ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今日は歴史の宝庫奈良県に来ております。
私の背後に広がるこの野原。
実はこれは古代の都の中心にあった宮殿の跡なんです。
どうですか?この広さ!今日の主人公はこの都を築いた人。
どんな方だったかといいますと…。
あ〜来ました来ました!ご当地バスですよ〜。
その名も…1,300年前の女帝です。
1,300年前この国に君臨した女帝持統天皇こと讃良皇女。
奈良県には讃良ゆかりのものがいくつも残されています。
中でも最も大きなものが…古代日本で最古にして最大の都市です。
近年の調査で藤原京を起点に巨大な直線道路網が全国を結んでいた事が分かってきました。
彼女がつくり上げようとした新しい国「日本」のかたちとは?里中満智子さんの…そこには夫と共に生きた讃良の生涯が描かれています。
時に共に戦場を駆け抜ける戦友として…。
時に共に国を治める政治のパートナーとして…。
そして先立った夫の理想を実現するたった一人の後継者として…。
古代日本をつくり上げた女帝持統天皇の愛の軌跡を「天上の虹」の華麗なる世界と共にご紹介します。
先ほどの藤原京跡から南におよそ5キロの奈良県明日香村。
私が今おりますのは飛鳥京跡。
飛鳥時代の宮殿があったところです。
こちらの植え込みが建物の跡。
そしてその前には石敷きの庭が広がっていて更にその一画には井戸も設けられていました。
今日の主人公持統天皇が生まれ育ったところです。
持統天皇幼少時の名前は野讃良皇女。
その波乱に満ちた生涯はここで起きた一つの大事件とともに幕を開けます。
飛鳥京で行われていた儀式のさなか突如朝廷の実力者蘇我入鹿が暗殺されました。
実行者は中大兄皇子。
このクーデターで政治の実権を握ります。
同じ年…讃良にとって父中大兄はおよそ親しみを感じる存在ではありませんでした。
中大兄は自らに刃向かうものは親族であっても容赦なく粛清。
一族を殺された讃良の母はショックのあまり病死してしまいます。
讃良は13歳になると父に結婚を命じられます。
相手は大海人皇子。
大海人は中大兄の弟です。
讃良にとっては叔父。
一族の結束を固めるための政略結婚でした。
讃良の生涯を描いたマンガがあります。
全23巻。
32年前に連載が始まりこの3月ようやく完結した大作です。
この中で讃良と大海人の結婚はこのように描かれています。
最初は父の思惑に従っただけの愛のない結婚でした。
しかし…。
明るく大らかで誠実な大海人の人柄に接し讃良は深く愛するようになります。
やがて大海人は兄中大兄と外交方針をめぐって対立するようになります。
讃良は迷わず父ではなく夫の側に立つ決心をします。
大海人も讃良を人生を共に切り開くパートナーとして意識し始めます。
讃良26歳の時父中大兄が亡くなり後継者争いの内乱が起こります。
その主役は讃良の夫大海人でした。
挙兵当初大海人の軍勢は同調者が増えず苦戦します。
しかしある出来事をきっかけに形勢が大きく変わる事になります。
都へ向け進軍していた大海人軍は伊勢神宮の近くを通りかかります。
そこで大海人が戦勝祈願のために伊勢神宮を拝み始めたその時…。
伊勢神宮の神天照大神が讃良の体に降臨します。
神の加護を得た事で周辺の豪族たちが次々と大海人軍に味方。
見事勝利をつかみました。
大海人は飛鳥京で即位します。
天武天皇です。
この時大海人は一つの決断をしました。
それは妻の讃良を共同統治者とする事。
夫婦二人三脚での政治です。
しかし2人の新たな国造りの前には大きな困難が立ちはだかっていました。
当時大陸では唐が台頭し周辺民族に介入。
日本当時の倭国と友好関係にあった百済更には高句麗などが攻め滅ぼされていました。
唐に対抗するためには国力を高めなければいけない。
そう考えた讃良たち夫婦が最初に着手したのは新たな首都の建設です。
唐の都長安。
当時人口100万にもなる世界最大の都市でした。
目指すは「長安のような町」。
新たな都の建設が始まりました。
更に2人は官僚たちの衣服も唐風に一新します。
これまでの倭国の伝統的なスタイルは耳の横で髪を束ねた「みずら」という髪型で服は丸首。
朝廷の儀礼の時には石敷きの庭にひざまずいていました。
新しく導入した唐風のスタイルがこちら。
髪型は男女ともに髷を結いました。
服は襟を重ね合わせ胸元にVゾーンを作っています。
