し戦闘モードになることをお許し下さい。
yさんは、「先生が当事者のときに破門されたわけですから、自身の存命中にケリを
つけることは当然であり、責務と考えます」と主張していますが、先生は2002年の
会則改正で、すでに「ケリをつけられた」のではないですか?
今回、改正をしたいと言い出したのはyさんの尊敬するT川ら「四人組」です。
「学会が損をしたり、学会員が苦しんだりしないように」
「今までやってきたことが間違っているとならないように」
「大御本尊と決別するなどとは言っていない」・・・・・

http://sgi-shiteifuni.com/?p=5210
 

所感

 投稿者:のび太  投稿日:2015年 6月17日(水)21時32分41秒
  2014/5/17 創価学会広報室

「私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法第9条についての政府見解を支持しております。したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきであると思っております。集団的自衛権の問題に関しては、今後の協議を見守っておりますが、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます」

ご存知のように、1年1ヵ月前の5月20日から自公連立協議が始まる寸前に発表されたコメントです。発信が創価学会広報室となっていますが、先生のお考えそのものであると受け止めています。もし他に、この創価学会の方向性を示唆できる人が居られると、考える方がいましたら教えてください。
このコメントがパブリックコメントとして発表されたていなかったら…どうなったと思いますか?
自民党に同調して愚行を許した公明党に対する批判が、創立者の池田名誉会長にまで向けられたでしょう。
私は、今このコメントを読むと、今日の日本の政治状況を予言していたのではないかと思えます。
改めて師匠の先見性を感じました。青年部との勉強会で、このぎりぎりのタイミングでの決断が勝敗を分けると、ある青年が言っていました。私は、思わず「その通り!」と言いました。
続けて私は、もうひとつ大事な視点を話しました。
それは、聖教新聞にはこの発表がまったく無かったことです。後日にもありませんでした。
今日も紙面には、『平和』という活字が躍っていますが虚しさを感じます。
小島編集局長!あなたは、1年1ヵ月前のこの判断で、師匠に対する正義の報道、会員の知る権利を奪った報道、を認めなければならないでしょう。私も毎日新聞の報道で初めて知りました。(笑)
1年1ヵ月前に聖教新聞社は、このパブリックコメントを堂々と発表していれば会員は胸を張って正義を訴えられたのではないでしょうか。また、多くの憲法学者が『違憲』と断定しているのではありませんか!師匠の正義を黙殺した聖教新聞の編集姿勢は永久に汚点として残るでしょう。


 

アルベアさん

 投稿者:ルパン二世  投稿日:2015年 6月17日(水)20時41分36秒
  アルベアさん、今日も触発と気づきを与えていただき、ありがとうございます。

感謝申し上げます。

アルベアさんが読んだ本でおすすめなものがありましたら教えてください。
 

具現化

 投稿者:ジョーカー  投稿日:2015年 6月17日(水)20時07分19秒
  ・共戦様
自分自身が第二の山本伸一になるという決意の一念は、現実の行動となって具現化されていきます。「これが山本伸一」という答えはないし、正解も一つではありません。多種多様であり、一人ひとり違います。何事にも高低浅深は存在し、行動といっても奥が深いものです。思いつきの浅い行動から、深い一念の元の、甚深の行動など、これもまた様々です。では、現実に一念を具現化させるまでの行程を記しておきたいと思います。あくまでも私のやり方ですが、参考までに。

信心の行動においては三つの要件が大事になります。
1、 最高の祈り
2、 最高の作戦
3、 最高の行動

この三つが兼ね具わった時に現実世界に一念の具現化がなされる。それでは一つひとつ説明していきます。

☆最高の祈りについて
ここではわかりやすく、「山本伸一になる」という決意の祈りをもとに話をすすめていきたいと思います。このように祈ると一体どうなるか。必ず智慧が湧いてきます。これを隨縁真如の智といい、頭で考えるものではありません。御本尊には主師親の三徳が具わっていて、自身を護り、育み、正しい方向へと導いてくれます。当然山本伸一になると祈れば、すべての諸天がそれを実現するために動き出します。自身の智慧としても、山本伸一になるために必要なことが湧いてきます。実は、答えは自分の中にすべてあるわけです。一念が定まるほど、祈りが深まるほど、智慧が出てきます。これを法華経の兵法ともいいます。最高の祈りとは、智慧が出るまで祈ることをいいます。

