星野仙一です。
今日から燃えるスポーツキャスターです。
気迫あふれる投球で「燃える男」と呼ばれ闘志むき出しの監督として観客を沸かせ続けた…東北楽天を率いて日本一に。
震災で深い傷を負った東北の人たちに希望と勇気を与えました。
そんな星野仙一さんを母は女手一つで育て上げました。
父は仙一さんが生まれる3か月前この世を去りました。
番組では本人に代わり家族の歴史を取材しました。
刻まれていたのは知られざる星野家のルーツ。
残されていた古文書をひもとくと浮かび上がってきたのは幕末に生きた祖先の素顔でした。
苦難の人生を歩みながら家族のために働き続けた母。
謎に包まれた父の経歴。
優秀な成績の方でいらしたようで「甲」がたくさん…。
幼少期に抱いていた夢がありました。
激動の時代を生き抜き志半ばで病に倒れます。
重なる事のなかった父と子の人生。
受け継がれたその心意気とは。
取材の結果を伝える日星野仙一さんは自らのルーツと向き合う事になります。
もう非常にミステリアスな…。
え〜…まあ楽しもう。
仙一さんには2人の姉がいます。
6歳上の長女…美和子さんも母から家族の歴史はあまり聞いていません。
これしかないんですよ。
これしかないんですけど全部処理してしまって…。
82歳の時の写真です。
父と母の若い頃の写真はほとんど残っていません。
これですね。
これが父と母の…。
2人が並んで写っているのはこの結婚写真だけ。
両親は結婚しても籍は入れませんでした。
(取材者)お父様は正田。
正田。
私たちも小さい時ね…夫婦の約束どおり仙一さんが星野の姓を継ぐ事になったのです。
その星野家のルーツをたどります。
母方の祖父は嘉市。
戸籍には愛知県幡豆郡饗庭と書かれていました。
現在の…そこに饗庭という地区があります。
およそ200世帯が暮らす饗庭地区。
戸籍にあった住所に今も星野という家がありました。
すみません。
(取材者)こんにちは。
NHKです。
よろしくお願いします。
星野さん。
卓二さんに家系図をかいてもらいました。
信太郎ね。
それから…伊三郎ね。
卓二さんの祖母いくは仙一の祖父嘉市ときょうだいだという事が分かりました。
代々守ってきた墓に星野家のルーツが刻まれているといいます。
(取材者)こちらですか。
(取材者)一番右のお墓がどなたのお墓?
(卓二)それが玄道。
玄道は仙一の4代前高祖父に当たります。
江戸末期の文政に生まれ明治にわたる時代を生きました。
墓の側面に刻まれていたのは玄道の履歴でした。
そこには「医を学ぶ」とあります。
「星野玄道は浅野春道の次男で三村玄澄に医学を学び成績はすこぶる優秀だった。
人柄も穏やかで清廉潔白。
花を生け茶をたて書画を楽しんだ」。
玄道の実の父浅野春道は尾張名古屋藩に仕える藩医の一人。
本草学を尾張に広めた事でも知られています。
本草学は薬になる植物などを研究したもので江戸時代に急速に発展し病気の治療に盛んに利用されました。
寺子屋の先生。
玄道は名古屋で医学を学び饗庭村の星野家の婿養子となりました。
具合の悪くなった村人がいれば往診し薬を処方して治療する。
今で言う開業医でした。
更に子供たちに読み書きを教える寺子屋の先生も務め信頼を集める人物だったのです。
卓二さんの家には玄道の遺品が残されていました。
妻たつ子さんが嫁に来た58年前古い物を整理していた時に偶然見つけたものです。
これちょっと読めないながらも読ませてもらったらどうも…。
(取材者)どんなものだったんですか?古文書には病気の時に表れる症状や薬の名前が書かれていました。
「脚気は足より腫れてくるなり」。
「骨節が疼き痛む」。
「風疹」。
玄道が使っていたのは症状に合わせどの薬を処方すればいいかを解説した「医方書」と呼ばれる書物でした。
空欄には朱色で自らの所見が書き込まれ熱心な医者だった事がうかがわれます。
玄道は明治23年71歳で亡くなります。
この墓は玄道の功績を伝えようと教え子たちが建てたものでした。
その玄道の2代下が嘉市。
仙一の祖父に当たります。
しかし嘉市は医者の道へ進みませんでした。
饗庭村を離れ嘉市は豊橋に出ます。
嘉市の写真を持っていました。
これですねはい。
(取材者)あすごい。
これが私のおじいさんに当たる嘉市さんですね。
それでまきさんって私のおばあさんです。
軍人におる時は豊橋の…嘉市は豊橋で陸軍に入り十八連隊に所属していました。
明治30年代日露戦争の頃には近隣の村から多くの若者が入隊しています。
嘉市は28歳の時まきと結婚し明治44年2人の間に女の子が誕生。
その子が仙一の母敏子です。
