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日本と天皇と朝鮮

 投稿者:Legacy of Ashes の管理人  投稿日:2015年 6月12日(金)00時12分28秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://silicon-kid.cocolog-wbs.com/blog/2012/03/post-ca9b.htmlさまより許可を得て転載

関連記事:秦氏と物部氏と八咫烏

http://silicon-kid.cocolog-wbs.com/blog/2012/03/15-edc0.html

小和田家は朝鮮族だったのか

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3283

九州高千穂のホホデミ王朝と神武東征

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/845.html

弥生人は朝鮮半島から入ってきたと日本の教科書で教えられている。原日本人や縄文人やアイヌ人が主体だった縄文時代は平和だったが、朝鮮半島から弥生人が大挙して渡来して来た時代には相当大きな戦争が起きたと考えるのが当然であろう。がしかし、欧米や中国に見られるように、敵方を抹殺せず、争いながらも種々の技術の交換とともに互いに交流を繰り返した結果人種の融合が起こり、遺跡によっては縄文人と弥生人の両方の遺伝子を持つ新しい人種のDNAが数多く見つかっているという。それでは弥生時代以降はどうだったのであろうか、特に古墳時代は奈良時代はどうなのか。この時代も朝鮮半島からの民族移動や移民は繰り返されていたのは当然であろう。

神話の天皇は東遷している。東遷の出発点はどこだろうか。九州である。諸説はあるが、高千穂には高天原があったとされている。いわゆる古事記、日本書紀の天皇は九州から東遷しているのである。では、九州に天下ったとされる天皇や支える部族はどこから来たのか。当然ながら朝鮮半島を経由していると考えるのが妥当であろう。朝鮮半島を経由はしているが、7000年~1万年前に日本の地から出発し、シュメールの地に移り、そして数千年を掛けて戻ってきている。但し、年数を掛けているので、経由した国々で半永住しながらの移動であるために、いわゆる昔の朝鮮にあった、百済人や新羅人として戻って来た一族もあり、当然ながら一緒に朝鮮半島土着の一族も渡来している。よって大陸系で戦争好きの気風を多分に持っているようだ。

さて、大和族の神武天皇は神倭いわれ彦と呼ばれている。以下はアメノコトネのチャネラー樋口氏に説である。氏によると神武の生まれは次の通りである。当時の九州、四国周辺には三つの大きな国があった。一つ目は大分あたり(宇佐神宮あたりか)で朝鮮渡来系が多かった。二つ目は天孫降臨した大和族が高千穂から降りた西都原あたり、そしてユダヤ10氏族の先祖(大陸移動して古代イスラエル人となった)たちが作っていた四国阿波あたりの国である。この阿波国(後代に付けられた国名)は大和族のアマテラスの流れで同族だった。当時の伊勢あたりに勢力を持っていた一族(元伊勢)も同族だった。(氏の説にはないが、別途に後の大和を中心にした中国、近畿、冨山は出雲族が支配していたか?)

神武は九州(西都原か)で生まれた。母親は朝鮮人(加羅国?)で、父親が略奪婚した相手だ。当時は朝鮮半島と交流しており、また、略奪婚はあたりまえの時代であったのだ。
ちなみにモンゴルの国祖チンギス・ハーン( 1162年頃 - 1227年8月18日頃)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年))だが、母親は 父親が敵のメルキト族から略奪して来たとされているのは、有名な話だ。
神武の兄で長男は熊襲の母親との間の子。次男の母親は倭人の有力者の娘だ。当時の北九州は朝鮮半島から渡来した集団が多く、朝鮮系の神武は交渉時に言葉の不自由はなかった。神武には八咫烏が付いていた。神武が東遷時に瀬戸内海を渡り四国阿波を経由したが、その時に道案内を手伝ったのが忌部族である。神武が大和に入った後は、神武の母親が朝鮮人だったため朝鮮系の人々が大和辺りに多数渡来した。

第10代天皇崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと))(紀元前97年 - 同68年)は南朝鮮(南加羅:任那の王族)から来た古代イスラエル人で、北九州経由で大和に入った。