☆最高の作戦について
祈りで智慧が出たら、次にそれを実現するための作戦を練ることが大事になります。ここで重要なのは「数値化」です。「山本伸一になる」と祈るということは、何をすべきかという智慧が出できます。たとえばそれが「もっと折伏をする必要がある」「教学の勉強が必要だ」「先生の指導を学びなおすこと」などなど、人によって異なります。何をもって山本伸一とするかは、ここで決定されます。折伏ならば「いつまでに何人折伏しよう」という形となります。抽象的なことでは意味がなく、必ず具体的でなければなりません。故に数値化が大事なわけです。

☆最高の行動
そして最後に、具体化されたものを実現するための行動を開始すること。戦いは99%地味であり、坦々と実行していくことです。思いつきの猪突猛進的な行動は、つまらないミスや、無駄を生みがちです。一会員ならば、それで済むかもしれませんが、リーダーであるならば、猪突猛進でよしとするのは浅はかといえます。こういうリーダーの下では、どうしても無駄な会合や報告が増えてしまいます。なぜなら、考えてないからです。

新人間革命6巻より
「指導者には責任がある。一生懸命であることは当然ですが、ただ、それだけでよいと思ってしまえば、自己満足に終わってしまう。一つのことを行うにも、それがいかなる意味をもち、結果的にどうなるかを、長い目で見て、考え抜いていかなければならない。」

やみくもに行動していればいいのではなく、一念を定め、練りに練り、そして行動を起こすという三つのプロセスがないと、本当の意味での広宣流布の推進はできない。私自身、つい先日、この三つのプロセスを元に、新しいプロジェクトを発動させました。今までも、いろんなことをしてきましたが、達成できなかったことはありません。自発で出発すると成功するものです。ともあれ、創価は価値創造の団体なのだから、どれだけ価値を創造できるかが戦いなのです。

 

アーカイブブログより

 投稿者:プロジェクトX  投稿日:2015年 6月17日(水)20時02分50秒
   【これをお読みください  投稿者:掃除婦は見た】

元内閣官房長官 野中 広務

竹岡誠治氏に初めてお会いしたのは、山梨だった。私が自由民主党の総務局長在任中であった。
・・・・・

http://sgi-shiteifuni.com/?p=3671
 

宛先など

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)19時10分28秒
  日本国内にある基地の司令官などが入ってますね。
外交安全保障の公式文書になってます。
文書は本物でしょう。

文書の最終責任者が大使ですね。
 

Wikileaks

 投稿者:見込みない人々  投稿日:2015年 6月17日(水)18時48分59秒
  ですが、発信はTokyo, Japan、classified by シーファー大使です。誰かが作成し、大使が内容チェックしたよ、という感じかと。  

創価大学教授について

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)16時59分7秒
  2010年4月の入学式での池田先生の創立者挨拶を
ご存知の方はいませんか?

教授陣の傲慢な姿に、池田先生が激怒され
きびしく叱責されています。名指しです。
傲慢だ。私を馬鹿にしている。学生を見下している。

この時に池田先生は学生が教授を評価する仕組みを導入されています。
 

ウィキリークス情報

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)16時55分29秒
編集済
  提供された方も翻訳された方もお疲れ様です。ありがとうございます。京都の虎様の外部のご友人もありがとうございます。

出処はアメリカ大使の報告書か何かでしょうか?
原田会長はナショナルデイなど参加されてますから
その時のことかも知れません。フランクな会話でのやりとりかも知れません。

しかし、大使の眼に映ったのは、会員を見下した原田会長の態度であったことは間違いないですね。
”laugh”を使っていますから。

ここから見えるのは、日本政府の米軍施策、政策について、公明党を抱き込めば、上手くいく。それには学会の首脳部に食い込み、彼らを懐柔すればよい。とのアメリカ外交の強かさです。