朝廷の儀礼も立礼に変更されました。
これも唐の宮廷で行われていた作法です。
天武天皇と讃良が暮らした飛鳥の都の跡地です。
私がおりますまさにここで宮殿の一画にあった大規模な工房と思われる遺跡が発見されました。
この遺跡からは天武天皇と讃良が行った政策の斬新さを伝えるものが出土しています。
こちらは炉の跡。
ここからは和同開珎より古い日本最古の貨幣富本銭が出土しました。
銅を溶かして貨幣が大量に鋳造されていたのです。
唐に対抗して貨幣を本格的に流通させようとしたのは東アジアで唯一倭国だけでした。
更に驚くべきものも見つかっています。
それは「天皇」と書かれた最古の木簡。
それまで国のトップは「だいおう」あるいは「おおきみ」と呼ばれていました。
それを唐の「皇帝」に対抗して天の中心を意味する「てんのう」「すめらみこと」に改めたと考えられています。
また2人は歴史書の編纂を始めました。
歴史書は唐などの外国に向けて倭国が固有の歴史を持つ独立国だと主張する手段です。
2人の歴史編纂事業は後の奈良時代に「古事記」や「日本書紀」といった歴史書として実を結ぶ事になります。
マンガ「天上の虹」の作者里中満智子さんは大海人と讃良この2人だったからこそ日本の国を一つにまとめる事ができたと考えています。
奈良市の西ノ京にやって来ました。
ここには天武天皇と讃良夫妻ゆかりの寺が残されています。
それがあちらに見えます薬師寺です。
境内で最も古い建物である東塔はご覧のように覆い屋がかけられ現在修復中です。
こちら修復が始まる前の薬師寺です。
1,300年前に築かれた東塔が現存しています。
大きな屋根と小さな屋根が重なり合うこの構造は天武天皇と讃良が寄り添う姿を表しているとも伝えられています。
実はこの薬師寺が建てられたのは2人を襲った悲しい出来事がきっかけでした。
天武天皇即位から7年2人の国造りのさなか讃良は原因不明の高熱に襲われ生死の境をさまよいます。
(讃良)「え?」。
こうして天武天皇が愛する讃良のために造ったのが薬師寺でした。
境内にある東院堂。
ここに謎めいた仏像が安置されています。
さまざまな姿に変化し広く衆生を救ってくれる菩薩の姿をあらわしたもの。
しかしどの時代に誰がつくったのか分かっておらず謎の仏像と言われてきました。
古代の宝物を研究している関根さんはこの聖観音像にこそ天武天皇の願いが込められていると考えています。
関根さんが着目するのは古代のものさしです。
長さの基準となる尺。
奈良時代に1尺は30.3センチに定められました。
それ以前の天武天皇が薬師寺を築いた時には短い1尺23.5センチを用いました。
例えば薬師寺東塔の高さは屋根の飾りを除いて23m50cmの100尺。
金堂は東西が100尺南北が50尺。
そして聖観音像の高さは2m35cm。
きっちり10尺です。
この事から聖観音像は建物と同じ古い時代のものさしでつくられた事が確認できます。
「愛する讃良を病から救ってほしい」。
天武天皇の切なる思いがこの聖観音像には込められているのかもしれません。
祈願のかいあって讃良は回復します。
しかし物語はこれでハッピーエンドとはいきませんでした。
その6年後。
なんと夫の天武天皇が病に倒れ帰らぬ人となってしまったのです。
(すすり泣く声)
(すすり泣く声)讃良は自ら即位します。
こうして野讃良皇女持統天皇が歴史の表舞台に登場するのです。
ただ今バスに乗って飛鳥から5キロほど離れた所を進んでおります。
天武天皇と死別した讃良が夫の遺志を継ぐために取り組んだものをこれから見にいきます。
そろそろ目的地のはずなんですが…。
え〜…あっ見えてきましたね。
あの広い広い野原。
あれですよ。
(ドアが開く音)ご乗車ありがとうございました。
ああ「ようこそ藤原宮跡へ」って書いてありますよ。
こここそですね讃良が築いた新たな都藤原京の中心でした。
ではその藤原京とは一体どんな都市だったのでしょうか?690年持統天皇は即位すると亡き夫が生前思い描きいまだ完成を見ていなかった大事業を引き継ぎます。
それは新しい都の建設です。
それまで都としていた飛鳥京は山に囲まれた小さな盆地にありました。
宮殿と一族の住まいで土地はいっぱい。
これ以上の発展は望めません。
国力を高めるためにはより大きな都が必要です。
新しい都の建設には費用がかかりすぎると反対の声もあがりました。
