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樋渡啓祐前武雄市長「小泉さん?バッカじゃないの」 敗軍の将、胸中を明かす 佐賀

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樋渡啓祐前武雄市長「小泉さん?バッカじゃないの」 敗軍の将、胸中を明かす 佐賀

 独断専行型で敵をつくる政治手法から「九州の橋下徹(大阪市長)」と称されたこともある樋渡啓祐前武雄市長(45)。今年1月の佐賀県知事選で苦杯をなめたが、地方創生への意気込みはいまなお旺盛だ。乾坤一擲の勝負に出て敗軍の将となった両氏に共通するのは、恋々とポストに執着しない諦めの良さか。樋渡氏が、選挙後初めて、思いの丈を語った。 (九州総局 奥原慎平)

 橋下さんから、「よくもまあ、こんなに敵を作りますね。その闘争本能はどこから来るの?」と尋ねられたことがあります。敵を作りながら、よく武雄市長選で勝てたなと思います。

  

  《独断専行型の政治手法は、同じ昭和44年生まれの橋下徹大阪市長と似ているとされる》

  

 なぜ敵を作るのか-。弱小自治体の武雄市が全国区になるには、メディアの注目を集める必要があります。敵を作り、行政を劇場化するとメディアが取り上げてくれるから。ふだんはこんなに穏やかな性格なんですけどねぇ(笑い)。

 同い年の橋下さんは心の同志です。彼が大阪府知事2年目の時、僕が府議会に講師として呼ばれたのが最初の出会いです。

 「区長は公選制にすべきだ」「府市の二重行政はおかしい」とか、僕が総務省から出向していた高槻市と、大阪府がよくケンカしていたので、実務家として橋下さんに伝えました。

 「大阪都構想」は、その時の会話が源流になったと思っています。

 都構想をめぐる住民投票で橋下さんが負けたのは「税金を3割下げる」と言わなかったことかな。二重行政が解消した分だけ税収は増える。「3割下げると言った方がよい」と伝えていたんですけど言わなかった。政治には一定のポピュリズム(大衆迎合)が必要だと思ったので。

  

  《橋下氏は今月14日、安倍晋三首相と3時間にわたって会談し、国政への転出を勧められた》

  

 橋下さんは政治家を辞めると言ったら辞めるでしょうね。僕も国政には興味はありません。ただしこればっかりは(周囲の)風のようなもので、個人の意思とは関係がない。もともと、佐賀県知事選も出るつもりはなかったが、乗せられてしまった(苦笑)。出ると決めていたら数年前から笑顔を振りまいてましたよ。

  

  《国政への挑戦に含みを持たす樋渡氏。市長時代は独断専行であり、時にポピュリズムでもあった》

  

 政治手法は、小泉純一郎元首相のやり方を徹底的に研究しました。

 高槻市に出向中の平成17年、武雄市長選に出馬しようと考えていたとき、小泉さんが「郵政解散」を打ち出した。「殺されても、やる!」との言葉は、周囲の空気を一変させました。武雄市民病院の民営化をめぐるリコールの時などは、完全に小泉さんの手法です。

 死ぬか生きるか。看護師に囲まれて水をかけられたり、家に白菊が届いたこともありました。

  

  《小泉元首相を手本にしたという樋渡氏だが、反原発運動に血道を上げる現在の小泉氏をどうみるか》

  

 今の小泉さん?正直いうとバッカじゃないかと思いますよ。(現実無視で)常軌を逸した人が(自らの言動に)踊っているかのようです。しょせん「その程度か」とがっかりしました。

 あれだけ大騒ぎした郵政民営化も何も世の中を変えませんでした。

 結局、上っ面だけ取り繕うことに長(た)けたメッキだけの人なんでしょうね。完全に裏切られました。

  

  《知事選で負けたら、落ち武者の心境になるかと思っていたとか》

  

 負けた翌朝には「起業しよう!」と決め、まちづくり会社「樋渡社中」を設立しました。幕末に坂本龍馬が「亀山社中」をつくって“日本を洗濯”したように、「樋渡社中」で日本を元気にしていこうと思ったからです。

 負ければ誰も僕に見向きをしないと思っていました。地元メディアも相手にしてくれません。けど、ありがたいことに仕事の依頼は80件近く来ました。

 講演を受けたり、「地方創生アドバイザー」として8つの自治体から委嘱を受けています。

 長崎県平戸市では観光の目玉について、富山県南砺(なんと)市では地方創生の全体計画を助言しています。

 富山県氷見市では、来年度の職員採用の面接官となりました。(自分のような)とんがった、起業家タイプの人間を選びます。

 地元企業が活躍しないと地方創生はかけ声に終わりかねません。中小メーカーなどへ商品開発のアイデア提供もしています。

 こういったことができるのは、ベンチャーマインドを持った人間が、市長をやっていたからなんだと思います。

 だけど、僕は持続可能な組織を作るのは苦手だから、いつまでもそうした市長が舵(かじ)取りを行うと、まちは“動脈硬化”を起こしてしまう。市町村合併で武雄市が誕生して来年で10年になります。今の時期は、温厚で対話を重んじる小松政市長のようなタイプがいいんじゃないかな。