また、アメリカに利用されているのに、調子に乗って軽口を叩いている学会首脳部の間抜けな姿です。

池田先生の人間外交とは天地雲泥の差。
これが一番弟子の原田会長です。
 

(無題)

 投稿者:通りすがりの方  投稿日:2015年 6月17日(水)16時13分15秒
  あと創価大学花○教授は信頼できませんよ。
講義中、学生が体調不良で倒れた際に、声もかけずに授業を続行したという伝説を残しています。
間違いであれば訂正しますが、数年前の学生に聞けば事実が分かると思います。
良心を持ち合わせていないのではないかと思います。
 

(無題)

 投稿者:通りすがりの方  投稿日:2015年 6月17日(水)16時07分8秒
  多くの方、翻訳ありがとうございました。文章の信憑性は低くはないが、日本で信頼されるほどでもないでしょうね。
原田さんの話→通訳→シーファー氏の記憶と変遷もあるので。
ただ会長の一般会員に対する不遜な態度は強く感じました。
 

(無題)

 投稿者:解説者  投稿日:2015年 6月17日(水)14時53分19秒
  ウィキリークスの情報ですよね?
ウィキリークスとウィキペディアは全く違いますよ。

世界的な内部告発サイトです。日本版もできるとか?
 

(無題)

 投稿者:うらら  投稿日:2015年 6月17日(水)14時47分8秒
  元はウィキの情報でしたか? あれはどうもいけないですよね。先生のところも、誰が書いているんでしょうか。
会長をかばう気は全然ありませんが、これすら何かの画策かもしれません。
公明党がおかしいのも、最高幹部の言い逃れもその通りですので、話半分で読んでおくのがいいような。
私も確認できるところにしてみます。
 

池田先生

 投稿者:京都の虎  投稿日:2015年 6月17日(水)14時22分42秒
編集済
  信心していない友人が翻訳してくれました。

Soka Gakkai has once before had to deal with staking a position related to international peacekeeping efforts.  At the time of the Gulf War, although Komeito was then in the opposition, it nonetheless supported the decision for Japan to make a multi-billion dollar contribution.

Harada explained, with a laugh, that Soka Gakkai (SGI) leaders had explained to the rank-and-file that there were SGI believers in the U.S. Armed Forces, and that some U.S. warships had Buddhist alters for SGI worship services, a fact that persuaded most to drop their opposition to aiding the United States.  In the same way the Women's Bureau and others were convinced of the need to make an international contribution during the Gulf War, today's Soka Gakkai leadership will be able to win over doubters within its ranks, Harada predicted.

{創価学会はかつて世界平和に尽力していた。
湾岸戦争の時、公明党は反対していたが、それでもなお日本は数十億を支援したのだ。
アメリカ軍にSGI信者がいた。そしてアメリカを助けるために自らの(反対)意見?を変えたのだ。と、創価学会の指導者は一般組合員に説明したと原田氏は笑いながら言った。
それと同様に、女性局やその他も湾岸戦争への寄付が必要であると説得された。
今日の創価学会のリーダーシップは組織の中で疑惑を抱くものたちを味方に付けることが出来ると原田氏は予測している}

友だちが一言この人って人を馬鹿にしているの?と言われました。
この文章を読んで気持ち悪くなったのは私だけでしょうか

最近は、遠藤文書及び公明党の事で幹部の方々と議論を交わしておりますが、皆さん口を揃えて言う事は、そんなことがあるんですか?また最高幹部に至っては、私には関係ありません、学会本部に聞いて下さいとの事。
公明党に関しては、色々事情が有るんですと、まるで他党の事のようにあしらわれ、そんなに色々あるなら公明党本部に聞いてくれとの事。
まあ、予想していた回答なので納得しています。
池田先生のお陰で正体を現して頂いた執行部の方々並びに公明党の先生方々感謝しております。
貴方たちのお陰でお題目をあげれるようになった事を感謝申し上げます。
最後に、相手のことがありますのであえて言えませんが、私の知り合いの最高幹部の◯◯◯に聞いた所、遠藤文書は本当であると。また、派閥があるとの事でした。
また、◯◯大学の◯◯に聞いた所、今回よりも以前から大反対の行動をしている為にでマークされているとの事。
今は、とにもかくにも正義の題目をあげてあげて行きたいと思います。
"いざ"という時には必ず馳せ参じる覚悟です。







 

貴重な話

 投稿者:共戦  投稿日:2015年 6月17日(水)13時06分59秒
  貴重な話、皆さん、ありがとうございます

彼等は自分が尊敬され、拍手を貰うとする
尊敬され、拍手されることが当たり前と思う

自分を尊敬しない、拍手しない人を傲慢と思い解任する

山本伸一は、自分が尊敬され拍手されることを求めただろうか?