しかし持統天皇は夫の遺志を実現しようと押し切ります。
各地から膨大な人と資材が集められ急ピッチで都市の建設が進められました。
694年ついに持統天皇は新しい都藤原京を完成させます。
夫が亡くなってから8年後の事でした。
持統天皇が築いた藤原京の姿を見ていきましょう。
こちらの木が生えている部分は巨大な建物の基礎の跡です。
この上に天皇の宮殿大極殿がありました。
古代日本で最大級の建物です。
大極殿の前には広大な空間が広がっています。
東京ドーム3つ分の広さです。
ここは朝堂院という国の正式な儀礼空間。
持統天皇はここで朝礼を行い出勤してきた官僚たちに命令を下しました。
そしてこの広場の東西には官僚たちが勤める官庁街が広がっています。
東西南北5.3km四方の藤原京。
藤原宮跡の真ん中です。
とにかく広いです。
今の朝礼にあたる儀式をここで行っていたそうなんですが…。
藤原京は実は大きな謎があるんです。
それは天武天皇の構想では唐の都長安を意識して築かれたはずなんですが実際には長安とこの藤原京あまり似ていないんです。
特に異なるのが宮殿の位置。
長安は北の端なのに藤原京は真ん中に位置しています。
長安がモデルのはずなのにどうしてこんなに違うのでしょうか。
藤原京がつくられた時期というのは実は…663年倭国は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗を喫します。
この後遣唐使は中断。
倭国は唐と30年以上国交断絶に陥っていました。
中国の古典の一つ「周礼」。
ここに紀元前1000年の古代王朝が理想とした都の形が記されています。
藤原京とほぼ同じ大きさです。
つまりこの理想の都をそのまま実現したのが持統天皇の藤原京だと考えられるのです。
藤原京の大極殿から500mほど離れたところです。
端から端までがおよそ20m。
ちょっとした広場に見えますがこれ広場ではありません。
道なんです。
古代の道路。
藤原京のメインストリート朱雀大路の跡なんです。
こうした巨大道路は都だけではなく全国に及んでいた事が分かってきました。
群馬県安中市。
持統天皇が生きた飛鳥時代の地層から直線道路の痕跡が発見されました。
道路の幅は12mという広さ。
道路の遺跡はこの周辺でいくつも発見されておりそれを結ぶと30km以上も一直線だった事が分かります。
更に九州の吉野ヶ里遺跡の近くからも巨大道路が発掘されています。
小さな丘なら躊躇なく切り崩しあくまで一直線に道を通した事が分かります。
全国から発見された道路の遺跡は東北地方から九州まで…その起点は全て藤原京です。
この時には…天皇を中心として…要はその国の命令によっていかなる大規模な工事というのも達成する事が可能であったと。
恐らくこれだけ立派でまっすぐな道を造った国家の力をですね人々に見せつけるという権威の象徴というような意味合いもあったと思います。
全国に広がる巨大道路網によってたとえ外国が攻めてきたとしても素早く対応する事が可能になりました。
急ぎの使者は「駅鈴」と呼ばれる鈴を鳴らし道路を走り抜けます。
(駅鈴の音)
(馬のいななき)帝のお使いじゃ!どけどけどけどけい!こうして九州から都まで最短5日間で結ぶ事ができるようになりました。
藤原京が完成すると持統天皇は大極殿で壮大な完成式典を催します。
そしてその場に周辺諸国の使節を招きました。
これが大急ぎでやらなければいけない…ここを下手すると我が国はなかったかもしれない。
明日香村にあるこの古墳。
讃良持統天皇が先に亡くなった夫天武天皇を葬るために造ったものです。
後に持統天皇自身もこの墓に葬られる事になります。
しかしなぜ2人一緒に葬られたのでしょうか。
夫婦だから当然?いやそれ以上に持統天皇の深い考えがあったのです。
藤原京の造営半ばで亡くなった天武天皇。
讃良は夫のため丸1年を費やし古墳を築き上げました。
古墳が築かれたのは藤原京から4kmも離れた山深い里でした。
なぜこのような場所を選んだのでしょうか。
考古学者の猪熊兼勝さんは長年飛鳥地方の古墳と藤原京の発掘に携わってきました。
猪熊さんはこの古墳の位置を正確に計測すれば謎が解けると考えています。
値はえ〜と135度48分47秒ですね。
天武・持統天皇陵の位置は東経135度48分47秒。
次に猪熊さんがやって来たのは藤原京。
その中心地である大極殿跡で測定します。
