九州南部では局地的に猛烈な雨が降っています。
プロ野球、そして大リーグで活躍する若きエースたち。
彼らの原点ともいえる伝説の投手が今よみがえろうとしています。
神奈川県内で発見された昭和11年のフィルム。
僅か2分余りの野球の試合でした。
資料と照合した結果今の日本シリーズの原点プロ野球最初の日本一決定戦と確認されました。
映し出されていたのは背番号14巨人、沢村栄治投手。
プロ野球の基礎を築いた伝説のエースです。
これまで試合中の映像が発見されたことはありませんでした。
戦争の影が忍び寄る時代。
出場した若者たちは野球を続けることができずその後、戦地へと駆り立てられていきました。
沢村投手は無念の戦死。
遺族は躍動する姿をフィルムで初めて目にしました。
幻の一戦と伝説となった選手たち。
その生きた時代をたどります。
こんばんは。
「クローズアップ現代」です。
海を渡ってアメリカ大リーグという大舞台で活躍したいという夢をプロ野球選手が実現することが珍しくなくなりました。
好きな野球を職業にして思いっ切りプレーして生きていきたい。
ひたむきに白球を追いかける選手たち。
その日本でプロ野球その当時は職業野球と呼ばれていましたが旗揚げしたのが1936年昭和11年のことでした。
その年の12月、日本一を決める初めての優勝決定戦が巨人と大阪タイガース現在の阪神との間で行われました。
出場したのは23人。
大半が10代そして20代前半の若い選手たちでした。
野球を職業にすることがまだ珍しかった時代野球で生きていきたいという夢を持って集まってきた選手たちです。
そこには、伝説の名投手沢村栄治投手も含まれていました。
沢村栄治賞というのをご存じかと思いますけれども球界で最も活躍した先発完投型の投手に与えられる最高の栄誉でご覧の選手たちも受賞しています。
日本のプロ野球史上初のノーヒットノーランを達成するなど語り継がれてきたエースは優勝決定戦が行われた年19歳でした。
昭和11年に起きた二・二六事件。
そのよくとしに勃発した日中戦争。
日本のプロ野球は、戦争の足音が近づく中でスタートしたのです。
そして、優勝決定戦に参加した23人の選手のうち実に21人がその後出征していきました。
このほど見つかった初めての日本一を決める決定戦を映したフィルムは僅か2分の長さです。
そこには間近に迫った戦争の影はなく映されていたのは懸命にプレーする沢村投手をはじめとする選手たちの姿とそして、試合に興奮した観客の熱気でした。
こんにちは。
神奈川県内に住む繁岡春子さん、81歳です。
父親の遺品を整理したとき古い8ミリフィルムが出てきました。
昭和11年12月と書かれた缶。
映っていたのは古い野球の試合。
それ以上のことは誰も分かりません。
珍しいものかもしれないと思った家族は、映像をインターネット上に公開しました。
その映像を見て驚いた人がいます。
ノンフィクション作家の森田創さん。
戦前のプロ野球について調べを続けていました。
映像は僅か2分。
途切れ途切れの試合。
試合後に喜ぶ選手。
そして表彰式。
見ているうち、興奮で仕事が手につかなくなったといいます。
昭和11年12月に行われたプロ野球史上初の日本一決定戦。
巨人対大阪タイガース。
7球団で春と秋のリーグ戦を戦い優勝チームどうしが激突しました。
現在の日本シリーズの原点として語り継がれてきましたが映像が確認されたことはこれまでありません。
森田さんの情報提供をもとにNHKではフィルムを鮮明にする作業に取りかかりました。
2か月の作業を終えると背番号や腕や足の先など選手たちの動きがよみがえってきました。
映像は幻の一戦なのか。
プロ野球の歴史に詳しい野球殿堂博物館の学芸員関口貴広さんです。
試合の公式スコアや当時の写真などの資料と照らし合わせてもらいました。
例えばこのプレー。
1塁ランナーが背番号18番ピッチャーは3塁ランナーをホームでアウトにしています。
映像に記録されていたプレーはすべてスコアと重なりました。
こちらは試合後に撮られた写真。
巨人の藤本定義監督はこの日、かぜをひいていたため首に白い布を巻いていました。
さらに当時の新聞。
優勝決定後球場に座布団が舞ったというイラストがありました。
フィルムには…試合後、グラウンドに舞い上がる座布団が記録されていました。
試合のあった昭和11年。