次は第14代仲哀天皇(192年 - 200年)の頃の話である。北陸の総鎮守で第14代仲哀天皇の行宮の跡と伝えられる気比(けひ)神宮(大宝2年(702)創建)の境内に角鹿(つぬが)神社があるが、ここには朝鮮半島から渡来した加羅(伽耶・任那)国の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらひと)」で別名「ウシキアリシチカンキ」が祀られている。

『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確か。
『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。
気比神宮の祭神は(伊奢沙別命(いざさわけのみこと=気比大神=「天日槍(アメノヒボコ)」を主祭神としている(wiki)

これに関連して、『記紀』に新羅系渡来人「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承がある。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いざさわけのみこと)として祀った」といわれている。
天日槍という名で呼ばれる新羅系の渡来人集団は北部九州の糸島半島辺りにあった伊都国に上陸し、ここで勢力をつけたのち豊前香春、そして宇佐から瀬戸内海を渡って淡路、播磨、難波、そして近江を経由してこの若狭に至る。そして但馬の出石を落ち着き先とした。(林屋辰三郎氏ら)

播磨風土記にによると、後発渡来のヒボコ族と先住支配者の出雲族が播磨の地で大戦争になったと記されている。
ヒボコの軍勢は伊予国(阿波国)に大挙して住んでいた百済系渡来人と合わせると8千人の兵だったそうだ。8千人は尋常の人数ではない。当時にはこれほどの渡来人がいたのだ。
そして、戦いの後に出雲族から奪った土地に建国したのが吉備(ヒボコ)王国となっている。
現在兵庫県神崎郡に八千種という地名があるが、この時の8千人の軍隊にちなんで名づけられている。
また、播磨風土記によると、ヒボコ系のキビツ彦が本拠地にしたのは、飾磨郡(シカマ)辺りで、新良訓(シラクニ:新羅系の人が住んだ)、巨智(コチ:百済系渡来人巨智氏が住した里)、韓室(カラムロ)の里などの地名が残っている。
この戦いの時期は3世紀ではなく、弥生時代中期と思われる。(吉田大洋氏)

垂仁天皇5年には、百済王の温羅が士族を連れて日向にわたり、後に吉備王国に来た。そして、悪人を集めて山城を築き、盗賊として強盗をし、国中の美人を妾ににし、数十人を集めて淫楽したので、国民は大いに苦しんだという記録もある。(吉備津彦神社伝)

日本書紀によると、垂仁天皇三年に「天皇がヒボコに播磨国の宍粟村(シザワムラ)と淡路島の出浅村(イデサワムラ)を与えた」とある。

「天日槍(アメノヒボコ)」もしくは「天之日矛」の子孫は息長氏となり、息長宿禰王(オキナガノスクネノミコ)の娘の神功天皇(仲哀天皇の后:神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日)))は別名を息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)(『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと))と言い、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫。

『百済記』によると、 神功46(246、または366)年3月1日、斯摩宿禰を卓淳國に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久?(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。(wiki)

神功天皇は応神天皇の母とされており、子の応神天皇の后は息長氏の娘の息長中比売だ。ヒボコ(新羅)系は女性天皇を出したのだ。三韓征伐を指揮したと言われるが、新羅王朝の天日矛の正統な後継者の立場で日本を攻めないように祖国に挨拶して回ったのだ。

大相撲力士が参拝する神社は「大兵主神社」でケハヤと戦い勝者となったのが、ノミノ(トミノ)宿禰だ。これは単なる相撲ではなく、朝鮮渡来系との勢力争いだったのだ。ケハヤは当時は當麻(たぎま)村に住んでいたが、そこは渡来系帰化人が数多く住み、当然ケハヤは朝鮮渡来族の象徴的人物で地域に一大勢力を持っていた。當麻(たぎま)村からは当麻氏や坂上氏に繋がっているが、彼らの祖先は倭の漢氏(アヤシ)で遡れば開化天皇の皇子の彦坐(ヒコイマス)王後裔とも言われ天のヒボコ系だ。実は大兵主神社の主祭神は天のヒボコ(日矛)だ。
ちなみに相撲に負けたケハヤ一族は土地を天皇に没収され、ノミノ宿禰一族に与えられた。

