「敗走記」水木 しげる 著

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1970年に発表され、のちの「総員玉砕せよ」につながる水木しげる戦争漫画の代表作のひとつ。表題の「敗走記」のほか「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「KANDERE」「ごきぶり」「幽霊艦長」が収録。数年ぶりに再読して、ふと感想書いていなかったことに気付いたので、その中から特に面白かった、「敗走記」「ダンピール海峡」「レーモン河畔」「幽霊艦長」の感想を簡単にメモ。

敗走記 (講談社文庫)
敗走記 (講談社文庫)
posted with amazlet at 15.06.07
水木 しげる
講談社 (2010-07-15)
売り上げランキング: 29,807

「敗走記」

本人の経験もあるが基本的には真山という水木の友人の体験を中心に構成された作品だが、主人公は「水木」とされている。昭和十九年南太平洋ニューブリテン島で孤立した主人公「水木」の脱出劇で、とにかく絶望的な状況で九死に一生を得る過程が描かれるのだが、命からがら逃げ延びた彼に、司令部は酷い対応をするのだった・・・

最後の「戦争は 人間を悪魔にする 戦争をこの地上からなくさないかぎり 地上は天国になりえない」というコメントは、その後の水木しげるの南国への憧憬なども含めて考えると、水木の絶望と諦観が深く伝わってくる。

「ダンピール海峡」

無名の兵士が主人公の作品だが、1943年にニューギニア島北東ビスマルク海のダンピール海峡で日本の輸送部隊が壊滅したビスマルク沖海戦に参加していた歩兵15連隊、通称高崎連隊の悲劇をモチーフに描いたもの。

明治天皇下賜の軍旗を守るため、あるものは機銃掃射で蜂の巣になり、あるものは爆発四散し、あるものは海の藻屑と消え、あるものは死してなお敵軍に立ちはだかり、と、次々と兵士たちが死んでいく。日清日露戦争以来五十年に渡る数々の戦いでべっとりと血がこびりついた軍旗が凄まじい迫力だ。本作で描かれる軍旗は、多くの兵士たちの血を吸ってなお軍旗を守らんと彼らに命を捧げさせる呪わしき妖怪として映るが、一方で、軍旗を守るというただその目的に殉じて死んでいった数々の兵士たちへの水木なりの鎮魂の物語でもある。命に変えて軍旗を守ることを尊しとした彼らの選択を決して貶めようとはしないという点で、この作品は非常に深みがある。

「レーモン河畔」

水木のあとがきによれば「全部事実」。ニューブリテン島ワイド湾付近で、丁度日本軍と連合軍の対峙する付近に土地を持っていたため戦闘の渦中に巻き込まれたホセ一家の物語。

豪軍から日本軍から逃れた豪軍100名を匿うよう、娘婿二人を拉致されて強要され裏切ると殺すと脅されるが、すぐに日本軍に見つかり豪軍は全滅。一方日本軍にそのことを知られないよう振る舞うが、次第に日本軍がホセ一家を怪しむようになり、一家を殺害するよう司令部が決定、しかし、現地部隊はホセ一家の娘二人が美人で協力的でもあったから、これに慎重で殺害実行できない。そうこうしているうちに、空襲でホセ一家の家が焼け、彼らは日本軍に助けを求めてくる。彼らに対し現地部隊は、ホセ一家を助けるかわりに娘二人に「兵士をなぐさめて」もらおうという議論になるが、兵士全員だと多すぎるし、将校だけ、あるいは中隊長だけだと不公平だ、ということで結論が出ず、結局彼らを島から脱出させることになった。ホセ一家の脱出から二ヶ月後駐屯部隊は壊滅。終戦後、ホセ一家の元には豪軍からも人質となっていた娘婿二人が返され、彼らは無事生き延びることが出来た。日本軍は娘二人をなぐさみものにせず、豪軍は人質二人を虐殺しなかったという点で、水木は「両軍ともに善意を持っていた」と書いている。

水木の戦記ものを読んでいればわかるが、水木は、日本軍が女性たちに対し強制的に慰安婦としての行為をさせようとしていたことを実感として持っており、それに対し強い嫌悪感と批判の目を向けつつ、色々な作品で描いている。本作では、それを行わなかったという点で、日本軍の美談として描いているのが大きな特徴になっているので、とても興味深い作品である。

「幽霊艦長」

他の作品と変わって、エンターテイメント性が強い海戦もの。実際のルンガ沖夜戦、ベラ湾夜戦をモチーフにして、宮本武蔵の末裔を自称する百戦錬磨の駆逐艦「旋風」艦長宮本の活躍を描いている。おそらく「旋風」は両海戦に参加した駆逐艦「江風」がモデルだと思われる。

本作でのルンガ沖夜戦は、重巡5,駆逐6の敵艦隊と遭遇戦となり、まず司令が乗った船が沈没、旋風の宮本が残り八隻の駆逐艦隊を指揮することになる。宮本は、実弟が副長を務める駆逐艦「高波」に敵艦隊に直進を命じ、「高波」は探照灯を照射、敵の集中砲火を浴びて轟沈するが、敵の攻撃が高波に集中する間に敵を殲滅させた。

史実のルンガ沖夜戦は、重巡4、軽巡1.駆逐6の敵艦隊と遭遇戦となり、警戒のため突出していた「高波」が集中砲火を浴びることになる。敵襲の報を受けた旗艦「長波」に乗る司令田中少将は全軍突撃を指示、「長波」「江風」「涼風」が魚雷発射してから退避し、続いて「陽炎」「巻波」が敵艦を見失うが、「黒潮」「親潮」も攻撃を加え、「高波」が敵を引きつけて轟沈したものの、敵を殲滅させることになった。田中司令の指揮については米軍が絶賛する一方で、司令部からは真っ先に逃げたという批判が強かったそうで、そのあたりの評価の揺れが、作品での司令艦沈没という描かれ方になっているようだ。

史実ではサンタイザベル島からの陸軍の輸送、作中では陸軍の脱出という違いがあるが、旋風も江風同様、その支援のためベラ湾夜戦で沈没していく。作中では旋風旗艦の駆逐艦四隻が参加し「旋風」沈没、宮本艦長戦死。史実では「萩風」「嵐」「江風」「時雨」が参加し「江風」が沈没、柳瀬善雄艦長以下江風乗員178名他多数の兵士が戦死している。

実際の戦闘とフィクションとをうまく混ぜてエンターテイメントに昇華させつつ、多くの犠牲の中で生き延びた兵士が感じる重みをずしりと描いている。

生のかけらを拾い集める

以前の『水木しげるが決して赦さない罪~「姑娘」水木しげる著』の記事でも書いたので繰り返しになるが、水木しげるの戦記ものの特徴は、まさに「悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集め」ようとしているところにあると思う(「悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集め」は「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」P281からの引用)。愚かしさも醜さも勇ましさも弱さも悲しみも何もかも、戦争でちりぢりになった生のかけらを渾身の筆でもって拾い集めようとしている。そこから浮かび上がるのが水木しげるの苦悩であり、その苦しみを物語へと昇華させていくことで立ち現れる生々しい兵士たちの生の営みではないか。そしてそこに、水木しげる作品の凄さがあるのではないかと、あらためて本作を読みなおして思った。

参考記事
江風 (白露型駆逐艦) – Wikipedia
ルンガ沖夜戦 – Wikipedia
ベラ湾夜戦 – Wikipedia

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