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私のインターネット年表

最近、年表ブームのようなので自分も書いてみた。

1979年

福島県相馬市で誕生。9.11生まれ。

1985年 ファミコンとの出会い

両親に泣きついてファミコンを買ってもらう。最初に買ったソフトは「忍者じゃじゃ丸君」

1987年 パソコンとの出会い

友達の家で初めてパソコンに触れる。機種は憶えていない。連載中の『孔雀王』が置いてあったのを憶えているから、この年で合っているはず。

1989年 昭和の終わった日

家族旅行でいわき市のハワイアンセンターに行ったら、張り紙が貼ってあって、「今日のフラダンスは中止します」と書かれてあった。理由も書いてあったけど、家族の誰もこの2文字の漢字の意味が分からなかった。家に帰ってテレビをつけた時、初めて2文字の意味が分かった。どの番組も緊急特番で、楽しみにしていた「おそ松くん」が見られずに泣いたのを憶えている。

1991年 激動の国際情勢を学級日誌に書いた

湾岸戦争が始まる。小学校の担任の先生がテレビをつけてくれて、開戦の様子をリアルタイムで見たのを憶えている。イラクがイスラエルにスカッドミサイルを撃ち込んだ光景も目にした。

祖父の家でアイスを食べながらテレビを見ていたら、「ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が健康上の理由により執務不能となった模様」という緊急テロップが流れた。モスクワからの中継で戦車が集まってきている光景が流れて、白髪のおじさんが戦車の上に立って演説している様子が流れてきた。

この頃から連載中の漫画『沈黙の艦隊』を読むようになった。小学校の学級日誌に「冷戦終結後の日米安全保障条約の今後と核戦略について」という内容の事を書いたら、担任の先生の依頼で学級会で発表することになった。この頃から架空戦記にハマりだして、『紺碧の艦隊』なども読んでいた。一番好きだったのは『レッドサン・ブラッククロス』。

1992年 宇宙人の探索を開始

月刊『ムー』の愛読者になり、毎月定期購読していた。中学校に入学すると、ヨハネ黙示録で予言された666の獣がアメリカ大統領になり最終戦争が起きると学校で友人達に話した。学校の近くに宇宙人の痕跡がないか、友人達と放課後に発掘調査を開始した。

1993年 帝都物語とクリスチャンとの初恋

中学校で私の呼びかけで劇団ROMAN座を結成。中学校の文化祭で『帝都物語 大東亜編』を上演した。昭和20年、満州国の首都・新京ではソ連軍の侵攻に備えて地下に要塞を築く計画が立てられていた。しかし、新京の地下では鬼の出没に悩まされていた。魔人・加藤と満鉄映画部の甘粕正彦、そして風水師・黒田茂丸らをROMAN座のキャストが演じた。

その頃、クリスチャンの同級生に初恋をした。宝塚が好きな女の子。私は自分の気持ちを伝えようと思って、バレンタインデーに「海外のバレンタインデーでは男から渡すこともあるそうです」と学校の中でクリスチャンに鉢花を渡した。一度は受け取ってくれたものの、学校中の噂になり、翌日には返された。その後もその子に手紙を送ったり、帰りを待ち伏せしたりしていて、今にして思うとストーカーまがいなことをやっていた。鉢花は完全に枯れるまで1年間自宅で育てた。

月刊ムーの読者コーナーに私の名前と住所を載せて文通友達を探した。オウム真理教の現役信者や元信者と仲良くなった。そのメッセージが葉書で送られてきた時に、両親に内容を読まれて、「宗教はまだ早すぎる」「オウム真理教は入信者が帰ってこないなど問題を起こしている」と言われて、オカルト趣味を断念せざるをえなかった。

1994年 パソコンがついに自宅に!生徒会長選挙で落選

この頃に両親に自宅用のパソコンを買ってもらった。FM TOWNS。とはいえ、当時のパソコンに出来ることは少なく、パソコン通信のホストも市内にはなかったため、専ら一太郎とゲーム用途に使うことが多かった。

生徒会長選挙に立候補した。当初は私1人しか立候補者がいなくて無投票で生徒会長になれそうだったけど、学校の先生が対抗馬を擁立して、選挙の結果、私は落選した。

1995年 ROMAN座の後輩からの告白とオウム真理教

中学卒業の時、ROMAN座に所属していた後輩の子から告白された。「卒業式に第二ボタンを受け取って良いですか?」と聞かれて、「いいですよ」と答えた。でも、卒業式が終わった後、約束の場所に行っても後輩の子は現れなかった。後輩の子に電話してみると、「やっぱり距離が遠くなるからつきあうのは無理だと思って…」とのことだった。乙女心は理解不能だと感じた瞬間だった。

高校受験の合格発表日、自分の受験番号を見つけて喜んで自宅に帰宅したら、家族が真剣な顔でテレビをみていた。「東京の地下鉄に毒ガスが撒かれたらしい」と聞かされた。お祝いムードではなくなり、その日は真剣にテレビを見ていた。疑いの目を掛けられたのは、私が文通していたオウム真理教だった。そのあと警察庁長官が狙撃されて世の中が騒然としていた。サティアンに警察が入っていく様子をテレビで視た。

