千の証言・投稿:<空襲>バリバリと落ちる焼夷弾から逃げた=東京都荒川区の佐藤雅子さん(85)
2015年06月04日
新潟県長岡市の四郎丸国民学校初等科5、6年生の時、毎日、日の丸の旗を振り「勝ってくるぞ」の歌をうたいながら長岡駅まで出征兵士を送りました。高等科2年の時には、50名1組で学徒動員として鉄道、鉄工場、ミシン工場と分かれて、私はミシン工場へ。1年生はアイロンがけ、2年生はミシンがけ。軍服のズボンのベルト通しをよく縫いました。
昭和20(1945)年8月1日夜、父に起こされると、窓から見えたのは真っ赤な空。逃げ惑う人たちが、低空飛行のB29からはよく見えたと思います。バリバリと焼夷(しょうい)弾が落とされて、近くの中学校の校庭で火をよけながら一晩過ごしました。
長岡市には、山本五十六(連合艦隊司令長官)の生家があり、お亡くなりになった時(1943年)、駅前大通りに整列し、大勢の人たちとお遺骨をお迎えしたこともよく覚えています。