しかし病弱だったまきは22歳で亡くなります。
敏子は僅か2歳でした。
東京に移り住んだ嘉市と敏子。
その詳しい足取りは分かっていません。
しかし東京での暮らしも長くは続きませんでした。
大正12年関東大震災に遭遇。
敏子が11歳の時でした。
一家は名古屋に避難します。
その前身である第二高等女学校に敏子は通うようになります。
女学校を出たあと敏子はある職業に就いた事が分かりました。
愛知県の医療機関などの情報を管理している医務国保課。
戦前からの医師や看護師の登録記録が残されています。
その中から敏子に関する記録を見つけました。
これがその証明書。
昭和2年敏子は16歳で看護婦試験に合格しています。
当時は医学の知識や看護の技術を学んだ者に正式な看護婦免許を与えるようになったばかり。
敏子は勉学を重ねて当時憧れだった職業に就いたのです。
曽祖父玄道と同じ医の道に進んだ敏子。
やがて病院の看護婦として働くようになります。
その時体調を崩し入院してきた一人の男性に出会いました。
その男性こそ後に仙一の父となる正田仙蔵だったのです。
う〜ん…。
じゃあ僕は野球選手になってなかったら医者になってたかな。
ハハハハハハ…!いやもう全く知らないですね。
あんまり僕は…おふくろもそうだろうけど僕も過去の事をあまり知ってもしょうがねえじゃねえかと。
ほんとは歴史っていうものはしっかりと…。
経緯というのはしっかりとその何て言うのか…知ってなきゃいけないんでしょうけどもそれより未来の事将来の事というお互いがそうじゃなかったのかな。
星野仙一さんのもう一つのルーツ父仙蔵の人生をたどります。
仙蔵は明治31年生まれ。
その後大樫家から正田家の養子になったと戸籍には記されています。
正田家があった岡山県瀬戸内市長船に向かいました。
仙蔵は11歳の時に岡山県邑久郡美和村に住む正田半三郎と養子縁組みされています。
当時の番地には正田家はなくさら地になっていました。
仙蔵と養父の半三郎を知っているという親戚を訪ねました。
ごめんください。
はい。
(取材者)NHKと申しますが道子さんですか?どうぞお入り下さい。
(取材者)ありがとうございます。
道子さんの祖母は仙蔵の姉になった長女志加野です。
当時正田家は女の子ばかりだったため仙蔵を養子に迎えました。
仙蔵の養父となった半三郎の写真が残っています。
これは私の父が兵隊に行っとったからそれに送った写真なんです。
でこれが半三郎さんです。
これが志加野です。
仙蔵さんの姉です。
正田家は代々米や麦を作る小作の農家でした。
半三郎は仙蔵を農家の跡取りにと考えていました。
(取材者)仙蔵さんというのは道子さんはお会いになった事は?会った事ありますよそりゃ。
仙蔵が通っていた小学校が今もあります。
明治7年に創立された小学校に貴重なものが残されていました。
本校の除籍簿になります。
明治時代の生徒の名簿です。
その中に仙蔵の名がありました。
こちらが正田仙蔵様の除籍簿になります。
在学中に大樫から正田に名字が訂正されていました。
左側は成績が書き込まれた通信簿です。
1年生から6年生までほとんどの科目で最高の評価である「甲」がつけられていました。
農作業を手伝いながら仙蔵は一生懸命勉強をしました。
やがて大きな夢を持つようになります。
正田家を出た仙蔵。
その後の足取りは分からなくなります。
愛知県名古屋市で再び仙蔵の足跡が見つかりました。
現在の…今から95年前の大正9年に航空機のエンジンをつくる会社として発足。
やがて日本の航空機製作の拠点となっていきます。
30代になった仙蔵はこの製作所で働いていた事が分かりました。
仙蔵を知っているという人がいました。
(2人)おはようございます。
いらっしゃいませ。
小学生の頃仙蔵に会った事があります。
父親の国人さんは航空機製作所で仙蔵の部下でした。
父から仙蔵の話をよく聞いていました。
昭和12年から名古屋の三菱重工ではあのゼロ戦が開発されていました。
設計どおりに機体をつくるのは工員と呼ばれる人たち。
ミリ単位の精密さで部品の一つ一つを手でつくっていた時代。
それには熟練の腕が必要でした。
仙蔵はこうした工員たちを束ねる班長現場のリーダーでした。
航空機づくりの現場でたたき上げではい上がってきた仙蔵は厳しい上司だったといいます。
仙蔵に怒られたという若い工員から話を聞いていました。
正田さんに叱られたらあとが…。
ちょこちょこそういう話は子供心に覚えとる。
部下のミスを仙蔵はあえて翌日に叱りました。
どうしてミスをしたのか?それを防ぐにはどうしたらよいか?一つの部品の不具合がパイロットの命に関わる。
