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日本の陸海軍軍人の一部は、1945年の敗戦後もアジア各国で“戦い”続けた。かつての敵である中華民国にも、台湾での防衛力強化に貢献した。その不思議な関係は知られていない。
日本軍撤退後、中国本土では中華民国政府と中国共産党の間で第2次国共内戦(46−49年)が勃発した。中華民国の敗北が濃厚になった48年から、米国は台湾への援助を縮小する。そこで民国軍を支援したのは旧日本軍人だった。
終戦時に駐蒙軍司令官だった根本博中将は、49年に本土を制圧した共産軍が台湾沖の金門島に侵攻した際に、中華民国の軍事顧問として現地指揮官に助言をして撃退に成功した。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次(やすじ)大将のグループは、私的に軍事顧問団を結成。現地に49年から68年まで断続的に100人ほどの旧陸海軍の将校を台湾に送った。
現地責任者の富田直亮(なおすけ)少将が秘匿のために付けた中国名である「白鴻亮」から「白団」(パイダン)という隠語で呼ばれた。憲法9条の制約があるために、日本政府は表向き白団に支援をしなかったが、隠れて連携は保った。
日本軍人らは、かつての敵のためになぜ戦ったのか。
蒋介石・中華民国初代総統への感謝が一因という。「以徳報怨」(いとくほうえん=うらみに徳で向き合う)。これは蒋が日本の軍と政府に行った政策を表した言葉だ。日本の敗戦後、中国人による暴力行為は一部であったが、中国大陸にいた約200万人の軍民の日本人の大半は、ソ連・中共軍が占領した旧満州以外では、帰国できた。中華民国と日本の国交回復の際にも、蒋は賠償請求をしなかった。蒋の寛大さに敗戦で疲弊した日本人は大変な感謝をした。