私が簡単に他人を信用する事が出来なくなったのは、丁度去年の事だ。
やはり、私は他人を過信していたのだろう。他人を心の拠り所にすると言う事は同時に、自分を危機に晒すと謂う事なのに。
どうして以前までの私は、簡単に他人の事を信用し、相手の心情が乱れ始めると
相手から離れ、また別の相手を探し彷徨い続けて居たのだろう。
私は、自分の世界観を最初から最後まで受け入れ、私自身を信用してくれる人間が欲しい。当然ながらこんな都合の良い夢物語が叶う筈はないのだ。
しかしながら、当時の私は焦っていた。頼る者が無き今、自分と謂う存在を存続させる事が出来るのか、
このままでは自分が生きた証拠と謂う物も碌に見つけ出せぬまま死ぬのではないかと。
だから、9年前に私はネットを始めた。退屈で平凡な現実を捨てて、自分と謂う概念を捕捉してくれる存在を見つけ出す為に。
しかし、私を待っていたのは残酷すぎる現実だった。自分を最初のうちは受け入れてくれるのだが、
誰もが自分の世界観を持ち続ける事で精一杯だった。その内私は孤立してしまった。
私は只でさえ仲間を手に入れる事が難しいと謂うのに、何故私はこう簡単にも裏切られてしまうのだろうか?
私の発言に依るものだろうか?其れとも私の人格が関係しているのだろうか?
私と謂う存在に仇成す者から身を守る為に、必死に私は世界を構築し続けてきた。
私は誰かに世界を奪われたり、世界を侵害されたりする事が怖かったのだ。
誰かに世界を奪われたら、其れこそ自分と謂う存在を確立出来なくなってしまうだろう。
私は自分の世界を信じている、私自分と謂う存在を確立する為に精一杯に取り組んでいる。
しかし、結果が出せない。何故だろう。他者と意見が相反しているからだろうか。
例え、閉塞的な環境で、自身の持ち得る力を発揮したところで、環境的要因が絡み、殆ど影響を与える事は出来ないだろう。
やはり閉塞的な環境より、聴衆が不特定多数存在するような場所で周期的に意見を発表する事が自身の安定と技量の向上に繋がるだろう。
例え、其の発言は正当なものであったとしても、『粗』となる概念が一つでも存在すれば、追求される。
正当な物を見つけると何かと人々は粗探しをしようとするのだ。天衣無縫な物などこの世界には存在しないと言うのに、何故人とは完璧を目指す?
粗があってこそ物とは美しさを誇る物だと私は思い続けている。
完璧と言う概念も誰かが規定した事に過ぎない。無限の可能性に自ら大きな天蓋を取り付けてしまっているだけだ。
私にとっての美徳の一つは、完璧では無い。自分に出来る範囲の事をすればいいのだ。
だからと言い、途中で物を放棄してしまえば、無限の可能性は奪われてしまう。自分の持ちうる技術を駆使し、自分にとっての
限界を追い求める事自体が、自分や周囲の環境への貢献になるのではないだろうか。
しかしながら、十分な能力を発揮するには、他者の協力が必要不可欠だ。当然ながら支えとなる存在が無ければ、人間は自分を確立出来ぬのだ。
貢献以前に仲間が居なければ本領を発揮する事は難しい。自分の弱点を補填し、逆に相手の弱点を補ってこその仲間である。
自分の苦手な事ばかりを押し付けるのではなく、得意としているもの不得手としている物を共同作業で行う、これこそが信頼関係だ。
都合の良い展開ばかりを期待していれば、自ずと仲間は離れていくであろう。
しかしながら、仲間に優劣を求めてはいけない。全ての人間には弱点と長所が存在している。
人生は其の決められた二つの要素をどう工夫して生きていくかを考える過程の一つであろう。
最近、一つの文章を読んだ。『死んでしまうなら、生きる意味などないのだ』と言う文章だ。
私は、人々がそこに存在した事を証明する為に、子孫を残し、親から子へ知識を繋げている様に感じる。
しかしながら、残酷な事に空間の糸の呪いからは逃れられないのだ。
孰れ人類は滅び、環境は激変し、地球は崩壊し、やがて宇宙すらも死を迎えるだろう。
其の時、我々に成す術は無い。だが『人生』の意味を考えるだけ無駄。杞憂でしか無い。
こうして無意味な事を考えるより、今と言う僅かな時間を有効に活用し、
