海外の音楽業界事情を引き出しとして持とう
高橋裕二氏インタビュー
学生時代にはラジオの洋楽番組DJとして活躍、CBSソニー(現 ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社後は、名物ディレクターとして、海外で話題のアーティストのみならず、日本独自の洋楽ヒットを生みだし、洋楽シーンを牽引した高橋裕二さん。その後もポリドール(現ユニバーサルミュージック)、ポニーキャニオンで要職を務められ、現在はご自身のブログ「洋楽天国」を通じて、世界各国の音楽業界事情を紹介されている。ご自身の豊富な経験を元にした切れ味鋭い記事、毎日更新による情報鮮度の高さなど、読み応え十分の「洋楽天国」をMusicman-NETでも紹介し始めて1年。今回はその「洋楽天国」を書いている高橋さんとは一体どんな方なのか? との質問に応えるべく、ご自身のキャリアから、アメリカの音楽事情までお話を伺いました。
高橋裕二氏インタビュー
学生時代にはラジオの洋楽番組DJとして活躍、CBSソニー(現 ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社後は、名物ディレクターとして、海外で話題のアーティストのみならず、日本独自の洋楽ヒットを生みだし、洋楽シーンを牽引した高橋裕二さん。その後もポリドール(現ユニバーサルミュージック)、ポニーキャニオンで要職を務められ、現在はご自身のブログ「洋楽天国」を通じて、世界各国の音楽業界事情を紹介されている。ご自身の豊富な経験を元にした切れ味鋭い記事、毎日更新による情報鮮度の高さなど、読み応え十分の「洋楽天国」をMusicman-NETでも紹介し始めて1年。今回はその「洋楽天国」を書いている高橋さんとは一体どんな方なのか? との質問に応えるべく、ご自身のキャリアから、アメリカの音楽事情までお話を伺いました。
[2012年6月15日 / 世田谷区代田 エフ・ビー・コミュニケーションズ(株)にて]
PROFILE
高橋 裕二(たかはし・ゆうじ)
1947年 新潟県生まれ
1970年 秋田大学鉱山学部卒業
1970年 CBSソニー(現ソニーミュージック・エンタテインメント)入社 洋楽の制作・宣伝担当。
チェイス、アルバート・ハモンド、スリー・ディグリーズ、バーティー・ヒギンズ、ジェフ・ベック、ビリー・ジョエル等を担当。
1985年 CBSソニー大阪営業所長
1987年 EPICソニー洋楽部長 マイケル・ジャクソン等の宣伝を担当。
1988年 EPICソニー邦楽宣伝部長 佐野元春、渡辺美里、ドリームズ・カム・トゥルー等の宣伝担当。
1993年 ソニーコンピュータ・エンタテインメント取締役業務部長 プレイステーションのサード・パーティー、ナムコ、バンダイ、コナミ、スクウエア、エニックス等の獲得業務。
1996年 ユニバーサル・ミュージック宣伝担当取締役。 GLAY,山崎まさよし等の宣伝担当
1999年 洋楽インディーズ・レーベル、ネットワーク・レコード設立。
2002年 ドリーミュージック取締役就任。 柴田淳等の宣伝担当。
2003年 ポニーキャニオン洋楽部長 ボーイズⅡメン、サラ・コナー等を担当
2005年 ポニーキャニオン取締役
2008年 ポニーキャニオン取締役退任
高橋 裕二(たかはし・ゆうじ)
1947年 新潟県生まれ
1970年 秋田大学鉱山学部卒業
1970年 CBSソニー(現ソニーミュージック・エンタテインメント)入社 洋楽の制作・宣伝担当。
チェイス、アルバート・ハモンド、スリー・ディグリーズ、バーティー・ヒギンズ、ジェフ・ベック、ビリー・ジョエル等を担当。
1985年 CBSソニー大阪営業所長
1987年 EPICソニー洋楽部長 マイケル・ジャクソン等の宣伝を担当。
1988年 EPICソニー邦楽宣伝部長 佐野元春、渡辺美里、ドリームズ・カム・トゥルー等の宣伝担当。
