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【社会】

兵士劇 戦友癒やす 紙吹雪 戦地で見た希望

戦地のニューギニアで見た芝居について話す堀田保老さん=名古屋市中村区で

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 太平洋戦争末期、激戦地ニューギニアに出征した日本兵を力づけるために劇団がつくられた実話を舞台化した「南の島に雪が降る」が八月、東京・浅草公会堂などで上演される。戦地から帰国する見通しも立たない絶望感の中で、芝居を見た元陸軍兵の堀田保老(やすろう)さん(97)=名古屋市中村区=は「あの感動は今も忘れられない」。生死をさまよった南の島で唯一味わった平和の思い出をかみしめている。 (広瀬和実)

 岐阜県萩原町(現下呂市)出身の堀田さんは一九四三(昭和十八)年に召集令状を受け、翌年四月にニューギニア島に上陸。島内を転戦した。

 部隊が準備した食料は二カ月で底をつき、多くの兵士が飢えとマラリアで亡くなった。「食べられるものは虫でもネズミでも何でも食べた。ずっと日本が勝つと信じていた」。四五年八月十五日の終戦を知らされたのは一カ月たってから。二百三十人いた部隊は、三十五人になっていた。

 直後、上官から「帰国できるのは早くて五年後。恐らく十年はかかる」と言われ、故郷へ戻るのをあきらめかけた。そんな時、島西部の都市マノクワリで芝居が見られるとの話が伝わってきた。劇団は、ニューギニアに従軍し戦後に俳優として活躍した加東大介さん(一九一一〜七五年)が中心となって組織。部隊ごとに観劇日が割り当てられ、堀田さんの部隊は四六年二月だった。

 「まさか戦地で芝居が見られるなんて」。百五十〜二百人収容の劇場は、天井や壁もあるしっかりした造り。花道まであった。

 演目は「父帰る」と「瞼(まぶた)の母」。全員が兵士だったという劇団員の演技はひたむきだった。行灯(あんどん)や布団、障子と、小道具は日本を思い出させる品ばかり。雪に見立てた紙吹雪が降る場面も。「故郷の雪を見ることができたと涙する人もいました。まさかニューギニアで芝居に感動できるとは思ってもいませんでした」。悲惨な状況も忘れるほど戦友と喜び合った。

 加東さんがつづった劇団の体験記「南の島に雪が降る」は六一年に出版され、ドラマや映画にもなった。

 終戦から七十年。その芝居が浅草公会堂のほか、地元・名古屋で演じられるのを堀田さんは新聞のチラシで知り、当時の記憶をよみがえらせた。

 加東さんの芝居を見た三カ月後に一緒に復員した戦友はほとんど他界し、思い出話をできる人はいない。「あの島であったことを多くの人に知ってほしい。戦争がなく芝居が見られる時代がずっと続いてほしい」。自身も足腰が弱って歩けないため観劇は難しいという堀田さんは、そう願っている。

 <南の島に雪が降る> 戦時の体験をつづった記録文学としての名著。太平洋戦争末期のニューギニアに従軍していた加東大介さんが、兵士らを慰問するための劇団づくりを上官に命じられ、各部隊から団員を集めて劇場をつくり、傷ついた兵士たちを演劇で励ました日々をつづった。1961年に文芸春秋から出版され、その後、筑摩書房、光文社などで度々刊行。戦後70年を機に今年3月、筑摩書房が文庫で復刊した。浅草公会堂(東京都台東区)での公演は8月6〜9日。

 

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