勉学に励んだり創作に明け暮れたり、運動に取り組んだりするのは個人の自由だ。
私は、こうして誰かと生きる事こそが生きる事の真価だと思っている。
時には誰かを咎め問い質し、時には手を取り合って協調性を培い、慈愛の心で持て成す。
信頼と言うのは、否定と肯定のバランスで成り立っている。この平行が少しでも乱れてしまえば、関連性は打ち砕かれる。
空間の糸の隣接世界のバランスと同じだ。不意に異物が隣接世界に入り混む事はあれど、
故意に干渉しようとすれば空間の糸の均衡が乱れ、簡単に空間の糸が裂けてしまうのだ。
これに関しての詳細は別項『隣接世界論』を見て欲しい。人間関係は多少の態度や最初の発言次第で無限に分岐する。
簡単に言えば『プチ空間の糸』とでも表せるだろう。世界とは複数の要素が絡み合って存在している。
世界を構成する成分を構成する何かが存在する事が偶然とは思えないのだ。故に、人間とは極めて高度な技術で作られた人形だと思う。
私は他の人間を観察したり、世界中を見渡したりする事が好きだ。しかしながら、自分が人間ではないと思う時も屡々ある。
他の人間が格下に感じたり、自分が特別な存在だと錯覚する時も多々ある。自分とは何だろう。
世界とは何だろう。何の為にこの世界は生み出されたのだろう。この世界の他にある世界に漂流する方法は?
幾度となく考えたが、結論は出ない。当然ながら私のような事を考えている人間はそう多くは無い。故に意見の共有も出来ない。
日々、自分が変人へと豹変して行っている気がする。自分の本当の姿とはいったい何なのだろうか。
世界とは孰れ今とは別の方向に進むだろう。私が生きている間に民族間の大規模な衝突が起きる気がする。
思想の違いは亀裂を産み、やがて亀裂は肥大化し、何か大きな物を引き裂いていく。
断裂した大きな物は断裂の根源を破壊し、自分の都合の良い世界を構築する糧にしようとするのだ。
私には政治も、他人の思想も、本当の世界も、自分の正体すらもわからない。
私には一体何が出来るのだろうか。信頼関係を結ぶ事は当然の事だ。しかし世界を取り巻く重い空気。
そして自分の主張を美化し、他者を卑下し続ける人間。指摘を聞き入れないで傍若無人な行動を行う民。
自分に出来るのは矯正か?社会へ警鐘を鳴らす事か?自分の主張を大々的に公表する事か?
違う、私の発言は私の発言を必要としている人間にのみ提供される物だ。決して
自分の主張を聞き入れない人間に行動の是正を強要する物では無いのだ。
人間の多くが自己中心主義者だ。当然ながら俺もその類であるし、自分自身の考えを誇りに思ってすらいる。
しかしながら、私は今日、一つの環境の名誉を著しく侵害する光景を目の当たりにした。
私はごく普通の学生である。秩序を重んじつつ、自分の考察を述べ、時には要求に揺り動かされる事もあるが、
私は罪を犯した事はないし、罪を起こすつもりもない。私に出来る事はトラブルの火種となる分子を消沈させる事くらいだ。
私は、雨の中路線バスに乗っていた。これはつい先日の出来事である。
無事入学式を終えた新入生の複数人が同乗していたのだが、彼らは自分の立場を弁えて居なかった。
高校生と言えば社会的に見れば既に『大人』と謂える。責任能力を兼ね備えた人間にならねばならないのだ。
しかし、彼らは違った。私利私欲を満たす事が出来るならば他者の迷惑など厭わないのだ。
私は、路線バスの乗車の表情を伺った。大声で雑談を行う利己的な彼らに警鐘を鳴らすかのように、彼らを睨んだり小声で指摘する者もいた。
しかしながら、彼らは『自重』と言う物を知らないのであろうか。私は指摘した。
車内に他の客が乗車している事、声のボリュームを下げるように促した。しかしながら彼らは聞く耳を持たなかった。
当然ながら、路線バスで生徒が大声で雑談を行う事は学校の面汚しであり、印象を下げる要因となりかねない。
私は当然ながら、指摘しても聞かない愚かなこの生徒を生徒では無く、社会の一員としてバスの中で他の聴衆にも聞こえるように強く一喝した。
これは当然ながら下級生に対する上級生からの戒めであり、マナーの悪い学校として認識されたくなかったからである。