2月に二・二六事件が発生し日本が戦争へと突き進んでいく時代です。
そうした中、始まったプロ野球。
当時まだ珍しかったプロスポーツに挑戦しようと高校、大学、実業団から10代から30代の若者たちが集まっていました。
今回の映像で最も注目を集めた投手がいます。
背番号14。
僅か1球分の投球が記録されていました。
沢村栄治。
この年、史上初のノーヒットノーランを達成した巨人のエースです。
当時19歳。
2年前の17歳のときには日米野球に出場。
来日したベーブ・ルースなどを相手に三振の山を築いた伝説の名投手です。
広く知られてきたのは左足を高く上げた写真。
試合中の映像はなく実際はどのような投球だったのか分かっていませんでした。
映像は沢村投手なのか。
その投球を観客として球場で見ていた人がいます。
吉田幸雄さん、87歳。
今回の映像語られてきたようには左足を高く上げていません。
しかし、吉田さんが見た沢村投手のフォームは映像と同じだったといいます。
初めて発見された沢村投手の投球映像。
そこからどんなことが分かるのか。
慶応大学の研究員、石橋秀幸さん。
元広島カープのトレーニングコーチです。
映像から読み解けるのは沢村投手の人並み外れた下半身の強さだといいます。
映像を見ると、沢村投手の足が投球と同時にまっすぐ伸びていることが分かります。
一般的に投球動作では足を前に踏み出し地面から力を受けます。
その力を、肩から腕に伝え威力のあるボールを投げようとします。
沢村投手はより力強く踏み込んでいるためボールを離すとき、勢いでひざがまっすぐに伸びています。
この投げ方なら、ボールにさらに大きな力を伝えることができます。
しかし、体を支える筋力とバランス感覚が優れていなければできません。
昭和11年の試合を戦った若者たち。
野球に懸けようとしたその夢は次第にかなえられなくなっていきます。
試合のよくとしには日中戦争5年後には太平洋戦争も勃発。
年々拡大する戦火に大きく翻弄されたのです。
出場23人のうち、21人が出征。
沢村投手を含む5人が戦死。
生還しても、多くが野球を続けられませんでした。
沢村栄治投手と息の合ったバッテリーといわれていた中山武捕手。
試合の僅か1か月後に徴兵され日中戦争に従軍します。
そこで右足かかとを撃ち抜かれ重傷を負いました。
療養のあと、中山選手は昭和14年、巨人に復帰。
日本一の捕手が帰ってくると期待が集まりました。
復帰4戦目。
ツーアウト2塁のチャンスで登場。
タイムリーヒットでランナーが生還。
しかし、中山選手は1塁までたどりつけませんでした。
足のけがで走れなかったのです。
22歳だった中山選手はこのあと引退。
二度とグラウンドに立つことはありませんでした。
中山選手の長男輝男さん、74歳です。
試合の4年後に生まれた輝男さん。
野球選手だった話を父から直接聞いたことはありません。
戦死した沢村栄治投手です。
戦地から戻るたびに野球を続けようとしていました。
どうも、はじめまして。
沢村投手の一人娘酒井美緒さん、70歳です。
沢村投手が最後の戦地に向かったのは、生後3か月のとき。
父の記憶はありません。
せめて父を身近に感じたいと写真を大切に持ち続けてきました。
フィルムで初めてプレーする父の姿を目にします。
日本一を決めた試合のあと沢村投手は2度戦地へ向かいました。
当時の新聞記事です。
投げ続けていたのはボールの3倍以上の重さのある手りゅう弾。
帰ったときには戦場での酷使がたたり投げられない体になっていました。
しかし、マウンドへの熱い思いは変わりませんでした。
当時、野球雑誌に寄せた本人の手記です。
ただボールを握りたいの一心で。
まだ僕は若いんですね。
みんながグラウンドを走り回っているのをただ見ているのはつらい。
復帰した昭和18年の成績は0勝3敗。
その後、巨人から解雇されました。
昭和19年、一人娘を残し3度目の戦地へ。
台湾沖で乗っていた輸送艦が沈められ亡くなりました。
27歳でした。
それから70年余り。
初めて感じる父の息遣いです。
今夜のゲストは、スポーツ評論家の玉木正之さんです。
初めて父親の動いている映像を見て、ご遺族の方が生きているとつぶやいて、ちょっと涙を浮かべられていらっしゃいましたけども、プロ野球のスポーツ歴史に詳しいお立場から、今の映像をどう見られましたか?