否!
戸田先生の真実を1人でも多くの人に伝え、戸田先生が尊敬され拍手されることを求めた。

山本伸一がいない!

先生のように、もしかしたら先生以上に尊敬されたいと思っている人もいるだろう。

先生は言われた
戸田先生のことは知らないけれど、池田君が言う先生なんだから素晴らしい人なんだろうねと。

師匠を宣揚できる弟子になることを目指し、それを一番の誇りとされていた。

後ろに先生がおられることで自分に多くの人が拍手してくれていることに気がつかず、自分が拍手されていると思う弟子達

山本伸一がいない!

かつて先生がザトペックがライバルがいなくて、ストップウォッチを持って練習していた話をして下さった。

稀有な師の思想を混濁の世の中で実行して行くことは並大抵のことではない。

師匠の思想をストップウォッチのように自分で持って、それぞれの分野で実践して行くしかない。

三位房のような議員、幹部にお題目送りながら。

お題目を送らず、批判だけして行くと自分も同類、ソックリの人間になってしまうことを秋谷さんが教えてくれている

初めて政権入りする時、
先生は
危なくて見ていられない。
公明党はキャスティングボードでいいんだと言われていた。

慧眼でした。

先生の後ろ盾のお陰を忘れ、自分の力でここまで来たと思っているのでしょう。

ヘリコプターで、富士山の山頂に立っているようなもの。

高山病、起こしています

自分の力で一歩一歩登るならば、高山病にならないで済むのですが。

その努力を怠ってきたのでしょう

そして、その過ちは立場が違っていたら、自分も同じ過ちを犯すかもしれなかったと思う

おかしい!
間違っている!
ときずいた時、お題目送っています

この板のお陰でたくさんのきずきに出会え、たくさん、お題目上げています。

皆さん、いつも貴重な話、ありがとうございます
 

法華経の智慧30

 投稿者:まなこ  投稿日:2015年 6月17日(水)12時49分2秒
  遠藤: 方便品では、仏と仏とが成就した法を「諸法実相」と表現しています。天台はこれを一念三千の法理として展開し、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と説かれました。

名誉会長: そう。したがって、方便品の冒頭での仏智の賛嘆は、文底から言えば、南無妙法蓮華経の賛嘆にほかならない。そこに、私たちがこの部分を読誦する最大の理由があります。
 それでは、「妙法」という真実の「仏の智慧」を説き出した章が、なぜ「方便品」になっているのだろうか。

遠藤: なぜ「仏智品」でもなければ「真実品」でもないのか ---- 確かに、ここに方便品の核心があると思います。

須田: それを考えるうえでも、もう少し、方便品の説法の流れを追いたいと思います。
 仏の智慧を賛嘆してやまない釈尊に対し、一座の疑問を代表して、舎利弗が「ぜひ仏の真実の法を説いてください」と嘆願します。三回お願いして、やっと三回目に釈尊は応じ、説き始めようとする。

遠藤: その大事な時に、五千人の増上慢の僧尼や信者が座を立っていってしまいます。釈尊は、去る者は追わずで、構わずに黙って去らせます。

名誉会長: この「五千の上慢については、いろいろ論ずべきことがあるが、増上慢の人間は、一番大事な時にいなくなるものです。
 釈尊は、巌然と舎利弗に宣言する。
 「是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし」(法華経 p165)
 そして諸仏がこの世に出現した目的 ---- 「一大事因縁」とは、衆生をして仏知見(仏の智慧、仏界)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見の道に入らせることであったと教えるのです。

