問題と思ったのはこの記事です。
「在特会のヘイトも守るべき」ドワンゴ川上量生に反戦平和のジブリは…鈴木敏夫を直撃! 2015.06.11
http://lite-ra.com/2015/06/post-1180.html
まず,大きくここが違う。
リテラと「しばき隊」の主張が必ずしも同一というわけではないが(それは本サイトの野間易通氏インタビューをお読みいただければ明らかだろう)、しかし、在特会の差別・虐殺扇動と「しばき隊」の反差別の運動を「どっちもどっち(在特会もしばき隊もクソ)」と等価に並べることのできる神経は、まったく理解できない。
しかも、川上氏が狡猾なのは、この問題を「発言の自由」の問題にすりかえていることだ。
川上氏は私の知る限り最初から「発言の自由」の論理の中で説明されていて,その上で在特会もしばき隊も同じ論調であることをそれぞれに非難されています。
リテラは,しばき隊を応援する側に立っているから,恣意的に曲解して,”在特会の差別・虐殺扇動と「しばき隊」の反差別の運動を「どっちもどっち(在特会もしばき隊もクソ)」と等価に並べること”ができないのです。
しばき隊の人々は,反差別だからとして,議論をする以前にそもそも在特会の発言自体を制限せねばならないとまで言っています。
けれどもこの主張を安易に認めてしまうと,それでは”反差別”という名の下に,権力に都合の悪い情報がなるたけ削除できてしまう世の中になってしまいます。
ドイツも,ナチスについては言論統制があるそう(”ドイツではヒトラーを礼讃したり、ナチスの意匠や出版物を流布すると民衆扇動罪(ドイツ刑法第130条)で違法とされている。これは「戦う民主主義」(民主主義を否定することを認めない民主主義)と呼ばれている。” Wikipediaより)なのですが,ドイツ在住経験のある私はこの件をすごく気持ち悪く思ってきました。
歴史上の失敗と既に分かっていることであっても,後世で人々はやはりそれを魅力的に思ってしまうことが度々あるのは間違いなく,その危険についてはその都度民主的に議論していくしかないと考えたからです。
民主的に議論せねば,人々のウィルスに対抗する力が弱まり,ある時突然歴史上の失敗であるはずの意見を強力に推す者が出てきたとき,誰も反論できなくなるのではないか?
3年前に,そこまで考えていました。
そしていまの日本は,人々の戦争というウィルスに対抗する力が,憲法第九条の庇護の下で弱まった結果,突然歴史上の失敗であるはずの意見を強力に推す安倍政権が出てきて,人々は反論すれども政権の暴走を止められるか危うい状態になってしまっているじゃないですか!
記事に戻って。最後の締め方も恣意的です。
──では一点だけお願いします。クリエーターとして、差別的な言説は表現の自由の範疇だと思われますか。たとえば、「朝鮮人殺すぞ!」とか、そういう……
鈴木氏は、振り返り、質問を最後まで聞くまでもないと言わんばかりに、強く、こう言い放った。
「俺は、大っ嫌いです」
鈴木プロデューサーは、川上氏とニコ動のヘイト問題に言及することを慎重に避けたが、しかし同時に、最後には強い語調で差別言説に反対する意思を示したのだ。エントランスにいた周囲の人々がふりかえるほど響いたその声には、確かに“鈴木敏夫の思想”のようなものが表れていた。直接聞いた者として、そう印象を述べておきたい。
川上氏も,在特会は嫌いだと最初から言っているのです。
それにも関わらずリテラは,いつの間にか川上氏は在特会を認めているように書いています。
もちろん,リテラが指摘するように,ニコ動が在特会のアカウントを認めてきたのは事実です。
しかし,インターネット上で在特会の主張がさほど盛り上がっていないことからも,在特会を認めたからといって,リテラが言うようにニコ動の業績に連動するかといえばしないのです。
リテラがニコ動に対して主張できるとすれば,在特会のアカウントを残したまま,しばき隊のアカウントの削除をニコ動側が行った場合に,明らかに平等ではないとは言えると思います。
最後に,川上氏の発言の趣旨と同じと思うのですが,私からも。
私は,在特会の発言自体はなんら良くないと思います。
けれども,歴史上の失敗を繰り返さないための,いわば予防注射のような役割として人々の間で議論するために,その主張を妨げることまではしないほうがいい,と考えます。
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