いや、もう、興奮の連続ですね。
あの昭和11年、一番最初の年ですね、プロ野球、職業野球が生まれた。
その年に、こういう形でやっていたということを、動いている映像で見ることができたっていうのは、もう本当、本当に興奮以外の何ものでもない。
おまけにあそこの須崎球場というあの球場がね、また海にすごく近くて、海が満潮のときには外野にまで塩が来るっていう、そういうことを文章で読んでたんですよ。
やっぱり外野のほうが、海があって、どうもそういう感じなんですよね。
あの試合にも、外野席には、観客入れてないんですよ。
やっぱり、海が押し寄せてきたのかなと。
そんな恵まれない所でやったのが、職業野球だったと。
恵まれない立場だったんですか?位置づけとしては?
そうですね、東京六大学野球を頂点に、やっぱりアマチュア野球のほうが上だったんですよね。
中等学校野球とか。
それのOB戦という見方で、少し低く見られていたんですよ、かなり。
まあ、大リーグを呼んで、日本で大日本野球、東京野球クラブが出来て、それがまあ読売ジャイアンツになるんですけれども、試合したときも、神宮球場を使って、見世物に明治神宮球場を使ったというんで、それで正力松太郎というオーナーは、暴漢に襲われたぐらいですから、その職業野球がかなり低く見られていたんですね。
ところが、この映像を見ますとね、日本の初の日本シリーズと言っていいぐらいで、1勝1敗で最終戦。
観客たくさん押し寄せてますね。
詰めかけて、すごく興奮して、おまけに選手が一生懸命プレーしてるんですよ。
だから、低く見られている自分たちが、こんなにすばらしいことをしてるんだぞっていうプライドですね。
それを感じることができて、ちょっと感激しましたですね。
今のリポートの中で、タイムマシーンに乗ったようだという発言もあったんですけれども、やはり今まで思っていた沢村投手の投球フォームと、実際は全然違ったのではないかっていうことが、どう、フォームをご覧に?
今まで見ていたというのが、止まって左足を大きく上げている写真が多かったんですよね。
ですから、動いてる写真見たときに、初めはびっくりしたんですけれども、よく見るとね、西鉄ライオンズのエースだった、稲尾さんに、すごくよく似てるんですよ。
歩幅がすごく広くて、ものすごくスムーズな投げ方。
だからものすごくいい投げ方していて、逆に何か左足は高く上げてないけれども、感激しましたね。
ベーブ・ルースなどの大リーガーたちを三振に17歳で打ち取って、そして、3連投したわけですよね。
優勝決定戦でも。
この沢村賞という、この賞がいまだに、ずっと続いているわけですよね。
それだけのやっぱり価値のあるピッチャーだということは、見て、本当によく分かりますよね。
ノーヒットノーランも日本で初めてやった投手ですから、ですからまあ、伝説の投手と言われている投手が、14番の背番号つけて、目の前に現れたのは、やっぱりうれしかったですね。
動いている姿を見ることができるだけで。
ただその時代を見ると、本当に二・二六事件がその年に起き、そして翌年に日中戦争勃発して、その優勝決定戦の5年後には、太平洋戦争という意味では、本当にもう戦時色がどんどん強まっている中で、その中で、観客にとってこの野球というのは、どういう位置づけだったんですか?
