15) 秦氏と物部氏と八咫烏
15 秦氏と物部氏と八咫烏
陰陽道というものがある。日本の陰陽師といえば、映画化もされた安部清明を思い起こすであろう。陰陽道とは・・占星術・・・・。日本に伝わった陰陽思想は中国ともいわれるが、平安時代に阿倍清明等が陰陽道で使用したのは、「迦波羅(カバラ)」という数秘術を含む神秘思想が根底があり、これの使い手は「漢波羅(カンパラ)」と呼ばれる。
日本ではこの「漢波羅」には秘密組織があり、その名を「八咫烏(ヤタガラス)」という。
「八咫烏」で思い起こすのは、そう古事記、日本書紀で神武天皇が大和地方のニギハヤヒや長すね彦等を熊野経由で攻め入る際、困っていたときに手助けした種族が八咫烏であったのだ。
物語では道に迷った神武天皇を霊鳥である「八咫烏」が救ったとされ、その霊鳥の姿は3本足の烏である。現代日本人で3本足の烏と聞いてすぐに思う付くのは、そうサッカーワールドカップで日本チームのユニフォームの胸につけられているシンボルマークであろう。そうあの3本足の鳥は八咫烏をシンボルで使っているのだ。
「八咫烏」は「金烏(きんう)としても表される。中国神話では金烏は太陽に棲むとされ、太陽神(天照大神)を崇める、日本神道を裏で仕切る相応しい呼称ではないか。現在秘密漢波羅組織としての「八咫烏」の人数は約70人だそうである。上位には12人の大烏と呼ばれる重要メンバーがいる。マジェスティック12(トゥエレブ)にシンクロしているのが面白い。
ちなみに、MJ-12(マジェスティック・トゥウェルヴ、Majestic 12)とは宇宙人に関する調査や、宇宙人との接触や交渉を、過去60年に渡って秘密裏に行ってきたとされるアメリカ合衆国政府内の委員会の名称である。
八咫烏最上段のトップスリーには特別に「金烏(きんう)」という称号が与えられている。「金烏」というのは、神武天皇が長すね彦と戦ったときに、突如天空から飛び降りてきた金色の鳶(とび)が神武天皇の槍先に止まり、これが勝利をもたらしたとされる。
この神話が元で、日本国旗を掲げる旗ざおの先端に、鳶の替わりに金色の玉をつけ、金烏を象徴しているのである。
では八咫烏は何を業としているのか。ご承知か否か、日本の天皇陛下は日本神道の最高神官(あまたの宮司のトップ)であり、公務の傍ら様々な祭祀を司っている。いわば表の祭祀を業じているが、日本では戦後米国から国家神道を拒否され天皇は国の象徴となっているので、表の祭祀もあまりオープンにされていなし知らない人が多い。
この天皇家が行う祭祀を裏でしっかりフォローするのが八咫烏であり神道祭祀を一手に引き受けているそうである。
ではその八咫烏はいったい何者で何族であろうか。八咫烏と称する一族は、実は「賀茂氏」が多い。
賀茂長明が有名だが、あの賀茂氏である。その賀茂氏の始祖が八咫烏で、別名を賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)といった。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を主祭神の一人として祭っている神社は京都の下賀茂神社である。
下賀茂神社と聞いてピンとこないかもしれないが、京都で毎年繰り広げられる最大の祭りで、日本3大祭りに入っているか「葵祭り」があるが、その葵祭りという祭礼を取り仕切っているのが、八咫烏である賀茂氏であり、鴨(鳥)族と言われている。
京都では葵祭りの祭礼を、松尾神社と日吉神社でも行っている。これら下賀茂神社と松尾神社並びに日吉大社はいずれも秦氏三所明神と言わる。
秦氏が突然出てきたが、『秦氏本系帳』によれば、もともと葵祭りは秦氏の祭礼であったが、賀茂氏が婿入りをしたとき以来、主催を譲ったそうである。従って今では秦氏と賀茂氏は一族となっている。
さて、下鴨神社は、「糺(ただす)の森」と呼ばれるが、他に「元糺の森」と呼ばれる境内があるが、それは京都の太秦(うずまさ)にある「木嶋坐天照御霊神社(このしまにいますあまてるみたま)」、通称「蚕の社(かいこのやしろ)」である。
