生 と 死   ~  狂 え る 循 環















 

 

 

 


          第   一   譚

             『生き甲斐』



この世に私が生を受けて早17年。毎日のように叩き起こされ、朝食を取り、自転車に乗って駅まで向かい、電車で通学する。



 極々当たり前で平凡な人生なのだが、偶に思ってしまう事があるのだ。


我々は何の為に生きているのだろうか?誰かの為に揺り動かされているのだろうか?


否。私には意志がある。私は『自分の意見を理解して貰う』と云うひとつの目的の為にこの世界で闘い続けているのだ。



この世界が『ボードゲームの板』で我々はボードゲームの板の上に存在する駒の一つではないのかと言う事だ。



毎日のように急かされ、自分の要望も通らないまま他者の思考に丸め込まれ、発言の権利も与えられないまま1日1日が過ぎていく。




常に我々は『チャンス』を与えられるが、チャンスを与えられたからと謂って都合の良い結末に終わるとは限らない。



我々は都合の良い結末を求めている。故に我々は打開策を探す。目的が遂行できないならば別の手段を探し、逃げる事なく闘い続けるのだ。


しかしながら、『逃げる時』と『奮闘する時』を明確にする事が出来ないのが人間の個性なのではなかろうか。





古代ギリシアの哲学者のにカルネアデスと謂う人物がいる。彼は『カルネアデスの板』と謂う問題を提示した。




『取捨選択』である。我々は家を飛び出せば社会と謂う大海原に投げ棄てられ、海に浮かぶ一つの板に縋り付こうとするのだ。




この板に命辛々辿り着いた男が居た。彼は後から板に辿り着いた者に対して行った行為は有名である。




多くの者が板に獅噛み付けば板が沈んでしまうと思った男は、後から来た者を突き飛ばして溺死させたのだ。




チャンスとは一つの板であり、掴む事が出来たとしても横から板を奪われたり便乗することで板が沈んでしまったりするかも知れないのだ。




どうしてここまでして人間と云う者は自己を誇大しようとするのか。早い者勝ちの理論に疑問を抱いている。


我々は手を取り合って共に闘うと云う事が出来ないのだろうか。他と手を取り合って弱い自分と闘うべきである。


ボードゲームの板の上で、常に揺り動かされる駒達。果たして駒の様に何者かに翻弄されて生きる事が美徳なのだろうか。




他人を犠牲にして物を得て生きるよりも、せめて私は最低限の処置をするべきだと思っている。




ここで思った。何故人間は生きるのだろうか。邁進する理由は『一つのチャンスを望む』からか。はたまた強情さからか。




死んでしまえば何も残らない、他者に必要とされなければ誰かの記憶には残らない。他者に忘却されたならば何も残らない。

生きる意味など無いのだと謂う虚無的な思想が自分の心の中で蠢いている。



生きる意味は見つけ出す物なのだろうか、それとも自分の手で作り出す物なのだろうか。



『生きる価値』が見出せずに居る私は、頻繁に一人で部屋に閉じ籠もり椅子に座って目を閉じて深く考える。



 『生きる価値』が存在しないのならば、比例して『死ぬ意味』も生じなくなるのでは?と云うのが私の出した結論である。



もしも死んだ後の世界が存在するのならば、其処は理想郷なのだろうか。絶対の安全と幸福が約束されているのだろうか。




私はこれを完全に否定している。私の記した『隣接世界論』をなぞる内容となるので、先に隣接世界論を読んで貰いたい。



隣接世界論とは、この世界以外にも無限に隣接する『IFの世界』が存在すると仮定したものである。



隣接世界論上では『一つの宇宙』が紐の繊維の一つであり、無限に枝分かれして『空間の糸』を構成していると描かれている。



しかしながら、宇宙に果ては存在しないとされている。私はこう考えた。『宇宙』と云う概念を『繊維』と云う箱に収めているのではないかと。



『繊維』と云う箱は巨大化し続ける宇宙一つを包み込めるように作られているのではなかろうか。



 私はもしも世界に『終わり』と『始まり』が存在するとは思っていない。空間の糸や繊維は最初から其処に存在したのではないだろうか。