天皇の祭祀には過去に朝鮮式が採用されていた。新羅(ヒボコ)系の天皇の時には、祭祀は朝鮮色があり、代表的なものは上代、二月十一日に行った「韓神祭(カラカミマツリ)」だ。この日朝廷では朝鮮の神を祀った。しかし、新羅系の天武天皇が崩御した後に、百済系の天皇になるとなぜかこの祭りは衰退していった。(吉田大洋氏「謎の出雲帝国」)

息長氏が聖地としたのは、もちろん新羅にゆかりの越前国の敦賀=角鹿(つぬが)である。
ヒボコを祀る神社は新羅神社、白(新羅のシラ=シロ)髭神社や白髪神社で、日本に120社もあるそうだ。(吉田大洋氏)。

第15代応神天皇(在位:270年 -310年)は百済の蓋ろ(コウロ)王の弟の昆支(コムキ)で、やはり北九州経由で大和に入ったが、政治的な配慮で当時に勢力を持っていた朝鮮の国々との国交を考えて招聘されたのだ。ただ、一説によると「加羅国の弗流(フル)王」というのもある。
さらに、「正統竹内文書」によると、応神天皇の父親は武内宿禰だそうであり、とすると武内宿禰も渡来系なのか。

第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、418年ー479年)時代。
雄略紀11年7月条
 百済から逃げて来るものがいる。貴信(くいしん)という。

雄略紀20年冬条
 高麗王は大軍をもって百済を滅ぼした。すこしの百済軍が残ったが、高麗王は「百済の国は日本(やまと)の国に仕えている。」と言ってそれ以上攻めなかった。
 百済記(百済の史書)によると(狛〈こま=高句麗〉の大軍が王城を攻めた。百済軍は敗れ王都を失い、王と王子たちは殺された。)

雄略紀21年3月条
 天皇は百済が高麗に敗れたと聞いて、任那国の別れの地・久麻那利(こむなり)を百済に割譲してお助けになった。

雄略紀23年4月条
 百済の文斤王(もんこんおう)がお亡くなりになった。天皇は百済王族の末多王(またおう)を可愛がっていたが、500人の兵に護らせて故国に帰らせた。東城王(とうせいおう)である。

第26代継体天皇(在位は507年 -531年)はやはり朝鮮半島から渡来したが、百済の蓋ろ(コウロ)王の弟の昆支(コムキ)の従兄弟で、昆支(コムキ)の弟の名前の余記を名乗って来日した。それは余記本人に実力がなかったために文武両道に優れた従兄弟が招聘された。

507年に河内の樟葉宮(くずはのみや)で即位した継体天皇は、ヤマト王権の本拠地である大和(奈良盆地周辺)に入都するまで19年の歳月を要している。天皇になった継体が、河内の樟葉宮で19年間も足止めをされた理由には諸説あるが、新たに朝鮮半島から渡来してきたことを考えると当然の流れであろう。特に大和の地の豪族の平群氏(新羅系か?)の猛反対にあっている。
継体天皇が朝鮮半島に百済を支援する軍隊を送ろうとしたのは、出自から当然のことである。

百済の蓋ろ(コウロ)王の弟の昆支(コムキ)こと応神天皇の来日以来、倭の天皇家と百済(旧多羅:クタラ:ピャクチェとは発音しない)の王家は親戚関係になり、親密な関係が築かれた。

一時期朝鮮半島では、群雄割拠した時代に、国の単位名を「羅」と称したようである。
百済は旧多羅:クタラ、伽耶は加羅:カラ、新羅はシンラ、安羅、済州島は独立国の耽羅:タムラ、などが事例だ。
日本書紀には日本の朝廷から耽羅:タムラの王子に五穀の種を下賜したと記録されている。

昆支(コムキ)こと応神天皇の第二子の末多王は百済に戻り東城王となっている。

チャネリングによると、蘇我稲目は先祖は高麗(コマ:日本では古来高句麗をコマと言った)から来たそうであり、日本には島根あたりから先祖が上陸した。

日本書紀では継体継体21年(527年)は「近江毛野(オウミケヌ)臣」に、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じた。
しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。しかし、物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、翌年の528年に、毛野はようやく6万の軍隊で任那の安羅に赴任し、新羅との間で領土交渉を行った。
しかし、毛野は驕慢な振る舞いが多く、新羅・百済両国王を召し出そうとしたが、両者が応じず失敗。逆に両国から攻撃される始末であった。事態を重く見た朝廷から帰還の命令が出されたが、これを無視。530年、再び召還されて応じるも、その帰途対馬で病死した。故郷の近江国野洲郡小篠原村に葬られたという。(wiki)