高校では演劇部と出版局(新聞部)に所属した。演劇部は新入生が私しかいなくて、演劇大会では学校を爆破する主役を演じた(古い脚本でヴェトナム反戦がテーマだった)。新聞部では男女共学化を訴える記事を書いた。

私が発起人になって高校生雑誌創刊計画がスタートした。相馬高校と相馬女子高校を中心に50人くらいのメンバーが集まった。

1996年 クイズ選手権とパソコン通信と初めての恋人

演劇部の研修でシェークスピア「真夏の夜の夢」の妖精王オベロン役を演じて、双葉高校や浪江高校など現在の避難区域の高校生と仲良くなった。人類が核戦争で滅亡した後、唯一生き残った主人公が自分のドッペルゲンガーに悩まされる「理想社会」という脚本を書いて上演した。

新聞部では、火力発電所と原子力発電所の安全性に関する特集記事を相馬高新聞に書こうとした。途中で顧問の先生から「最初に発電所の危険性ありきの書き方は中立ではないと思う」というツッコミが入り、現在の相馬・双葉地区の原発・火発の稼働状況と今後の展望を紹介する記事にまでトーンダウンした。

早押しだけ練習して参加した日本テレビ「高校生クイズ選手権」の東北予選で優勝して、全国大会に出場した。全国大会では、3回戦で文字のブロックから俳句を組み立てるという体力勝負なクイズが出て、俳句はわかったけどブロックが崩れ落ちて敗退した。

パソコン通信を始めた。相馬市内や隣接区域にはホストがなく、いわき市や郡山市の草の根BBSのホストに電話を掛けて接続した。当時、ハンドルネームは「春蘭」という名前で参加していた。みんなでオフ会をやったりして楽しかった。

福島県高等学校新聞連盟(県新連)の合宿中に、部屋に遊びに来た勿来工業高校の女の子から「好きだった片思いの人に似ている」と告白されてつきあうことになった。一緒に仙台の光のページェントを見に行ったりした。ただ、会話が噛み合わず関係がギクシャクしがちだった。関係がギクシャクした時に女の子から「ホテルに行く?」と言われた。当時の私は純粋無垢な童貞だったので、「ホテルに行くのはよくよく考えてから、将来一緒になれると信じた人と決めたときに行った方がいい」と力説してしまった。数日後に「別れようと思う」と彼女から電話が掛かってきた。

1997年 酒鬼薔薇聖斗とCivilization2

酒鬼薔薇聖斗の事件が日本中を震撼させた。酒鬼薔薇聖斗の本名がパソコン通信の草の根BBSにも流れてきた。顔写真も出回ってきた。

筑紫哲也のニュース23で、「ぼくたちの戦争'97」という高校生を集めた生放送の討論会をやりたいと呼びかけていた。「東京近県の高校生に限ります」と番組では言っていたけど、私はTBSに「東京近県の高校生しか集めないのはおかしい」という手紙を送った。間もなくテレビ局から電話が掛かってきて、私の番組出演が認められた。その番組で1人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と発言して、日本中で様々な議論を巻き起こした。

高校生雑誌創刊計画は、リクルートの個人情報誌『じゃマール』で関東メンバーの募集を開始した。朝日新聞の記者からも「教育面の記事にしたい」と言われて、IBMホームページビルダーを渡された。しかし、主要メンバーが受験で忙しくなってしまったため、計画は頓挫した。計画を手伝ってくれていた埼玉メンバーの女の子とつきあうことになった。

私も高校3年生になって受験が近くなっていたけど、受験勉強よりもパソコンでCivilization2をプレイすることに多くの情熱を注いだ。自分でマップやシナリオを作るのが好きだった。自作の日本マップも作って、第二次世界大戦の終結が遅れて分割占領された日本で、日本民主主義人民共和国と日本国が戦うというシナリオを作ってゲームバランスを調整したりするのが好きだった。結局、Civilizationは受験で東京に出発する前日までプレイしていた。

1998年 大東文化大学と自由大学

大学受験では国際基督教大学と大東文化大学を受けて、国際基督教大学は落ちて大東文化大学は受かった。埼玉の彼女の隣町の大学だし、溶血性貧血が再発したら助からないと聞いているから、彼女にとっても良いかなと思って大東文化大学に進学することにした。大学のパンフレットに「私達はビッグ東大です」と書かれてあってコンプレックス丸出しで恥ずかしかった。埼玉の彼女とは入学後、数ヶ月で別れてしまった。

学部は国際関係学部の国際関係学科。アジアの主要な地域を中心にコースを選べるのだけど、南アジアコースを選択した。インドが21世紀半ばには超大国として台頭してくると思ったからだ。南アジアコースを決めた1ヶ月後くらいに、インドは核実験を行い核兵器の保有を世界に宣言した。衝撃を受けた。