須田: このように説かれます。「諸仏・世尊は、ただひとつの偉大な仕事を目的として(唯一大事因縁を以っての故に)のためにのみ、出現される」(法華経 p166)と。
 そして、その「仏の出現の唯一の目的」である「偉大な仕事」の内容が、「開・示・悟・入]の「四仏知見」として明かされます。

名誉会長: 衆生の仏知見(仏界)を開かせるということは、衆生に仏智見がそなわっているということです。仏知見があるのは、衆生が本来、仏だからです。つまりこれは「衆生こそ尊極の存在なり」という一大宣言なのです。

遠藤: いわゆる「三乗方便・一乗真実」ということですね。
 「三乗」とは、二乗(声聞乗・縁覚乗)と菩薩乗です。乗とは、“迷い”から“悟り”へ運ぶ乗り物のことで、仏の教えのことです。声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。
 しかし、三つの別々の教えがあるのではない。仏の教えには、ただ「一乗」があるだけだというのです。「一乗」とは“唯一の教え”という意味です。それは“仏に成るための教え”であるから「一仏乗」とも言います。

名誉会長: 衆生の側から見ると、三乗という別々の教えを説かれているように見えるが、仏の側から言えば、ただ一仏乗があるのみだということです。
 「一仏乗」とは、全人類を仏にする、全人類を「開示悟入」させる教えです。

須田: 三乗は、一仏乗に導き入れるための「方便」の教えであり、仏の「真意」は一仏乗にあるということですね。
 方便品では、この三乗を開いて一仏乗を顕すという「開三顕一」について、過去の諸仏、未来の諸仏、現在の十方諸仏、そして釈尊自身に当てはめていきます。それぞれの中には、種々の大切な法門が説かれていますが、ここでは省略します。要は、釈尊も含めて一切の仏が教えを説く真意は、一仏乗にあるというのです。
 なお、開三顕一の説法は方便品で終わるわけではありません。人記品(第九章)まで続きます。法華経前半(迹門)の大テーマと言えます。
 

創大の花見教授

 投稿者:創大OB  投稿日:2015年 6月17日(水)12時38分25秒
  憲法を専門にしている
創価大学の花見常幸教授(創大副学長補)は、
今回の安保法制について何か発言しておられますか?
「安全保障関連法案に反対する学者の会」の賛同者リストには、
創大・創価女子短大の講師が3人掲載されていますが、
花見教授のお名前は見えません。

氏家 法雄氏  創価女子短期大学 非常勤講師
村上 信明氏  創価大学准教授
佐野 潤一郎氏 創価大学 講師(非常勤)
http://anti-security-related-bill.jp/list/list150611.html
 

これでも学者?

 投稿者:正義の走者  投稿日:2015年 6月17日(水)12時21分50秒
  宮田氏が自作の論文に追記をした。読者から指摘を受けたとのことで、日寛に「戒壇本尊書写」の論議があることを初めて知ったようだ。これだけでも学者として致命傷だと思われるが、その追記記事が、それに輪をかけて彼の学者としての資質を疑わせるものとなっている。彼は先の論文で、
「戒壇本尊を書写したという議論は、大石日応が初出であって、たかだか100年くらいの歴史しかない」
と断定し、「結論」にも
「弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊であるという議論は、大正時代になって初めて生じた議論である」
と結論付けていた。従って、本来なら誤りの指摘を受けたこの点(戒壇本尊書写の議論の有無)についてこそ、お詫び・訂正があってしかるべきであるが、氏は訂正するどころか、
「実際に日寛の書写した曼荼羅には戒壇本尊とは異なった図顕讃文が書かれていることについては何も言及がない。また日寛が「書写戒壇本尊」とストレートに書いているのに、大石日応が「此の御本尊(戒壇本尊)の御内證」を書写するとトーンダウンして述べていることの整合性も不明である」(追記文書)
などと記して問題をすり替えている。これが学者を名乗る者の姿勢だろうか。「ご指摘を感謝します」などとお茶を濁すのではなく、「弘安2年の戒壇本尊を書写した本尊であるという議論は、大正時代になって初めて生じた議論である」との私論は間違いでした、と正直に訂正するのが指摘をしてくださった方への礼儀であり、学者の取るべき態度ではないか。。
 このように氏は自らの誤認への訂正を一切しないばかりか、追記と称して「書写の議論」から「書写の実際」に話をすり替えているのだが、その追記にしても、氏はいったい何をもって「戒壇本尊とは異なった図顕讃文が書かれている」と断定しているのか、その根拠は示されていない。
 上記訂正と共に、追記の根拠も示すべきである。
 

