弁護士作花知志のブログ

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参議院議員選挙での自民党の大勝とねじれ解消を受けて,現在憲法改正論議が盛んに行われています。



でも,以前の記事「憲法96条の改正 」でもお話しましたが,憲法は国家権力の行使から社会の少数派の人権を守るために制定されている法です。そしてそこにいう国家権力とは,社会の多数意見でもあります。つまり憲法とは,「私達の社会では,多数決では決めることができないことがある」という理念の発現でもあるのです。



「社会の少数派の人権を守るために,国家権力を縛る目的で憲法を制定する」という理念を「立憲主義」と申します。立憲主義の理念を持たなかった日本の明治憲法は,多数決によって大正デモクラシーの姿から軍の台頭を生んだ姿へと変化していきました。またそれは,ドイツのワイマール憲法が,多数決という名の下にナチス憲法へと変化していったことと同じなのです。



憲法,特に単なる多数決で憲法を改正できないと定めた憲法96条の改正条項を守ることは,社会の少数派の人権を守ること,さらには私達の社会における多数決の暴走を食い止める手段を守ることでもあるのです。






さて,毎年4月に発売される号で,大学の法学部に入学される方々を念頭において,憲法,民法,刑法等の各法律科目の紹介を,ご専門でかつ新進気鋭の先生方が行う特集を組むのが,『法学セミナー』という専門雑誌です(発行は日本評論社です)。



今年(平成25年)の4月号の憲法を紹介する論考で,とても興味深い内容を書かれているのが,岡山大学准教授の井上武史さんです。



井上さんは,憲法が日本における最高法規であることの理由と,仮に憲法が最高法規であったとして,それを私たちはどう担保していくべきか,という哲学的なお話をされています。



そして井上さんは,その論考の最終部分において,「そもそも文書(紙切れ)に過ぎない憲法が,現実の統治権力を制限できるのか」という問題提起を,これから法学部で法律を学ぼうとされている方々に,投げかけられています。






そのような,とても興味深い論考と問題提起をされた井上さんが,法学部の新入生の方々に読むこと勧められているのが,九州大学で憲法を教えられている南野森准教授の論文です。



南野森准教授のお考えにつきましては,このブログでも何度かご紹介いたしました。憲法の規定そのものは規範ではなく,その(紙に書かれた)憲法が解釈され,意味を与えられることによって,初めて法規範が生成する,という立場です。



そんな南野森準教授が,戦争の放棄を規定した憲法9条の解釈として,日本が集団的自衛権を行使できるのか,そのような解釈の変更を採用することは憲法が許容しているのか,というとても興味深い問題を扱ったのが,「憲法解釈の変更可能性について」と題する論文です(法学教室330号28頁,有斐閣,2008年)。



ご存じのように,憲法9条の解釈については,自衛隊があくまでも日本が有する自衛権の行使として行動することに限り合憲である,との立場が有力であり,そのように解釈することでかろうじて憲法違反とはならない,とされてきました。



ところが,国連憲章上は締約国に認められている集団的自衛権(日本に対する攻撃に対する自衛だけでなく,たとえば同盟国Aへの攻撃を日本に対する攻撃とみなして自衛権を行使することです)をも,憲法9条は許容していると「解釈すべきではないか」との立場が強く主張されるようになりました。南野森さんの論考は,国家機関を拘束するために最高法規とされている憲法が,そのような「単なる解釈の変更」によって,憲法改正などの手続を経ずに,許されてよいのか,という問題意識の元で書かれたものです。



その論考で南野森さんは,まず次のように言われます。



「フランスの著名な法理論家ミシェル・トロペールの主張によれば,法の解釈とは認識の作用ではなく意思の作用であり,解釈者は法的に自由に法文の意味を決定することができる。



そしてさらに,当該法システムにおける有権解釈機関が解釈するより以前に存在するのは,法規範ではなくたんなる法テクストであって,そのような解釈を通じてはじめて法テクストの意味=法規範が生成されることになる。」



そして南野森さんは,続けて憲法9条の解釈について,次のように言われるのです。



「憲法9条について言うならば,最高裁判所はこれまでのところ,自衛隊が違憲なのか合憲なのか,集団的自衛権の行使が違憲なのか合憲なのか,についての判断を示しておらず,つまりこれらについてのそのような意味における法規範は,現時点の日本においては未だ存在していない,ということになる。



比喩的に言えば,憲法9条は死文化するどころか,未だ規範を生み落してさえいないわけである。」






南野森さんの立場は,司法権の最終的解釈機関である最高裁判所こそが,紙に書かれた活字である憲法を解釈し,それに意味を与える存在であって,その最高裁判所による解釈が行われていない以上,憲法9条と集団的自衛権についての規範は未だ生成されていないのだ,だから政府は集団的自衛権についてのこれまでの政府解釈を変えるべきではないのだ,と考えられるのです。



とても興味深いお考えだと思います。ただ私自身は少し違うように考えています。憲法そのものが紙に書かれた活字であり,それに解釈という意味を与えることで法規範が生成する,という思考そのものは私も賛成するところです。



ただ,その解釈が最高裁判所によって行わなければ法規範は生成しない,と考えるのではなく,司法権が,さらにはこの社会で生活している人々が行う解釈によって,それぞれに法規範は生成している,と考えるべきではないでしょうか。ただ,ある個別事件の解決基準とされる法規範は,あくまでも司法権による解釈とされるだけだと思うのです。



私たちがそれぞれ有する価値観,人生観,社会観に基づき,それぞれの立場から活字である憲法に意味を与える,そのいわば主観的な解釈が重なり合い,虹のような多様な意味を憲法に与えられ,その結果客観的な解釈,意味が規範として生成されるのではないでしょうか。






井上さんが言われるように,憲法は文書であり紙切れなのかもしれません。また南野森さんは,ある論考で,憲法を「紙についたインクのシミ」と表現されたこともあります(南野森「『憲法』の概念―それを考えることの意味」『岩波講座憲法6』(岩波書店,2007年)32頁)。



でも,その紙切れでありシミであるはずの紙に書かれた憲法に,喜びと悲しみに満ちた人生を送る人々が思いを込めた意味を与えることで,社会としての規範が生成するのです。そしてその規範生成プロセスは,永遠に,無限に行われていることになるのです。



それが法であり,それが社会なのでしょう。法律学に正解はない。そして社会は永遠に変化し続けるのだと思います。



でも,社会が社会である以上,そこには変えてはならない姿があるはずです。そしてそれば,憲法という法規範も同じなのではないでしょうか。



憲法そのものは文書にすぎないのかもしれません。でも,その文書である憲法に「社会はこうあってほしい」という思いが込められているのであれば,私達はその思いを大切にし,守っていかなければならないと思うのです。



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