ちょうどこの辺りが藤原宮の中軸線になります。
現在135度48分44秒ですね。
藤原京の大極殿は東経135度48分44秒でした。
大極殿の経線と天武・持統天皇陵の経線を合わせると4kmも離れた2つの場所がほぼ一直線上に収まります。
ここまでの一緒にご相談してきたものがここまで出来たんですよというような事を話をされたんではないかなと。
持統天皇讃良が藤原京の大極殿に立った時その視線の先にはいつも夫の眠る墓がありました。
そして夫の天武天皇が亡くなってから16年の後。
持統天皇の亡骸は夫天武天皇が眠るこちらの古墳に納められました。
他の天皇陵と同様にこの古墳も厳重に守られていて今では中をうかがい知る事ができません。
しかし鎌倉時代にそれを目撃した記録が残されているのです。
天武・持統天皇陵内部の貴重な記録です。
中の造りや広さに加えて葬られた人物の体格まで詳しく記された他に例のない史料です。
この記録から古墳の中を再現しました。
麻布を張り漆で固めた当時最高級の棺。
その傍らには金メッキされた銅の入れ物。
この2つは何を意味するのでしょうか?その謎を解くヒントが「続日本紀」にあります。
そこには「持統天皇は火葬の上天武天皇と一緒の墓に葬られた」と書かれています。
つまり朱色の棺に眠る亡骸は天武天皇。
金銅の容器に納められているのは火葬された持統天皇の遺骨と見る事ができます。
当時の日本では棺に葬るのが一般的で火葬はほとんど例がありません。
その理由はどこにも記されていません。
持統天皇の生涯を描いた「天上の虹」。
作者の里中満智子さんは火葬の理由をこのように解釈しています。
愛する夫のためと信じ日本の国造りにまい進してきた持統天皇。
しかし晩年病にあらがう中で臣下や皇子たちの力がなければここまでたどりつけなかった事に初めて気付きます。
そして持統天皇は一つの遺言を残します。
それは自分が亡くなった後その身を火の中に置いてほしいというものでした。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」最後は…そんなお話でお別れです。
いや実にね見事だったと思いますしほんとにお疲れさまでしたと。
信念を持ってないとできない。
みんなに分かってもらいたいと思ったら何にもできないんですよ。
だからできればね100人いれば100人が賛成してくれる事というのは安心してできますが大抵の事はそうじゃないんですね。
だからよくぞやり通して下さった。
「ちょっとすいませんいろいろ勝手に描きまして。
何か言いたい事があったら是非出てきて教えて下さい」って言うんですがそういう神秘体験は一度もないです。
持統天皇は亡くなる半年ほど前夫に託された国造りの最後の目標を実現させます。
それは遣唐使の派遣。
白村江の戦いで断絶して以来33年ぶりの事でした。
遣唐使の一行は新しく生まれ変わった倭国について唐の役人たちへ懸命に説明します。
この時の遣唐使たちの言葉が唐の記録に記されています。
その中に歴史上初めて現れたのが「日本」という国号でした。
遣唐使に託された持統天皇最後の使命。
それは「日本」という新しい国の名を世界にアピールし国際社会と対等につきあいを始める事だったのです。
2015/06/10(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「古代日本 愛のチカラ よみがえる 持統天皇の都」[解][字]
里中満智子さんの漫画「天上の虹」の世界を、最新の考古学の知見で描く古代ロマン。1300年前の「日本誕生」の影にあった女帝・持統天皇と夫・天武天皇の「愛」の物語。
詳細情報
番組内容
今年、里中満智子さんのライフワーク漫画「天上の虹」が32年間の連載を終えて完結。主人公は1300年前の女帝・持統天皇(サララ)だ。近年、各地で発掘が進み、サララの時代は、倭国を「日本」へと脱皮させた大きな社会変革の時期だったことが考古学的に明らかになってきた。最古の貨幣、天皇号使用、巨大な首都建設…。そこにあったのは夫・大海人皇子(天武天皇)の遺志を生涯かけて実現しようとしたサララの「愛」だった。
出演者
【出演】里中満智子,大河内奈々子,【キャスター】渡邊あゆみ,【声】水樹奈々,吉野裕行
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:20520(0x5028)