
サラが店を手伝い始めてまもなくの、正月の写真です。
(あれからもう、どれ位経ってしまったんだろう。もう思い出せないくらいになりました)
昨日の流れから、サラのことをもう少し書く。
ちょっと長くなると思う。
人のことは、同じ波動(周波数)にいなければ、正しく見えないものだ。
正しくは分からない。
同じく、自分のことも、同じ波動にいる人でなければ、正しく見てもらえない。
正しく分かってもらえない。
私は、自分の「良さ」を知っている。(知っていた)
決して、優秀な、特別優良な自分ではないけれど。
私は、自分の愛すべきところ、素敵なところ、誰にも負けない私だけの良さ・魅力を、きちんと知っていた。
でも、それを正しく理解してくれる人、正しく受けとめてくれる人、言葉で正しく表現し誉めてくれる人には、残念ながら一度も出会うことはなかった。
つまり、誰も私の見てほしい、私の誉めてほしい素敵なところは、見てくれなかった。
いや、多分誰も分からなかった、気付かなかったのだろうと思う。
人生を見つめる視点が、みな私とは違っていた。
人生で出会った人たちは、みな私とは波動が、周波数が違ったのだ。
だから、私はずっと、「人生はつまらないものだ」、「寂しいものだ」、「孤独なものだ」と思っていた。
だが、何故だかサラには、私のことがよく見えたようだ。
お店のことも、「こんな素敵なお店は、どこにもありませんよ」と繰り返しいつも誉めてくれていた。
サラは、次第に私のお店や、日夜一人孤独に頑張っている私のこと(姿)を、彼女が感じているままに語ってくれるようになった。
彼女は、私以上の見方で、私と私のお店のことを感じ、理解し、肯定してくれていた。
私は、人生で初めて自分を、自分のお店を、客観的な言葉で納得できるように人から伝えてもらった。
とても嬉しかった。
私は、「自分の愛の全て」を表現するために店を開いていた。
私には、勤め人では表現することができなかった、どうしても実現したい自分の「愛や夢やこだわり」があった。
だから、私は誰の力も借りず、理解者や協力者もなく、ただ一人でその自分の思いを噛みしめながら、その思いを実現するために店を開いた。
私は、サラの言葉に、心から満足した。
彼女が、私のことを初めて正しく理解し、言葉で初めて正確に表現してくれたからだ。
彼女には、自分の感じる直感の世界を、「言葉で正確に語れる才能」があった。(ある)
それは、私が求めていた世界だった。
私の必要としていたものだった。
私は、外側からの、客観的な、冷静な批評・肯定を求めていた。
それも、私の納得いくような正確な言葉で。
でも、私はそれが手に入るとは思ってはいなかった。
そんな人がこの世にいるとは思ってなかった。
既に諦めていたとも言える。
自分の真実は知っていたのだけれど。
店を始めてから、既に2年が経過していた。
だが、誰も私と、ピントが合ってはいなかった。
私は、自分にとても厳しい人間なので(いつも真剣なので)、お世辞やおべっかは必要ない。
私は、既に自分の求める「精神的なレベル」に達したからこそ、店を始めていたのだ。
自分のことは、自分が一番よく分かっている。
だから、トンチンカンなコメントも困る。
私の持っている世界を、私の何の説明もなく、一人で理解する能力、そしてそれを正確に言葉で語れる能力のある人を私が求めていたことは、今だから語れる。
手に入ったから、語れることだ。
私は、私と同じ感性、人生に対する真面目さ、自分のことを正確に捉える真剣さ、そして、自分の愛や夢・思いを人生で実現することの困難さを心から知っている人、つまり人生の挫折をたっぷりと味わったことのある人、お子ちゃまではない真の大人(本当の人間、人生の本当の苦労のわかる人等の意味)、そんな私の精神レベル、人生でしてきたことのレベルと全く同じ人以外、私は求めてはいなかった。
生意気だけど、私の真実だから仕方がない。
だが、そんな私の全ては、私の思いは、彼女には全て伝わったらしい。
私がひと言も何かを説明しなくても。
私のしていることが、私の夢が・愛が・思いが、私の過去が。
サラには、私のお店の、私の全てが見えたのだと思う。
そしてサラは、やがて私の店を手伝うことになった。
彼女が、私のしてることに連なることを希望したからだ。
私の愛と夢と人生と、サラの愛と夢と人生が重なっていた。
彼女と私は、色々な面で人生がとても似ていた。
シンクロしていたのだ。
生い立ちや人生の経過、信仰的(信条的)なことがらも含めて、人生に対する思いの全てが。
私は、サラを、「正常な人」・「正しい人」だと思った。
だが、私はずっと、人生には「正常な人がいない」と思っていた。
ていうか、私はずっと、「自分の感覚(感じ方)は何かがおかしいのかもしれない」、「自分は狂っているのかもしれない」、「間違っているのかもしれない」、「異常なのかもしれない」と思っていた。
だって、話の通じる人がこの世にはいなかったのだから。
だから、私は、サラによって救われた。
そうでないと、私は本当に一生浮かばれなかった。
サラのお陰で、私は初めて外側から自分のことを肯定してもらい、自分の人生を、自分の実像を統合することができた。
自分の世界を正しく理解してくれる人に出会えることは、本当に幸せだ。
自分を、自分の人生を、心から肯定することができるからだ。
正しく肯定されるということは、味方がいるということは、孤独ではないということだ。
正しく理解されないと、味方がいないと、たとえ強がりを言ったところで、結局は孤独で一人ぼっちだ。
そして、私もサラの良さ、サラの繊細さ、サラの感受性の豊かさ、サラの愛が・夢が・思いが、サラのかけがえのない魅力がよく分かる。
サラの見つめている世界は、私の見つめている世界と同じだった。
ていうか、彼女が私を信頼し、とにかく私に合わせよう、私を信じよう、私の全ての力になろうと決めたからかもしれないが。
私の力になることが、私を救うことが、「自分を救うことになる」、と彼女は直感したのだと私は思う。
やはり、彼女にとっても、私が彼女の「分身」であり、「彼女自身」だったのだろうと思う。
自分の「分身」を現実に引き出すということは、本当に幸せだ。
一人で悟りを開くよりも、どんな地位や名誉や満足を得るよりも価値があり、意味がある。
シンクロした自分の分身(自分自身)を、自分の人生に出現させると、人生には孤独がなくなる。
何故なら、自分の感性・感覚・思いなど、自分の全てが肯定できるからだ。
その体験、その感触、その波動は、私にとっては本当に人生で初めてのことだった。
本当にありがたいことだ。
この地球で、この宇宙で、孤独で迷子になっていた私が、サラによって救われた。
心からの「無条件の愛」(味方)は、本当に有り難いものだ。
今も変わらずに、サラには感謝しています。
本当にありがとう。