上記の記事を読んで個人的に気になった点のまとめです。
特に元記事の趣旨には沿ってない可能性があり、ごく個人的な内容ですのでご了承ください。
・感受性に優劣があるか?
まず感受性とはどんな意味か国語辞典で調べてみると以下の様な意味がある。
外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。
また、類語辞典では以下のように示されている。
「感受性」は、刺激を心に深く受けとめ、深い反応をよび起こす力。繊細な能力で、プラスにもマイナスにも働く、受動的な能力。
これを物語を読んだとき限定でいうと、「物語を読む際に感情がどれだけ反応しやすいか」であり、感受性が高いと物語で感動を得やすいといったものだろう。
感受性について上記のように「感受性が高いと物語に感動しやすい」というだけの意味とするには違和感がある。というのも、まず人にはそれぞれ好みという違いがあり、aという要素には反応が鈍いが、bという要素にはよく反応するといったことが普遍的にありうる。このことから、一人の人間に対して感受性というパラメータは要素ごとにあるか、またはそれ以上の複雑な系統としてあると思われる。*1
以上を踏まえて感受性に優劣があるかというのを考えると、ある特定に個人に対して優劣があるというよりも、aという要素に対しては感動するとか、bという要素に対しては特に関心がないといったように、特定の要素単位においての優劣があるといえるのではないだろうか。中傷的な意味合いを帯びてしまうので注意が必要だが、多くの要素に対して感動できない人間がいたとすれば、それは感受性が劣っているといってもいいかもしれない。
・感受性は劣化するか?
べるんさんの記事では、後天的に感受性が損なわれると書かれており、僕もその可能性はあると思っている。ただし、一方的に劣化するというより変化するというのが妥当で、その変化により感受性が損なわれる事もあれば逆に高まるということもあると思う。
僕は田中ロミオ氏がシナリオを手がけた『クロスチャンネル』が大好きでとても感動できる素晴らしい作品だと思っている。おそらくだが、若い時、つまり生得的よりな感受性では『クロスチャンネル』をやったとしても意味が理解できなかっただろうと思う。僕が『クロスチャンネル』という作品に感動したのは、僕が日々感じていたこと(ここではその内容は省略)により形成された経験的よりな感受性による気がする。
また、『クロスチャンネル』をやった時「自分のために書かれた物語」のような自分の価値観と強く結びつく感覚によって強い感動が得られた。これは生得的な感受性よりも経験的に得られたそれのほうがアイデンティティとして強固だからじゃないかと思っている。
『クロスチャンネル』では経験的な感受性での感動があったと思うと述べたが、生得的よりな感受性で楽しめたと思われるのが『僕の一人戦争』である。『僕の一人戦争』では端的に言って友情や絆というもので感動した。
友情という感情は個人間での協力を促進させ、集団での行動を円滑にするという効果があり、おそらく生得的よりな感受性と考えられる。
『僕の一人戦争』をやって感動出来たか否かといわれれば、何回か泣かされてしまった素晴らしい作品だと思っている。しかし『クロスチャンネル』で感じられた価値観の一致する感覚はほとんど得られなかったといっても良い。『僕の一人戦争』のキャラクターは確かに魅力的だったが親近感は抱けなかった。にも関わらず満足度の高い感動が得られたのは(シナリオの構造のうまさとか演出の力というのもあるだろうが)友情という生得的よりな感受性が僕の中にそのまま維持されているからではないだろうか。
以上のように後天的に感受性が高くなる場合、生得的な感受性が変化しない場合のほかにも子供の頃好きだったものが、今は子供っぽいという(経験的)理由で興味がなくなったり、飽きるといったように感受性が減退する場合があり得ると思う。
・感受性がないから知識で語りたがるか?
これは個人的には一つの可能性としてありうると思う。というのはある作品を読んだときにもし感動することが出来なかった場合にその作品を語るための選択肢は知性しかないのではないかということである。
意思決定のシステムとして情動よりのシステムと言うのは理性よりのシステムよりも高速かつ自動的に処理が進むが、対応可能な事柄と言うのは限定されている。それに対して理性よりのシステムは処理が遅いかわりに柔軟に多くの事柄に対して処理ができる。理性的システムであれば自身の情動で理解が及ばなかったものに対しても知識さえあれば理解ができ、何かしら語ることは可能と思われる。*2
ただし、ある作品に対しての感受性が劣っているゆえに知識で語っているのか、そもそも個人の嗜好として知識で語るのが好きだから語っているのかは不明であるのでそういう人もいるかもしれないと言う予測の域を出ないだろう。