 全ては仮定である。世界が1つしか存在しなかろうが、世界が無限に隣接していようが、我々に確かめる術はないし、



 我々には触れられない領域なのだ。私は一つの物が天寿を全うした後、また新たな存在として隣接する世界に生を受けると思っている。



 『世界』とは無限に存在している。今この瞬間にも新たな存在が生まれ産声を上げ、また新たな宇宙が生まれているのだ。



 私の論の中では死んでも理想郷には到達出来ない。記憶を奪われ、姿形を変えられ永遠に生と死のスパイラルに苛まれ続けるのだ。



 人として生まれるか、家畜として生まれるか、物質として生まれるか。もしも物質として転生したならば、『死』の定義はどうなるのか。



 乱数で決められているのか、はたまた『絶対にこうなる』と規定されているのか。私には知る術もないが、もしもこの通りなのならば、生死とは残酷だ。



そして生まれ変わる度、『生きる』事を余儀なくされ、考えさせられるのだ。『生』と『死』について。



 生きる事に意味はあるか、意味とは作り出す物か、作り出される物か、はたまた他人の生きる意味を自分が作り出しているのか。



 自分は他人の生きる意味を作り出し、他人に希望と夢を与えている物であると信じたいし、自分を必要としている存在が少なからず居ると信じたい。



 人は自分を誇示する為に暴挙に出る事があるが、これは『生き甲斐』なのだろうか?其れとも『どうせ死ぬのだからやりたい事をやりたい』と云う顕れか。



 悪徳と美徳、全ては一人の人間の作り出した枠組から始まった。一人の人間が構築した定義が万人の定義となっている。皮肉だと思う。



 他者の意見に翻弄され、自分らしさを失っている。他人の意見を一蹴する事は良くないが、真偽を問わずして鵜呑みにする事も許されない事である。



 正しい情報を仕入れ、偽りを排斥せよ。自分の意見と他者を意見を照合し、積極的に取り入れる事が生き甲斐を生み出す要因にも成り得よう。



ニヒルに心を食い荒らされ、未来に期待せずに殻に籠もり社会から敬遠される位ならば、積極的に社会に干渉し意見を述べるべきではなかろうか。



社会に自分を大々的にアピールせずに、他者の意見に惑わされる位ならば、せめて自分の考えを伝えてから生きていきたい。



例え自分の意見が通用せず、一部の人間に糾弾されたならば、具体的に『何処が賛同できないか』と『何処が賛同できるか』を述べさせるべきだ。



ここまで記した物は只の一例に過ぎないが、やはり生きる意味とは自分の手で生み出す物で、他者に縋り生み出す事を強要するものではないはずだ。



 確かに生きる意味を貰う事は素晴らしい。だが生きる意味を貰ってばかりで生きる意味を模索しないで自分は安全地帯から高みの見物しかしない、



 其れはとても都合が良い事だ。他者の苦労を土台にして楽をして生きるよりも、誰かの土台になりつつ、自分らしさを磨く事もまた一つの生き方だ。

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


                   
                             第   二   譚

                  『役目』



 残念な事に、今の我々には『夢』や『空想』等の『一方的に見せられるもの』以外を通して


隣接世界に干渉する手段は無いと言っても過言ではないのが残念な事である。


 『二次元世界に行きたい』、『この世界から逃避して別の世界に行きたい』等と言う安易な考えで一度限りの命を絶ってしまう人間が居る事も事実である。



 隣接する世界は無限であったとしても、我々が辿る道は一つであり、此からの行い全てが決定された世界だったとしても、命を自ら投げ出し可能性を捨て去る事は絶対に許されるべき事ではないと思う。


 『この世界で生きる』自分と云う存在は一度きりである。決して粗末にしてはならないのだ。



 『運命の糸』を作り出した物の意のままに動かされるよりも、せめて『糸に生きる者』として運命から抗おうとして生きるのもまた一つの手段かも知れない。


もしも『運命の糸』を作り出した物によって全ての事象が決定されて居たとしたならば、『困難から逃れようとする我々』も『最初から仕組まれていた事項』となるのが皮肉なのだが。