「保身」の戒め ―― 師匠の言葉より

 投稿者:田舎丼  投稿日:2015年 6月17日(水)12時08分52秒
  ずるがしこく権力にすり寄っていく「保身の人」は迫害を受けない。
それは波が立たないからであり、風が吹かないからです。
               『青春対話Ⅱ』p.173


「保身」に走るならば、広宣流布を捨てて、権勢におもねるしかない。
この職業僧侶たちの「保身」の帰結が、法をねじ曲げ、無残な大謗法を犯し続けることになったのである。
…「広宣流布」を捨てて、「保身」が目的となれば、人間は規範を失い、欲望の奴隷となっていく。
               『新・人間革命』8巻・「宝剣」・p.180


御聖訓に照らして、三障四魔が競い起こらぬということは、広宣流布の戦いを放棄しているからである。
牧口は、そうした臆病な僧侶の、「保身」がもたらす罪悪性を、鋭く突いたのである。
               『新・人間革命』8巻・「宝剣」・p.182


地位の安定を考える生き方の根本にあるものは保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。
保身に走る者は、結局は恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるをえない。
               『人間革命』第12巻・68頁


戦時中も、宗門は保身のために法を曲げ、大聖人の御遺命を破り、軍部政府に迎合した。
そして、牧口先生と私が逮捕されるや、かかわりを恐れて、学会の登山を停止したのだ。…
戦時中、大聖人の仏法は、外敵によってではなく、臆病で、姑息な、僧侶の保身によって滅ぼされようとしたのだ。…
その中で、厳然と、大聖人の仏法の命脈を保ったのが、牧口先生であり創価学会なのだ。
          『人間革命』12巻「寂光」・文庫版p.354~355 戸田城聖の言葉

大難を一身に受けながら、命をかけて戦っている  ――  この釈尊を、ずるい大人たちは、ただ傍観するだけでした。
自分が痛い思いをしなければ、それでいい。自分が巻きぞえにならないよう、うまく立ち回っておこう ―― こういう卑怯な心であった。
戦時中、アジアへの侵略戦争に抵抗し、殉教した牧口常三郎先生を見殺しにした「卑劣な坊主」や「意気地なしの幹部」も、まったく同じでありました。
彼らは、牧口先生を守るどころか、反対に、かかわり合いを恐れて、権力にへつらったのであります。
          池田大作全集88巻p.13


「広宣流布」「国家諌暁」―― こう牧口先生は叫ぶ。
それに対して弟子たちは、「今の時期に無茶だ」「時期尚早だ」「皆、憲兵隊に連れて行かれてしまう」と、おびえた。
ふだんは「牧口先生とともに」と叫んでいた幹部が、「塩を振りかけられたナメクジ」よりも、だらしなくなった。
幹部だからといって、信用ができるとはかぎらない。
最前線の学会員のほうが、よほど信用できる場合がある。
         第13回本部幹部会・〈平成9年7月9日〉池田大作全集88巻p.143-144


大聖人が大難を受けられたのは、すべて私ども民衆のためであられた。
ゆえに大聖人は「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」(御書1450頁)  ―― もし、恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が受ける)二つ打たれる杖の一つは、自分がかわって打たれるべきではないか ―― と述べられている。
いかなる難があろうと、私は断じて負けない。 戸田先生の一番弟子の私である。 牧口先生の直系の私である。 純真な学会員を守るために、私は耐え、私は戦う。
しかし、私一人が戦っても、門下があまりにもふがいないのでは、広宣流布の未来は、どうなるか。立つべき時に立たない人間は、御書に照らして、「仏敵」となってしまう。
               池田大作全集88巻p.174