ここも秦氏が創建しているが、元糺の森には日本では珍しい「三柱(みはしら)鳥居」が建てられている。この三柱は何を意味するのか。秦氏は原始キリスト教を奉じるユダヤ人であり、ユダヤ教の神秘主義の奥義である「カッパーラ」に基づけば「御父と御子と聖霊」を象徴し、絶対三神を表している。(飛鳥氏による)
さて、では秦氏は何者か?日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓 = 秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)
また一説には五胡十六国時代に苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある(wiki)。
次に八咫烏にはもう一つの氏族が入っている。それは秦氏よりも早くに日本に中国から入ってきた「徐福」等の一族である。紀元前三世紀に中国全土を統一したのは、そう「秦の始皇帝」だが、その始皇帝の命を受けて、徐福らは東海の蓬莱(ほうらい)山にあるといわれた不老不死の仙薬を入手すべく、3千人の童男童女と技術者を伴って船出して、ついには中国には戻らなかった。
中国から見て東海にある島とは、そう日本であり、蓬莱山とは富士山である。さて、わが国日本では、青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。
また、朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある(wikwiより)。
徐福らは古代日本にやってきたのは間違いないようである。そしてこの集団は技術者や祭祀者を伴っており、後に日本では「物部」氏という大きな豪族集団になって行った。
八咫烏は「物部は徐福とともに来たれり」と言い伝えている。
正当武内文献によると、物部氏は出雲族であり、前後に日本に戻っていたユダヤ族(セム系古代イスラエル人。一方現在のイスラエル人は白人系のアシュケナジーで別種)と仲が良かったそうである。しかし、ユダヤ族と仲が良かったのではなく、言葉も同じ同族だったのだ。(飛鳥氏による)
さて、物部氏はどこから来たのだろうか。天孫族は渡来系であるが、実は物部氏も天孫族より比べ500年~600年前におそらく朝鮮半島から渡来してきた集団であり、最初は九州北部を拠点にした海洋民族といわれている。
彼らは武装戦闘集団でもあり、武具として銅剣、銅鉾を大量に保有していた。九州北部を拠点にしてその後は東西二方面分かれて移動し、東ルートは四国の伊予に入り、讃岐、土佐、阿波に分布し、淡路島に進み、紀伊半島や大和に入った。
これはニギハヤヒの東征経路になっている。西ルートは筑後平野から肥前に入り、北上して壱岐、対馬に移っている。これら二ルート上には物部一族が当初奉祀した布津神社(フツ)神社が多数存在する。
伊予の東予市石延にはずばり布都神社があり、阿波には建布都神社(タケフツ)、壱岐の石田郡にはなんと物部布都神社(モノノベフツ)がある。物部一族の神宝には「神剣・布都御魂(フツノミタマ)」があり、物部氏の宗廟である、石上神宮でご神体の布都御魂神として祀られている。四国には各地に物部系の国造(クニノミヤッコ)がいたことの記録が残っている。
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始めました。ブログをやっているものですが大変優れた記事も多く拙稿でURLを明記した上でコピペ可能でしょうか?
もちろん当方の解説や注をつけた上でのことです。万一不可の場合のみメアドにご連絡ください。
小野寺拝
投稿: 達人(WEB)のHN | 2015年6月11日 (木) 13時05分
シリコンキッドです。お申し越しの件を了解しました。やられている、ブログを教えて頂ければ幸いです(^o^)
投稿: | 2015年6月11日 (木) 20時39分
ありがとうございます
URLは以下の通りです
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/9.html
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小野寺拝
投稿: 達人(HN) | 2015年6月12日 (金) 00時06分