夢や妄想は現の世界に生きる我々に誘惑してくる。甘い世界や都合の良い未来を見せつけ、一瞬の安らぎ、若しくは更なる苦痛を与えるのだ。



 困難に苛まれる現実世界、都合の良い様に意のままに操れる夢の世界。二つの世界はまさに対照的ではあるが、『二つの世界』の在り方は人に依って千差万別である。



 『都合の良い様に左右する事が出来る現実世界』と『自らの精神を着実に削り取る夢の世界』を見る者と『都合は悪いが、まだ手に入れていない物が存在する表の世界』と『幸せな幻影を見せられるが、所詮は虚実でしかない妄想の世界』を見る者。



 果たしてどちらの方が幸せなのだろうか。都合の良い様に生きられる人間は悪夢に苛まれて全てを投げ棄てる。災難な運命に弄ばれる者は辛い現実から逃避する為に命を投げ放つ。



夢とは隣接する世界を客観的な視点から強制的に見せられる物だと思っている。直接『ひとつの存在』を媒体として入り込んでラジコンのように操作する事が出来る夢もあれば、只テレビの様に舞台が推移する夢も存在する。



どちらにせよ、この世界に支障を与える事は殆ど無いと言っても構わないだろう。しかしながら『この世界により近い世界』ならば、未来の事象をある程度察知する事が出来る可能性もあるし、事象の別の結末を見る事も出来るだろう。



 隣接世界は我々に多くの強いインスピレーションを与えてくれる。だとすれば直接的に隣接世界が受け取り側に行動を起こす事もあり得るのだろうか?夢の世界と現実世界の関連性とはあり得るものなのだろうか?



 隣接世界の与えた都合の良い風景が、この現の世界に生きる我々の精神を害す事もある。聴衆である我々を『殺す』事によって更に都合の悪い世界に引き込もうとしている可能性も否めないのだ。



我々は空間の糸を作り出した者の気紛れで作り出されたボードゲームの板の上の駒に等しい。駒はいつ倒されるのか分からないのだ。


 走馬灯のように駆け巡る後悔と絶望とやるせなさ。そんな物を見て一生を終わらせる位ならば充実感を得て死ぬべきではないだろうか。ボードゲームのように熟練者に翻弄される位ならば、



 実力の差を埋める為に闘志を燃やし尽くし、決して引く事なくせめて引き分けに持ち込もうと思う気持ちが重要である。『勝利する事』よりも初心者が意地で熟練者に『対抗しようとする意志』こそが美しいのだ。



ここ数十年で飛躍的に医療技術が進歩し、我々も『病』や『寿命』に対しての関心が高まったが、果たして『命』の正体は何なのだろうか。臓器や其れを覆う囲いを取り替えれば永遠の命が約束されるのだろうか。



 我々の体には謎が多い。特に脳に関しては非常に多くの謎が残されているとされるが、私は人体の構造や人間の精神がどの様に構成されているのかは分からないのでここでは脳に関しての説明は割愛する。



 脳の謎と言えば以前テレビで『死後の世界から帰還した者』について語られていたので簡潔にだが紹介したい。ソースは忘れた、ごめんなちゃい



事故で昏睡状態に陥って脳の機能が停止していた者がその間、『死後の世界』を訪れ、その時点では顔を知らなかった者に言葉を掛けられたと云う物だ。



夢は脳が分泌する物質に依って生じられる物だとか、脳が蓄積された情報を処理する過程で生み出された情報が混在する『混沌とした世界』だとか多数の意見が存在するが、



科学の力で夢の正体を明らかにする事は不可能であると私は思っている。 夢、体、世界の三つは空間の糸を創造した物によって直接作り出された最も複雑な物体であると考えている。



空間の糸の辺鄙な繊維に生きる我々は、誕生から僅か700万年で急激に進化を遂げ、あらゆる事象を解析し、様々な物を作り出し、時には破壊を繰り返したのだ。



しかしながら我々にも限界があると考えている。 ネアンデルタール人がサピエンスによって闇に葬られた様に、我々にも当然ながら限界が存在するのでは無かろうか。



隣接する世界では人体や夢の世界の構造に関して更に緻密な研究が進められているのだろうか。宇宙の何処かには私以外に空間の糸に関しての情報を記す者が存在するのだろうか。



この様に、普段何気なく見ている『夢の世界』について考えるだけでも『生き甲斐』は作り出せるのではなかろうか。『周りがこう思っているからこうである』と断定するのではなく、