天皇家が百済と親密な関係があったため、第38代天智天皇(推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)の時には、新羅と唐の連合軍と戦った百済に味方して六六三年の白村江の戦いに参加した。
このころ中大兄皇子(後の天智天皇天皇)の近くに百済国の義慈王(ウィジャワン)の息子で皇子の豊璋が来日していた。これは百済の人質外交に近いが、日本との旧来の関係強化のためであった。

実は豊璋が中臣鎌足だという説がある。
中大兄皇子が百済復興の白村江の戦いで窮地に陥ったとき、側近の中臣鎌足が中大兄皇子の傍から姿を消していたのである。これは、豊璋=中臣鎌足のが百済に呼び戻され、白村江の戦いに参画し、その戦いに敗れた後に再び豊璋=中臣鎌足が姿を現しているからだ。
白村江の戦い直前、豊璋は百済の旧領地でのゲリラの中心人物である鬼室福信(キシルボクシン:百済国の義慈王(ウィジャワン)の従兄弟)の働きかけで本国に戻ったが、この時から白村江の戦いが終わるまで、中臣鎌足は歴史から姿をくらましているのだ。

さらに日本には百済皇子の「豊璋」(朝鮮名:「豊」;ブン)とその弟の「勇」が人質として来日していたが、兄の「豊璋」は戦争参加のために一端朝鮮に戻ったが、「勇「は残ったのである。これは百済王家の直系を残す戦略であった。
豊璋の一時帰国の時に朝廷は5千人もの軍隊を一緒に送り出している。半島に帰国した後に豊璋は唐・新羅連合軍と戦うために、日本の中大兄皇子や朝廷にさらなる援軍を申し出て、なんと2万7千人の大軍団の派兵要請に成功したのだ。
豊璋こと中臣鎌足からの要請であるがゆえと当時の天皇家が百済色が強かったために天智天皇が了承したのかもしれない。しかし、結果的にこの白村江の戦いは百済と日本の連合軍は大敗している。

日本書紀によると白村江の戦い後にかろうじて残り日本に逃げ帰る船団に、百済の重臣の余自信(ヨジニ)や木素貴子(モクソキシ)を中心に多くの難民が便乗して日本に来ている。
一方、朝鮮半島では残っていた百済王族は唐の軍隊に連れ去られ、滅亡した。

中大兄皇子は667年に近江に遷都し百済の元重臣たちを厚遇し、逃げてきた大勢の百済人を近江に移住させた。その子の大友皇子(弘文天皇)はなんと百済人70人を高級官僚に任じている。紗宅紹明(サタクショウメイ)は法務大臣にし、鬼室集斯(キシルチブサ)を学識頭(文部大臣)に任命した。
なんと、近江朝は百済王朝そのものだったのだ。

一方、日本に残った皇子豊璋(朝鮮名:豊;ブン)の弟の「勇」は朝廷から大阪枚方辺りに広大な土地を受領し、子孫は代々有力者であり続けた。そして、先祖を祀るために、壮大な百済寺を建立、歴代の百済王を祀り、平安時代に火事で全焼するまで400年間に続いた。

面白いのは、豊璋を朝鮮半島に呼び戻し、後に仲違いした鬼室福信(キシルボクシン)の弟の鬼室集斯(キシルチブサ)も日本に落ち延びて来ている。彼も義慈王(ウィジャワン)王族の一員のために、先述したとおり大友皇子(弘文天皇)は高い位の学識頭(文部大臣)に任命した。

繰り返すが、これらを見ても近江朝は百済王朝だと断定できる。

鬼室集斯(キシルチブサ)は晩年には戦争難民と国家滅亡による逃亡難民の 百済系渡来人が大勢住んでいた近江で隠居し他界した。かれの墓の地に鬼室神社が建てられている。

このように滅亡した百済王家は天皇家はもとより、朝廷に入り、さらに多くの戦争難民、亡国難民は日本という新天地で活躍し、生き延びたのだ。近江朝を見ると、日本の地が第二の百済国と言ってもおかしくはないであろう。さらに日本では百済王族が他界した後には、神社を立ててお祀りし、大事にしている。

