くじで選ばれた市民が裁判官と有罪・無罪や刑の重さを決めるのが、裁判員制度である。

 長引きそうな裁判をその対象から外し、裁判官だけでできる例外をつくる改正裁判員法が、国会で成立した。

 導入7年目で施された初の制度見直しが、対象を狭める方向になったのは残念である。

 司法に国民の意識を反映させるという理念をふまえれば、今後は制度をもっと生かすための見直しをめざすべきだ。

■長い裁判と向き合う

 この改正は、長い裁判で裁判員のなり手がない場合に備え、政府が提案した。確かに裁判が開けないようでは問題で、念のための手当ては必要だろう。

 ただ、どのくらいからが長期裁判なのか、改正法は具体的に示しておらず、裁判所の運用によっては、市民を裁判から遠ざけることになりかねない。

 長い裁判こそ、被告が否認していたり、証拠が複雑だったりで、市民の目が求められる。

 これまでも初公判から判決までで神戸地裁で4カ月、東京、さいたまの地裁でも3カ月以上かかった例があるが、裁判員裁判で担ってきた。

 裁判所と検察・弁護側が事前に争点を絞って計画を立て、裁判員裁判を実現させるべきだ。8年近くかかったオウム真理教元代表のような裁判も、相当短くできるという裁判官もいる。

 国会審議では、長くなりそうでもまず裁判員選任手続きをやってみることになると、政府は答弁している。実現には、市民の姿勢も問われてくる。

 裁判官だけの裁判に戻すことには、裁判所も市民もきわめて慎重であってほしい。

■滞る協力と関心

 3月末時点で、すでに約5万8千人が裁判員を務めた。

 気がかりなのは、裁判所の選任手続きに出向く人の割合が落ちていることだ。初年度の40%から昨年は26%になった。裁判員を辞退する率はこの間、53%から64%に増えている。

 年齢や職業を超え、多様な人たちが参加するのが理想だが、壁があることをうかがわせる。

 働いている人には、職場の理解が欠かせない。当初は、裁判員休暇をつくるなど企業側の協力が見えた。制度が根づくにつれ、熱が冷めていないか。

 一方、裁判後の経験者を対象にしたアンケートでは、ほとんどの人が「いい経験だった」と答えていることに注目したい。

 任務を終えた裁判員には高揚感もあり、当の裁判所の調査に肯定的に答えている可能性はある。だとしても、社会全体による経験者の感想や意見の共有が乏しすぎる。

 影響が大きいのは、生涯にわたる守秘義務だろう。

 評議での自由な発言を保障するため、有罪・無罪や量刑についてだれが何を話したかを、裁判後もお互いに口外しないルールの必要性は納得できる。

 しかし、評議の経過や判決に対する自分の考えを話すことまで縛る、いまの守秘義務は行き過ぎというべきだ。

 これでは経験者が一切話さないのが無難と思ってしまうのも当然だ。制度で改善すべき点も見えにくくなってしまう。

 最高裁が世論調査で刑事裁判に参加したいか尋ねたところ、「義務であっても参加したくない」「あまり参加したくない」が計87%を占めた。

 負担や責任を考えれば、否定できない自然な感情だろう。

 元最高裁判事で、裁判員経験者のネットワークの世話人をつとめる浜田邦夫さんは、裁判官が犯罪という行為を見るのに対し、裁判員は人を見る、という。被告やその家族、被害者に触れ、自分の家族や地域社会と自分について深く考えているようだと、感じてきた。

 「負担はあっても、その経験は個人と社会に意義深いものをもたらしている」

■司法の重い役割

 この1年は制度の意味を考えさせる最高裁の判断が続いた。検察官の求刑の1・5倍とした裁判員裁判の量刑が、最高裁で軽くされた。裁判員裁判が決めた死刑が高裁で無期懲役になり、最高裁で確定した。

 市民の参加を求めておいてなぜ、と感じる人もいるだろう。だが、刑の公平さを考えれば、これまでの社会が同種の犯罪とどう向き合ってきたかは外せない論点だ。裁判員は公平な裁判を保障する主体でもある。

 司法への市民参加は、戦前の陪審制度以来である。1928年に導入されたが、第2次大戦の戦局が激しくなるとともに途絶え、43年に停止された。

 今世紀に入って、裁判員制度の導入を決めた司法制度改革がめざしたのは、「お上」任せでない、自律的な市民像だった。

 そして現在。「一強」政党のもとで緊張関係を欠く国会と政府とともに三権の一翼をなす司法の役割が、これだけ問われているときはない。

 そこに市民が参加し、作用していく意味はますます重い。