周囲の多数的な意見を受け入れつつ、『私はこう思う』と異なった意思表明をし独自性を貫く事も『真実』に到達する為の糧に成り得よう。



核心を突く事は出来なかれど、真実に近付くだけでも一定の満足感や研究への熱意、生き甲斐は生み出せると願いたいが、多くの者は私の様な捻くれた意見は求めてはいないのが現実だ。



社会的に認識されている『当たり前』、『常識』、『専門家がこう言っているからこう』と多数決の原理に基付いていない意見は全て虚実、信憑性が低ければアイデアとして捉える事も出来ないと一蹴されてしまうのだ。



マジョリティとマイノリティが睨み合いを行えば直ぐに決着が付いてしまう。どう足掻いても少数派が多数派に勝利する事は出来ないのだ。『先代の教え』によって我々は弾圧される。



 先代が伝えてきた『多数決の原理』は個々の少数派意見に焼き付き、意見の統一化や都合の悪い意見の排斥と云ったデメリットを生み出しているひとつの原因と言える。



 少数派が意見を発表する場が失われれば、多数派の意見が『当たり前』となり、思考が停止される。思考が停止されれば発表する者が徐々に少なくなり、新たな考えを発表する意欲すらも絶たれる。



 意欲を絶つと云う事は、『やり甲斐を奪う』と云う事になるのではなかろうか。誰しもが自分が可愛く、『私の意見を尊重して貰いたい』と云う思考を持っていると思っている。



どうしてもマイノリティが擁護される事は少ないが、せめて全否定ではなく部分的にでも賛同の声を浴びせ掛ければ考えの発展に繋がり、やる気の削減を抑えられるのではなかろうか。



 『二次元世界に行きたい』、『この世界から逃避して別の世界に行きたい』。死は自らを別の隣接世界に飛ばし、其れを可能にしてくれる。同時に、記憶とこの世界での功績をリセットする事にもなるのだ。



 簡単に命を絶つのではなく、生きている事の有り難さを噛み締め、多くの聴衆の前で積極的に意思表明を行い、悔い無く天寿を全うする事が我々に課せられた『役目』である。


我々は正しい情報と偽りの情報の取捨選択を行うべきだが、正しい情報と偽りの情報の選りすぐりにはやはり価値観の相違が関わってきてしまうのだ。


価値観の相違を受け入れ生きていく事こそが生きる事の最も難しい点であり、これからの人間に必要とされている要素のひとつではなかろうか。

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


                   
                              第   三   譚

                 『狂える循環』


第三譚は『自分』と『世界』の関連性について語っていきたいと思っている。



まず『生死』。我々は死ぬ事によって隣接世界の何処かに『別の存在』として生を受けると思っている。



我々は配偶者ないし他の異性と交わったり遺伝子操作を行い子孫を残そうとするのだが、これは自分とは何ら関連性がない、飽く間で『血縁だけの繋がり』だ。



他人はモブキャラクターで自分はメインキャラクター、そしてメインキャラクターを操作するのが自分であり、生から死までの長い物語を進行するのである。



この世界上では物語の途中で操作キャラが変更される事は無いし、取り返しが付かなくなるバグも極めて沢山存在している、鬼畜な遊戯である。



操作キャラが自分な事には変わらないし、子供を自分が操作する訳でもない、飽く間でこの世界での自分の次の世代を受け継ぐ事になるだけの『NPC』だ。



『他人を物』としてしか扱わない自分の考えは少し倫理に反する面もあるだろうが、妄想癖のある学生のひとつの意見として受け取って頂けると幸いである。



自分が死ねば次の世代の操作権を担う事になるのだろうか、そもそも『死』とは一体何なのだろうか。肉体の停止か、はたまた次の生への準備か。



『自分が使用キャラならば周囲の人間はNPC』『自分が世界の中心』であるのだろうか、其れとも今周りを行き交う者達はかつて自分が操作したキャラクターなのだろうか。




しかしながら我々の死の定義は曖昧だ。『脳死』が完全な人間の死だとか、心臓が停止したら死だとか人それぞれの定義に基付いて『死』は決定される。



動物以外の物体の死。これも謎である。そもそも石や植物に『死』と云う物が適用されるのだろうか?『動物の死』とそれ以外の『死』との関連性は?



