私は最近良く思う。
何故、私はこの秩序と苦難に覆われた世界に生まれて来たのだろうか。
『生きる事』が何者かに課せられた大罪の様にも感じる事があるのだ。
何かに縛られ、自由を剥奪され、他者との良好な関係が築けたとしても
其れに見合った対価は殆ど帰ってこない。孰れは全てが無駄になるだけだ。
ならば何の為にこんな呪われた『世界』に目を向けて生きていくのだ?
偽りの『神』に帰依して虚空に縋る姿は傍から見れば全く無様なものだ。
ならば何故人は理想を抱く?何故理想に縛られ現実を直視できないのか?
何故妄想を膨らませ、自分だけの世界を構築し、もう一つの世界を見出す?
それは簡単な話だ。頽廃した『この世界』に呆れ果てているのだ。
表情や口に出さない人間も居るが、理想とのギャップに苛まれ続けている。
いつも人間はあらゆる形での「変化」を求め続けているのだ。
私もその「変化」を求めている人間の一人であり、現状に満足していない。
自分にとって不都合な世界であり、駄々を捏ねる時も屡々あるのが現実だ。
死者を弔い、この世界から抹消された存在を引き摺り、仏として祀る事も、
存在しない筈の架空の存在を崇める事も、仮想空間で他者との交流を愉しむ
事も、世界を拡張する為に創作に明け暮れる事も、結局は全てが自身や
取り巻く環境の変化を求めて自ずと無意識のうちに行っている事だろう。
幼少期から徹底的に教育され、親から子に代々受け継がれてきた『智慧』が
今の子供達の常識となっているのだろう。逆に、親が子に新しい『常識』や
『悪徳』を伝え、広まれば将来の子供の性格やその後の社会の風潮や行動に
影響されるだろうし、世界も大きく変化を遂げていくだろう。
親は自分には足りない、或いは不得手な、欠損した部位を子供に
何としてでも補填させようとする傾向が見られる。これが社会の変化だ。
私は『人間』と言う動物が日常的に変化して行くのは、こうして変化する
環境に順応して生きていく為だと思っているし、保守的になり、他者の
意見や発言、姿勢を受け入れられない者は、社会から当然ながら排除される
スタイルは非常に『人間らしい』と思う。逆に他者の個性や特徴を遵守せず
個人を受け入れられず、一色に染まっていく世界に戦慄している。
段々赤一色に染まる世界に、こう言った『排除される存在』。即ち白が干渉する事で調和を保っているのだと私は思う。
しかし、私はここ最近の風潮を掴めず、流行に乗り遅れてしまう時がある。
この世界は常に変化しているが、変化が剰りにも早く、その分排斥される人間も増えていく。
私とて環境や自身の変化を望んではいるものの、ここまで事象が推移して行くと困惑してしまう。
自分の意見も通用し、他者の意見を反芻し、比較し、また別の人間の意見とも比較し、真実を導き出すべきだと私は思っている。
悲しい事に私には影響力も著名度も無い。だが、私はこれを必要とはしていない。
名が広まれば支持者も増えるが比例して反対的な意見を持つ者も増えていくだろう。
私は無闇矢鱈に行動し、何かを勝ち取ると言う事は嫌いだし、悪徳だと思っている。
知識を深める為には、表舞台には立たず水面下で地道に少数に意思を表明し、探究心を抱き続けるべきであると考えている。
日々、自分の必要としている物は何か、世界とは何か。どう他人と接するのか、
意見を遵守する為にどれだけのリスクを負い、どれだけの利益を得るのか、どれだけ自分の意見が通用するか。
他者にどうすれば慕われ 愛され、不必要な物と必要な物をどのように取捨選択するべきか、
そんな事を考え続けているが、中々結論は出ないし、こうして纏めて綴る事くらいしか出来ない。
日々葛藤しているが、結局の所これも『逃避』の一つでしか無いのかも知れない。
自己主張を正当化し、他者の意見を拒み続けているのは紛れもない自分かも知れない。
社会的弱者の立場になっているつもりが、大きな阻害になっているのかも知れない。
虐げられる者を救い、悪しき者を斬り捨てているつもりが 結局自分は、
誰かに仇成す事で自己悦楽に浸っているだけなのかも知れない。
匿名社会。仮想空間で集団となり虚勢を張り、一人の人間、或いは複数の人間に固執し複数の人間ないし一人の人間が叩き貶しをする。
その世界の『特定のグループ』を牛耳る人間は絶対的な権力を持ち、まず抗う者はない。楯突く者はない。
故に、多くの無知な、或いは能力の低い者がその『リーダー格』に侍従し、リーダー格が窮地に陥ったり都合が悪くなったり、誹謗中傷や指摘の対象となれば加勢し特定のユーザーの個人情報をリークしたり、誹謗中傷を行ったり、横槍を入れたり、揚げ足を取ったり、正当化したり、特定のユーザーの創作を阻害したり、或いは侮蔑する。
そんな人間達に嫌気が刺し、私は徹底的に正面から孤軍奮闘して来た。当然ながら罵倒され、誹謗中傷を繰り返される。