天武天皇(大海皇子)は天智天皇の死後、その息子・大友皇子と対立し、672年に壬申の乱を起こす。壬申の乱の後の673(天武2)年2月、飛鳥浄御原に即位(天武天皇)。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とする。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。百済系の天智天皇が他界した後に即位した天武天皇の時にはなんと新羅が朝貢しているのだ。

実は天智天皇(百済系)と天武天皇(新羅系)は兄弟ではないという説がある。
お妃の内四人はなんと、天智天皇の娘であることから、兄の娘を四人も娶るのは異常だ。
 1)天武天皇の皇后----菟野讃良(うののさらら)皇女(天智天皇の娘、後の持統天皇)
   子供---草壁皇子(文武天皇、元正天皇の父)
 2)妃-----大田皇女(天智天皇の娘)
   子供---大来(おおく)皇女 ・大津皇子
 3)妃-----大江皇女(天智天皇の娘)
   子供-----長皇子 ・弓削皇子
 4)妃-----新田部(にいたべ)皇女(天智天皇の娘)

天智天皇は天武が兄弟ではないが、天皇に付ける地位を保持するライバルであることを認識し、ある意味脅威を感じて、クーデターを起こされ裏切られないように、またはおとなしくさせるために娘を4人とも差し出したのだ。
しかし、天智天皇が恐れていたことは、天智天皇の死後、天武672年に壬申の乱を起こし、天智の息子・大友皇子に勝利することで現実のものになった。

さて、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後の8月10日には入国時に子供だった者にも免除を広げた。(wiki)

天武天皇の後は、皇后だった持統天皇が継いだ。
持統天皇は万葉集で有名な天香久山の歌を残している。「春過ぎて夏来きたるらし白たへの衣ころも乾ほしたり天あめの香具山(万1-28)」

天智天皇の第二皇女、菟野讃良(うののさらら)。母は蘇我倉山田石川麻呂のむすめ遠智娘(おちのいらつめ)。叔父の大海人皇子に嫁ぎ、草壁皇子を生む。父帝崩御の後、夫に従って吉野へ逃れ、壬申の乱に勝利した夫が即位した後は、皇后として政治を輔佐した。天武天皇崩後、皇位を継承し、引き続き律令政治の確立に努める(wiki)

さて、この歌の真相を追求したのが、梅澤恵美子氏(「日本の女帝」)だ。
聖なる山に洗濯物が干されるわけはない。白たえとは、天の羽衣伝説の天女が着ていた羽衣だ。その天の羽衣を獲得したという意味で、王位を獲得した(する)という意味を込めているのだ。

これに私なりにもう一つの意味を加えるに、持統天皇は天智天皇の第二皇女、菟野讃良(うののさらら)であり、百済系なのだ。しかし、夫の天武天皇は新羅ヒボコ系で新羅を優先に考えたため、夫の死後を継いだ持統天皇は百済系に戻した喜びに、王位(天香久山)を象徴する白たえの歌をうたったと思える。

日本書紀によると、神話のスサノオも朝鮮とゆかりが深い。スサノオがソシモリ(韓国江原道春川府の牛頭州)に行ったと記録されている。京都の八坂神社の社殿には「斉明天皇(656年)二年に、新羅国の牛頭山におけるスサノオノ神霊を祀る」とある。島根県の石見で、「韓」や「辛」がつく地名には、スサノオ神話が伝承されている。

なお、当時の新羅には中国の周王朝の一族の秦氏が流れ着いていて、その後秦氏は大挙して日本に渡来し、平安京の都(京都)を建設している。

781年に百済王の子孫である高野新笠を母とする桓武天皇(~806年在位)が即位した。就任に伴い桓武天皇は、天武系の平城京からの遷都を計画し、784年長岡京への遷都した。ところが、遷都の翌年長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺され、天皇廃位計画があることも発覚した。自然災害で二度の大洪水に見舞われ桓武天皇は、再遷都を決意する。こうして選ばれたのが、千年の都となる平安京であった。

