神を信じる=自分を信じる(Yogasūtra1.24)

योगसूत्रम्SangamB至高の存在というのは、誰もの中にある真実の自己が具体的に人の形をとった姿である。その存在は、①苦しみの原因になる煩悩、②善悪のあらゆる行為、③行為の内容に応じて受け取る結果、そして、④行為が結果に表れるまでのあいだ潜在意識に蓄えられている心の傾向、この4つの障害に決して触れられることがない存在である。

これが『ヨーガ・スートラ』が示す、”至高の存在” つまり神の定義です。神というのは、人間が決して見ることも聞くこともできず、人間とはまったく違う世界に生きていて、意志一つでこの世を幸福にも不幸にもできるような存在ではありません。そのような支配的絶対神は、『ヨーガ・スートラ』には登場しません。それどころか、そうした存在の必要性すらありません。

人間は運命という考え方を持っています。どうして自分がいろいろな出来事に遭遇し、それに翻弄されることになるのか、自分では分からないからです。そのとき、自分の理解を超えた神という存在を想定します。

神の預言者と言われる人たちは、本人もどうしてそんなことが起こったのか分からないが、思わず心の理解を超えた言葉に遭遇した人たちだったと理解できます。そしてその言葉は、人知を超えた神の言葉として伝承されてきました。でも、その神の言葉がどこからやってきたのか、神がどういう存在で、どこにいるのかは確かめられないままでした。

心は心が分かる範囲でしか分からない。その通りです。しかし、ヨーガ行者たちは、心を超えたところも理解し、把握しようと試みました。正確に言えば、知的な理解や把握ではなく、自らがそれと一体になって体得・体認しようと試みたのです。

ヨーガを実践して、深い瞑想状態に入ると、最後には智慧というものがやってきます。真実を直観する知です。それは、いまだかつて見たことも聞いたこともない、経験したこともない、とても自分の中から出てきたとは信じられないことに対する、まったく新鮮な気づきなのです。別名、悟りといわれます。小さな悟りを繰り返すことによって、中くらいの悟り、そして大きな悟りへとつながります。

そして、その悟りがどこからやってきたのかも自覚します。それは心のさらに奥にあって、心の思いではない、人間の本質です。さらに、それは自分一人の個人的な心の内部だけにあるのではなく、全宇宙の自己ともいうべき世界の本質と一つのものであることを悟ります。そのとき、心の思いという壁がなければ、内側にある本質と、外側にある世界の本質は本来の一つのものであったと直観します。そのとき、「神と呼ばれるものは在る。それは私自身の本質であり、あらゆる存在の本質のことだ」という自覚があります。

そして、なぜそれが見えなくなっているのか、何がそれを隠しているのかまで確かめたのが、ヨーガ行者やブッダの優れたところでした。それを解明することで、自分だけではなく、他の人たちにとっても、自分自身の本質こそが神と呼ばれるものであることを自覚する道が開かれたわけです。その方法が、今『ヨーガ・スートラ』が示している、5つの段階的な方法でもあるわけです。

「神」というのは誰もの本当の姿、真実の自己に他ならない。しかしその自覚を妨げ、覆い隠して見えなくさせているものがあります。それが今回のスートラ(経文)本文に書かれている4つのものです。①苦しみを生みだす煩悩、②その煩悩に基づいた思い・言葉・行動、それから③その結果味わうことになる報い、そして④原因となる煩悩的な行為が、結果を生みだすまで心の中に留まっている潜在的な力・傾向です。つまり、いわゆるカルマ・業と呼ばれている因果応報の束縛です。

誰もがその束縛を受けざるを得ない状況を生きていて、それで本当の自分を見失っているわけです。しかし、自分の本当の姿はそれではない、そうしたものに決して触れられることもない純粋な存在であると信じること。これが深い意味で、自分を信じること、自信をもつことであり、アートマン(真実の自己)への信仰です。

そうした自己の本性を具体的に思い描くために、人の形をとって表れた理想的な姿として、それに心を向けます。それが神への信仰であり、同時に自分への信念でもあります。その信仰・信念は、カルマという心の壁を取り払って、外部と内部が一つになっていくための原動力となります。

だから『ヨーガ・スートラ』では、人間と神を別にする必要がありません。純粋そのものである私たちの真実の自己を、そのまま人の形に表した至高の存在に対して、信仰することが教えられているのです。つまり、自分の本質に目覚めるためには、自己を信じ、その具体的・理想的な姿である至高の存在に心を向けていく必要があるということなのです。

 

ここからは僕個人の感想というか、ヨーガを実践してきた中での直観になるのですが、おそらくこのスートラを書いた人は、そのような至高の存在を実際に見たのだと思います。真実がそのまま人の姿をとったような人、この人こそは神だと思わざるを得ない人、そういう理想的な存在に具体的に会い、そういう存在を目の当たりにすることでヨーガの歩みが格別に進歩することを体感したのだと思います。

そうでなければ、「真実の自己」と、それを覆い隠す「心の思い計らい」という2つの要素で話がすむ『ヨーガ・スートラ』の体系の中で、わざわざ神というものを持ちだす必要もないと思うのです。「信」についても、すでに1つの内容が挙げられているわけですから、わざわざ2つにする必要もありません。

むしろ、理屈がちゃんと成り立つことよりも、実際に役に立つこと、現実にあることを優先しているのが、『ヨーガ・スートラ』の特徴に見えます。哲学体系を打ち立てることよりも、現実的に苦を乗り越え、本当の自分に留まるための方法を、具体的に教えることに主眼があったように思えます。