だが、私は信じている。自分は正義の為に戦っているのだ。擁護する人間は全くの悪だ。奸佞邪智の愚か者に鉄槌を下しているのだと。
これも全て『新たなる世界』を求めているから。結局は全て都合の良い世界を構築する為の文句にしか過ぎぬのだ。
時に自分が情けなく感じる時がある。そう言う時は大抵、自分の胸に手を当てている時が多い。
何故、上手く行かないのだ。自分は誤ってなどいないのだ。他者が間違っている。
自分の非を認めるのが苦手だ。これが自分の回答だと心に言い聞かせる時が多い。
自分の思考を否定され、帳消しにされ、他者の意見が採用される事が嫌いだ。
結局答えは変わらない。退行する。悩む。落ち込む。鬱になる。世界への怒りを露わにする。
其れが今までの自分だった。でも今の自分は違うと断言できる。他者の世界観を理解できるようになったからである。
更なる自身の心情の変化と思想のハッテン♂を求めている。自らの思想をハッテン♂させれば、
他者の冒涜も物ともせぬ強靱な力を持ち合わせる事が孰れ出来るであろうから。
そうすれば他者に否定されない、何者にも干渉されない世界を誰かに認めて貰う事が出来るようになると私は思っている。
自身を変化させれば、孰れは報われる。別の世界に帰依する必要はないのだ。
諦めず日々努力に励み、自分だけの何かとても大事な物を掴んで貰いたい。
"自分にしか手に入れられないとても大事な物"がいつか、諦めなければきっと手に入るはずだから。
夢が無い人達には『言葉』を与えてやりたい。これが私の断固として揺るがない思想の一つだ。
一人の人間を、『人間として認めてやる』事が重要だ。社会的に否定され、差別を受け、意見を否定されたとしてもそれは『人間』だ。
蛋白の塊でも肉の塊でもない。『人格』を持った一人の人間なのだ。
そして独断を貫き、周囲への配慮が出来ない人間にも労りの言葉と、時には否定的な言葉を浴びせかけてやりたい。
其れでも変化を見せない傲慢な者は家畜や肉片以下だ。他者の意見を受け入れず、独断と偏見を振り翳す者は断固として許されるべきではない。
それが社会的な『常識』と成り得るならば、私は社会にも多勢にも果敢に立ち向かおう。
『意見の全てが平等に通用し、理解される世界』には別の問題があるが、
変化を求める人間の最終的な形はこれに纏まっていくだろう。
私は求めている。『変化』を。『新しき世界』と『環境』を。
しかしながら其れには問題がある。問題とはとても容易い話だ。
この地上には今 約70億人もの人間が存在しており、個々が別の思想を抱いている。
誰かにとっての美徳が、時には誰かにとっての『悪徳』と成り得るし、
私の求めている世界に共感する者も居れば、反感を抱く者も当然ながら存在するだろう。
思想の違いが対立を生み、対立によって個々の間の亀裂はどんどん巨大化して行き、孰れは破壊を招く。
誰が善で誰が悪かなんて一概には言えぬのが、現状である。だからと言って悪と善を区別すると言った事はしてはならないのである。
個々が違った意見を持ち、世界とは成り立っている。世界を平行に保つには、意見を共有する場を用いれば良いのだ。
近年、社会問題となっている『 IS 』の過激的な思想も、かつて凶悪事件を繰り返した『 オウム真理教 』も
頂点である者の思想に多くの信徒が賛同した為に過ちを生んだのだ。
信徒の意見を遵守した結果なのか、頂点となる人間の思想と相違が無かったのかは不明だが、人を殺める、傷付け合わなくても意見とは共有できるものだと私は信じている。
何故、意見が通用しなかったり反対的な意見を持っている人間に攻撃的な姿勢を持つか。これも簡単な話だ。
やはり個々が変化を求めている。しかしながら前述した通り、求めている世界は決して同じな訳では無い。
(当然ながら、私の求めている世界も都合の良い世界とは大差がない為、大勢の人間から共感を得られるとは到底思っては居ないのだが。)
結局の所、全てが相容れる事はないが、世界とは破壊と創造の調和が保たれ存続している。
私だけでは全ては決して変わらないとは思っている。しかしながら日常的に触れている、或いは馴染みのある場所。つまり仮想空間である。
その世界の極めて抽象的な場所に存在する、他人の意見を真っ向から否定するボス格程度ならば何とか是正する事が出来るのでは、と思っている。
結局、是正したところで世界に大きな影響が生じる訳では無い。だがしかし、達成感や被害を被っていた者達の解放には繋がるだろう。
たかが仮想空間の利用者が自治を行い、発言の場を奪い、同族間で互いの傷を舐め合い、主張を正当化する。
そして自身のフォロワー数やお気に入りの平均、フォロー数とフォロワー数の比で発言権を剥奪したり下級の存在として位置付けている。
無論、公式として明確な基準を位置付ける規約など存在しない。
何故傍若無人な振る舞いを何故周囲は止めようとしないのか。変化を生むどころか、変化の機会すら奪われているではないか!