1993年 ソニーコンピュータ・エンタテインメント取締役業務部長 プレイステーションのサード・パーティー、ナムコ、バンダイ、コナミ、スクウエア、エニックス等の獲得業務。
1996年 ユニバーサル・ミュージック宣伝担当取締役。 GLAY,山崎まさよし等の宣伝担当
1999年 洋楽インディーズ・レーベル、ネットワーク・レコード設立。
2002年 ドリーミュージック取締役就任。 柴田淳等の宣伝担当。
2003年 ポニーキャニオン洋楽部長 ボーイズⅡメン、サラ・コナー等を担当
2005年 ポニーキャニオン取締役
2008年 ポニーキャニオン取締役退任
●高橋さんのブログ「洋楽天国」をMusicman-NETでご紹介させていただいていますが、今回は高橋さんと洋楽との出会いから、ご経歴を含めてお話を伺えればと思っています。
高橋:’47年生まれで、出身は新潟の小千谷市です。洋楽は中学校の頃から聴き始めました。新潟放送を聴いていたんですが、当時は洋楽なんてほとんどかからない。それで夜の9時とか10時になると、かろうじて東京の放送局が入るので、そこで洋楽を聴いていました。それで高校に進学するとクラスに3人くらい洋楽好きがいて、前の晩に聴いたラジオのチャートで、電波が悪くて聴けなかった部分を情報交換していました。
●どのようなきっかけで洋楽に興味を持たれたんですか?
高橋:当時、まわりの友達は邦楽しか聴いていなかったんですよ。田舎でしたし、テレビでは邦楽しかやってなかったですからね。でも、私は当時のいわゆる歌謡曲みたいなものが好きではなくて、ジェリー藤尾や坂本九を聴いていたんですが、あるとき、それは本人たちの曲ではなくて、カバーだという事実を知ったんですよ。それで「カバーならオリジナルの方がいいに決まっている」と思って、洋楽を聴き始めたんです。
●歌謡曲が体質的に合わなかったんですか?
高橋:嫌いですね。あと、高校2年のときに「9500万人のポピュラー・リクエスト」でビートルズを聴いたのが大きかったですね。パーソナリティの小島正雄さんが「今イギリスで大変なことになっている」と。プレスリーなんかは、私よりちょっと上の世代がリアルタイムなんですよ。私たちの世代はコニー・フランシスとかで、ビートルズはそれまで全然聴いたことない音楽でした。
●高校卒業後は大学に進まれたんですか?
高橋:ええ。秋田大学の鉱山学部採鉱学科に入ったんですよ。
●そりゃまた、なぜ鉱山学部に入られたんですか?
高橋:元々天文が好きで、家には親に買ってもらった天体望遠鏡もあったくらいなんですが、天文学って、当時は東大と京大と北海道大学にしか学科がなかったんですよ。そこに行くのは100%無理ですからね。昔の地学の教科書は、天文と地学なわけですよ。それで「天がダメなら地でもまあいいかな」とものすごく安易に決めました。早稲田にも教育学部地学科という学科はあって、試験がものすごく簡単だったから受かったんですが、秋田大学の方が国立で授業料がすごく安かったので、秋田大学に行ったんです。
それで秋田に行くと、青森県の三沢基地からFENが結構よく聞こえました。当時はロックミュージックカルチャーがはっきり出てきた頃でしたが、秋田放送ではそういった曲が流れなかったので「いい番組がない。つまらない」と投稿したんですよ。そうしたら金子さんという当時の制作課長が「局に一度来い」と言うので行って、2〜3ヶ月ほど経った頃に「とりあえず選曲をやってみるか?」と連絡が来たんです。
今でも覚えているんですが、選曲の第1曲目はバッファロー・スプリングフィールドの「For What It's Worth」です。それで最初は選曲をやっていたんですが、そのうち金子さんに「高橋君、電リクのDJやる?」と言われて。18時半から20時までの電リクのDJを女性アナウンサーと二人でやっていました。当時、電リク番組が2つあって、私は洋楽だけの番組で、その後、月〜金の23時からの15分も帯でやるようになり、公開放送の司会もやったりと、全部で番組を3つやっていたんですよ。
●それは大学在学中ですよね?