仕事の重さを自覚させる時間を与えました。
そんな仙蔵がある日体調を崩して入院します。
その時病院で一人の女性と出会いました。
それが名古屋で看護婦になっていた敏子。
後の仙一の母です。
お互いにひかれ合った2人はやがて結婚します。
昭和15年仙一の姉美和子さんが生まれます。
仙蔵は娘をとてもかわいがりました。
仙蔵の子ぼんのうぶりを表すものが美和子さんの手元に残っています。
これですね。
これは父と私なんです。
職場の仲間が娘と遊ぶ仙蔵を描いたもので詞が添えてありました。
職場での仙蔵からは想像できない笑顔で娘の美和子さんとお馬さんごっこしている姿でした。
仕事では「天下の仙蔵」と尊敬され素顔は目を細めて娘を自慢するお父さん。
そして「仙チャン」と呼ばれた気さくな人柄。
仙蔵は厳しくも部下や同僚から慕われる男だったのです。
軍は三菱重工に戦闘機の増産を要請します。
それには新たな工場が必要でした。
ここに水島航空機製作所が建設される事になりました。
終戦時に多くの資料が焼却されましたが当時の様子を写した貴重な資料が残されていました。
昭和17年工場建設が始まったころの写真です。
「実習指導関係者」と書かれた写真の中に仙蔵の姿を見つけました。
50人ほどの集合写真の最前列。
仙蔵は43歳で工長という役職に就任。
たたき上げの工員がなれる最高の地位が工長でした。
仙蔵は工員を養成する青年学校でも指導員のトップを務めていました。
大人の男性は戦場に駆り出され戦闘機をつくる工員の養成が急務でした。
青年学校の一期生だった人がいます。
どうぞ。
山内さんは愛媛県の高等小学校今で言う中学を卒業し青年学校に入学。
親元を離れて寮生活を送りました。
14〜15歳の少年たちにハンマーの打ち方や旋盤技術などをたたき込みます。
急ごしらえで工員に育て上げなければなりませんでした。
そこで経験豊富で部下から信頼のあつい仙蔵に白羽の矢が立ったのです。
終戦までに仙蔵は4,000人以上の教え子たちを航空機製作の現場に送り出しました。
昭和20年になると本土への空襲が激しさを増します。
6月22日水島の航空機製作所にもB29が襲来。
軍需工場は重点的に狙われ水島製作所も壊滅的な被害を受けました。
この時仙蔵はある病に侵され病院に入院していました。
脳に腫瘍が見つかったのです。
病院は直撃弾を受けず仙蔵は無事でした。
そして腫瘍の摘出手術を受け退院します。
戦後の混乱の中で仙蔵が気にしていたのは青年学校の教え子たちの暮らしでした。
青年学校一期生だった…仙蔵は教え子だった近藤さんの家にある物を運んできたといいます。
食事の煮炊きや風呂を沸かす薪にも事欠く教え子への心配りでした。
仙蔵の思いやりは見知らぬ人にも及びました。
焼け出された人たちを風呂に入れ食事を与える事もあったといいます。
しかし仙蔵は再び病に倒れます。
脳の腫瘍は手術では取りきれず再発。
もはや手の施しようがありませんでした。
仙蔵の病状は日に日に悪化していきます。
その時妻敏子のおなかには子供がいました。
昭和21年10月6日仙蔵は息を引き取ります。
48年の生涯でした。
3か月後男の子が生まれます。
名前は「仙蔵」からひと文字取って「仙一」。
夫婦の約束どおり一番下の子に「星野」の姓を継がせたのです。
おなかが大きいのを見ながら死んでいく。
当時は男の子か女の子かも分からない時代ですからひょっとしたら男の子か分からないという。
随分悔しかったろうなと思いますね死んでいくのにね。
心残りというか…。
厳しいとこだけ似てるかも分からないね。
まあそういう意味ではね18歳17歳で入ってくる選手を扱ってたというところはちょっと似てるかな…。
まあ厳しくも温かく…。
まあ兄貴でありおやじでありと。
まあ今なったらじいさんになりますけどそういうところは似てるかな…。
夫仙蔵を亡くした敏子。
女手一つで娘2人と仙一を育てなければなりませんでした。
家財道具を売りつくした敏子は子供たちを食べさせるために力仕事もいとわずに働きに出ます。
もういつも…子供心に。
食料に困っていたころ野菜を分けてもらうため敏子が働きに行った農家があります。
終戦直後夫が廃材を配った教え子の近藤さんの家でした。
土にまみれて働く敏子に近藤さんは働いた分より多く野菜を持たせました。
はたから見ても。
かつて敏子が家で使っていたものが近藤さんの家には残されていました。
食べ物と交換するために手放した家財道具の一つです。
夫仙蔵の思い出が詰まったものも食べるためには手放さなければなりませんでした。