物体全てに死が存在するのだとすれば、其れは『物体が使用できなくなった場合』や『物体が完全に朽ち果て肉眼で捕捉できなくなるぐらい繋がりが解けた』場合だろうか?



だとすれば人は死んでも骨を構成する物質が完全に消滅するまで『死んだ』とは見なされないのだろうか。『肉体の死』は意思疎通の手段が奪われただけであって



骨が完全に朽ち果てて骨の繋がりが完全に解けるまで気の遠くなる程の時間、気質として空を漂い続けるのだろうか。


何事にも干渉できないまま、『夢の世界』と同じように『現の世界』をぼんやりと眺め続ける。隣接世界に生きながら、何者にも属せない者のようである。



完全に肉体が消滅するまでの気の遠くなる程の時間を生き続けた結果、全てが虚ろとなって感情すらも消え失せてしまうのではないだろうか。



私はせめて『死』が一瞬で訪れてくれる事を願っている。朽ち果てる迄の途轍もない時間、宙を漂うなんて未来は私は望んでいない。



我々は多くの生存競争によって生み出された大地の上に生きている。しかしながら死んでいった物達は肉体は滅べども魂魄は隣接世界に新たな生命として生を受ける。



微粒子レベルの物体から恐竜レベルの巨大生命体まで、多くの屍によって作り上げられた大地に大絶滅を生き延びた我々の祖先の哺乳類は歩み出し、



やはり多くの殺戮と破壊を繰り返し『人間』へと進化していった。この過程で死んでいった者達は隣接世界では人間を凌駕した進化を遂げた生命へと変化したのだろうか。



もし哺乳類が滅び、恐竜が進化したならば世界はどの様に変化していったのだろうか。破壊によって生み出された遺骸の上で破壊が繰り返され、新たな存在が生まれる。



人類に今仇を成す存在は顕れていないが、今度は人間同士で殺戮が引き起こされ、私こそが正義だ、王に相応しいと争い出す姿が目に見えている。



形は同じだとしても人間は進化の過程で多くの種類に分岐し、外見は同じだろうとも本質は全く違う生命体へと進化しているのかも知れない。言語や思考の相違も『種類の相違』であると言える。



そしてこのまま人間の間で殺戮が引き起こされ、生き残った者達は更なる変化を求めて生き残った者の間でまた争いが引き起こされ、最後には人類が滅ぶか、



新たな『人間を凌駕した存在』に支配権を奪われてしまうかだろう。争いの上に争いが起き、多くの『形』が奪われて統一されていった。




この星の支配権を持っていた生命体は共通して『共存する』姿勢を持てないらしい。 『支配者』となる者が共通して大地を我が物顔で闊歩する姿は恐竜時代から全く変わっていないと言えよう。



人間は何を目指して生きる、地球に甚大な影響を与えた人間。僅か700万年で革新を繰り返した彼らも滅亡には決して抗えないのだろうか。若しも人間が滅べばこの地上を制圧するのは一体何だろうか。



SF映画の様に異星から突如ご都合主義的展開で現れたエイリアンだろうか。しかしながら『生命体が存在する星』にズカズカと這い上がった挙げ句我々を生命体と認識せずに破壊行為を行うなど到底考え辛い。



意思疎通を図れるか否かで異星生命体との和平や協力は大きく変わってくるだろうし、意思疎通を図れなかったり疎通に失敗すれば攻撃に至る可能性があるが、映画の様に地球側が圧倒的劣勢とは到底思えない。



やはり現実的に考えたならば、人間が人間を制圧し、更に革新を繰り返し今の人間は『旧人類』として蔑まれ差別されるだろうし、勝利した側は更に進化を繰り返し『新人類』を自称するだろう。



私は自身の死後の世界が気がかりだが、果たして死後の世界を見る事は出来るのだろうか。夢を通して見るとしても『隣接世界を意図して観る』事など出来るのだろうか。



若しも1秒前の世界や今意味も無くキーボードを打っている途中に只『あ』と言った世界と『何も言わずに黙々とキーボードを打っていた世界』が別の世界だとすれば、十分死後の世界も隣接世界のひとつに成り得る。



この世界は常時変化を繰り返している。多少の世界の変化も隣接世界に成り得るのだろうか。若しもこの世界で発生する全ての事象が決定されているならば、十分あり得るだろう。