仏子のための献身、経文と御書に説かれた仏敵との戦い ―― それらを忘れ、また避けるのは卑怯な指導者である。
「仏法は勝負」と説かれるとおり、広布の敵と戦い、勝ってこそ、仏法のリーダーである。…
戦いを避けたのでは、存在する意義はない。
        第12回全国婦人部幹部会(平成2年6月8日)池田全集74巻p.381


大聖人は「法華経の敵と戦わなければ成仏はできない」と、御書の中で幾度となく言われている。
たとえば、…「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(御書1494頁) ―― と。
現在の私どもの場合でいえば、どんなに信心に励んできたようであっても、法華経の敵、謗法の者、正法誹謗の者と戦わなければ成仏はできない、ということである。
         創立六十周年祝賀の青年部記念幹部会・池田大作全集74巻・p.298 ~ 300
 

安保法制反対の動き~どうする創価

 投稿者:解説者  投稿日:2015年 6月17日(水)12時02分33秒
編集済
  47newsから

安全保障関連法案に反対する声明に賛同する学者の数が3千人を超えた。憲法研究者の「違憲」との指摘をきっかけに広がった動きは、学者の見解を軽視するかのような政治家の発言が出たこともあって、さらにボルテージが上がっている。
 「学者の言うとおりにして平和が守れるかとけんかを売ってきた。このけんかは買うしかない」と山口二郎法政大教授(政治学)が語気を強めた。分野を横断した学者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」が15日に東京都内で開いた記者会見。ノーベル賞受賞者の益川敏英氏も呼び掛け人になっている。
 

悩乱

 投稿者:ジンギスカン空軍中佐  投稿日:2015年 6月17日(水)11時07分9秒
  時々変なのが来ますね。

http://www.peacedepot.org

 

(無題)

 投稿者:うらら  投稿日:2015年 6月17日(水)10時41分38秒
編集済
  「議員は裏切るよ!」
「議員はキツネかタヌキだ!」  2001年  池田先生談。
北側議員にはこの言葉の意味は理解できなかったようですね。

追記  ジンギスカン空軍中佐さまの遭われている状況も他の事合わせ、婦人部幹部に話しておきましたからねー。びっくりしてました^ ^
 

名前入りモンブラン万年筆

 投稿者:夢幻童子  投稿日:2015年 6月17日(水)10時25分36秒
  講演会終了後、小林節教授と懇談した折、「先生から正義の言論を」ということで名前入りの万年筆をいただいた。と嬉しそうに語っていたのを思い出します。後日、三越で値段を聞いてびっくりしたそうです。  

小林節教授

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 6月17日(水)10時16分30秒
  立ち位置はぶれていません。
ぶれたのは学会と公明党

小林節教授が学会を見切ったのは、池田先生の周りにいる
幹部の不誠実な対応、振る舞いだと聞いています。
 

北側さんと小林節教授

 投稿者:夢幻童子  投稿日:2015年 6月17日(水)10時11分53秒
  小林節教授は、浜四津敏子公明代表の時代に憲法の政教分離について、公明主催の講演会で講演されていたので婦人部にはファンがいると思います。今回、公明党の北側副代表と小林節教授(現在は慶大名誉教授)の意見が分かれました。国の安全保障は統治行為の為、政権(権力)の側に居る北側さんと在野(学者)に居る小林さんは、立ち位置の違いなのでしょうか。公明党が野党であっても今と同じなのでしょうか。学者は学説を曲げたら学者ではありません。このあたりの説明があればと思います。  

ジョーカーさん

 投稿者:+ドライバー  投稿日:2015年 6月17日(水)09時21分45秒
  お早うございます!m(__)m

>この奥にあるのは「保身の一念」であると私は感じます。 保身の一念は信心ではありませんので不可なのです。

本当、いざと言う時に人間の本性が、あからさまに出るもんです。
どんなに表面上、うまくアゴをたれようとも土壇場になると逃げる。
最も信頼出来んし、情けないし、哀れ!
信頼してた人に裏切られる事もある。
そー言う人間
限ってミョウモンミョウリの風にふかれ安い!

 

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