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16-1) 日本と天皇と朝鮮

弥生人は朝鮮半島から入ってきたと日本の教科書で教えられている。原日本人や縄文人やアイヌ人が主体だった縄文時代は平和だったが、朝鮮半島から弥生人が大挙して渡来して来た時代には相当大きな戦争が起きたと考えるのが当然であろう。がしかし、欧米や中国に見られるように、敵方を抹殺せず、争いながらも種々の技術の交換とともに互いに交流を繰り返した結果人種の融合が起こり、遺跡によっては縄文人と弥生人の両方の遺伝子を持つ新しい人種のDNAが数多く見つかっているという。それでは弥生時代以降はどうだったのであろうか、特に古墳時代は奈良時代はどうなのか。この時代も朝鮮半島からの民族移動や移民は繰り返されていたのは当然であろう。

神話の天皇は東遷している。東遷の出発点はどこだろうか。九州である。諸説はあるが、高千穂には高天原があったとされている。いわゆる古事記、日本書紀の天皇は九州から東遷しているのである。では、九州に天下ったとされる天皇や支える部族はどこから来たのか。当然ながら朝鮮半島を経由していると考えるのが妥当であろう。朝鮮半島を経由はしているが、7000年~1万年前に日本の地から出発し、シュメールの地に移り、そして数千年を掛けて戻ってきている。但し、年数を掛けているので、経由した国々で半永住しながらの移動であるために、いわゆる昔の朝鮮にあった、百済人や新羅人として戻って来た一族もあり、当然ながら一緒に朝鮮半島土着の一族も渡来している。よって大陸系で戦争好きの気風を多分に持っているようだ。

さて、大和族の神武天皇は神倭いわれ彦と呼ばれている。以下はアメノコトネのチャネラー樋口氏に説である。氏によると神武の生まれは次の通りである。当時の九州、四国周辺には三つの大きな国があった。一つ目は大分あたり(宇佐神宮あたりか)で朝鮮渡来系が多かった。二つ目は天孫降臨した大和族が高千穂から降りた西都原あたり、そしてユダヤ10氏族の先祖(大陸移動して古代イスラエル人となった)たちが作っていた四国阿波あたりの国である。この阿波国(後代に付けられた国名)は大和族のアマテラスの流れで同族だった。当時の伊勢あたりに勢力を持っていた一族(元伊勢)も同族だった。(氏の説にはないが、別途に後の大和を中心にした中国、近畿、冨山は出雲族が支配していたか?)

神武は九州(西都原か)で生まれた。母親は朝鮮人(加羅国?)で、父親が略奪婚した相手だ。当時は朝鮮半島と交流しており、また、略奪婚はあたりまえの時代であったのだ。
ちなみにモンゴルの国祖チンギス・ハーン( 1162年頃 - 1227年8月18日頃)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年))だが、母親は 父親が敵のメルキト族から略奪して来たとされているのは、有名な話だ。
神武の兄で長男は熊襲の母親との間の子。次男の母親は倭人の有力者の娘だ。当時の北九州は朝鮮半島から渡来した集団が多く、朝鮮系の神武は交渉時に言葉の不自由はなかった。神武には八咫烏が付いていた。神武が東遷時に瀬戸内海を渡り四国阿波を経由したが、その時に道案内を手伝ったのが忌部族である。神武が大和に入った後は、神武の母親が朝鮮人だったため朝鮮系の人々が大和辺りに多数渡来した。

第10代天皇崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと))(紀元前97年 - 同68年)は南朝鮮(南加羅:任那の王族)から来た古代イスラエル人で、北九州経由で大和に入った。

次は第14代仲哀天皇(192年 - 200年)の頃の話である。北陸の総鎮守で第14代仲哀天皇の行宮の跡と伝えられる気比(けひ)神宮(大宝2年(702)創建)の境内に角鹿(つぬが)神社があるが、ここには朝鮮半島から渡来した加羅(伽耶・任那)国の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)」で別名「ウシキアリシチカンキ」が祀られている。

『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確か。
『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。
気比神宮の祭神は(伊奢沙別命(いざさわけのみこと=気比大神=「天日槍(アメノヒボコ)」を主祭神としている(wiki)

これに関連して、『記紀』に新羅系渡来人「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承がある。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いざさわけのみこと)として祀った」といわれている。
天日槍という名で呼ばれる新羅系の渡来人集団は北部九州の糸島半島辺りにあった伊都国に上陸し、ここで勢力をつけたのち豊前香春、そして宇佐から瀬戸内海を渡って淡路、播磨、難波、そして近江を経由してこの若狭に至る。そして但馬の出石を落ち着き先とした。(林屋辰三郎氏ら)

播磨風土記にによると、後発渡来のヒボコ族と先住支配者の出雲族が播磨の地で大戦争になったと記されている。
ヒボコの軍勢は伊予国(阿波国)に大挙して住んでいた百済系渡来人と合わせると8千人の兵だったそうだ。8千人は尋常の人数ではない。当時にはこれほどの渡来人がいたのだ。
そして、戦いの後に出雲族から奪った土地に建国したのが吉備(ヒボコ)王国となっている。
現在兵庫県神崎郡に八千種という地名があるが、この時の8千人の軍隊にちなんで名づけられている。
また、播磨風土記によると、ヒボコ系のキビツ彦が本拠地にしたのは、飾磨郡(シカマ)辺りで、新良訓(シラクニ:新羅系の人が住んだ)、巨智(コチ:百済系渡来人巨智氏が住した里)、韓室(カラムロ)の里などの地名が残っている。
この戦いの時期は3世紀ではなく、弥生時代中期と思われる。(吉田大洋氏)

次ページに続く

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