人とは随時変化を繰り返して生きていく者だ。それをたかが個人の勝手で否定され、囲いの一つとして扱われ、駒にされるのだ。
滑稽な話だ。他者の意見を取り入れず、匿名社会だからと言い、横暴な振る舞いを行う人間が許される訳ではない。
漫画やアニメ、ゲームや創作、他の人間によって思考が矯正されているのかは判らないが、
自発的にこう言った人間を目指そうとしているユーザーも少なからず存在する。何が素晴らしいのか、何が恰好良いのか。今一度考えたい。
それは、同時に変化を奪い、社会を赤一色に徐々に変えていく事だ。反旗を翻せば圧倒的な数と罵声に飲み込まれ、粛正される。
私は発言の権利を奪い、意見が統一された世界よりも、様々な意見が混ざり合い、互いに『其れ』を理解し合い互いの利害が一致する世界を夢見ている。
結局は夢物語に過ぎず、私の意見に賛同する人間等限られてしまうだろう。
しかしながら、私は変化の少ない退屈な日常よりも、過度な変化を繰り返す世界よりも、バランスの取れた世界が良いと思っているのだ。
今のこの世界は悲しい事に、少々バランスが崩れ始めている。多くの人間で溢れ復り、
意見が多様化した事で利害が一致し辛くなったことが原因の一つだろう。
意見を通用させる事は難しい事だ。だからといい閉鎖的な環境で創作をしたり意思を表明すれば誰にも主張を受け入れて貰えないだろう。
この世界は環境は確かに凄まじい勢いで変わる。目を背ければ風潮に入り込めず、孤独に枯死する運命にあるのだ。
我々は確実に他者を受け入れて進化し続けねばならない。他者の共感を会得する為。
そして自分を確立する為に。そして自分の求める世界と他者の求める世界とを照合し、より棲みやすい世界を構築する為に。
しかし、自己主張を強く重んじ過ぎ、身を滅ぼすか破壊的な未来を生み出す事だけは避けたい。
我々は今、団結する時では無かろうか。望みを叶える為に抗い合わず、無益な諍いを起こさずに。
協力し合い、協調性を育み、多くの意見と触れ合う事で自分の本当の意思を見つけ出すべきだ。
其れと同時に『自分らしさ』を培う事が出来るし、其の過程で他者との議論や意見交換が生じるのだ。
動乱の無い世界を作るには積極的な意見の交換が欠かせないと私は思っているし、解決策として意見の交換が用いられる事を願っている。
武力を行使して、意見が相違する他者の命を断絶したり、意見を排斥する事がない世界こそが私の望む世界だ。
確かに武力に束縛される事を願う者はいる筈だ。しかしよく考えてみろ。破壊が何を産む?新たな破壊か?
『破壊から新たなものが生まれる』と言う回答をよく貰う。しかしこれは『失われたもの』を土台として構築されたものに過ぎないのではなかろうか。
これも一つの意見だ。私の心はまるで波のように揺れ動く。本当の答えを導き出すまで、果たしてどれだけの歳月と意見が必要だろうか。
私は今後も探求を繰り返し、多くの人からの回答を得ていきたいと思っているし、私の記した文章を読み、思った事を聞いていきたいと思っている。
これが私なりの『もう一つの世界』の形である。土台はたった今作り上げられたのだ。
2015. 4.6 HOMORA-CHAN (16 Years Old)
あとがき
こんな拙文を最後まで読んでくれてありがとうなの。
まぁ長ったらしい文章でしか意思表明出来ないのは私の悪い癖。
許してちょうだい。まぁ私としては争い事は嫌いだし、
何の関連性もない人間が加勢したり私利私欲満たす為に拡散したり
そう言った事でしか意思表明出来ないのはなんってか、
とっても悲しい事だと思ってるんだ、人間には生まれつきに感情を
幾らでも口頭なり文面で表現出来るんじゃない、それ無視して
一時の感情に左右されて罵倒とか意見否定とか馬鹿げてると思うの
まぁ、私とて仲間であろうが敵であろうが優れていたら賛美するしさ、
間違いだと思ったら仲間でも咎めるのは当然の話、仲間として