高橋:大学2〜4年の3年間ですね。当時のギャラは、その3番組で4万5千円くらいでした。ちなみに卒業後に入ったCBSソニーでは額面4万円、あれこれ引かれると3万2千円くらいしか残らなかったので「えらいことになったな」と思いましたね(笑)。
●高橋さんは金持ち大学生だったんですね(笑)。
高橋:秋田は寒いから毎晩飲んでいました(笑)。それで「秋田県民が聴いているか、どうせ分からないから、自分勝手にやろう」と思って、金子さんに業界誌のビルボードをとってもらい、そのビルボードのトップ100を見て、新しく入ってきたニューエントリーの曲をチェックしたんです。それで秋田放送の系列上にいた文化放送のレコード室は、7インチのシングル盤をすごく早く買っていたので、チェックした曲を全部オープンリールに録音してもらって使っていたんです。
●かけたい曲は全部かけられたんですか?
高橋:そうですね。だからジェファーソン・エアプレインとかドアーズとか、多分秋田の人はわけ分からないんだろうけど、かけていました。
●でも、高橋さんに育てられたリスナーもいたでしょうね。
高橋:ひょっとしたらいたかもしれないですね(笑)。それで、いよいよ就職しなきゃいけない時期になるんですが、当時、鉱山関係は大不況だったんですよ。石炭や鉄は瀕死の状態。石油だけよかったんですが、石油をやる人は日本から出て行くわけですよ。アラビア石油とか。とにかく超就職難で、クラスに30人くらいいたんですが、半分くらいが土木建築の会社に就職していました。
私もどうしようかなと思っていたら、知り合いの友達の人があるとき「音楽が好きなんだからレコード会社受けてみたら?」とCBSソニーの求人が載っていた朝日新聞を持ってきたんですよ。それで「まあ、就職口もないから受けてみるか」と東京まで受けに行ったんですよ。それで行ってみたら、中途採用だったから滅茶苦茶な試験で、今でもよく覚えているんですが、全6問あって、1問目が「新人女性アーティストのデビューシングルが10万枚のヒットになるための宣伝・販売促進のプランを立てなさい」というもので、未経験者に分かるわけがないんですよね。こっちは媒体費もラジオやテレビのスポット料金も知らないんですから。
●他のレコード会社から転職してくる人を前提にしていたような問題なんですね。
高橋:で、6問目に「自分のやりたいことを英文で書け」というのがあって、もうここしか書きようがないわけですよ。私は大学3年が終わってから、半年ほどカナダへ鉱山の実習に行っていたんですが、英語はたいしたことない。でも、他の問題は書きようがないから「日本独自の洋楽ヒットを作りたい」みたいなことを英文で書いたら、結果としては受かったんです。
●そのとき何人が受けて、何人入社したんですか?
高橋:たしか200人くらい受けたと思うんですが、入ったのは3人です。
●やっぱりすごい倍率ですね。やはり当時からレコード会社は人気があったんですね。
高橋:なぜかというと、「年齢・学歴・経験問わない」という条件でしたからね。
●でも、高橋さんは新卒で普通に受けて1発で入れたわけですもんね。
高橋:ラッキーでしたよね。それで入社したのが70年の7月6日。七夕の前日だったので、今でも覚えていますけど、入る前に後にソニーの社長になる大賀専務の面接があったんです。そこで「高橋君、君はなにをしたいんだ」と訊かれて、「日本独自の洋楽ヒットを作りたいんです」と答えたら、急に「ところで君は棒を振ったことあるかね?」と言われて「ありません」と答えたのですが、あとでよくよく聞いてみると、棒というのはゲバ棒のことでした(笑)。
●(笑)。
高橋:大賀さんはクラシック出身ですからね、タクトだと思いました。私は、クラシックは全然詳しくないので。それで、最初に配属されたのが、洋楽の宣伝だったんですよ。