 僕が武雄市を創業したとすれば、上場を目指すのが小松さんの役目です。

  

  《不登校だった学生がなぜ政治の道に》

  

 県立武雄高校時代は不登校気味だったんですが、高校2年の時に転機となる出会いがありました。

 5月に高校の講演会で、隣の西有田町(現・有田町)の町長が招かれて、その人の話がめちゃくちゃ面白かった。棚田ウオーキングや車椅子マラソンなど、今でも通用する先進的な街おこしの取り組みを、身ぶり手ぶりで面白く説明するんです。初めて格好良い大人を見つけた思いです。

 質疑応答で「僕は協調性もない。こんな自分でも首長(くびちょう)(=しゅちょう)になれますか?」と質問したら「できます!」と。それで将来は首長になると決めました。

 人脈と経験を積むために中央官庁で仕事をする。それには東大に入学するのが近道だ-。ゴールポストを決めてその逆算で考えるのが僕の生き方です。

 相手の望むことを実現する-。それはNHKの集金業務という学生時代のアルバイトが原点でした。

 東大では周りが優秀過ぎた。授業も面白くない。なにより合格するだけで燃え尽き症候群にもなってしまった。寝たきり、引きこもり状態の僕がある日、家のドアを開けると、NHKの集金人がいました。

 その人は僕の身体をガッとつかんで「ハイ、合格!」と。認められたようでうれしく、集金のアルバイトを始めたんです。

 歩合制で月に300万円稼いでいました。

 成功のコツは営業しないこと。「お金を払ってください」は禁句です。相手は何を言ってほしいか、何を望んでいるかを考え、子供の年齢や髪形の変化などを話題にするんです。

 このときの経験が、内閣府で沖縄県の普天間基地移設をめぐる地元住民の聞き取り調査や説得をした際に生きました。

 ですが基地移設をめぐっては、自民党、地元住民など双方から突き上げをくらい、ノイローゼ気味になってしまった。JR中央線国分寺駅(東京)でホームに列車が入った瞬間、ふらふらと線路の方によろめき、後ろの人に羽交い締めにされて助かったこともありました。

 数日後、沖縄の米海兵隊司令官との会議の場で「もうダメだ、倒れそうだし、正直、死にたい」と愚痴をこぼしたんです。突然、司令官が机を叩(たた)いて、「××××!」と叫ぶんです。汚い言葉で、政府間の会議では禁句の中の禁句ですよ。

 「お前はまだいい。おれたちは違う。銃で撃たれたら死ぬんだぞ!」。確かに知り合いの海兵隊隊員で戦死した人もいるんです。

 司令官は「人生はミュージカルだ!だから今は悲しい役を演じていると思えばいいじゃないか」と言ったんです。短い言葉だけどストンと腹に落ちました。

 地元の反対活動家に対しては、言いたい放題でした。「基地は要らない。だけど補助金はくれでは、お前たちはわがままだ」。でも僕が離任するとき、那覇空港に300人も見送りに来てくれました。

  

  《佐賀県は玄海原発の再稼働やオスプレイの佐賀空港配備など国政に絡む案件が山積している》

  

 僕が知事だったら、原発再稼働もオスプレイ配備も、とっととやっていたでしょうね。「樋渡は官邸の言いなりだ!」と批判されるだろうけど、まったくの逆で、九州新幹線長崎ルートの「全線フル規格化」実現などの取引材料にしますよ。官邸を言いなりにするんです。

 政治の世界では、対話を大事にしようという朝日新聞的な論調が幅をきかせています。だけど僕は、オバマ大統領のように対話が大事などという政治家は信用していません。

 トップの仕事はまず、決めることなんです。対話は選挙の時だけで十分。対話ばかり重んじたら、自治体も国も生き残れない。

 選挙で負けても、こんな生き方ができるというメルクマーク(指標)になりたい。市長時代とは違う意味でワクワクしています

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 昭和44年、佐賀県武雄市生まれ。県立武雄高、東大経済学部卒後、総務庁(現総務省)入庁。同省大臣官房秘書課課長補佐の時、辞職。平成18年、武雄市長選に史上最年少の36歳で当選、2期8年8カ月在職。今年1月の佐賀県知事選では自公両党の推薦を受けたが落選。「(農業政策は)支持されたが候補者は支持されなかった」(甘利明・経済再生TPP担当相)との評も。現在、地方創生に関するコンサルタント業などを手がける「樋渡社中」を切り盛りする。

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 市長時代、市立図書館をTSUTAYA(ツタヤ)を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブに運営を託し、小学校教育にタブレットを導入するなど先駆的な行政手腕によって、地方の温泉街に過ぎない武雄市の知名度を一躍、全国区に押し上げた。特に、年間5億円の赤字だった市民病院の運営を一般社団法人に委ね、年数億円の黒字転換、職員数5倍、手術件数10倍以上に再生させた実績は高く評価されている。

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 上司には刃向かい、部下には優しかったと微笑む樋渡氏でしたが、眼光は今でも鋭いものがあります。優しさだけでは役所全体を引っ張れません。市長時代は部下にも厳しかったんだろうなと思わせる雰囲気が漂っていました。 (慎)