Hatena::ブログ(Diary)

竹内研究室の日記 RSSフィード Twitter

2015-06-07

産業界で役に立つ技術者の実践的なスキルとは

大学など高等教育機関の様々な改革案が提案されており、今度は「ITや経営ノウハウなど実践的な教育に特化した新しい高等教育機関の枠組みを設ける」というものが出てきました。

政府、ITに特化した高等教育機関 成長戦略の人材育成策

「これまでのような企業任せの人材育成には限界があり、社会全体で取り組むべき課題だ」

ということだそうです。

企業から大学に移って来た私の率直な感想は、現在の大学の工学部は実践的すぎるくらい実践的で、企業の技術者が講義を行うケースも多いです。逆に学生にはもう少し専門以外の知識を幅広く身につけて欲しいと思うくらいです。

私は東大の教養学部(1,2年次)に在籍中に、ミクロ・マクロ経済学や心理学の講義を半ば趣味で受講しました。興味があるから受けただけで、具体的に何かに役に立てようとしたわけではありません。

大学を卒業してから10年たち、それこそ実践的な教育の権化のような、アメリカのビジネススクールMBA)に留学した時、かつて学んだ経済学や心理学の知識がとても役に立ちました。

経営には経済学は必須ですし、組織運営、人事管理の根本のところは実は心理学です。

先ほどの記事によると、新たに設ける教育機関では、

「大学は基礎研究などに力点を置いていたが、プログラミングなど働く上ですぐ役に立つ技能を身につけるようにする。」

ようですが、専門分野の中でも何が実践的な知識なのか、何が基礎なのかは、専門家の自分でさえも良くわからないところがあります。

例えば、電子回路の設計は、学研の電子ブロックなどで、子供のころから慣れ親しんだ人も多いでしょう。

そして、アマチュア無線やパソコン、ロボットの自作など、中高校生でもかなりの技術レベルに達していて、「働く上ですぐ役に立つ技能」をもち、企業で即戦力で仕事ができる人も多いです。

私の場合は、大学では物理工学を専攻しました。電子回路の根幹を成す物性、材料などの教育はみっちり受けましたが、企業ですぐに役に立つ「実践的な教育」はさほど受けなかったと思います。

大学を卒業して企業に入社すると、子供のころから電子回路をいじって秋葉原に通っている人には全くかなわないことに、かなり絶望的になりました。

彼らは子供のころから実践しているのに対して、こちらは、20代半ばからのスタートです。絶対に追いつかない、と思いました。

しかし、仕事を進めるうちに、そういった実践的な知識だけでは壁に当たることに気付きました。

つまり、最初は途方もないくらい実践的なスキルに差があっても、表面的な知識やスキルはさほど時間がかからず、習得できます。

一方、企業の現場では基礎的な知識体系も不可欠であることがすぐにわかりました。こちらは、そう簡単には追いつけない。

実践的な知識だけ、つまり根本的な原理の理解をしなくても、「それらしく動くもの」を作ることはできます。

しかし、回路や物性に関する基礎的な知識体系なしには、デバイスの物理的な限界に挑んで性能の限界に挑んだり、製品の不良の解析さえもできないことに、開発の現場にいて気付きました。

大学の科目でいうと、線形代数やベクトル解析のような数学の知識から、電磁気学量子力学のような物理の知識です。

こういった「基礎的な知識」はすぐに役に立つことは少ないかもしれません。

しかし、基礎的な知識なしには、最先端の技術開発はありえないのです。

「物理学科を卒業した人は、産業界でつぶしがきく」と昔から良く言われます。

江崎玲於奈博士がソニーで在職中、ラジオに使われているトランジスタの不良を解析している時、不良の原因を探る中から、半導体中でのトンネル効果を発見し、ノーベル賞を受賞しました。

江崎博士は東京帝国大学(現在の東大)の理学部物理学科を卒業されていますので、おそらく大学では「すぐ役に立つ技能」よりは「基礎的な教育」を受けられたのでしょう。

こうした基礎的な知識なしには、トンネル現象の発見はなかったと思います。

また、このトンネル現象の発見は、製品の不良原因の探索と歩留まり向上、という極めて「実践的な」企業活動につながっています。

つまり、すぐに役に立つように見える知識だけでは、実践的な企業活動にも不十分なのです。

スマートフォンからパソコンなどの記憶媒体(SSD)として用いられているフラッシュメモリのデータの書き換えにも、このトンネル効果は使われています。

昨年、日本人3名がノーベル賞を受賞した青色発光ダイオードやレーザーが「なぜ光るか?」についても、量子力学、バンド理論なしには説明できません。

量子力学は「基礎的すぎて役に立たない」と思われがちですが、量子力学の知識なしには、現代のIT・エレクトロニクス製品は成り立たないのです。

このように、すぐに役に立つ知識だけでは、企業の開発の現場でも不十分だと思いますが、企業の方はどう思われるでしょうか。

一方、教育を受ける個人としてはどうでしょうか。

企業での仕事にすぐに役に立つ知識があれば、就職もしやすく、入社後も即戦力に見えるかもしれません。しかし、実際の仕事ではそれだけでは不十分なのは、既に述べた通りです。

それ以上に問題なのは、いまや技術の変化は激しく、企業の事業、技術者が担当する仕事も急速に変わって行きます。

事業が変われば、その分野を専門とする技術者は、仕事を変えなければいけません。

一つの分野の実践的な知識があるよりも、技術が変化しても普遍的に役に立つ基礎的な知識があった方が、むしろ個人のキャリアとしては「つぶしがきく」のではないでしょうか。

ある分野の実践的な知識だけに特化したエンジニアが、事業転換のときに、「お前はその技術しかできないのか」と言われ、リストラに追い込まれる、というシーンは容易に想像できます。

ウォールストリートでは、物理学や数学の博士を取得した元研究者が、高度な理論を駆使して金融取引を行う、いわゆるクオンツとして活躍していることは良く知られていることです。

現在の金融工学の根幹の一つである、オプション取引の理論、ブラック・ショールズ式を生み出した一人、フィッシャー・ブラック博士も、元々の専門は数学でした。

リーマンショック後は、そうした物理・数学などの元研究者が、データサイエンティストとしてデータの統計解析を行い、社会の様々な分野で活躍しているとも聞いています。

やはり、物理、数学といった、基礎の基礎を極めた人は強いな、と思います。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Takeuchi-Lab/20150607/1433676192
2008 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 |