私にとっては、心の癒し、体の癒し、精神的な癒し、すべての癒しとなっている存在である聖書。
信仰とは?聖霊によるバプテスマとは?天国とは?世の光とは?
:クリスチャンになれば信仰を実で表していくことが求められる。
変形性膝関節で人工関節で歩行器を押して集会に来られた姉妹から集会の帰りに
一緒になった。その姉妹から「私のような年寄りは何の役にも立たなくて…」
「奉仕もあまり出れなくて、、、」とJehovah'sに申し訳なさそうに話しをされる。
その姉妹は私の司会者以上に気を遣い、いつも声をかけて下さった姉妹です。
私はそのとき、姉妹に「聖書のどこにも立派な人が救われないなどと書いてもいないし、
たくさん奉仕をしたからといって目に見える働きをする、ということだけではなくて、
会衆の方のために、みんなのために祈る、掃除をする、姉妹はいつも研究生の私に
励まして下さってこれもJehovah'sから喜ばれる奉仕であり、目に見える働きだけが
奉仕ではないこと。
バプテスマを受けた姉妹はJehovah'sのご意志を行なっていくのが第一ですが
バプテスマは入り口で、イエスを信じて生きていくことがクリスチャンです。
マタイ8章16節から、イエスと言うパンひとつで十分であるという真実が書かれています。
イエスと弟子たちとのやりとりがあります。
旅の途中に弟子たちが、食料であるパンを準備するのを忘れたことに気付いた時、
イエスから言われた一言に、弟子たちは、パンを持っていないことを怒られたと勘違いし
た場面です。その勘違いに対し、イエスは、私は二度もわずかな食糧で何千人という
人たちを満腹させた、その奇跡をあなたがたは目の前で見ていたのに、
なぜパンが一つしか無いといって右往左往するのか、そんなことで議論する必要は
無いと戒めておられます。
マタイ8章17節で、イエスは「なぜ、あなた方はパンを持っていないことについて
論じているのですか。分からず,意味を悟れないのですか。あなた方の心は
理解が鈍いのですか。18 『あなた方は,見えないのですか。
耳があっても聞こえないのですか』。
この例えはよくこの時の弟子たちがそうだったように、自分の思いや悩みによって
今、自分たちがパンを忘れて来たということで心が一杯になっています。
何か失敗をしてしまった時にそのことで頭が一杯になってしまうことがあります。
「分からず,意味を悟れないのですか。心がかたくなになっているですか」と
自分勝手な思い込みに囚われていることを、イエスは弟子達に教えています。
私は姉妹にこのマタイ8章16-23節のことを帰り道に話しをしました。
自分の思いで心が一杯になってしまうと、そこにはJehovah'sやイエスの言葉が
姉妹がまっすぐに入って来なくなり、自分の思っていること、感じていることに引き寄せた
聞き方しかできなくなってしまうと、
奉仕ができなくても、気配りと優しさで姉妹のその姿をみて、聖書の教えや
Jehovah'sやイエスを見る人もいると思うよと。
自分の思い込みや価値観から解放されて、初めてJehovah'sやイエスの言葉が心に
入り、ひとつのパンとイエスと言うパンひとつで十分であるという真実を。
私のような進歩しない研究生は、終わりに滅ぼされ、バプテスマを受けないと救われない
と、自分自身を受け入れてくれないとそう思って予習を一生懸命にした時期があった。
しかし、マタイ8章18節では、18 『あなた方は,見えないのですか。
耳があっても聞こえないのですか』。
聞こえていないとイエスは弟子に言われています。
自分の思いによって心が一杯になっているとき、本当に見るべきものが見えなくなり、
本当に聞くべきことが聞こえなくなってしまうということ。
組織を地上に遣わされた神からの組織として組織を神と考えてしまいがちで、
神のみ名などより、組織の評判の方を大切にしてしまうのでなく。
「自分の思い」で精一杯で集会へ通っていた。
自分の思いに捕われていたのであって、本当に見つめるべきことを見てはいなかった
気がする。
バブテスマはクリスチャンの入口です。イエスの後についていく弟子となってが
「日々新たにされる」人々であるはずですが、日々の生活に追われ、自分のことしか
考えられないのもまた人間です。
ふさわしいかどうかをまず思うことが大切は、、、。
自分の価値観で神の業を解釈してしまう。自分が納得できる次元に引き下げてしまう
そういうことがなく、自分自身を「耳が聞こえず、舌の回ない人」にならないように。
神の言葉が聞けていないために、わたしたちの語る言葉も、人を生かす、命の言葉に
なっていないこと。語る言葉が人を生かす、命の言葉になっていないのが問題であり、
人を苦しめ、悩ませる言葉を語っていないかどうか、、。
日々の生活でいつも自分はキリストに従う者・キリストに倣う者としての態度として
罪に支配され、その虜となって、神の言葉に背を向けて、その言葉を語ることの
できない人にならないように。
聖書のあらゆる部分にキリストの姿を見出し、その救済の歴史という
神の計画の中に、自分自身が覚えられていることに気付く。
そして、敵を愛していくこと、誰でも簡単にできるようなら、
「どうしてこういうことを言うのか」という疑問も出てこなかったように想われます。
それほど、この言葉の実行は難しいと言える。
クリスチャンといえどもこれを実行出来る人は少ないのではないでしょうか。
どうして、できそうもない、完全な人間であるイエスの深い愛。
この教えと神のことばは二千年を経った今でも、これらの言葉は色褪せることなく
光を放っていると言えるでしょう。
そしてその光こそは、「わたしは世の光である」と言われた光であるように。
地の塩と世の光になるように。