平安京の造営長官は藤原小黒麻呂であった。平安京が造営された山背国は、秦氏の根拠地であった。山背国は、794年の平安京遷都にあたり、山城国と改称された。村上天皇(946年~967年在位)の日記には、「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。大内裏にある右近の橘は、河勝の屋敷の庭にあったものであった。
秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族が持つ莫大な財力を使った。

別記するが、秦氏は日本に現在ある神社のほとんどを創建しながら、秘密結社ヤタガラスや鴨一族と連携し、数秘術も駆使して日本国内に暗号としての仕掛けを多く残している。(藤原定明氏)
また、神社を建てることで、以前にあった「わ」(倭)国(縄文人)やヒミ国の山や磐座(イワクラ)などの本来の神山磐座ネットワークを取り囲んで封印したのだ。(藤原定明氏)

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日) - 同9年2月6日(200年3月8日))だが、仲哀天皇八年に秦の始皇帝の十三世孫・孝武王の子とされる「功満王」が来朝し帰化した。

日本書紀によると第15代応神天皇(在位:270年 -310年)14年に朝鮮半島の融通王=弓月君(ゆづきのきみ)が百済から百二十県の人を率いて帰化し、これが秦氏の基となった。
『新撰姓氏録』には、
 「秦の始皇帝の十三世孫・孝武王の子・功満王、仲哀天皇八年来朝帰化。
  その子・融通王(弓月君)、応神天皇十四年来朝帰化。太秦公宿弥の祖也。」とある。
ゆえに、先に帰化した「功満王」が子の「融通王(弓月君)」を呼び寄せたのだ。

しかし加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓 = 秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。(wiki)

半島を脱出する際に当時の新羅王が大集団を加羅国に足止めしたが、日本から平群木莵宿禰(ヘグリノツクノスクネ)と的戸田宿禰(イクハノトスクネ)の精鋭部隊を加羅に派遣し、新羅の国境付近に展開させたときに、日本軍に威圧されて、新羅王は融通王の朝鮮半島脱出を認めたそうだ。
百二十県の人とは1県50人としたら6千人、倍の人数だったら12000人の大集団だが、200~300年くらいかけて順々に渡来したらしい。(5千人~1万人?)
百済から来たとしたのは、渡来してきた当時に日本が百済王朝(新羅色が薄い)であり、入国時の方便として百済出身を主張したという説がある。

秦氏は景教徒(もしくは原始ユダヤ教・キリスト信者)の一団で幅広い技術(土木建築技術、天文、養蚕、機織り)、技能集団であったため、都の土木建設や産業新興など大規模で多面的で八面六臂の働きをした。天皇は秦氏の持参した絹が「肌」のように柔らかいことから「ハダ=波多」の姓を与えた。ゆえに「秦(シン)を「波多」=「ハダ」とい言うようになった。(新撰姓氏録)
ハタ氏は本来はハダ氏となる。

藤原和晃氏によると、厩戸皇子(聖徳太子、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)))の母親も朝鮮半島出身で厩戸皇子自身も朝鮮式の名前を持っており、『いとくおうしょ』と言い、百済王の第4皇子だそうで、百済第27代威徳王(いとくおう、526年? - 598年12月、在位:554年 - 598年)が父親かもしれない。そして、皇太子になった。
推古天皇は厩戸皇子があまりも優秀なので、養子にし摂政にして政治を任せたのだ。当時は日本に皇太子制度はなかったが、記録に皇太子就任とあるのは、百済にて皇太子の扱いとなったからか、渡来人を養子にしたと公表できないために、やむなく皇太子として記録したと思える。

秦氏で最も有名な人物が秦河勝であるが、彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られる。

日本書紀の大化三年(647年)の条に「新羅は金春秋(後の新羅「武烈王」を遣わした)」とあり、人質として日本に来ている。
しかし、649年に金多遂が37人の従者とともに金春秋の身代わりとして来日し揃って残ったので、金春秋は帰国した、とある。