当然ながら、私はこの行為の全ての責任を課せられていた。しかし、私はバス内で彼らを一喝した事に関して全く後悔はしていない。
寧ろ一生変化せずに何度も社会的迷惑を犯し続けるような人間に一つの機会を提供したと言っても過言では無いし、この行為を誇りに思っている。
彼らの返答は奇想天外な物であった。『先輩だからって口出しするな』、『調子乗ってんの?』、『覚えてろよ』、『絶対殺す』、『俺達だけじゃないじゃん』。
まるでピザポテトのような風貌の主犯格の彼の軽率過ぎる発言に唖然とした。自分の行為を棚に上げ、囲いと互いの傷を舐め合い、
自分の行為を正当化しているのである。また、他者の介入で自分の意見とは相反する意見を是正しようともしているらしい。
他者に危害を加えてまで自分の行為を美化しようとする彼の考えに私は絶句した。何故自分の過失を認めないのだろうか。
この学校の将来に正直私は期待を持てなかった。彼のような傍若無人な人間が増えれば、都合の悪い意見は数で抑制されるだろう。
その後、彼らにとっては都合の良いアルカディア、我々のような立場の人間にとっては都合の悪い環境へと変化していくだろう。
また、他者の介入を交えてまで主張を正当化し、相反する意見を却下し根本的に否定する必要性だ。
所詮、口頭で他者に伝えられる情報は断片的なものだ。その断片的な相手にとっては『都合の良い』情報を全て過信し、
こちらの主張を聞き入れずに傷害事件などを引き起こし、警察に本来不必要であった出動をさせ、私一人では無く多数の人間に被害を被らせるのだ。
『都合が悪い情報は全て却下して囲いを召還して是正させる』、以魚駆蠅と言う故事成語がある。
中国戦国時代の韓非と言う法家が記した『韓非子』と言う思想や社会に関して記された本の一節に、『以肉去蟻、蟻愈多、以魚駆蠅、蠅愈至』とある。
日本語に訳すと、『魚で蠅を追うとますます蠅が寄ってくる。』となる。転じて、物事の解決の方法を間違えると逆効果を招くという意味である。
これからの社会は、以前異常にグローバル化が急激に進み、古今東西の情報が社会に跋扈する事となるが、全ての情報が正確である訳ではない。
如何にして正確な情報を身に付け、偽りの情報を切り捨てるかは今後の課題である。
当然ながら偽りの情報に惑わされ、人間関係を打ち砕く糧となってしまう事も多々あるのだ。物事を穏便に解決し、他者との信頼関係を確実に築く必要性がある。
彼ら(ダーキニー女数人とピザポテト男)はその後、別の店舗でも大声で雑談を行い、平然とブレザーを脱ぎセーターのまま歩いていたため、どんなに強い言葉で指摘した所で馬耳東風。何の効力も持たないのだろう。
私は彼らがこのまま社会に出れば、これまでの人生で培ってきた経験を駆使してでも打破出来ないような状況に陥った時、平常心を失い自暴自棄に陥るだろうと思っている。
冷静沈着さを保ち、他者の意見を自分の意見と比較し、それでもって他者の意見も尊重しつつ、自分の意見も主張し、自分の非を認め今後に生かしていくべきであるが、彼からは反省の心を微塵も感じなかった。
彼らが自分の誤った選択が正確な物だと過信している。それを誰一人として咎めなければ、破滅の道を歩むであろう。
しかしながら其れを是正するのは当人だ。最終決定権は私では無くピザポテト本人にある。全ての責任を負うのは自分なのだ。だから今のうちに楽をさせておいて将来的にどん底に落下していく様を嗤って見ているのもいいであろう。
彼に侍従する者達は、満場一致で彼の行為を賛美しているのだから、どん底に落ちる時も共に落ちるだろうし、落ちても自分に非があるなどとは思わぬだろう。他者の迷惑をも厭わない人間の末路を見て嗤うもよし。
振り払われたものの、再び手を差し伸べるもよしだが、果たして彼らが変わる事はあるのだろうか。
自分の過失を認める事と、複数の人間に順応する事を学ばせるべきである。
自分の行為に関して今一度振り返らせる事も、孰れ信頼獲得の術になろう。
偽りの侍従関係や馴れ合い等、一時の気休めとしかならないのだ。未来永劫に効力を持つ他者との交流の仕方・・・
長い長い自分だけの人跡未踏の道を我々は歩んでいかねばならないのだ!