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【戦争の記憶】
見送った特攻機は還らず…国守る覚悟、当たり前だった 元学徒兵・弓場達二さん(92)
20年の正月、台湾の「第八飛行師団司令部」付を命じられた。養成所時代に仲が良かった台湾好きの国士舘高等拓殖学校(現国士舘大)の友(沖縄・宮古島で戦死)を思い出した。
広島から5隻の輸送船団で迂回ルートを使って台湾へ向かったが、途中、僚船1隻が敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈。海に放り投げ出された乗組員たちを助けることもできず、4隻は四方八方に逃げた。大勢の戦友を見殺しにせざるを得なかったことに、残酷さと非情さを感じた。
台湾到着後は師団司令部から花蓮に駐屯の「誠第17飛行隊」へ赴任した。「誠」が付く、つまりは「特攻隊」の基地だった。そこでは特攻のために編成された地上勤務隊の指揮にあたったほか、飛行訓練中に墜落した機体や飛行兵の遺体捜索などにも奔走した。
そして、米軍の沖縄侵攻に備え、輸送機で台湾から沖縄・石垣島へ転進。3月26日、大挙して海上に現れた敵艦船の沖縄上陸を阻止せよとの特攻命令が下る。「夜を徹して整備や大型爆弾の装着を終え、暁闇の空に飛び立つ十数機の特攻機を見送った」。還ってくる者はなかった。
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沖縄陥落後、再び赴任した台北の特攻隊基地で終戦を迎えた。敵からの攻撃を受けながら、命からがらの台湾への転進。「羅針盤だけを頼りにした老朽船でよくたどり着けたものだ」と振り返り、今でも首をかしげる。
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