戦時色が強まる中で、例えば映画とか、それから歌謡曲とか、あるいは浪曲とか、当時はやっていたものに全部戦時色が押し寄せるんですね。
ところが、野球は押し寄せようがなかったんですよ、最初のうち。
ですから、ある意味、野球場に行くと、戦争から離れることができる唯一の場所だったっていう、そういう感じがしましたね。
かなりずっと続いたんですか?
そうですね。
二・二六、今の映像は二・二六事件のあった年ですよね。
その年にあの映像を見ていて、全く戦時色はないですよね。
戦争のにおいが野球に押し寄せるのは、昭和18年、19年の太平洋戦争が始まってだいぶたってからなんですね。
適正擁護である英語は使わないようにするとか、帽子が戦闘帽に変わるとか。
そういうことがあったんですけれども、それまでは、ほとんど野球場は野球をしていたと。
スポーツをしていたと。
スポーツっていうのはやはり平和でないとできないもので、戦争の色が中に入る要素がなかなかないわけですよ。
それを守られていた、それが守られていたのが、職業野球だったなという気がしますね。
ルールがはっきりしてますしね、なかなか違うルールでってことにもならない。
ただ、日本の選手で負傷して帰ってきた。
なかやま選手。
いましたですね。
痛々しいとは思うんですけど、実は、それはアメリカでも同じでしてね、メジャーリーグ、大リーグに戦争で片腕をなくした選手が戻ってきてプレーしていたとか、そういったこともあったんですね。
ですから、戦争っていうのは、別に、勝ったとか、負けたとか、戦勝国であるとか、敗戦国であるとか、そういうことと全く関係なく、平和の象徴のようなものであるスポーツなんかには、もう完全にスポーツができなくなるような、上からの圧力といいますか、そういう一番スポーツと反対にあるものが戦争だという言い方ができると思いますね。
でも、あれだけの技術、あれだけの身体能力を持った投手が、戦争に3度行って、そして手りゅう弾を投げ過ぎて肩を壊したってもったいないし、本当に無念だったでしょうね。
そうですね、最後は日本に帰ってきたときは、横からしか投げられなかったっていうふうにいわれてますけれどもね。
そういう戦争の中でも、野球にまい進した人たちがいたということを逆に考えるべきではないかと思うんですよね。
今、ことしは戦後70年ですけれども、戦争を通して、戦争を見るんじゃなくて、その当時のスポーツを通して、スポーツの人たちが、どんなにスポーツを守ろうとしていたか。
それを見ることによって、戦争の悲惨さ、あるいは哀れさ、無意味さ、そういったものがよく分かるんじゃないかなと思うんですよ。
ありがとうございました。
2015/06/11(木) 19:30〜19:56
NHK総合1・神戸
クローズアップ現代「幻の“日本シリーズ”〜フィルムからよみがえる選手たち〜」[字]
発見されたプロ野球最初の“日本シリーズ”の映像。記録されていた名投手・沢村栄治の投球など伝説のプレーを解析。さらに戦争で野球を奪われていく選手たちのその後に迫る
詳細情報
番組内容
【ゲスト】スポーツ評論家…玉木正之,【キャスター】国谷裕子
出演者
【ゲスト】スポーツ評論家…玉木正之,【キャスター】国谷裕子
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – スポーツ
スポーツ – 野球
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