以上のように、天皇家は百済系と新羅ヒボコ系が入れ替わりしていたが、新羅ヒボコ系は天武天皇が最期になっているようだ。

次に高句麗からの渡来人の話になる。
出雲族も大和族も渡来人であるが、朝鮮の百済を筆頭に新羅やそして高句麗からも大挙して渡来している。

666年に高句麗の王族の若光(ジャッコウ)が渡来し、天皇にやはり新羅・唐の連合軍との戦いへの援軍を求めた。
しかし、白村江の戦いに敗れた日本は高句麗への援軍を出す力は残っておらず、支援を見送った。
そのために帰る故国を失った若光は日本に残ったが、朝廷はこの若光を受け入れ703年に官位を授け「王(こしき)」の姓を与えた。
その後、若光は東国の新田開発を命じられ、難民として大挙して日本に逃げてきた同胞達を統率して、今の大磯、箱根、相模などを開拓した。そして、716年にはあまりも高句麗渡来の難民が大人数となったために、朝廷は武蔵国に広大な土地を与え、高麗郡を新設した。
続日本紀では716年当時の駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国に分散して住んでいた高句麗(高麗人)1799人に高麗郡に移り住まわせたのである。716年は高句麗が滅亡して48年後のことである。

残っている記録をよく見ると、以上のようにその昔に日本に侵攻し天皇になり、日本国を治めたのは、渡来の朝鮮王朝の一族であることを認識すべきであろう。百済、新羅、高句麗の当時の王族も朝鮮半島では滅亡したが、日本に渡来して天皇にもなり、多くのものが官職をあたえられ朝廷にも入り、貴族化し支配層として新天地に活路を見い出している。また、一般人も戦争、亡国難民として大挙して渡来し、日本に融合しているのである。現在の日本人の大半が朝鮮半島を経由した渡来人の子孫と断言してもいいかもしれない。

つい最近では韓流歴史ドラマで百済や新羅や高句麗王を礼賛して、朝鮮の歴史を誇っているが、朝鮮半島では三国の王族は全て滅亡しており、自画自賛する三国の王族の直系子孫達を含め人民達は実は新天地の日本で生き延び活路を見出して成功していることを知るべきだ。

一つの科学的データがある。「ALT(成人T細胞白血病)ウィルスによるキャリア密度分布図」だ。(京都大学ウィルス研究所 名誉教授 日沼瀬夫氏)
ALTは完全な母子感染だが、このウィルスキャリアの分布を日本全国で調査した。以下のとおりである。
【ALTウィルス・キャリア密度分布】
北海道アイヌ 45.2%
北海道和人  1.1%
東北和人  1.0%
関東和人  0.7%
近畿和人  0.3%
中国和人  1.2%
四国和人  0.5%
九州和人  7.8%
沖縄琉球人 33.8%
これを見ると、朝鮮半島から弥生時代に九州を経由して弥生人が大挙して渡来し、先住民が沖縄や北海道に追いやられたことがわかる。
表現を変えると、今の日本は多種の渡来民族が形成する国ということができる。

もう一つDNAパターンがあるが、日本人の主なDNAは5つのタイプに分けられるという。
①本州日本人   4.8%
②朝鮮半島人系 約25.0%
③大陸中国人系 約25.0%
④アイヌ・沖縄人 約25.0%
⑤分類不能   21.0%

なんと現在では日本人の4人に一人が韓国系の血筋を持っている。そのために韓流スターに親しみを感じる日本人が多く、韓流がブームになっている。
しかし、中国系も1/4あり、弥生時代以降に古墳、飛鳥、奈良時代まで中国、朝鮮から王族や民族が大挙して朝鮮半島から渡来して来ていることが分かる。
では在来の人種を見ると、DNAパターンでは1/4がアイヌ・沖縄人 となっていて、縄文人の血がかろうじて 1/4は残っている。
また、本州日本人はわずかに4.8%だ。

しかるに、民族は交じり合っていて、同族であり、いがみ合うのはそろそろやめて、助け合い、睦合い、信じ合う関係になりたいものである。

このように神武以来の天皇といえども渡来系であるのだが、しかし歴史上は朝鮮と日の本、日本国は全く異なる国として伝えられてきた。それは明治政府が国家神道を敷いて万世一系論と単一民族を説き、国民を誤って教育した経緯があるためであり、日本国民の目(韓国朝鮮人も)は真実から遠ざかっていることも認識すべきであろう。
(本稿 終わり)




 
 
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