サークルは雄弁会に入った。雄弁会の活動は週3回あって(弁論局、ディベート局、研究会)、それ以外にも全関東学生雄弁連盟という関東の20個くらいの大学の弁論部で構成するインカレがあって、そっちに顔を出すのも大変だったけど、尖った人達と議論し合えたので良かったなと思う。全関東学生雄弁連盟は全体的に保守派な人が多くて、左派よりな私はよく批判を食らったけど、最後はみんなで飲む感じで和気藹々としていた。

大学のコンピュータルームのパソコンは自由に使うことが出来た。当時の大学のパソコンはWindows NTが入っていた。ネットに常時接続出来るのは夢のようだった。自宅に帰ってからも大学の外部回線があって、そこに電話を掛ければプロバイダ不要でネットが出来た。ただ、大学の外部回線は8回線しかなかった。23時からのテレホーダイになる前、22:45には既に奪い合いの状況になっていたので、22:30頃には繋げて一晩中専有するようにしていた。

当時はまだネットも牧歌的な雰囲気があったので、学生が個人で開設したWebサイトは大学の公式ページからリンクを張ってもらうことが出来た。GooやInfoseekなどの検索エンジンで情報を得ることが中心だった自分もWebサイトが作れないかなと思って、ホタルを使ってみた。ホタルは当時出ていたWebページ作成ソフトで最もマシなタグを生成するソフトだったと思う。それで「齊藤貴義の学問ホームページ」というサイトを作った。自己紹介の他に「自由大学」というコンテンツを作った。自由大学は誰もが自由に講師になって講義をアップできるサービスを目指した。今のオンライン教育の走りみたいなもの。自由大学は最大10人くらい講師がいた。最初はジオシティーズに開設したけど、ミラーは大学に置いた。ほかに雄弁会のサイトも管理することになった。

同じ学部のクラスメートを中心に、自分が呼びかけ人になって「新世界秩序研究会」(ちつけん)という勉強会も立ち上げた。新世界秩序研究会は文明の衝突後の国際関係を考えていく自主的な研究会で、10人くらいでレジュメを発表したりしていた。渉外局も置いていたし、この研究会を中心に他大学に呼びかけていく構想もあった。

1999年 大学中退 そして東京へ

この頃、海外でGoogleという検索サービスが注目を集めているという記事を読んだ。私もGoogleを使ってみたけど、日本語を入力すると文字化けを起こした。ただ、アダルトな英単語を入力すると非常に素晴らしい精度で検索結果を返してくれた。Googleが日本に上陸したら脅威じゃないかと思ったけど、自分の周囲の知人は誰もGoogleを知らなかった。

大学でクラスメートの女性が好きになったけど、瞞されていたことを知ってからは積極的に大学には行かなくなっていた。大学のゼミで私は日本の戦争を美化する軍国主義者だと留学生から抗議を受けた。大学2年生になってからローンを組んでノートパソコンを購入したため、ローン返済のために国語科の塾講師のアルバイトを始めた(時給4000円くらいだったかな…)。もう大学には雄弁会の活動くらいしか行く機会がなくなり、3年生への進級要件単位を満たさないことがわかってから大学の中退を決めた。親からは学費の他に仕送りを月15万円もらっていたので、「お前は大馬鹿者だ」と言われた。大馬鹿者でも大学に通う気力がなくなったし…。

とりあえず東京に出てみようと思った。東京で自分の実力で這い上がってみせると意気込んでいた。新宿の不動産屋さんに行って、中野の風呂無しトイレ共同のアパートを紹介してもらった。家賃は4万円。天井からゴッキーが振ってくる感じだった。

2000年 板橋の総合病院・朝日新聞東京本社・八王子の選挙事務所

大学の先輩から紹介してもらった板橋の総合病院で夜間外来の受付のバイトを始めた。先輩の話では「看護婦とつきあえたりする」ということを聞いていたけど、けっこう激務で、救急隊からの電話も取らないといけないため自分の対応が遅くて死んじゃう人とか出てるかもしれないし、看護師からは足で使われ、医師からは弁当の注文を受けつけて、何か職場が好きになれなくて短期間で辞めてしまった。

その後、大学の雄弁会の友人の紹介で、朝日新聞東京本社の新卒記者採用試験の事務のバイトを始めた。記者の採点した筆記試験を集めたり、合格者に「おめでとうございます。次の試験は○月○日の…」という電話を掛けたり、面接の時に名前を呼んでブースまで案内したりする係だ。短期間だけど、けっこうな収入になった。

同じく雄弁会の友人の紹介で、八王子の選挙事務所で運動員を募集しているというので、衆議院選挙の手伝いを泊まり込みで行った(泊まり込みの宿舎は「タコ部屋」と呼ばれた)。自民現職が有利で、創価大学など学会の勢力が強いなかでの選挙運動だったけど、勝利をつかむことができた時は感動した。

長くなってきたので、この辺で…

次はWeb企業を渡り鳥してきた自分の思い出話ですが、聞きたい人がいたら書きます。