社説:安保転換を問う 日本と米国
毎日新聞 2015年06月12日 02時30分
かつて韓国は、1960年代に米国の要請で、集団的自衛権を行使してベトナム戦争に派兵した。その結果、約5000人が戦死したといわれ、大きな傷を負った。
集団的自衛権の行使は、国家の歴史や運命、国民の生命に直結する。米国に付き従うことが国益だ、との一言ではすまされない。
◇身の丈にあった関係を
「対等な同盟」を目指すなら、日本の負担という側面にも目を向けなければ、公平ではない。
安保条約は米国に日本防衛義務を課す代償として、広大な基地を提供する仕組みだ。加えて日本は「思いやり予算」という形で、毎年巨額の税金を光熱費などに支出している。日米安保は完全に双務的ではないにせよ、日本は世界に例を見ないほど手厚い受け入れ国支援を果たしている国である。憲法の枠内で、ぎりぎり可能な負担を続けてきたのだ。米国も、日本を失えば、世界規模での戦争の遂行はできない。
むしろ、日米の負担のバランスを相対化して見直す方が、健全な同盟への一歩ではないのか。
米国のアジア太平洋での国益は、地域の安定と米国の経済的繁栄であり、中核は中国との戦略的共存だ。日本が対中関係を「競争と対立」だけで考えるなら、米国の国益と衝突する危険すら出てこよう。
日米同盟は、この先も日本外交の支柱である。米国との絆を失えば日本の平和も繁栄もない。
だがそれが、いざという局面で常に米国の決断、米国への配慮を優先することを意味するなら、安保を米国任せにしてきた冷戦期の思考停止外交と何も変わらない。
日米同盟は大切だが、それが私たち一人一人の命や暮らしと関わるのは、一体どういう局面か。米国の戦争に協力すべき場合と、協力をすべきではない場合の違いは何なのか。その二つを正しく区別するだけの知恵と判断力が、今の日本の政治に備わっているのかどうか。
危機が複雑化し、紛争の形態も国益の定義も、一様ではない時代だ。歴史がどんな展開を示すかわからない中、日本の国柄や身の丈にあった米国との関係を、じっくり考える時が来ているように思う。