敏子は夫の部下や教え子たちに頭を下げました。
仙一が小学校に上がってしばらくすると敏子は三菱の厚生施設水島クラブの管理人の仕事を紹介されます。
家族はその施設の空き部屋に住まわせてもらえるようになりました。
仕事は施設の掃除に食堂の給仕。
休みはありませんでしたがテレビもありお風呂もあり家族の暮らしは少しだけ安定しました。
育ち盛りの仙一に食堂のコックさんがよく料理を作ってくれました。
実は敏子に水島クラブの仕事を紹介したのが岡野弘さんの父国人さんでした。
名古屋時代からの部下だった国人さんは仙蔵の家族をいつも気にかけていました。
このように聞いております。
家計の事情を察して仙一が母に何かを買ってくれとせがんだ事はありませんでした。
敏子はある日友達と遊んでいる仙一を仕事帰りに見かけます。
楽しそうにキャッチボールをする友達。
仙一だけがグラブを持っていませんでした。
そんな仙一に敏子はなけなしの蓄えから千円を渡しました。
当時の星野家にとっては大きな額でした。
そのお金で初めて買ったグラブ。
仙一は当時小学4年生。
うれしくて夜は抱いて寝たといいます。
それは母からもらった生涯の宝物になったのです。
中学に入学すると一層大好きな野球に打ち込むようになります。
グラウンドに行くと三菱の社会人チームの選手たちが「仙坊」と呼んで目をかけてくれます。
自分たちの練習が終わるとキャッチボールの相手をしてくれました。
高校は倉敷商業に。
甲子園の夢はかないませんでした。
それでも野球を続けるようにと母は大学へ行く事を後押ししてくれます。
一般入試で明治大学に合格。
神宮球場のマウンドに立ちます。
学費は敏子が借金をして賄いました。
仙一が野球に打ち込めるようにと敏子は水島クラブの仕事を続け稼ぎのほとんどを仕送りしました。
大学4年仙一にプロ野球のスカウトから声がかかります。
「プロに行きたい」。
仙一が告げると敏子は反対しました。
それでも仙一は中日への入団を決め倉敷にいる母のもとに行きました。
それでおふくろに…そして仙一はプロ野球を沸かせます。
敏子は50歳を超えてもお世話になってきた三菱の独身寮で賄いの仕事を続けます。
仙一の活躍は遠くからテレビで見守りました。
たまに球場へ行く事はあっても外野席のチケットを買って声援を送りました。
仙一の母とは名乗らずに静かに息子の活躍を見守ったのです。
う〜ん僕の記憶どおりいつも休みの日でも働きに行ってる姿後ろ姿というのは僕の脳裏にまだありますけどね。
ああよう頑張ったんだなと。
僕周りに恵まれてたのかな。
やっぱり人間として人間を好きで人間に優しくしろというような事かな。
まだまだそのレベルまで達してないかもしれないけども。
また新たに教わったかなと。
しかもおやじにとおふくろにと。
両親に教わったかなと改めてと。
こういうふうな感じしますね。
晩年敏子さんは生活が苦しかった時代に支えてくれた人を訪ねています。
夫仙蔵の教え子だった近藤さんの家です。
私の母にほんと…一番苦しい時に助けてくれた事へのせめてもの感謝のしるしでした。
働いた分よりいつも多く野菜を持たせてくれたその恩を敏子さんは終生忘れませんでした。
2003年阪神の監督に就任して2年目のシーズン。
名門チームを立て直し18年ぶりのリーグ優勝。
仙一さんは宙を舞いました。
その2日前息子の雄姿を見る事なく母敏子さんは91歳で亡くなっていたのです。
苦難を乗2015/06/12(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「星野仙一〜父と母の生きざま 燃える男の原点〜」[字][再]
仙一が生まれる前に亡くなった父。その人生は、ゼロ戦との関わり、病との戦いの日々。そして、女手ひとつで仙一を育てた母。浮かび上がる事実に家族の絆、野球人の原点が。
詳細情報
番組内容
星野仙一さんには、生まれる3か月前に亡くなった父がいた。その父の人生をほとんど知らない。取材で浮かび上がるのは、ゼロ戦との関わり、病との戦いの日々。さらに、部下たちに厳しくも、慕われる父の素顔だった。そして、女手ひとつで子どもたちを育てた母。終戦後、食料を得るために家財を売り払い、力仕事もいとわなかった。そんな母が、仙一さんに勧めたのが野球だった。野球人・星野仙一、燃える男の原点が明らかになる。
出演者
【ゲスト】星野仙一,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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