隣接世界論上では死後、『空間の糸』の他の繊維に別の物質として生まれ変わる事になっているが、これは『パラレルワールドの世界』、即ち自分が死んだ後の世界にも別の形で飛べると言う事なのだろうか。



もしも子供も親も、物質も転生した自分だとするならば、何の為に我々は子孫の繁栄や物質の創造に励んでいるのだろうか。完全なる世界の創造の為であろうか。そもそも完全とは何だろうか。何の為に転生をするのだろうか。



自分がまだ生まれていない縄文時代に記憶を抹消され生まれると云う事なのだろうか。捻くれた考えではあるが、ありとあらゆる可能性が考えられる。この理論に基付けば、『自分から自分が生まれた』なんて事もあり得るのだ。



全ての記憶が抹消され、また別の存在として新たな人生を『隣接世界』『過去の世界』『未来の世界』と形容される世界で送るのである。


生きた事が無駄になるのか、はたまた『前のデータ』を客観的に捉える事が出来るのだろうか、私には分からない。


自分が生きた事が無駄になる、そう思い込めば生きる価値など永遠に見出せはしないだろう。生きる事には意義があると唱え続ければ孰れ生きる意義を見つけられると信じている。



何気なく会話している友達、親、家族。そしてペットや家具。全てが形が変わって転生した『自分』だとすれば、我々は逃れようのない生と死の螺旋を循環し続けているのだろうか。


『空間の糸』を作り出した者は紛れも無い自分で、無の世界に退屈した『自分』は分裂して自発的に物質を構築する糧となり、転生と分裂を繰り返しこの膨大な宇宙を構築したのだろうか。



『死ぬ事と生きる事』、それはありとあらゆる存在を生み出し、そして破壊する事に繋がるのではなかろうか。 自分が進化の為に無数に存在する都合の悪い敵陣の自分を殺す狂える循環に恐怖してしまう。


自分が自分の頸を締め、目的の為に闘い、そして自分に殺される。 『世界が自分だったならば』と云う発想は全ての概念を自分と仮定する事である。


何もかもを自分とする事で、全ての物との一体感が感じられる。其れと同時に無限に形を変え増殖し続ける『自分』の恐ろしさに怯えるだろう。


世界で最も恐ろしい物は、他ならぬ『自分』である。他を受け入れようともせずに自分の意志を一貫しようとする自分の弱い心である。変わる事が出来ない幼い心である。



若しも自分がこの文章を読んでいる人間で、自分がこの文章を入力しているキーボードのパーツのひとつを構成する物質だとするならば、世界自体を構成するパーツでしか無い、ボードゲームの駒でしか無いと言う事を痛感させられる。



其れと同時に異なった自分が異なった意見を持ち、『この世界で生きている』と云う気持ちにもなる。 しかしながら飽く間でこれは私の『考えのひとつ』であって、『考えが全て世界自分説』である訳では無い事を理解してくれると嬉しい。



私はこうして世界に生きている。其れと同時に途轍もない情報と閃きに囲まれ、自分の考えを纏めるのに集中して身動きが取れなくなる事があるが、私は自分の考えに誇りを持っている。生きている事に生き甲斐を得られる気がする。



せめて自分の考えや発想が誰かに影響を与えたり、誰かが自分の文章を読んだ事によって生き甲斐を感じさせられたり強く世界について考えたりしたり、誰かに自分の考えについて批評されたりしたならば、冥利に尽きる。



私はこうして多くの物から強い影響を受け、『考え』を纏める事が出来た。こうして文章を打っている事が何よりの幸せであり、第三譚執筆時、自分の考えをより拡大させられると云う事がどこまで幸せな事か痛感した。



私はこれからも自分の考えを周囲の人間に伝達させる為、また自分の世界観を広げる為に文章を打ち続けて行きたいと思っている。もしも自分の文章を読んだ者が、誰かに影響を与え、



その誰かの考えが誰かに強い影響を与え、『幸せな循環』を生み出し世界がより良い形に進んでいく事を祈っている。私は文章を生きた証としてこの世界に残しておきたい。自分を必要とする、或いは文章に関心を抱く者の為に。




2015/06/03 22:56  SAKENOMI ( HOMORA ) 16 Years old